内幸町

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テンプレート:Pathnav 内幸町(うちさいわいちょう)は、東京都千代田区地名で、旧麹町区地域内である。郵便番号は、100-0011。

地理

東京都千代田区の南東端に位置し、中央区銀座)・港区新橋西新橋)との区境にあたる。帝国ホテル富国生命保険相互会社みずほ銀行をはじめ、多数の企業本社などを有するオフィス街である。

歴史

江戸時代以前は全域が日比谷入江に含まれたと考えられている。その後埋め立てられ大名屋敷として整備されたが、北東南の三方は水路が埋め残され、江戸城外濠の内側に面する形となっていた。東に山下橋、南に幸橋が架けられていたが、それぞれ山下御門、幸橋御門が設置され、濠外からの警備が厳重になされていた。武家地のため町名はなく、橋を目印に山下門内、幸橋内などと俗称されていた。なお、両者共に門外の町名に由来する。

内幸町の町名は明治5年からのものだが、昭和13年以前と以降では指す範囲が異なる。現在の内幸町は帝国ホテルなどがある一丁目1番地が旧内山下町一丁目、一丁目のそれ以外及び二丁目全域が旧内幸町一丁目である。なお、旧内山下町二丁目は日比谷公園内、旧内幸町二丁目は経済産業省日本郵政のある霞が関一丁目3番地にあたる。

旧内山下町一丁目

北側のほぼ帝国ホテルに相当する区域には、寛永期当初は陸奥仙台藩伊達家中屋敷があった。明暦の大火後、遠江横須賀藩本多家上屋敷、出羽国上山藩土岐家上屋敷に分割、天和2年(1682年)に備後福山藩阿部家上屋敷、その後奏者番を務める者に順次受け継がれ、幕末には陸奥白河藩阿部家上屋敷、後備中松山藩板倉家上屋敷となった。明治初年には一時的に清水徳川家の手に渡った。

現在NTTやみずほ銀行・東京電力がある南部は、西側が薩摩鹿児島藩島津家中屋敷(通称装束屋敷)、北東部に肥前佐賀藩鍋島家下屋敷、南東部に肥前小城藩鍋島家上屋敷があったが、寛文年間に島津家が佐賀藩邸を兼併し、小城藩邸を取り囲む形となった。

旧松山・薩摩藩邸には明治6年(1873年)博覧会事務局が移転し、明治8年(1875年内務省管轄の博物館となり、動物園・植物園等が併設された。明治14年(1881年上野公園へ移転し、東京国立博物館上野動物園となった。

跡地は南部は外務省鹿鳴館、北東部が農商務省農産陳列所、北西部が内務大臣官舎となった。明治23年(1890年)、鹿鳴館は廃止され、建物は華族会館となり、南側の前庭部には日本勧業銀行台湾総督府東京出張所が建った。同時に農産陳列所跡に帝国ホテルが開業した。帝国ホテルは大正の建替えの際、内務大臣官舎地を合併し、ほぼ現在の土地となった。

華族会館は昭和2年(1927年日本徴兵保険会社に払い下げられ、建物取壊し後も同社の新社屋が建ち、戦後も大和生命保険として存続した。台湾総督府はその後東洋拓殖ビルとなったが、日本勧業銀行は長く当地存続し、戦後東洋拓殖ビル地を兼併し、現在みずほ銀行本社となっている。

一方、東南角にあった旧鍋島邸は帝国五二会館、南満州鉄道東京支店等を経て、関東大震災立憲政友会本部となった。戦後東京電力本社となる。

旧内幸町一丁目

現在この区域は日比谷通りによって東西に分断され、東側が内幸町一丁目に含まれ、西側が二丁目となっているが、江戸時代にはこの通りは日比谷公園南端の内幸町交差点で止まっており、一つのまとまった街区であった。

寛永期には、東から順に陸奥盛岡藩南部家肥前唐津藩寺沢家、陸奥会津藩加藤家日向飫肥藩伊東家肥後人吉藩相良家の各上屋敷が存在した。このうち、東部の南部・寺沢・加藤の三邸は正徳3年(1713年柳沢吉保の手に渡り、以降大和郡山藩上屋敷となった。また、相良邸は石見津和野藩亀井家上屋敷となり、東から柳沢邸、伊東邸、相良邸として幕末まで続いた。

明治元年(1868年)、柳沢屋敷は東京府に転用された。明治27年(1894年有楽町に移転後、夏目漱石が入院したことで知られる長与胃腸病院や、仁壽生命保険本社、東京倶楽部などがあった。

伊東邸は島津家に渡った後分譲され、都新聞、病院や法律事務所が立ち並んだ。

亀井邸は明治元年、すぐ北の陸奥中村藩相馬家の所有となった。相馬家は大正4年(1915年)に御留山に越したが、その後も家令志賀直道(志賀直哉の祖父)が住んだ。

地域

企業
報道機関

観光

名所
旧跡

交通

鉄道
バス
道路
首都高速道路・出入口

外部リンク

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