伊丹万作
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年1月2日 - 1946年9月21日)は、日本の脚本家、映画監督、俳優、エッセイスト、挿絵画家である[1][2][3][4][5][6]。「日本のルネ・クレール」と呼ばれた[5]。日本映画の基礎を作った監督の一人であるテンプレート:要出典。本名池内 義豊(いけうち よしとよ)。映画監督・俳優・エッセイストの伊丹十三は実子。小説家の大江健三郎は娘婿[5]。
目次
来歴・人物
画家から俳優・脚本家へ
1900年(明治33年)1月2日、愛媛県松山市湊町に生まれる。
1912年(大正元年)、旧制・愛媛県松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学する。 在学中に同窓の中村草田男、伊藤大輔、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を作り、雑誌の口絵や挿絵を描いた。1917年(大正6年)、松山中学を卒業後、家庭の都合で樺太に渡り[7]半年後、叔父を頼って上京する。叔父の仲介で鉄道院に就職し、上野駅近辺で駅員として働いていた。翌1918年(大正7年)、鉄道院を退職し岸田劉生に憧れて独学で洋画を勉強し、巌谷小波らの少年向け雑誌『少年世界』に石黒露雄の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする。以降、本名の池内義豊で『少年世界』の挿絵を担当。1919年(大正8年)には水田豊平のペンネームで『中学生』の挿絵も描いている。1920年(大正9年)からは、同年刊行の『新青年』『女学生』の2誌も担当し、計4誌で挿絵を描いた。この頃から池内愚美の筆名を使っていた。同年、盟友の伊藤大輔と同居生活を始めている。1921年(大正10年)、21歳で徴兵検査を受け、広島の野砲連隊に入隊する[7]。補充兵だったため3ヶ月後に挿絵画家として復帰している。1922年(大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役し、肺病で松山に療養している親友の野田実を見舞うために松山に帰省している。
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の後、東京に出て絵を描き続けたが生活はどん底で、1926年(大正15年)11月、郷里松山に帰りおでん屋を始めたがこれまた失敗[7]。1927年(昭和2年)10月、やることなすこと上手くいかず、伊藤大輔に手紙を出して食客となり[7]、京都で映画監督をしていた伊藤のもとで脚本を書くようになった[8]。最初に書いた脚本は『花火』、続いて『伊達主水』(公開題『放浪三昧』)を執筆、いずれものちに映画化された[8]。伊丹万作の名は伊藤がつけた[5]。同年11月、奈良で谷崎十郎が主宰していた谷崎十郎プロダクションに俳優として入社する[8]。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であり、これがのちの『仇討流転』である[8]。
脚本家から映画監督へ
1928年(昭和3年)、片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼脚本家として参加する。俳優としての芸名は青山七造で、同社の作品に出演もしている[3]。同年6月、『天下太平記』で脚本家デビュー、追って同年11月、『仇討流転』で監督デビューする[3]。以後、『國士無双』『赤西蠣太』などの風刺に富んだ現代的な時代劇を作り、千恵プロの稲垣浩とともに時代劇に新生面を開いた(これらの時代劇は髷をつけた現代劇と呼ばれた)。そうして伊丹は映画界随一の「知性派」として大監督のひとりに数えられた。
1935年(昭和10年)、新興キネマに移籍し、自身のトーキー第1作となる『忠次売出す』を発表。1937年(昭和12年)には日独合作の『新しき土』を監督。1938年(昭和13年)、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)製作の『巨人傳』を発表するが、結核を患ったため、満38歳で監督を辞め、1940年(昭和15年)に東宝を退社して京都へ帰り、日活に所属するが、絶対安静を命じられて病床につく。それでもシナリオの執筆活動は続け、『無法松の一生』や『手をつなぐ子等』などの脚本を書いた[5]。これらの作品は、脚本家としてのデビュー以降の数作の監督であり、盟友であった稲垣浩の手で映画化された[3]。脚本家としては弟子を取らなかったとされるが、橋本忍だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。
1946年(昭和21年)9月21日、先輩であり終生の親友であった伊藤大輔に看取られながら、京都市内で死去した[1][2]。満46歳没。辞世の句は「病臥九年更に一夏を耐へんとす」[1]。
没後
遺構のうち、没後に映画化されたのは『手をつなぐ子等』(監督稲垣浩、1948年)、『俺は用心棒』(シナリオ原題『昔を今に』、監督同、1948年)、『恋風五十三次』(シナリオ原題『東海道膝栗毛』、監督中川信夫、1952年)で、『不惜身命』(原作山本有三、1942年執筆)、『木綿太平記』(原作恩田木工、1943年執筆)は映画化されることはなかった[3]。『花火』、『天下太平記』、『國士無双』、『闇討渡世』、『忠次売出す』、『赤西蠣太』、『無法松の一生』、『不惜身命』、『手をつなぐ子等』の脚本は、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)に収録された[9]。
中学時代の親友・野田実(1899年 - 1923年)の妹であった妻キミは、晩年を東京都世田谷区成城で過ごし、2004年(平成16年)7月1日に満100歳で死去した[10]。それに先立つ1997年(平成9年)12月20日、長男の十三が満64歳で亡くなっている[11]。
2010年(平成22年)6月に、ちくま学芸文庫から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。
フィルモグラフィ
特筆以外すべてクレジットは「脚本」である[3][4]。公開日の右側には特筆する職能のクレジット[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。監督作は「応援監督」も含めて22作[3]、Category:伊丹万作の監督映画、Category:伊丹万作の脚本作品も参照のこと。
片岡千恵蔵プロダクション
特筆以外すべて製作は「片岡千恵蔵プロダクション」、すべて配給は「日活」である[3]。いずれもサイレント映画である[3]。
- 『天下太平記』 : 監督稲垣浩、1928年6月15日公開 - 原作・脚本(脚本家デビュー作)
- 『放浪三昧』 : 監督稲垣浩、1928年8月1日公開 - 原作・脚本・出演(「安藤兵衛」役)
- 『源氏小僧』 : 監督稲垣浩、1928年10月3日公開 - 原作・脚本
- 『仇討流転』 : 1928年11月25日公開 - 監督・原作・脚本(監督デビュー作)
- 『続万花地獄 第一篇』 : 演出指導伊藤大輔、原作吉川英治、1928年12月31日公開 - 監督・脚本・出演(「肉植幸安」役、「青山七造」名義)
- 『続万花地獄 第二篇』 : 監督稲垣浩、原作吉川英治、脚本美野五翁、1929年1月15日公開 - 出演(「肉植幸安」役、「青山七造」名義)
- 『絵本武者修業』 : 監督稲垣浩、1929年6月7日公開 - 原作・脚本
- 『春風の彼方へ』 : 1930年3月14日公開 - 監督・原作・脚本
- 『源氏小僧出現』 : 1930年8月1日公開 - 監督・原作・脚本
- 『逃げ行く小伝次』 : 1930年10月10日公開 - 監督・原作・脚本
- 『御存知源氏小僧』 : 1931年1月15日公開 - 監督・原作・脚本
- 『元禄十三年』 : 監督稲垣浩、原作林不忘、1931年5月1日公開
- 『快侠金忠輔 前篇』 : 監督振津嵐峡、原作吉川英治、1931年5月29日公開
- 『快侠金忠輔 中篇・後篇』 : 監督振津嵐峡、原作吉川英治、1931年6月5日公開
- 『金的力太郎』 : 1931年7月1日公開 - 監督・原作・脚本
- 『花火』 : 1931年8月26日公開 - 監督・原作・脚本
- 『國士無双』 : 原作・脚本伊勢野重任、1932年1月14日公開 - 監督、復元版21分が現存(NFC所蔵[6])※ 昭和七年度キネマ旬報ベストテン第6位
- 『闇討渡世』 : 原作村松梢風、1932年6月3日公開 - 監督・脚本
- 『研辰の討たれ』 : 原作木村錦花、1932年11月17日公開 - 監督・脚本
- 『刺青奇偶』 : 原作長谷川伸、1933年1月14日公開 - 監督・脚本
- 『渡鳥木曾土産』 : 原作佐伯清、1934年1月14日公開 - 監督・脚本
- 『武道大鑑』 : 原作山手樹一郎、1934年1月31日公開 - 監督・脚本 ※ 昭和九年度キネマ旬報ベストテン第4位
- 『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』 : 監督伊藤大輔、製作日活京都撮影所、配給日活、1934年5月17日公開 - 応援監督(尾崎純とともに)・原作・脚本
新興キネマ京都撮影所
特筆以外製作は「新興キネマ京都撮影所」、特筆以外配給は「新興キネマ」である[3]。いずれもトーキーである[3]。
- 『忠次売出す』 : 1935年2月28日公開 - 監督・原作・脚本(初のトーキー作品) ※ 昭和十年度キネマ旬報ベストテン第4位
- 『戦国奇譚 気まぐれ冠者』 : 製作片岡千恵蔵プロダクション、配給日本映画配給、1935年5月30日公開 - 監督・原作・脚本・作詞、75分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『牡丹燈籠』 : 監督野淵昶、製作・配給聯合映画、1936年製作・公開 - 竹井諒と共同で原作・脚本
- 『赤西蠣太』 : 原作志賀直哉、製作片岡千恵蔵プロダクション、配給日活、1936年6月18日公開 - 監督・脚本、78分尺で現存(NFC所蔵[6])※ 昭和十一年度キネマ旬報ベストテン第5位
ゼーオースタヂオ
特筆以外すべて製作は「ゼーオー・スタヂオ」、特筆以外すべて配給は「東宝映画」である[3]。いずれもトーキーである[3]。
- 『新しき土』 : 原作アーノルド・ファンク、配給東和商事映画部、1937年2月4日公開 - アーノルド・ファンクと共同で監督・脚本、現存(NFC所蔵[6])
- 『故郷』 : 原作金子洋文、1937年5月1日公開 - 監督・脚本、現存(NFC所蔵[6])
- 『権三と助十』 : 原作岡本綺堂、1937年10月8日公開 - 監督・脚本、現存(NFC所蔵[6])
- 『巨人傳』 : 製作東宝映画東京撮影所、1938年4月11日公開 - 監督・脚本(監督最終作)、現存(NFC所蔵[6])
大映ほか
製作・配給は特筆の通り[3]。いずれもトーキーである[3]。
- 没後公開
- 『手をつなぐ子等』 : 監督稲垣浩、原作田村一二、製作大映東京撮影所、配給大映、1948年3月30日公開、現存(NFC所蔵[6])
- 『俺は用心棒』 : 監督稲垣浩、製作東横映画、配給東京映画配給、1950年2月19日公開
- 『恋風五十三次』 : 監督中川信夫、原作依田義賢、製作東映京都撮影所、配給東映、1952年5月8日公開
- 『悪太郎売出す』 : 監督荒井良平、脚本八尋不二、製作大映京都撮影所、配給大映、1955年10月19日公開 - 原作
- 『無法松の一生』 : 監督・脚色稲垣浩、原作岩下俊作、製作・配給東宝、1958年4月22日公開、現存(NFC所蔵[6])
- 『手をつなぐ子ら』 : 監督羽仁進、原作田村一二、潤色羽仁進・内藤保彦、製作昭和映画、配給大映、1964年3月28日公開
- 『無法松の一生』 : 監督三隅研次、原作岩下俊作、製作大映京都撮影所、配給大映、1965年7月14日公開、現存(NFC所蔵[6])
- 『国士無双』 : 監督保坂延彦、脚本菊島隆三、製作・配給サンレニティ、1986年10月25日公開 - 伊勢野重任とともに原案、現存・DVD発売
著書
- 『静臥雑記』、国際情報社出版部、1943年
- 『伊丹万作全集 全3巻』、筑摩書房、1961年 / 新装版1973年 / 第3版1982年
- 『伊丹万作エッセイ集』、編大江健三郎、筑摩叢書、1971年 / ちくま学芸文庫、2010年6月9日 ISBN 4480092897
脚注
参考文献
- 『伊丹万作全集 第3巻』、伊丹万作、筑摩書房、1961年11月15日
- 『映画作家 伊丹万作』、冨士田元彦、筑摩書房、1985年11月 ISBN 4480870784
- 『伊丹万作』、米田義一、武蔵野書房、1985年12月
- 『トーキーの時代 - 講座日本映画3』、今村昌平・新藤兼人・山田洋次・佐藤忠男・鶴見俊輔、岩波書店、1986年3月31日 ISBN 4000102532
- 『伊丹万作「演技指導論草案」精読』、佐藤忠男、岩波現代文庫、2002年1月16日 ISBN 4006020481
関連項目
外部リンク
- 伊丹 万作 - 青空文庫(作家別作品リスト)
- テンプレート:Imdb name
- 伊丹万作 - 日本映画情報システム (文化庁)
- 伊丹万作 - 映連データベース (日本映画製作者連盟)
- 伊丹万作 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- テンプレート:Jmdb name
- テンプレート:Kinejun name
- テンプレート:Allcinema name
- 伊丹万作 - jlogos.com (エア)
- 伊丹万作 - 日活データベース (日活)
- 伊丹万作 - 映画データベース (東宝)
- 伊丹万作 - テレビドラマデータベース
- テンプレート:Kotobank