前田利益

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テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 武士 前田 利益(まえだ とします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。現在では漫画の影響で前田慶次/慶次郎の通名で知られるが、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、法名でもテンプレート:ルビテンプレート:ルビと時期によって名乗りが異なる。

滝川一族の出身で、前田利家の義理の。子は一男三女(五女とも)をもうけた。

概略

現在流布している前田慶次郎の人物像は、『上杉将士書上』に記載された略伝の記述や、『常山紀談』・『可観小説』・『翁草』の逸話、明治~昭和にまとめられた『加賀藩史料』や『前田慶次道中日記』[1]米沢市の郷土史料類、などを基礎にして、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』、それを原作とした原哲夫の漫画『花の慶次』によって、広く知られている。

通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次など。は利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。現在の歴史本などでは利益、又は利太と表記する事が多いが、本人自筆のものでは啓二郎(前田慶次道中日記)、慶次(倉賀野綱秀宛書状)、利貞(亀岡文殊奉納詩歌、本人旧蔵とされる徳利)のみ。本人自筆の物以外での当時の史料として伝わっているものは、慶二(前田利家からの書状)、利卓(野崎知通の遺書)。利益、利太、利大の表記に関しては二次史料以降のものに記述が見られる。また浪人時代は「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。『鷹筑波』『源氏竟宴之記』によると「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

生没年

加賀藩史料では、慶長十年十一月九日(1605年)前田慶次利太、没す。時に年七十三、と記載されている。出典として、考拠摘録・桑華字苑・雑記・重輯雑談・三壷記・可観小説・無苦庵記・本藩暦譜・前田氏系譜 が列挙されている。なお、生年時の記述はなく、前田利家生誕以降の記述で加賀藩史料は構成されている。(外部リンク参照) また米沢の郷土史料では慶長十七年六月四日(1612年)に七十数才にて没した、としている。

生涯

養父の前田利久は、前田利家の長兄で、尾張国荒子城主(愛知県名古屋市中川区)であった。実父は織田信長の重臣滝川一益の一族であるが、比定される人物は諸説有り未確定である。一説に一益の従兄弟、あるいは甥である滝川益氏滝川益重、一益の兄である高安範勝、また利益が一益の弟との説も存在する。子のなかった利久が妻の実家である滝川氏から弟の安勝の娘の婿として利益を引き取り養子にしたとも、実母が利久に再嫁したともいう。

永禄10年(1567年)に信長より、「利久に子が無く、病弱のため「武者道御無沙汰」の状態にあったから」(村井重頼覚書)との名目によって利久は隠居させられ、その弟・利家が尾張荒子2千貫の地(約4千石)を継いだ。このため利益は養父に従って荒子城から退去したとされる。熱田神宮には天正9年(1581年)6月に荒子の住人前田慶二郎が奉納したと伝わる「末□」と銘のある太刀が残る。また、『乙酉集録』内の「尾州荒子御屋敷構之図」には荒子城の東南に東西20間、南北18間の「慶次殿屋敷」が記されている。天正9年(1581年)頃、信長の元で累進し能登国一国を領する大名となった利家を頼り仕える事になる。利家から利久・利益親子には7千石が与えられた(その内利久2千石、利益5千石)。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起きる。真田家の史料「加沢記」では、この時に利益は滝川勢の先手となっている。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう。その際に、利家より佐々方から寝返った阿尾城城代に任じられ、同城奪還に向かった神保氏張らの軍勢と交戦した。天正15年(1587年)8月14日、義父利久が没したことにより利益の嫡男前田正虎が利家に仕え、利久の封地そのまま2千石を給された。天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉小田原征伐が始まると利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので利益もこれに従い、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かった事により利益もまたこれに随行した。

しかし天正18年(1590年)以降、利家と仲違いしたため(利益に付き従った野崎は不仲だったのは利家の嫡子である利長としている)、又は利久の死を契機に前田家と縁がなくなった事によって出奔する。なお利益の嫡子である正虎をはじめ妻子一同は随行しなかった。その後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴昌叱父子や九条稙通古田織部ら多数の文人と交流したという。ただ、歌人「似生」は天正10年(1582年)にはすでに京都での連歌会に出席した記録が『連歌総目録』にあり、出奔以前から京都で文化活動を行っていたようである。天正16年(1588年)には上杉家家臣木戸元斎宅で開かれた連歌会に出席しているほか、連歌会でたびたび顔を合わせている細川幽斎の連歌集『玄旨公御連哥』には年未詳ながら「五月六日、前田慶次興行於和泉式部(誠心寺)」とあり、利益主催の連歌会に幽斎が出席したことが記録されている。

後に上杉景勝とその執政直江兼続の知遇を得て、景勝が越後から会津120万石に移封された慶長3年(1598年)から関ヶ原の戦いが起こった慶長5年1600年までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けた。なお、慶長9年8月の直江兼続書状には「北国(北陸)へ迎えの使者を送り、春日元忠のもとへ間もなく到着することは喜ばしい。屋敷を建てるのはよろしいようにするといい。ただし、無理な造作はいらない」とあり、これが利益召し抱えに関する書状であるとの見方もある(相川司『直江兼続』、渡部恵吉ら共著『直江兼続伝』)。関ヶ原の役に際しては、長谷堂城の戦いに出陣し、功を立てたとされる。西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森で慶次清水と呼ばれる)に隠棲した。隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わる(ちなみに直江兼続が所有していた「史記」は現在国宝に指定されているが、こちらに注釈を入れていたかについては不明である)。

米沢側の資料では、慶長17年(1612年6月4日に堂森で没したとされる。利益の亡骸は北寺町の一花院に葬られたとするが、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていない。また堂森の善光寺に供養塔が残るが、こちらの供養塔は昭和55年(1980年)に建てられたもの(当時発行した米沢の郷土史に対する問い合わせに答える形で建てられた)であり、近年では善光寺で供養祭が営まれている[2]。一方で加賀藩史料、野崎知通の遺書では、関ヶ原の戦いの後も利益のいたずら癖、奇行は治まる事はなく、藩主前田利長の命によって大和国刈布に隠棲し、その後病を患うと自らを「龍砕軒不便斎」と呼び、慶長10年(1605年)にその地で生涯を終え、同地の安楽寺に「竜砕軒不便斉一夢庵主」と刻んだ方四尺余高さ五尺の石碑がたてられたという(現在残ってはいない)。野崎の遺書を書写した「前田慶次殿伝」には刈布に「カリメ」とルビがふってあるが、今福匡は「カリフ」と読むのではないかと推測し、安楽寺のある宇陀市菟田野古市場の北方、大沢地区や見田地区にある「カリウ」が故地ではないかとした。

人物・逸話

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伝前田利益所用 紫糸威朱漆塗五枚胴具足(米沢市宮坂考古館所蔵)
  • 漫画『花の慶次』で「身の丈六尺五寸(197cm)の大柄の武士」として描かれて以来、体格の良い大男として描かれる事の多い利益だが、実際には身長に関する記述は存在せず、利益所有のものと思われる現存の甲冑も、他の武将の甲冑と比べて特別大きさは変わらない。
  • 関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を自ら日記に記している(前田慶次道中日記)が、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせる。道中日記の記述から、少なくとも三人の朝鮮人を召使いとして従えていたことが分かる。その親が病にかかってしまったため、菩提山城の城主(竹中重門か)に書状を送って預け、子二人と旅を続けた。この時利益は「今日まではおなじ岐路を駒に敷き立ち別れけるぞ名残惜しかる」と詠み、別れを悲しんだ。なお、父親が預けられたとされる菩提山城(垂井町)にほど近い養老町には利益に関する伝説が残り、「前田の碑」が建っている。
  • 利益に付き従った野崎知通は「利貞公(利益)は心たくましく猛将たり」と利益を表している。また「謂あって浪人となりたまへり、故に一つの望みあり、然れも末行し次第にとろうの理によりて秀日なし」とも語っている、その望みがどのようなものであったかは不明である(前田慶次殿伝)。
  • 直江兼続との親交が有名だが、上杉家家臣の安田能元とも親しく、2人での連歌が今に残る。利益の署名は「利貞」である。
  • 藩翰譜」によると新井白石は「世にかくれなき勇士なり」と利益を賞賛している。
  • 山形県米沢市宮坂考古館に甲冑等の遺品が展示されている。また、2009年4月、山形県川西町掬粋巧芸館で、もう一つの甲冑の40年ぶり2回目の特別公開があった。こちらは基本的に非公開だが、それだけに保存状態は極めて良い。ほかに泉鏡花旧蔵と伝える個人所蔵甲冑もある。これらを指すのかは不明だが、上杉家に伝わった甲冑をまとめた『御具足台帳』には利益の甲冑3領が記載されている。なお台帳に記載されている歴代当主所用以外の甲冑は直江兼続所用の2領(いわゆる「愛」の兜を含む)、上杉憲政所用1領と利益所用の3領のみである。
逸話
  • 慶次郎(利益)には常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、それを叔父の利家から度々教訓されていた。慶次郎はこれを喜ばず、ある時利家に「これまでは心配かけてしまい申し訳ありませんでした、これからは心を入れ替え真面目に生きるつもりでございます、茶を一服もてなしたいので自宅に来て頂きたいと思います。」と申し入れた。利家は慶次郎が改心したと喜び、慶次郎の家を訪ねると利益は「今日は寒かったので、茶の前にお風呂はどうでしょうか?」と利家に勧めた。利家は「それは何よりのご馳走だ」と承諾し慶次郎と風呂場へ向かった。利家が衣を脱いでいると、先に慶次郎が「丁度良い湯加減です」と言いその場を去った。利家がそれを聞き湯船に入ると氷のような冷水であった。これには温厚な利家も怒り「馬鹿者に欺かれたわ、引き連れて来い」と供侍へ怒鳴ったが、慶次郎は愛馬松風(利家の愛馬「谷風」ともいう)へ乗って無事に国を去った[3]。利益の逸話の類で最も有名なのが、この水風呂の逸話であるが、初出は江戸時代後期の随筆集「翁草」であり信憑性は低い。また翁草では「利家が浴室にむかうと」との記述であったが、後年「常山紀談」などで「湯船に入ると」に脚色されている。
  • 上杉景勝に仕えた際、初目見えに泥の付いた三本の大根を持参し、「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と言った。(米澤人國記)
  • 慶次郎(利益)が京都にいた時分、豊臣秀吉が伏見城(あるいは大坂城)にてあるとき諸国から名だたる大名を招き、一夕盛宴が開かれた。元来無遠慮な慶次郎はどこをどう紛れ込んだか、この席の一員として連なっていた。宴まさにたけなわ、慶次郎は末座の方から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊りながら一座の前へ踊り出て並んでいる大名たちの膝の上に次々と腰掛け、主人の顔色をうかがった。もとより、猿真似の猿舞の座興であるため、誰一人として咎める者もなく、怒り出す者もいなかった。ところが上杉景勝の前へ来ると、ひょいと景勝を避け、次の人の膝の上へと乗っていった。後に慶次郎が語るには「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」景勝の前へ出ると威風凛然として侵すべからずものがあったので、どうしてもその膝に乗ることができなかった、との事だった[3]
  • 会津に移ったある日、酒宴で傲慢な林泉寺の和尚を殴りつけてやりたい、と愚痴を洩らす者がいた。これを聞いた慶次郎(利益)は、早速、林泉寺を訪ね、碁盤を見つけると和尚に一局勝負を申し入れた。慶次郎は、勝った方が負けた相手の頭を軽く叩く事を提案。一局目に和尚が勝つと、和尚は初め叩く事を拒むが、頑として聞かない慶次郎に折れ、一指弾(デコピン)で慶次郎の頭をそっと叩いた。二局目は慶次郎が勝つが、和尚を殴ることに躊躇いを見せる。和尚は気になさらずにと言うと、それでは、と鉄拳を固めて和尚の眉間に振り下ろした。鼻血を出して倒れる和尚を後目に、慶次郎は寺を離れた[3]
  • 江戸時代の稗史小説である「石山軍記」には、石山本願寺攻めの際に、信長の大旗を奪い返すとある。
  • 孫娘(戸田方勝の娘・幾佐)は今井局と名乗って春香院清泰院に仕えた加賀藩の名物女中。清泰院が産んだ前田綱紀の養育にも当たったため、晩年は綱紀によって城近くに屋敷を与えられ、さらに養子を取るように命じられた。これが戸田靱負と言って七百石を賜った。今井死後は茶湯料として五十石が与えられ、末永く祀らせた。有名な前田利家のそろばんは芳春院から春香院へ譲られ、今井が預かっていたが、春香院が没すると、前田家の手に戻ったという(『松雲公御夜話』『金澤古蹟志』)。

著書

  • 『前田慶次道中日記』(米沢市指定文化財、市立米沢図書館所蔵)
    慶長6年(1601年10月15日に京都を発ってから同年11月19日に米沢へ着くまでを記した道中日記で、文中には本人が詠んだ俳句・和歌なども挿入しつつ、道中の風俗を詳しく書き残している。この日記は当時の風俗をうかがう史料として、また利益の教養の高さを示す史料として評価されており、米沢図書館より関連資料・活字を併録した影印本が出版されている。なお三一書房の「日本庶民生活史料集成」にも翻刻文が所収されている。

関連作品

小説・漫画
映画・TVドラマ・舞台
ゲーム・パチンコ・パチスロ

脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク

  • 『前田慶次道中日記』(昭和初期に存在が判明したもので来歴不明)は、箱書きの記載により本人直筆とされているが、本文中に奥書(成立年や著者)はない。
  • 100人集い前田慶次の供養祭 米沢の善光寺で398回忌|山形新聞
  • 3.0 3.1 3.2 中村忠雄「米沢史談」