北条氏邦

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テンプレート:基礎情報 武士 北条 氏邦/藤田 氏邦(ほうじょう うじくに/ふじた うじくに)は、戦国時代武将北条氏康の四男。氏政氏照の弟、氏規氏忠氏光上杉景虎の兄。藤田康邦の娘婿となり家督を継いだ。藤田安房守(藤田氏邦)を名乗り、北条氏邦を自称した記録は未発見。生年には異説もある。子に東国丸、亀丸、光福丸、采女がいたがうち東国丸が短命で2人が幼かったため、甥(長兄・氏政の六男)の直定(氏定とも)を養子として迎えている。

生涯

次兄氏照同様に武勇・統治に優れ、北関東の最前線、上野方面の軍事を任された。武田信玄との三増峠の戦いをはじめ各地を転戦し、いくつもの武功を挙げ、領土拡大に大きく貢献した。

短慮により北条氏の滅亡のきっかけとなったと言われる名胡桃事変の当事者(沼田城猪俣邦憲の指揮官)であり、藤田家における義弟(養父・康邦(重利)の実子)の用土重連を謀殺したこともあって、非常に激しやすい性格と見なされることもある。同じく義弟(重連の実弟)にあたる藤田信吉武田勝頼上杉景勝に仕え、北条と敵対することになる。

天正6年(1578年)5月、上杉氏の家督争いである御館の乱が起こると弟の上杉景虎の援軍要請に応じた長兄氏政の名代として、次兄氏照と共に景虎支援のために越後に出陣。北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。

天正10年(1582年)の本能寺の変後の神流川の戦いでは、甥で当主の氏直を補佐し滝川一益を壊走させている。直後の天正壬午の乱にも参戦、天正17年(1589年)に猪俣邦憲の名胡桃城侵攻と同時期に豊臣方の宇都宮に侵攻、数ヶ月後に和睦している。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張したが容れられず、居城・鉢形城に籠もって抗戦する。しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。戦後は利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。

慶長2年(1597年)、加賀金沢にて57歳で病没した。金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。妻の大福御前は鉢形に残ったものの文禄2年5月10日1593年6月9日)に病死したとも、自害したとも言われている。

その後

死後、京都紫野大徳寺喝食となっていた氏邦の末子が還俗して庄三郎と称し、氏邦の知行を相続し、前田家臣で前田家縁戚でもある前田利益の娘を妻とした。その子主殿助の後、嗣子がなく絶家となった。一方、養子の直定は小田原開城後氏邦らと共に高野山にて蟄居した後は徳川家康に仕え、紀州徳川家に家臣として付された。その子氏時より紀州徳川家に仕え、氏時の子氏常(うじつね)、養子氏成(うじなり/うじしげ)、氏賢(うじかた)まで確認できる。

武人としての名声に加えて、養蚕林業などの殖産にも熱意を燃やし、大きな業績を残した。この時代の農業では食料生産を除くと、生糸こそ日本における各国の主要産業であった。氏邦は養蚕を北武蔵、上野の主要産業とすべく尽力し、生糸の一大拠点を築き上げた。鉢形城歴史館にて、氏邦の業績が展示されている。

偏諱を与えた人物

  • 藤田康(養父、初名は重利、※氏邦を養子とした頃に改名しているので、逆に氏邦が康邦から「邦」の字を与えられている可能性もある。)
  • 猪俣(家臣、沼田城代、初名は富永助盛)

参考文献

関連項目

  • 天神山城 - 氏邦が鉢形城に入城する前の居城