双葉町 (山梨県)

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テンプレート:Infobox 双葉町(ふたばちょう)は、山梨県中部に存在した町である。町名は二村合併による願意。

地理

県中央部、郡最南部。西は塩川、東は貢川によって仕切られ、南北に帯状の町域。北部は茅ヶ岳山麓の南西端に属する山地や台地で、六反川や東川などの小河川が南流して釜無川へ合流する。南部には甲府盆地北西部の周縁にも属し、南西には旧塩川釜無川氾濫原である平坦地もある。

歴史

町域は茅が岳南麓の乏水地域にあたり定住は送れていたと考えられており、考古遺跡の分布は少なく縄文時代の住居址がわずかに見られるのみ。古墳時代前期、甲府盆地では盆地南部の曽根丘陵を中心に前期古墳が出現するが、古墳後期には盆地北西部でも後期古墳が出現し、甲府市千塚の加牟那塚古墳など盟主墳とする勢力や、町域南部から隣接する旧竜王町域北部にかけての赤坂台地南東斜面には赤坂台古墳群が展開しており、町域にはそのうち二ツ塚古墳が存在している。

中世には軍道としても使われた穂坂路が南北に通過し、『武田三代軍記』によれば天文7年(1538年)には7月18日には、宇津谷において信濃の諏訪氏小笠原氏の連合軍を武田方の武将原加賀守が撃破したといわれ、『甲斐国志』によれば武田信玄は原野であった竜地に宿を設置し、諸役免除の代わりに軍役を課したという。また、竜地には信玄の弟で戦死した武田信繁や娘の黄梅院の菩提寺も存在したが、江戸時代から明治にかけて廃寺となっている。宇津谷には窯跡があり、塩山向獄寺大鐘鰐口の銘文から中世には御用職人が棲み、釜無川の砂を利用した鋳物産業が栄えたという。また、富士講の富士塚、下今井の塔の越経塚などがあり、永禄4年(1561年)銘を持つ経筒が出土している。

近世には巨摩郡北山筋に属し、8か村が見られる。甲斐国内には御三卿領が置かれているが、巨摩郡では御三卿一橋徳川家領10万石のうち3万石余りが設けられ、延享3年(1746年)から宇津谷村妙善寺前の郷士屋敷に陣屋が設置されていた(宝暦3年に河原部村(韮崎市)へ移転)。

江戸時代には甲斐各地で用水堰の開削が行われるが、茅ヶ岳南麓でも堰の開削や溜池など開発が行われる。慶長17年(1617年)には隣接する巨摩郡亀沢村(旧敷島町)から荒川支流の亀沢川の流れを大垈村へ通じさせる大垈堰に開削され、寛文6年(1666年)に野村宗貞(久左衛門)が主導し、茅が岳南麓原野の立石原などの開発を目的に塩川の流れを堰き止めて貢川へ通す楯無堰が開削された。楯無堰は浅尾堰や穂坂堰とともに「甲斐三堰」と呼ばれている。

また、甲府から韮崎へ向かう穂坂路(関屋往還)は下今井で甲州道中と合流し、街道添いの宇津谷、志田、岩森の3村には韮崎宿(韮崎市)の助郷が科せられていた。

昭和34年に宇津谷の塩川低地に開校した私立日本航空学園や、昭和47年(1972年)に甲府から移転した山梨県農業試験場の影響で中心駅の塩崎駅付近は発展し、登美団地は甲府近郊の住宅地となったが、近年は養蚕業の衰退や減反政策、モータリゼーションの影響を受け兼業農家が増え、産業構造は変化している。

沿革

交通

鉄道

道路

高速道路・有料道路

教育

  • 双葉東小学校
  • 双葉西小学校
  • 双葉中学校

文化財

龍地の楊枝梅は種子に穴の開いたアンズ植物奇形で、昭和38年9月9日県指定の天然記念物。竜王町との境に位置する中秣塚古墳は平成8年11月7日に県指定史跡。下今井の塔之越経塚から出土した中世の経筒や銭貨などは平成14年7月4日に県指定の考古資料。

関連項目