武家屋敷

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『洛中洛外図』に描かれた花の御所

武家屋敷(ぶけやしき)は、武家が所有した邸宅である。

大名が所有するものは大名屋敷あるいは藩邸と呼ばれることもある。現在は下級武士の住まいである侍屋敷も武家屋敷と呼ぶことが多くなっている。

ここでは、現代の侍屋敷の呼称としての武家屋敷についても記述する。

概要

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江戸初期の武家屋敷が数多く描かれる江戸図屏風

武家屋敷は原形は公家の住まい(公家屋敷)である寝殿造にあるといわれ、武家が台頭する鎌倉時代から始まったといわれる。武家造とも言われ、寝殿造を簡略化し武家の生活様式に合わせ御家人の集う施設や防衛のための施設を持つのが特徴となっている。なお、現代では侍屋敷の様式を武家造と呼ぶこともあるが、本来の武家造とは言葉の意味が異なっている。

室町時代になると武家屋敷の様式は寝殿造から独立し会所対面所といった建築に象徴される独自の様式を持つようになり、主殿造書院造へと進化していった。安土桃山時代になると書院造は上段・下段の空間構成や障壁画を始めとする絢爛な装飾を備え権力者の権勢を示す荘厳で格式の高いものとなった。なお、床の間といった書院造の要素の一部は江戸時代になると武士や上層農民などの住宅にも取り入れられ、明治以降は民家にも普及するようになった。

明治維新後、諸大名の上屋敷は江戸幕府から与えられたもの(拝領屋敷)であったため、新政府により接収され殆どが取り壊され政府の施設などへと姿を変えた。武家個人の所有であった下屋敷は本邸として用いられることもあったが、武家公家と共に華族へと移行し、また建築の近代化により武家屋敷・公家屋敷といった峻別は意味を成さなくなった。こうして武家屋敷は姿を消していくが、代わりに武士の屋敷(侍屋敷)が武家屋敷と呼ばれるようになり、侍屋敷が多く残る地区(侍町)も武家町や武家屋敷通りなどと呼ばれるようになった。

御所

武家屋敷における御所とは、武家でも特に位の高い武家が構えた屋敷である。天皇などの邸宅も御所と呼ばれるが、これらの屋敷を武家屋敷と呼ぶことはない。また、徳川将軍家においては江戸城二条城といった城に住んだため、通常、御所とは呼ばれなかった。例としては藤原秀衡伽羅御所源頼朝大倉御所足利将軍家室町御所花の御所などがある。

大名屋敷

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旧因州池田屋敷表門(重要文化財)
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大名屋敷の門
加賀藩上屋敷御守殿門
東京大学構内、重要文化財)

大名屋敷(だいみょうやしき)は、その大名が仕える主人の屋敷や城の付近や内側に構えた屋敷である。人質を住まわせるための施設や天下普請のための宿舎と工事事務所を意味していることもあった[1]。文禄・慶長の役の際に名護屋城に造られた大名陣屋等もそれに含まれる。

大名の領地においては、大名屋敷は基本的に屋敷のみで独立して建てられることはなく、城内に組み込まれて設置された。このため、多聞櫓は長屋として、櫓は蔵として利用するなど、特に周辺施設は防御施設と兼用される例が多く見られる。また、屋敷自体も防御施設を兼ねたり籠城に備えた配置や構造となっているものもある。城内の大名屋敷は概ね大名の居住する「奥向」と藩内の政治的、経済的な窓口や現在の庁舎のような役割を持つ「表向」とに分かれるが、他にも式典や饗応、娯楽などの多様な機能を有していた。屋敷の呼称は通常は城を含めて「居城」と呼ばれ、屋敷自体については設置場所に応じて本丸にあれば「本丸御殿」、三の丸にあれば「三の丸御殿」などと呼ばれた。また、特に大名の本邸であることを示す場合は「居屋敷」や「上屋敷」などと呼ばれる。この他、城内の外れや郊外には下屋敷(しもやしき)が設けられ、休憩所や隠居所、近親の居所などに用いられることが多かった。

江戸においては、江戸城近辺に幕府が土地を与えて構えさせ、また各大名の事情により大坂京都などにも構えられた。江戸の大名屋敷は江戸屋敷と呼ばれ、大名の幕府への政治的、経済的な窓口や現在の大使館のような役割も持っていた。

大名が居住する屋敷は「上屋敷(かみやしき)」と呼ばれ、郊外に別邸として設置された「下屋敷(しもやしき)」と使い分けられた。下屋敷には大規模な庭園(大名庭園)が造営されたり、多くの蔵が建てられることも多かった(蔵屋敷)。また、大名の中にはこの間に「中屋敷(なかやしき)」を設けるものもあった。(江戸における大名屋敷の詳細は江戸藩邸を参照のこと)。

なお、初期の江戸屋敷(特に上屋敷)は江戸図屏風に見られるように門や殿舎に漆や金箔を施すなど豪華絢爛な造りが多かったが、1635年(寛永12年)の武家諸法度により華美な屋敷の建設が禁じられ、1657年(明暦3年)の明暦の大火によりその多くが焼失してからは質素な構えとなった。

京都の大名屋敷は京屋敷と呼ばれ、屋敷の構成は江戸と同様であった。大坂は商業の中心地であったため特に蔵屋敷が多く造られた(詳細は京屋敷蔵屋敷を参照のこと)。

旗本屋敷

旗本屋敷(はたもとやしき)は旗本が主君の知行に置いた屋敷を意味するが、狭義では「江戸幕府に仕える直参旗本の屋敷」の意味である。俗に「旗本八万騎」と言われた江戸には故に、多くの旗本屋敷が建ち並び、旗本屋敷街と呼べる区域が形成されていた。これらは個人の所有ではなくあくまで幕府の所有であり、役職や知行の変更などの理由によって、割と頻繁に屋敷替えが行われた。

陣屋

大名のうち、3万石以下の城を持たない大名は無城大名あるいは陣屋大名と呼ばれ、城の代わりに陣屋と呼ばれる屋敷を構え「大名陣屋」と呼ばれた。大名陣屋は堀や櫓を持つなど旗本の陣屋に比べ大規模なものもあった。旗本がその知行に置いた陣屋は旗本陣屋と呼ばれた。(詳細は陣屋を参照のこと

武家町

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江戸の武家町。幕末に愛宕山から撮影。

武家町は江戸や大坂、京都などに武家屋敷が集中し形成された街並みである。特に江戸には数多くの武家屋敷が設置され、江戸の面積の約50パーセントが武家屋敷で占められていた。江戸時代以降、武家屋敷と共に武家町も消滅したが、現代では侍町を武家町と呼ぶことが多くなっている。

侍屋敷

侍屋敷の概要

侍屋敷(さむらいやしき)は、武家に属さない中級・下級武士の住まう邸宅のことである。現代では本来の武家屋敷が殆ど消滅していることもあり、むしろ侍屋敷の方が武家屋敷と呼ばれることが多くなっている。ここでは現代における武家屋敷として侍屋敷を扱うが歴史的には武家屋敷と侍屋敷は異なるものであったことに注意が必要である。

侍屋敷は主に城下や陣屋の周囲など主君の居所の周囲に形成され、この集中を侍町と呼ぶ。基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物が住み、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は藩主の居所の近隣や城内に住むことも多かった。一方、身分の低い侍は町屋に隣接した場所に住まうこともあり、中には町屋そのものに住む例もあった。また、侍屋敷の更に外側には足軽の屋敷(足軽屋敷組屋敷)や長屋足軽長屋組長屋)が置かれ、これらは防衛上の観点から城下の入口などに集中して建てられることが多かった。

戦国時代までは武士の多くがそれぞれの領地に住んでおり、平時は農業に従事していたので、この時代の侍屋敷は名主屋敷(東日本)や庄屋屋敷(西日本)、或いは代官屋敷などと呼ばれている。近世になり兵農分離が行われると、城下町に侍屋敷が集められ、侍町が形成されるようになった。侍町の多くは城郭の防御を意識して三の丸や外郭内などに計画的に配置され、基本的には城に近いほど身分が高く城から離れるほど身分の低い者の屋敷が建てられていた。こうした侍屋敷はその武士が所有するものではなく仕える主人から与えられるもので、出世や降格などにより地位が変われば屋敷も相応のものに替えられ、主人が転封となればその屋敷は明け渡さなければならなかった。ただし、主に上級の武士は郊外などに個人的に別邸(下屋敷)を構えることもあった。陣屋においては敷地内に小規模な侍屋敷を構えて住まわせることもあった。重臣クラスの侍屋敷では土塀長屋門式台を構え、下級のものでも書院造の座敷を設けるなど、格式を示す意匠が施されていた。

また、江戸時代には、上級の社家医者忍者なども武士に準じる身分・格式とされ、屋敷の様式も、概ね武士の屋敷に準じるものである。

侍町

侍町(さむらいまち)とは、侍屋敷が集まってできた町のことである。城下町陣屋町の中にあることが多く、城や陣屋に関わる武士が居住した。現在は武家町と呼ばれることもあるが、武家町とは元来は大名や上級旗本の屋敷が集まった地域のことであった。

明治維新により侍屋敷は多くが国有地となり、売却・破却され、また戦災や都市開発により失われた。しかし、侍町の町並みを現在に伝える地域もあり、その一部は重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

その他

平家の落人伝承を持つ徳島県三好市東祖谷(旧東祖谷山村)にも「武家屋敷」と呼ばれる住まいがある(外観は農家と同じ)。

侍屋敷の関連項目

足軽屋敷

武士身分に含まれない(士分を持たない)足軽の住まいは侍屋敷とは呼ばれず、足軽屋敷と呼ばれた。下級の足軽は屋敷ではなく長屋形式の住宅であったため、この長屋は足軽長屋と呼ばれる。現代においては足軽屋敷も武家屋敷と呼ぶことがある。 

脚注

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関連項目

参考文献

  • 氏家幹人『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』中央公論社(中公新書) 1988年
  • 東京都市史研究所編 『比較考証 江戸東京古地図散歩』 新人物往来社 1999年

外部リンク

  • 東京都市史研究所編 『比較考証 江戸東京古地図散歩』 新人物往来社 1999年