治外法権

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治外法権(ちがいほうけん)とは、一国の国内であってもその国の三権が完全には及ばず、外部のによって治めることができるという特権である。なお、封建制アジールは、外国の法でなくその地域の自主的な独自の法で治める権利があるというものであり、治外法権には該当しない。

概要

治外法権は、外交上の慣例として、派遣国の認証があり、接受国による信任状の受理(接受)があった場合において、派遣された外交官に対して相互に認められる特権として確立されてきた。ウイーン条約においては、外国の公使館および外交官特権を所持している外交官に認められる。また正式訪問中の国家元首や首相、外務大臣、国内に停泊中の公用船(軍艦含む)、公用機(軍用機含む)の内部に適用されると解される(民間船舶・航空機については旗国主義を参照)。

何らかの戦争や強制外交が生じ、その結果、戦勝国などに治外法権の租借地を期限付きで認めた場合などには、片務的な特権としての治外法権の問題が生じる。このさい問題となるのは不平等条約にもとづく領事裁判権である。多くの場合は接受国の認証なく、単に戦勝国の国民・あるいは兵士であるという地位において治外法権を享受することが可能となるため、外交交渉においてこれらを撤廃することは重要な外交課題となる。

歴史

帝国主義時代における治外法権の問題は、租界や租借地を勝手に開発・造成し道路や電力などのインフラ投資を行い、それを根拠に住人に課税を行う、交通整理などと称して警察権を確立してしまう、通信や交通・水利の維持を名目に租界以外に勝手に投資をおこない権益化してしまう、本国から軍隊を呼び寄せ駐屯させてしまうなど、あるいは本国人の犯罪行為(あへん貿易や苦力貿易など)の黙認、本国人やその財産への犯罪行為を理由とした内政干渉などが挙げられる。

治外法権の慣例はオスマン帝国で用いられ、メフメト2世コンスタンティノープルに商館を置いたジェノヴァヴェネツィアに対して与えたものが知られる。またスレイマン1世は対神聖ローマ帝国の観点からフランスに近づきカピチュレーションを与えた。西欧のアジア政策に治外法権が登場するのはこのカピチュレーションを足がかりとした事に由来する。これには身体の保証以外にも交易のさいにしばしば発生した海難事故や訴訟に関する処理、人頭税や関税あるいはオスマン皇帝によりしばしば出された臨時税などへの免税特権が含まれた。地中海交易全盛期にはオスマン帝国にとって一種の特約店契約の性格にすぎなかったが、近代帝国主義の時代には中東植民化政策の足がかりとなった。

日本では、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)にアメリカ合衆国の間で結ばれた日米修好通商条約をかわきりとし7月にイギリスオランダロシアと、9月にフランスと相次ぎ締結した条約(安政五ヶ国条約)に治外法権の問題が含まれていた。条約は正しくは領事裁判権についての取決めであり、日本の場合いかなる条約においても日本に在住する外国人に治外法権を認めたことはなく[1][2]、認めたのは日本人に対する外国人の犯罪に対する裁判をそれぞれの国の在住領事に委ねるということだけであった。しかしこれが治外法権であるかのように誤解され、外国人がすべて課税を免除され、日本の一切の行政権に服従しないようになったのは外国人の横暴とこれを黙認して既成事実化した日本人役人の怯懦のためであった[3]

この不平等条約は、1894年(明治27年)7月16日に結ばれた日英通商航海条約により初めて撤廃され、ついで日本が日清戦争において清に勝利した後で、1899年(明治32年)7月17日日米通商航海条約1940年(昭和15年)1月26日失効)が発効されたことにより失効した。

在日米軍

在日米軍については、政府解釈[4]によれば、所謂治外法権のステータス(地位)になく、「むしろ治外法権的な地位がないからこそ」法(日米地位協定)によりそのステータスを付与したものとされる[4][5]。在日米軍基地および公務中の構成員・軍属は協定により日本の裁判権の管轄外とされている(刑事特別法)。在日米軍の構成員及び軍属が基地内部で起こした犯罪、および「公務中に基地の外で起こした犯罪」に対しては日本の法律が適用されない。客観的にはそうでなくても軍当局が公務中であると主張した場合、日本は受け容れざるを得ない。あるいは犯罪を起こしても米軍施設敷地内に逃げ込めば、施設内では憲兵隊及び軍犯罪捜査局が第一管轄権を持ち、日本の警察が関与することは出来なくなり、不当に軽い処分、いわゆる“アドミラルズ・マスト”で済まされる可能性があり、条約上では日本政府側からの請求権は明示されていない(合意文書など個別取決めによる)。このため沖縄県や神奈川県横須賀市、長崎県佐世保市などでは在日米軍兵士の起こした犯罪に対する裁判権の管轄問題がしばしば問題となる(参照:沖縄米兵少女暴行事件)。

  • 基地の外において米兵が犯罪行為を起こした場合、米軍の憲兵と日本の警察・検察の捜査権限は競合しており、先に身柄を確保した側に優先的な捜査権限がある。しかし過去の運用では事実上日本は裁判権を放棄しており、1953年からの5年間では約13000件の在日米軍関連事件の97%について微罪が多数含まれるとはいえ裁判権を放棄し、実際に裁判が行われたのは約400件となっていた。2001年からの7年間では83%について裁判権を放棄している[6]。また法務省は全国の地方検察庁に「実質的に重要と認められる事件のみ裁判権を行使する」よう通達を出していたとされる(同省刑事局編『合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料』。参照:在日米軍裁判権放棄密約事件)。同『資料』によれば、密約「行政協定第一七条を改正する一九五三年九月二十九日の議定書第三項・第五項に関連した、合同委員会裁判権分科委員会刑事部会日本側部会長の声明」に基づき、米軍犯罪の大部分について一次裁判権を放棄せよと1953年に法務省が通達していたことになっている[7]

この結果米兵による殺人や強姦などの凶悪犯罪までが日本の検察や司法の手を逃れる事例が生じ(2002年2月には在日オーストラリア人女性が強姦被害に遭った。容疑者は事件が発覚する前に名誉除隊で帰国し、処罰もされず現在も逃走中)、これがしばしば米軍基地反対運動などの原因となってきた。1995年10月の日米合同委員会合意により、殺人又は強姦という凶悪な犯罪であるケースでは身柄を日本の警察・検察側に引き渡し、日本の司法により裁判をおこなうことになった[8]

  • 公務中の事故の捜査については米軍に優先的な裁判権・捜査権限があるため、米軍機の墜落事故や公務車両の事故などについて事故現場の保全・管理や立ち入り制限、証拠の押収、補償裁判(民事)など日本の司直の手を離れることなどが、基地周辺住民の感情を逆なでする要因となっている(横浜米軍機墜落事件沖国大米軍ヘリ墜落事件沖縄自動車道における演習中の交通事故、キャンプ・ハンセン空軍ヘリ墜落事故)。また、AFNは日本国内にある無線局でありながら、運用にあたって適用されるのは電波法ではなくアメリカの連邦通信規則であり、規制も総務省総合通信基盤局ではなく連邦通信委員会からのみ受ける。

脚注

  1. 外交慣例によるそれは除く。
  2. 「日本における条約改正の経緯」木村時夫(早稻田人文自然科學研究1981.3)[1][2]PDF-P.2
  3. 木村時夫1981.3
  4. 4.0 4.1 第34回参議院日米安全保障条約等特別委員会議事録7号(昭和35年06月12日)政府委員高橋通敏
  5. この性格からしばしば在日米軍の「治外法権立場」などと婉曲表現されることが多い。
  6. 法令上は速度超過や駐車違反など道路交通法違反、不正改造などの道路運送車両法違反なども本来は日本の法令と司直により裁断されるものであり、これらが在日米軍地位協定により捜査・司法権限の競合をおこしているため、日本が裁判権を放棄した事案についても精査が必要である。もっとも本来日本政府が徴収すべき反則金罰金(及びこれらを滞納した場合の差押えの権利)、発すべき整備命令などが放棄されており在日米軍の法的ステイタスに問題がないわけではない。
  7. 国会図書館の法務省資料 政府圧力で閲覧禁止 米兵犯罪への特権収録(しんぶん赤旗)
  8. 日米地位協定第17条5(c)及び、刑事裁判手続に係る日米合同委員会合意 外務省

文献情報

関連項目