原節子

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原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - )は、日本の元女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。本名は会田 昌江(あいだ まさえ)。

1963年に女優業を引退した。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・日本編」で女優部門の第1位にノミネートされている。

経歴

神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父藤之助、母ナミの間に生まれる。兄弟は男3人、女5人であった。保土ヶ谷尋常高等小学校から私立横浜高等女学校(現 横浜学園高等学校[1][2]に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、女学校を二年で中退した。1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とする[3]

ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg
東京物語』撮影中の原節子(左)と小津安二郎監督(1953年)

1936年(昭和11年)、第七回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。

同作の公開後の昭和12年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、昭和12年11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという[4]。)。この年、原は11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。

『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、「もっと勉強してからスターになるべきだった。」と小杉勇が述懐したように、しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることになる[5]今井正によれば、戦中の原は義兄熊谷久虎(戦争中に国粋主義思想にのめりこみ映画界を離れて、「すめら塾」という私塾まで創った[6]。)に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという[7]太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ、『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。

戦争後の翌年、1946年9月、原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移るが、1947年6月フリーの女優として独立する[8]。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。つづく1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。

同年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。(原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎渡辺邦男今井正が続く。)小津は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。

1949年(昭和24年)には『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった[9]。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品。)[10]。 原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車にはねられ、不慮の死をとげるという悲劇にあう。小津と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになる[11]

1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品であった。1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。1962年稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが彼女にとって最後の出演作品となった。還暦の日、1963年12月12日、小津が東京医科歯科大学附属病院で死去。その通夜に出席したのを最後に女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。現在は鎌倉市で親戚と暮らしているとされる。高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している[12]

評価

小津安二郎は「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて彼女の方がはるかに巧いとすら思っている」とし[13]、昭和26年には「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている。」[14]とも語っている。現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活なども同じことから『日本のグレタ・ガルボ』と言われている。

原と同様、小津作品に多数出演した笠智衆は、著書『大船日記』で「原さんは、きれいなだけじゃなく、演技も上手でした。ほとんどNGも出しません。めったなことでは俳優を褒めなかった小津先生が、『あの子はウマいね』とおっしゃっていたのですから、相当なもんです」「普段はおっとりとして、気取らない方でした。美人に似合わずザックバランなところもありました。撮影の合間に、大きな口を開けて『アハハ』と笑っとられたことを覚えています」と回想している[15]

原と共演したことがある司葉子は、原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」としている[16]

出演映画

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品(戦後のみ)

関連項目

脚注

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参考文献

外部リンク

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テンプレート:ブルーリボン賞主演女優賞

テンプレート:毎日映画コンクール女優主演賞
  1. 本地陽彦、『原節子 永遠の処女伝説』、愛育社、p53、幼馴染の疋田久仁子の証言より
  2. 『横浜貿易新報』、昭和10年6月28日付記事にも「日活の銀幕へ 横浜高女から会田昌江嬢」とある
  3. 本地陽彦、上掲書、p93
  4. 元海軍省調査課長高木惣吉の証言(『世界』昭和25年11月号掲載記事)による、本地陽彦、上掲書、p100
  5. 本地陽彦、上掲書、p108
  6. 佐藤忠男、『日本映画史2 1941-1959』、岩波書店、p42
  7. 本地陽彦、上掲書、p120
  8. 貴田庄『原節子 あるがままに生きて』(朝日文庫、2010年)、p.162
  9. 本地陽彦、上掲書、p136
  10. 本地陽彦、上掲書、p146
  11. 本地陽彦、上掲書、p152
  12. 本地陽彦、上掲書、p161
  13. 田中真澄編『小津安二郎 戦後語録集成』(フィルムアート社、1989年)、p.104
  14. アサヒ芸能新聞」1951年9月9日付
  15. 笠智衆著『大船日記・小津安二郎先生の思い出』扶桑社、p147
  16. 朝日新聞2012年4月16日付朝刊 文化面「はじめての原節子」
  17. 本地陽彦、上掲書、p174
  18. ドイツ語タイトル「Die Tochter des Samurai」(サムライの娘)、ドイツ公開版では「Die Neue Erde」(新しい土)というタイトルのものもあったようだが差異は不明。