衣笠貞之助

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テンプレート:ActorActress 衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、大正・昭和期の日本の俳優映画監督。本名は小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。

略歴・人物

女形俳優へ

1896年1月1日三重県亀山市本町に煙草屋を営む小亀定助の四男として生まれる。家が裕福だったため、小さいときから芝居や映画をよく観に行っては友達に演じて見せるような芝居好きで、中学を卒業すると[1]家族が反対するなか家出をし、大垣駅で見かけた劇団のポスターを見たのをきっかけにその劇団に入った。1914年藤田芳美一座に加わり、やがて関西新派の静間小次郎一座で小井上春之輔の芸名で女形として売り出した。大阪角座に出演していたところをスカウトされ、1917年日活向島撮影所の専属俳優になる。1918年『七色指環』でデビューし、その後5年間で130本の映画に出演して女方スターとして活躍した。

映画監督へ

映画界が女優を起用し始め、女形が不要になってきたことをきっかけに、監督に転向し、1920年、『妹の死』でデビューする(阪田重則の監督作となっているが、1976年キネマ旬報』増刊号『日本映画監督全集』「衣笠貞之助」の項によると、衣笠自身のコメントで、「1920年に日活向島撮影所にて自身の脚本作『妹の死』を初めて監督した。後日活向島のミスで阪田が監督と記された、阪田はこの映画には全く関与していない」と記されている。キネマ旬報社及び執筆者である映画評論家の田中純一郎も本作を衣笠の第1回監督作と認知しており、実際的には衣笠の監督・脚本家デビュー作である)。また同作では自ら妹役で主演し、女装のままカメラを回していたという。

1922年公開の『噫小西巡査』では内田吐夢と共同で監督を務めた。この頃はまだ監督と女形を並行して活動していたが、1923年から本格的に監督として活動し、マキノ映画製作所で『二羽の小鳥』などを撮った。1925年直木三十五が設立しマキノと提携した連合映画芸術家協会沢田正二郎主演の『月形半平太』を監督、大ヒットして次に同社で『日輪』を撮るが、「天照大神を人間扱いした」として不敬罪告訴を受けて、上映禁止になる。この責任をとって『天一坊と伊賀亮』を撮影後の1926年4月、マキノを退社して独立する。

衣笠映画聯盟設立

1926年、当時の新感覚派の作家である横光利一川端康成片岡鉄兵岸田国士らで新感覚派映画聯盟を立ち上げる。さらに同年、杉山公平らと衣笠映画聯盟を結成し、この2社の製作と松竹の配給で『狂つた一頁』を製作した。衣笠は完成フィルムを抱えて自ら東上して駆け回り、松竹本社で試写にこぎつけたが、誰も作品を称賛してくれなかった。しかし大谷竹次郎社長がフィルムを買い取り、合わせて下加茂撮影所での時代劇製作を勧めてくれた。そうして公開された『狂つた一頁』は日本映画初のアヴァンギャルド映画と呼ばれ、フラッシュバックや二重焼きなど大胆な手法を使って批評家から高い評価を受けるも、興行的には失敗する。やがて大谷が勧める時代劇映画を作り、『照る日くもる日』を始めとする商業作品を松竹から衣笠映画聯盟で受注製作した。

1927年、松竹の新人俳優だった林長丸(のちの長谷川一夫だが松竹時代は林長二郎の芸名で活動)を起用して『稚児の剣法』 (監督 犬塚稔、撮影 圓谷英一)をプロデュースして発表。1928年、『十字路』を製作後、本作のフィルムを抱えてロシア経由でヨーロッパに渡航、そのため『十字路』は日本映画で初めてヨーロッパに輸出された作品となった。聯盟はこれを機に自然解散した。

松竹時代~東宝時代

ドイツパリなどに滞在後、1930年6月に帰国し、松竹下加茂で長谷川一夫とのコンビで多くの時代劇を製作。1932年にトーキーの『忠臣蔵』を製作、林長二郎、市川右太衛門田中絹代高田浩吉岡田嘉子など松竹オールスターの大作で上映時間は3時間を越えたが、大ヒットに導いた。ほか『二つ燈籠』『一本刀土俵入り』『雪之丞変化』『大阪夏の陣』などを監督し、上記の作品はすべてキネマ旬報ベストテンにランクインされている。

1935年に弟の衣笠十四三が映画監督となり、彼のデビュー作の『初祝鼠小僧』から数本の十四三監督作品で泉治郎吉の筆名で脚本を執筆した。

1936年、衣笠映画聯盟で映画デビューし、衣笠作品でヒロインを演じていた女優・千早晶子と結婚。

1939年5月、松竹を退社し東宝へ移籍する。1937年に東宝へ移籍していた長谷川一夫を再び主演にして『蛇姫様』『川中島合戦』などを発表。戦時中は国策もの2本を製作するにとどまった。

戦後

戦後第1作は長谷川や山田五十鈴大河内伝次郎高峰秀子など東宝オールスターで描いた『或る夜の殿様』。1947年島村抱月松井須磨子の恋愛事件を描いた『女優』を発表。溝口健二の『女優須磨子の恋』と競作になったが、本作のほうが高い評価を得た。

1947年新演伎座の顧問となって翌年に『小判鮫』を製作するも、東宝争議もからんで不評となり、『甲賀屋敷』を大映との提携で製作してヒットしたことから1950年に長谷川と共に大映の専属となる。『紅蝙蝠』『大佛開眼』などはその年の興行収入ベストテンにも入り、次々と娯楽時代劇の傑作を発表した。1953年、日本映画初のイーストマンカラーを使う華麗な色彩美あふれる歴史映画『地獄門』がカンヌ国際映画祭グランプリ、米アカデミー賞の名誉賞と衣裳デザイン賞の2部門、ニューヨーク映画批評家賞外国語映画賞を受賞し、世界的大監督の名声を獲得した。

のち大映の重役として、ミス日本から映画界入りした山本富士子を起用し続け、彼女をスターに育て上げた。特に、1958年、『白鷺』でカンヌ国際映画祭特別表彰を受け、その日本的情緒は世界的評価も高い。山本に対して衣笠は、女形出身の経歴を生かして、シーンごとに自分で演じてみせるなど、事細やかな指導を行った[2]

大映の時代劇スター・市川雷蔵主演の『歌行燈』(山本も主演)『妖僧』なども手がけたが、1963年に山本が五社協定に違反して映画界から干された時には衣笠も同時に方向性を失ってしまう。1966年、大映とソ連のゴーリキー撮影所との合同製作による『小さい逃亡者』を最後に映画監督を引退。晩年は東宝歌舞伎の演出を手がけた。

1977年、回想記『わが映画の青春 日本映画史の一側面』(中公新書)を刊行。

同年に山路ふみ子映画功労賞を、1979年牧野省三賞を受賞。

1979年、京都の自宅で転倒してからは寝たきりの状態になっていた。1982年2月26日、脳血栓で死去。

1971年に、自宅の蔵から消失したと思われていた『狂った一頁』のフィルムが発見され、衣笠自らが編集したサウンド版が製作されてイギリスやフランスなどで上映された。没後遺品は、東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、一部は展示室で公開されている。

関係者による評伝に、鈴木晰也『人生仕方ばなし 衣笠貞之助とその時代』(ワイズ出版、2001年)がある。

おもなフィルモグラフィ

1953年までの作品は著作権の保護期間が終了したと考えられることから幾つかの作品が現在激安DVDが発売中(ただし監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。

監督作品

Category:衣笠貞之助の監督映画衣笠映画聯盟参照。

出演作品

日活向島撮影所

1918年
1919年
1920年
1921年
1922年

牧野教育映画製作所ほか

1923年
1923年

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外部リンク

  • 『さしむかひ : 俳優の内証話』天野忠義著 (井上盛進堂, 1921)
  • 『女優が語る私の人生』2012年、NHKラジオセンター