国鉄C61形蒸気機関車

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奥羽本線を行くC61 19

国鉄C61形蒸気機関車(こくてつC61がたじょうききかんしゃ)は、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて製造された日本国有鉄道(国鉄)の急行旅客列車テンダー式蒸気機関車である。D51形のボイラーを流用して製造された。

改造までの経緯

戦後、旅客輸送需要が急増し、戦時中製造がストップしていた旅客用機関車が急激に不足したため、国鉄戦前に製造していたC57形C58形C59形の追加製造を行うことを決定した。しかしGHQの許可なしに新造ができなかったため、実際に新造できた両数が少なく、機関車不足を解消することができなかった。その一方で終戦により貨物輸送需要は逆に激減していたことから、苦肉の策として、余剰となっていた貨物用機関車のD51形、D52形を、旅客用機に転用改造することとなった。既存車両の改造名義であれば、車両新造に比べて製造の制約が少なかったからである。

製造・構造

三菱重工業、および、日本車輌製造の手により、計33両が製造された。本形式はD51形の改造名義ではあるが、流用したのはボイラーと一部の部品のみ。さらに、主に改造に回されたのは太平洋戦争末期に製造された品質が悪い車両であり、中にはボイラー流用は名目のみで新しいボイラーを製造した、完全な新造に近い車両もあった。走行部はC57形をベースに設計されているが車重は増加、C57の代替として製造された経緯から、同型式の入線線区に適応する水準に軸重を軽減するため、従輪を設計変更して2軸台車とした、2C2型の「ハドソン」と呼ばれる車軸配置となっている。

C61形と同時に改造が進められていたC62形はやはりハドソン型軸配置を採用しているが、こちらは途中で労働争議のために完成が遅れ、先にC61形が完成したため、日本初のハドソン機は本形式となった。

また、当時は日本国内で供給される石炭の質が非常に悪かったため、パワーを出し切るにはボイラーへの大量の石炭投入が必要であった。そこで、機関助士の労力を軽減するため、日本の機関車としては初めて自動給炭装置(メカニカルストーカー)を採用した。

C62形と同様に、従台車の取り付けピン位置を変更することにより、動輪上軸重を軽減できる構造になっており、電化が進展した場合は、C58形などが運用されている丙線区へ転用可能な考慮がなされていたが、気動車の増備が進んだことなどもあり、実際に軸重軽減工事が施工されることはなかった。

運用

東北本線常磐線奥羽本線秋田駅 - 青森駅間)、鹿児島本線という地方幹線に配属された本形式は旅客列車を中心に多くの列車を牽引した。性能や大きさからC57形やC60形と共通に運用されることもしばしばあった。C57形と比べた場合、ボイラ容量が格段に大きいため出力が上回っている反面、軸重とシリンダ牽引力で僅かに劣ったため、ボイラ容量がものを言う優等列車牽引では優位に立ったが、軸重とシリンダ牽引力が重要な普通列車牽引ではC57形の方が適していたと言われる。また、C60形と比べると、出力で若干上回る一方で牽引性能で劣っていたが、自動給炭装置が付いていたことは大きなアドバンテージで、優等列車牽引ではC61形が優位だった。最たる例は昭和30年代の東北本線仙台駅以北で、北海道連絡の特急・急行列車は基本的に仙台機関区のC61形が仙台駅 - 青森駅間を通しで牽引したのに対し、C60形は優等列車の盛岡駅以北の補機普通列車の牽引が中心であった。

両数が少ない上に、主な運用の場が大都市から離れていたことから地味な存在ではあったが、東北初の特急はつかり」の仙台駅 - 青森駅間、ならびに、東北初の寝台特急はくつる」の同じく仙台駅 - 青森駅間(デビュー当初の「はつかり」、ならびに、「はくつる」の盛岡駅 - 青森駅間は、急勾配の十三本木峠越えの区間に備えて、C60形を前部補機として連結)や、東京駅 - 鹿児島駅(後に西鹿児島駅)間を鹿児島本線経由で結んだ寝台特急はやぶさ」の九州内をはじめ、東北本線や鹿児島本線などで数々の特急や急行を牽引していた。また、東北本線では、旅客列車以外にも、「北たから」といったコキ5500形などで編成された特急貨物列車や急行貨物列車を牽引することもあった。

なお、奥羽本線の秋田駅 - 青森駅間でも、18号機を含む計8両が青森機関区に転属してきた1958年10月のダイヤ改正時から1960年代前半の時期にかけては、1960年10月のダイヤ改正時から青森機関区に配置されるようになったC60形との共通運用で急行「日本海」などの牽引を担当し、その後、奥羽本線の秋田駅 - 青森駅間の客車編成の優等列車の牽引機が無煙化されてからも、引き続きC60形との共通運用で、普通列車荷物列車を牽引した[1]

また、のちに動態保存機となった2号機と20号機を含めた最後の6両(他に18・19・24・28の4両[2])は、1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正で東北本線の盛岡駅 - 青森駅間の電化が完成してからは、1971年(昭和46年)10月に九州の日豊本線用として宮崎機関区に転属するまでは青森機関区に集中配置され、奥羽本線の秋田駅 - 青森駅間において普通列車や荷物列車の牽引機として活躍したが、特に、新線に切り替えられる直前の旧線時代の矢立峠越えの区間(秋田・青森県境)などでD51形とともに使用され、鉄道ファンの注目を集めた。

最後の運用地は九州の日豊本線[3]だが、動態保存のために2号機が1972年に梅小路機関区に転属。残る5両も1974年(昭和49年)の宮崎電化までに大半が運用を離脱し、最後の1両(18号機)も1974年(昭和49年)に運用を外れ、1975年(昭和50年)1月に用途廃止された。

改造

新製配備時から1970年(昭和45年)の鹿児島本線の全線電化完成による廃車時までを九州・鹿児島本線[4]筋で過ごした6両(12・13・14・31・32・33。鳥栖機関区鹿児島機関区)のうちの1両である13号機には、1954年の全般検査時に、鹿児島工場において、前方へ傾いた類似型門鉄デフ(正確には、いわゆる鹿児島工場式デフ)が装着された。

常磐線・東北本線に新製配置された車両では、1964年頃から電化区間の延伸により、前灯脇にシールドビームの副灯LP405形を取り付けた。これ以外の改造としては青森機関区所属車を中心に1960年代前半以降、補機運用や逆行運転時に備えて機関車前部へも暖房用蒸気管を引き通す工事を実施したほか、煙突周囲に補助除煙板を設けたものがあった。

また、一部の車両は、D50形の先台車脱線対策として、D50形が装備していたスポーク車輪を本形式の先台車第2軸に使われているディスク車輪と振り替える工事が実施された。

保存機

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復元工事が終了し、高崎車両センターで一般公開されたC61 20

動態保存機2両、静態保存機2両(うち部分保存機1両)、あわせて4両が保存されている。全て三菱製。

動態保存機

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静態保存機

なお、1号機は旧東北鉄道学園に保存されていたが、1996年平成8年)ごろに解体されており現存しない。

脚注

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関連項目

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テンプレート:国鉄の制式蒸気機関車 テンプレート:JR東日本の車両リスト

テンプレート:JR西日本の車両リスト
  1. ちなみに、1966年10月と1967年10月には、2年連続で、台風の影響による集中豪雨が原因で、東北本線の青森県内の区間で土砂崩れが発生して線路が不通になったため、寝台特急「はくつる」などのような優等列車の一部は、北上線(旧・横黒線)・奥羽本線(の横手駅以北)経由などで迂回運転されたが、その際に北上線・奥羽本線経由で迂回運転された「はくつる」は、奥羽本線の秋田駅 - 青森駅間では、本来ならば、優等列車牽引用のDD51形ディーゼル機関車が牽引機として充当されるところを、機関車の運用上の都合などにより、本形式が牽引した(矢立峠越えの区間をはさんだ大館駅 - 弘前駅間では、D51が後部補機として連結された)。迂回運転による臨時運用ではあるが、これが本形式による最後の特急(寝台特急)牽引と言われている。
  2. なお、1969年3月ごろまでは、6号機も奥羽本線の秋田駅 - 青森駅間で使用されていた。
  3. 宮崎機関区配置の日豊本線用のC57形の一部やC55形の一部が検査期限切れで廃車となることに対する補充として転用が実施されたもので、当初は急勾配区間が連続する宮崎駅 - 西鹿児島駅間での使用が検討され、まず、1971年5月に2号機が青森機関区から鹿児島機関区に転属し、宮崎駅 - 西鹿児島駅間で試験的に運用されたが、宮崎駅以南の急勾配が連続する区間では空転が頻繁に発生するなどしたため、結局、同年9月から10月にかけて青森機関区から宮崎機関区に転属してきた残りの5両とともに、延岡駅 - 南宮崎駅間の平坦線区間での旅客列車(普通列車・急行「日南」)や貨物列車の牽引を担当することになった。
  4. なお、1960年前後の一時期は、運用上の都合により、寝台特急「さくら」などの博多 - 長崎間での牽引のために、長崎本線で運用されたこともある。
  5. テンプレート:Cite web