富士講

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ファイル:Fujikou.jpg
東口本宮冨士浅間神社(静岡県小山町須走)にある富士講の記念碑。元々は江戸・麻布の富士塚に富士登山を記念して建てられていたが、講の解散時に須走へ移された。

テンプレート:Sidebar with heading backgrounds 富士講(ふじこう)、浅間講(せんげんこう)

  1. 富士山とその神霊への信仰を行うための講社である。広義の富士講。
  2. 江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで[1]、特に江戸を中心とした関東で流行した、角行の系譜を汲むものをいう。講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多い。狭義の富士講。通常はこちらをいう。

概要

富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。また信仰の拠りどころとして石や土を盛って富士山の神を祀った富士塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田東京都練馬区)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区)、木曽呂埼玉県川口市)の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。富士詣は冨士講の衰退とともにほとんど行われなくなったが、現在でも 富士講を富士山で見ることができる。

上記とは別に、修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上記のものと大きく異なり、初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を特徴とする。また、富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる。

歴史

ファイル:Fujikouhi.jpg
富士講碑にみられる「ヤマサン」の笠印(人穴富士講遺跡)

狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期[2]に富士山麓の人穴静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏[3]という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。のちに旺心(赤葉庄佐衛門)らが初の講社を組み、以下の3つを掟とした[4]

  1. 良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
  2. 稼げは福貴にして、病なく命長し。
  3. 怠ければ貧になり病あり、命短し。

享保期以降、村上光清食行身禄によって発展した。村上は主に大名や上層階級から支持され、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く食行は江戸庶民から熱狂的に支持された[1]

身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であった。一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に宝永の大噴火以降復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわった。吉田口では御師の屋敷が最盛期で百軒近く軒を連ねていた。富士講は江戸幕府の宗教政策からは好ましくないとされ、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。

明治以後、富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教などが生まれた。また、明治以後、特に戦後、富士山やその周辺が観光地化され、登山自体がレジャーと認識されるようになり、気軽に富士登山をできるようになると、登山の動機を信仰に求めていた富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない [5]。平成18年現在、十数講が活動し、三軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。

富士山

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。また、角行修行の地である人穴は聖地とされ、碑塔の建立が相次ぎ、現在も約230基の碑塔群がみられる。この他隣接する人穴浅間神社は現在人穴富士講遺跡として知られ、主祭神を角行としている。

このように、富士講信者には「富士講碑」という記念碑を奉納する文化が存在した。この碑の特徴として「笠印」というマークの刻印が挙げられる。この笠印は講社により異なり、「マルサン」や「ヤマサン」などの種類がある[6]。またこのように多くの講社が存在していたことも富士講の特徴であり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。

巡礼

富士講信者は富士山の登拝だけでなく、富士五湖白糸の滝などの巡礼地で、巡礼や水行などの修行を行っていた[5]。また忍野八海や洞穴(船津胎内樹型や吉田胎内樹型など)も霊場・巡礼地となっていた[5]

富士八海

富士八海と総称された巡礼地があり、富士山周辺の霊場を中心に構成される内八海と、関東~近畿地方に広がる外八海に分けることができる。内八海は富士五湖の各五湖と明見湖(あすみのうみ、富士吉田市)、四尾連湖(志比礼湖、しびれのうみ、市川三郷町)、泉端(泉水湖、せんづのうみ、富士吉田市)が近世富士講の巡礼地であった[7]。しかしそれより以前は、泉端ではなく須戸湖沼津市富士市)を含めて「富士八海」とされていた[8]

外八海は二見海(二見浦、三重県)、竹生島琵琶湖、滋賀県)、諏訪湖(長野県)、榛名湖(群馬県)、日光湖(中禅寺湖、栃木県)、佐倉湖(桜ヶ池、静岡県)、鹿島湖(霞ヶ浦・茨城県)、箱根湖(芦ノ湖、神奈川県)である。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 1.0 1.1 世界遺産『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』江戸時代に流行した民衆信仰「富士講」と日本人本来の心の領域岩下哲典、世界遺産アカデミー20号、2013年7月15日
  2. 16世紀後半から17世紀前半
  3. 後世、長谷川角行・藤原武邦とも
  4. 『富士の研究3 富士の信仰』浅間神社編(井野辺茂雄), 古今書院, 1929 p107
  5. 5.0 5.1 5.2 テンプレート:PDFlink、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2011.07.27
  6. テンプレート:PDFlink、富士吉田市歴史民俗博物館、(2005.11.30)
  7. 富士吉田市歴史民俗博物館だより、MARUBI8
  8. テンプレート:PDFlink、富士吉田市歴史民俗博物館、(2003.3.31)

参考文献

関連項目

外部リンク