鹿鳴館

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テンプレート:ホール概要 鹿鳴館(ろくめいかん)は、国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。

建物は後に華族会館となり、1940年昭和15年)に取壊された。

経緯

計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。

それまでは国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870年明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは港区三田蜂須賀侯爵邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)の地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人ジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。

煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バービリヤードも設備されていた。

鹿鳴館時代

ファイル:Rokumeikan Kuromon circa 1940.jpg
鹿鳴館黒門(1940年頃)
ファイル:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg
鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵

同館落成の明治16年より明治20年までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。明治16年(1883年)11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で[1]中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。

一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でもその大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった[2]。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ[3]、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという[4]

井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞任した。鹿鳴館時代はこうして井上とともにその短いが燦然とした歴史に一応の幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって天長節夜会が開催されている)。

総理官邸の仮装舞踏会

鹿鳴館時代の最も華麗な舞踏会のひとつとして知られるのは、明治20年(1887年)4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。この舞踏会は実は鹿鳴館ではなく総理官邸で行われたもので、しかも外交とは直接関係のない催しだった。伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。しかし当時の国粋主義者たちは、このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。アメリカへの渡航歴があり、外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、これを契機に憂国の感を深め、これを21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府に意見している。

その後

1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。1898年にコンドルが改修工事を行い、外観が変更された。

1927年昭和2年)、華族会館の敷地が日本徴兵保険会社(大和生命保険を経て2011年現在はプルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)に売却された。1930年に保険会社のビル(3階建)が新築されたが、旧鹿鳴館の建物は残されていた(内国貯金銀行も建物を使用した)。

旧鹿鳴館が取壊されたのは1940年(昭和15年)である。1940年3月9日東京日日新聞は以下のように報じている。「日本徴兵保険会社では最近のビル飢饉時代に建物に比較して広大な敷地を遊ばしておくのは土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、不経済であるとの理由で建物の取毀しを決定したともいはれ、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して商工省分室として貸室することに内定、数日前から工事に着手した」。その際に取外された階段と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されている。また、その際に売却されたシャンデリアが江戸川区の灯明寺に残っている。

建築家谷口吉郎は、鹿鳴館の滅失について、11月8日東京日日新聞に「明治の哀惜」というタイトルで記事を寄せた。「明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。それこそいい明治の記念物となったらうに。明治時代の人から、次の時代に贈るほんとにいい贈物になつたことと思ふ」「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」。谷口は後に博物館明治村の開設に尽力し、初代館長となった。

鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷跡の通称「黒門」は旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。

千代田区内幸町の跡地には「鹿鳴館跡」のプレートが設置されている[5]

参考文献

  • 鳥海基樹「我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する基礎的研究」(東京大学大学院都市工学専攻 1994年平成6年)度修士論文)
  • 諸橋轍次「詩経」『中国古典名言事典 第18刷』講談社、1993年

東京倶楽部

1884年(明治17年)、鹿鳴館に外国人との融和交際の為に会員制の「東京倶楽部」が設けられた。そこでは英語の使用に限られ日本語は勿論、他の外国語の使用は禁止された。

鹿鳴館の廃止により(鹿鳴館と同じ)コンドル設計の建物が建てられ、移転した。現在は霞が関ビル隣に東京倶楽部ビルがある。

鹿鳴館を題材とした作品

小説
戯曲
テレビドラマ

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 諸橋(1993)172頁。「呦呦鹿鳴 食野之苹」(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)。天子が臣下や客を招いてごちそうする場合の詩である。
  • 欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人(井上馨夫妻や鍋島直大榮子夫妻、大山捨松など)はそうした流儀を身につけていたが、ごく一部にとどまった。
  • 清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫、2001年、p114-115。風刺雑誌『トバエ』に掲載されたもの。
  • 近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社、1980年(講談社文庫、1983年)
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