多聞山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 多聞山城(たもんやまじょう)は、奈良県奈良市法蓮町にあった松永氏の居城となった平山城多聞城とも呼ばれる。

概要

ファイル:Todaiji13s4592.jpg
東大寺金堂の多聞天像

松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115メートル、比高30メートルの山に築城された。城には多聞天が祀られていたため多聞山城と呼ばれ、現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれている。東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和支配の拠点となった。

城内には御殿などの豪華な建築が建ち並んでいたが、中でも四重天守(四階櫓とも)は、安土城をはじめとする近世城郭における天守の先駆けともいえる。その様子は、宣教師ルイス・フロイスによってヨーロッパにも伝えられた。江戸時代に記された『和訓栞』(谷川士清著、1777年 - 1887年)では天守の始まりを安土城とするが、『甲子夜話』(松浦静山著、1821年 - 1841年)では多聞山城を挙げている。壁は白壁、屋根は瓦葺で、石垣も用いられていたようだ。塁上に長屋形状のが築かれ、これが多聞櫓の始まりであるとされ、『和事始』(貝原好古著 1696年)には、「多門 今世宅外の長屋を多門と云、松永弾正久秀和州志貴の毘沙門堂の上多門の城を築き、長屋を建しを、後世是を法として、多門と号く。」とある[1]。このように先駆的な要素を併せ持った城で、中世の城郭様式から脱し、その後の近世城郭に移行する過程の城郭発達史における重要な城であったと位置づけられている。

永禄3年(1560年)に築城開始。永禄4年(1562年)には久秀が入城した。天正元年(1573年)、久秀は15代将軍足利義昭と同盟し織田信長に反旗を翻したが、圧倒され信貴山城に立て篭り、ほどなく降伏。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入った。翌2年(1574年)、信長が検分のため多聞山城に入城。信長が正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を切り取ったのはこの折である。天正4年(1576年)に信長は筒井順慶を大和の守護に任じ、多聞山城の破却を命じる。石材の多くは筒井城に用いられ、更に郡山城にも移されたという。天正5年(1577年)、久秀は再び反旗を翻したが信貴山城で自害した。

現在の城跡は奈良市立若草中学校になっている。周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。テンプレート:-

沿革

ファイル:Hisamiti.jpg
松永久秀画像
ファイル:Tutuijk.jpg
筒井順慶画像
ファイル:Tamonj2.jpg
若草中学校の正門

松永久秀は三好長慶右筆として仕えていた。三好長慶は畿内をはじめ最大時には8カ国を手中に治め、南北朝時代以降、信長の上洛以前は最大の勢力であった。そのような中、大和も支配に治めるべく久秀に命じ、永禄2年(1559年)8月、当時実質的な大和の支配者であった筒井順慶を含めた国人衆を追い出し信貴山城を改修、以後久秀は大和の最大の実力者として台頭していったと思われている。

築城前は発掘調査によって墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土されており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。『多聞城と松永久秀』では、この墓地がいずれの寺院のものだったかはっきりしていないとしており、『奈良市史』では築城前には眉間寺がありその関係を指摘している。

多聞山城の築城時期は『日本耶蘇会士日本通信』によると、

テンプレート:Cquote3

とあり、信貴山城の改修時期と同時期に、侍屋敷から建設が始まったのではないかと考えられている。多聞山城は築城途中であったが永禄4年(1561年)よりすでに使用されていたようである。このように政庁的役割は多聞山城、戦闘の城、河内への出軍の城として信貴山城を使い分けていたと考えられている。

永禄7年(1564年)7月、飯盛山城で三好長慶が病死すると久秀の権力はますます増大し、永禄8年(1565年)8月、永禄の変三好三人衆と組んで第13代将軍足利義輝暗殺してしまう。しかし同年11月には三好三人衆とも仲違いし分裂してしまい、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄9年(1566年)6月筒井城を奪還(筒井城の戦い)、ついで久秀を大和より追い出すべく進軍を開始し、永禄10年(1567年)4月には南都をほぼ制圧した。境地に陥った久秀であるが、同年10月10日、順慶と三人衆連合軍が陣をひく東大寺に多聞山城より襲いかかった。東大寺大仏殿の戦いである。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄11年(1568年)6月の信貴山城の戦いでは信貴山城を失った。

そのような中、観音寺城の戦いで勝利した織田信長は足利義昭を奉じて同年9月上洛した。再び窮地に陥っていた久秀は芥川山城で信長に拝謁すると、その軍門に下り織田軍の2万兵の援軍を引き連れ、信貴山城を逆に攻城、信貴山城の戦いでの落城から4ヵ月で再奪取に成功し、順慶と三人衆連合軍を駆逐していく。その後、何度かの合戦を経ていくことになるが、元亀2年(1571年)8月辰市城の合戦では筒井軍が勝利すると、明智光秀の仲介により織田軍に帰服した。順慶と久秀は同格となり、これ以降順慶は順調に台頭していくにつれ、久秀は衰退の一途をたどる。これに焦った久秀は武田信玄西上作戦に伴い、足利義昭が画策した信長包囲網に加わり三好義継と共に信長に謀反を起こすが、天正元年(1573年)4月に武田信玄が病死、7月に義昭が信長に追放され、11月に三好義継も若江城の戦いで討たれると和議を申し込み、直接織田軍と戦闘状態にはならなかったことから、多聞山城を信長に差し出すことで許された。

その後、多聞山城は織田方に渡り、明智光秀に次いで柴田勝家が城主となったようである。天正2年(1574年)11月、信長は多聞山城で、正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を切り取った。この時、信長は多聞山城の4層の天守も見聞し、安土城の天主のモデルとなったと推察されている。天正3年(1575年)、大和の守護塙直政がつき多聞山城の城主となったが、天正4年(1576年)5月3日、石山合戦で織田軍の大将として指揮をとっていたが討ち取られてしまった。その後、大和の守護に任命されたのは筒井順慶であった。順慶は多聞山城には入ろうとせず同年7月から村井貞勝の監督のもと、破城工事が始まり、天正5年(1577年)6月頃には四階層の天守も破壊されたようである。戦国時代の城と近世城郭を分ける、日本の城郭史上重要なポイントとなった多聞山城ではあったが、築城期間はわずか16年間であった。久秀は心血を注いで築城した多聞山城が廃城されると、同年8月に再び信長に謀反をおこし信貴山城の戦いで自害する。

同8月頃、多聞山城の破壊はほぼ完了していたが、城内には石垣が残っており、これらを筒井城の石垣に、後に郡山城に転用したようである。江戸時代に入ると城の跡地には南都奉行所与力同心の屋敷が立ち並び、幕末には練兵場となり、廃城後も跡地は活用されていたが、昭和中期まで地形は築城当時のまま残されていた。しかし、昭和23年(1948年)に若草中学校が建設され、昭和53年(1978年)には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。

城郭

ファイル:Tamonj12.jpg
多聞山城の城郭部分/昭和60年度のカラー空中写真

多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇太后聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(若草中学校グランド)、その東は京街道になり交通の要衝を占めている。奈良の町の北方に位置するこの山は元来「眉間寺山」と称されていたのだが、奈良の統治者を自認する松永久秀が、仏教で北方の守護神とされ、自身も信貴山城入城以来信仰している多聞天信貴山には多聞天(毘沙門天)を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって「多聞山」と改称し、眉間寺を麓に移して築城。多聞山城もしくは多聞城と称し、北方から興福寺や東大寺、奈良の町を威圧、統治した。

『興福寺旧記』や『享禄天文之記』によると永禄5年(1562年)8月12日午前8時ぐらいより、多聞山城の「四階ヤクラ」の棟上げ式があり、奈良の住民を招待していたようである。『多聞城と松永久秀』では、この時の状況を松永久秀が大和国の支配に対するデモンストレーションではなかったかとしている。支配の象徴でもある天守を棟上げし、「守る城」から「見せる城」、象徴としての城郭を意識した作事をおこなったことは、近世城郭の先進性が見てとれる、と解説している。テンプレート:-

宣教師ルイス・デ・アルメイダの永禄8年(1565年)10月25日付の書簡が、ルイス・フロイスの『日本史』にも部分的に引用され記載されているので、世間に知られるようになった。この書簡はルイス・デ・アルメイダが松永久秀の家臣の招待を受けて見学し、本国への書簡の一文として記されている。

テンプレート:Quotation

ファイル:Tamonj.jpg
大和国多聞城諸国古城之図/浅野文庫所蔵

この書簡にある「塔」とは天守もしくは櫓のことで、「宮殿」とあるのは本丸にあった御殿のことではないかと推察されている。また「日本において最も美麗なるものの一つ」「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」との文章が見受けられ、宮殿の内部は、日本と支那の歴史物語を題材にした障壁画、柱は彫刻と金製品や大きな薔薇が活けていたり、天井は格天井でいくつかの装飾、庭は清らかな美しさなど、およそ戦闘のとは思えない御殿であったと思われている。松永久秀はいくつかの城を築城や改修をするが、「近世式城郭建築の租」と呼ばる謂れは主に多聞山城のことを指しており、この書簡が基となっている。

このルイス・デ・アルメイダの書簡は、誇張や外国人から見た賛辞、見間違いもあると思われるが、『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記していることや薩摩国島津家久の日記『家久君上京日記』には「多聞城内から大和が一望できた」など、ほかの見聞や評価などを考えて、当時に記載された資料として信頼性が高いと思われている。またこの書簡の末尾に「日本全国より見学者がきたる」とある。城の縄張りは他者に漏れてはならない機密事項であるのに、見せる城、権威の象徴として城郭として築城後も積極的に公開していたようである。後ほど築城される安土城も近隣の住民にも公開しており、このような点も近世城郭の先進性が見受けられる。

なぜ松永久秀がこのような壮麗な城の築城が可能だったか、松永久秀自身が築城に大変関心が高かった武将と思われているが、『日本の城』によると、それ以外に南都の大寺院建築ノウハウがこのような城を築く大きな要素になったのではないかと解説している。

また、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で幾度かの茶会が行われたことが『茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城は6畳と4畳半の少なくても2つの茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長へ献上することになる「九十九髪茄子」(茶入)、また信貴山城が落城する時に行方不明となる(一説には爆死する時に粉々になった)「平蜘蛛窯」(茶釜)の名が見受けられる。

多聞山城には城下町があったと思われている。多聞山から佐保川までが侍屋敷で佐保川より南側に城下町が広がっていたと思われている。現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』では一条通から法連通にその面影があるとしている。それらにより多聞山城は総構えの平山城となっていたと考えられている。

また『当代記』によると、

テンプレート:Cquote3

とあり、『戦国の城』によるとこの記述より「おそらく四階櫓も二条御新造に移築されたものであろう」とし、廃城後の多くの資材は二条城築城に使用されたようである。

現在の城郭跡

現在の多聞山城の跡地には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。本丸部分は若草中学校が建っており本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。また周辺より石材の切取跡がみられ、本丸の斜面を石垣で固めたのではないかと考えられている。後にこの石垣は筒井城に移築されたと思われている。また校舎と若草中学校グランドの間には大堀切があり、多聞山と善勝寺山を分断する城郭になっている。

若草中学校の西側は若草中学校の敷地とはならなかったため、曲輪面が比較的残っている。この北西から西にかけて高さ1.5メートルの土塁があり、角の高さは3メートル、幅2メートルの壇状をしており、ここが天守、もしくは櫓跡の一つではなかったかと推察されている。

仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在聖武天皇陵ともに、陵墓への立ち入りは禁止されている。そのような中『日本城郭大系』では『調整地形図』より仁正皇太后陵の西南隅に土塁か櫓台があったと推定している。またその西側を切り落とし堀切を作り、本丸と分断してある。さらに西側には聖武天皇陵があり、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと推察されている。両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったと思われている。

発掘調査

多聞山城は2回にわたり、若草中学校の建設工事および改修工事に伴って発掘調査を実施している。

発掘調査 発掘調査期間 報告書
第一次発掘調査 1947年(昭和22年)11月-1950年(昭和25年)10月 奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報 第10輯
第二次発掘調査 1978年(昭和53年)7月-8月 多聞廃城跡 発掘調査概要報告

第一次発掘調査

1947年(昭和22年)にはまだ文化財保護法が制定されておらず、若草中学校の建設工事に学術調査は行われなかった。しかし、若草中学校の職員であった伊達が、地下遺構の調査を行った。この時珍しかったブルドーザーが使用され、工事の合間を見計らいながらという悪条件の中、実施された。

この発掘調査で、築城前は墓地であったこと、その上、沢山の墓石が出土した、その中で一番多かったのは五輪塔であったことが明確になった。これらの石は、角石に石垣が使われ、石垣が築きにくい場所には、土塁、溝を造るのに利用されたと思われている。また、その土塁は小さいもので高さ0.8メートル、幅1.5メートル、大きいものでは3メートル、幅12.5メートルであることが確認されている。

第二次発掘調査

第二次発掘調査は木造校舎の改築工事に伴い、奈良県教育委員会が実施し、校舎解体作業から立ち会い、どのような遺構が残っているのか期待されていたが、結局旧校舎建設時の基礎工事で、地下遺構が全て失われていたことが確認できた。したがって発掘調査は旧校舎の北側にあった土塁跡に限定された。

土塁
北側にあった土塁の構造は、石造遺物(墓石など)を平面的に並べ基底部の地固めし、その上部に瓦を重ねて並べられていた。北方に低くなるように傾斜を加えられていた。これは水抜きと、客土、雨水を城内への流入を防ぐ目的で設けたと考えられている。
石組排水溝
東西22メートルにわたって排水機構が確認された。これが東南に延びていたと推察されている。
円形素掘り井戸
この井戸跡は「諸国古城絵図」にも記載されている井戸跡と思われており今回の発掘調査で明確になった。東西4.96メートル、南北5.16メートル、深さはおおよそ4.5メートルのすり鉢状井戸で、このような規模の井戸は当時としては珍しく、極めてまれな大きさのものであると思われている。また4.5メートルでは地下水脈には届かず、雨水井戸ではないかと推察されている。
出土瓦
『多聞廃城跡』によると第一次発掘調査と第二次発掘調査から出土したより寺院関係の深さが伺えるとしている。特に第一次発掘調査では「東大寺」と記載があった瓦が出土したり、第二次発掘調査でも数こそ多くなかったが、寺院から使用された流用瓦が考えられている。しかし、大半の瓦は同一規格が認められ、新規に用意されたものと考えてもよい、としている。
『多聞廃城跡』では更に、これらのことから南都の諸寺が支配していた生産組織、瓦工集団に大きく依存していた可能性も考えておく必要がある、と解説されている。

交通アクセス

脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist

参考文献

  • 奈良市教育委員会『多聞廃城跡 発掘調査概要報告』奈良市教育委員会、1979年3月、1-4頁、41-44頁。
  • 北村雅昭『多聞城と松永久秀』2006年8月、15-18頁、25-30頁、35-36頁、102頁。
  • 『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、306-307頁。
  • 西ケ谷恭弘『戦国の城 中巻』学習研究社、1995年2月、48-49頁。
  • 『週刊 名城をゆく(41)大和郡山城・多聞城・高取城』小学館、2004年11月、10-11頁。
  • 西ケ谷恭弘『復原図詣譜 日本の城』理工学社、1992年1月、86-89頁。
  • 奈良市史編集審議会『奈良市史』通史三、奈良市、1988年2月、1-4頁。

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

  • 新人物往来社編『別冊歴史読本・入門シリーズ』(第24巻24号「日本名城総覧」)新人物往来社 1999年