聖武天皇
聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)[1]、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
目次
[非表示]略歴
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった(物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった)。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された[2]。 長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代いずれかまたは両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われて、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[3]。 また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄にあたる)が執り仕切っていた。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる[4])。 生前譲位(太上天皇)した初の男性となる。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。戒名は、勝満。
聖武の七七忌に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は正倉院に伝存している。なお、明治40年(1907年)〜同41年(1908年)の東大寺大仏殿改修の際に、須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2口が、奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、奉献品の目録である東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した[5]。 この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
系譜
- 父:文武天皇(683-707)
- 母:藤原宮子(?-754) - 藤原不比等女(母は賀茂比売)
- 皇后:光明皇后(701-760) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)、母・宮子の異母妹
- 夫人:県犬養広刀自(?-762) - 県犬養唐女、県犬養三千代のはとこの孫
- 夫人:南殿(?-748) - 藤原武智麻呂女、藤原不比等の孫
- 夫人:橘古那可智(?-759) - 橘佐為女、県犬養三千代の孫
- 夫人:北殿(?-760) - 藤原房前女(母は牟漏女王)、藤原不比等の孫、県犬養三千代の孫
系図
在位中の元号
- 神亀 724年2月4日(3月3日) - 729年8月5日(9月6日)
- 天平 729年8月5日(9月6日) - 749年4月14日(5月8日)
- 天平感宝 749年4月14日(5月8日) - 7月2日(8月19日)
在位年と西暦との対照表
聖武天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 |
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西暦 | 724年 | 725年 | 726年 | 727年 | 728年 | 729年 | 730年 | 731年 | 732年 | 733年 | 734年 | 735年 | 736年 | 737年 | 738年 | 739年 | 740年 | 741年 | 742年 | 743年 | 744年 | 745年 | 746年 | 747年 | 748年 | 749年 |
元号 | 神亀元年 | 神亀2年 | 神亀3年 | 神亀4年 | 神亀5年 | 神亀6年 | 天平元年 | 天平2年 | 天平3年 | 天平4年 | 天平5年 | 天平6年 | 天平7年 | 天平8年 | 天平9年 | 天平10年 | 天平11年 | 天平12年 | 天平13年 | 天平14年 | 天平15年 | 天平16年 | 天平17年 | 天平18年 | 天平19年 | 天平20年 |
干支 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 |
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。公式形式は山形。考古学名は法蓮北畑古墳。
なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
関連事象
大仏の建造と焼失
大仏および大仏殿を巡って繰り返された建造と焼失の歴史的経緯に関わる主要人物の一覧。
- 聖武天皇 :奈良時代中期、創建。
- 平重衡 :平安時代末期、焼失(cf. 平重衡の兵火による焼失、南都焼討)。
- 俊乗房重源 :平安時代末期、再建。
- 三好三人衆と松永久秀 :室町時代末期、焼失(cf. 松永・三好の兵火による焼失、東大寺大仏殿の戦い)。
- 公慶 :江戸時代前期、再建。
脚注
参考文献
- 『聖武天皇御伝』 東大寺編・発行、1956年。
伝記(近年)
- 森本公誠 『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』 講談社、2010年
- 『中西進著作集25 天智伝/聖武天皇』 四季社、2010年→『聖武天皇』 中公文庫、2011年5月
- 吉川真司 『聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史02)』 講談社、2011年
関連項目
テンプレート:歴代天皇一覧- 元の位置に戻る ↑ ユリウス暦での換算日。グレゴリオ暦では6月8日に当たる。なお、宮内庁は2012年9月、1873年の明治の改暦の際に命日の換算を間違え、約140年間に渡り1日前の6月7日に祭祀を行っており、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。聖武天皇の命日、1日間違えた 宮内庁(日本経済新聞、2012年9月26日)
- 元の位置に戻る ↑ これより前の皇后は原則的に神又は天皇の血筋であるが、厳密には若干の例外もある。
- 元の位置に戻る ↑ 天平16年2月には恭仁京から難波京への遷都の詔が出されているが、当時天皇は紫香楽宮に滞在していた。この詔の発令は元正上皇によるものとも言われており、度重なる遷都は宮廷の一時的分裂を招いたとする見方もある。なお、翌年1月に聖武天皇は紫香楽宮を都としている。(参照:筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年)P251-267)
- 元の位置に戻る ↑ 公式の退位日は7月2日であるが、その以前の1月14日に行基を師として出家した(『扶桑略記』)とされ、また、閏5月20日に作成された東大寺への勅施入願文には「太上天皇沙弥勝満」の署名(『続日本紀』)があり、このときには聖武天皇自身は既に退位・出家していた可能性がある。
- 元の位置に戻る ↑ 【東大寺・(財)元興寺文化財研究所 合同発表】国宝東大寺金堂鎮壇具 金銀荘大刀二振の宝剣字象嵌銘および、銀荘大刀一振の七星文象嵌の発見について