天正壬午の乱

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 天正壬午の乱
戦争戦国時代 (日本)
年月日天正10年(1582年6月 - 10月29日
場所甲斐信濃上野
結果:北条・徳川両軍の間で講和
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 北条15px 徳川15px
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 北条氏直
北条氏忠
北条氏勝
北条氏邦など
徳川家康
依田信蕃
酒井忠次
鳥居元忠など
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 53,000以上
10,000(黒駒合戦)
10,000以上
2,000(黒駒合戦)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 300(黒駒合戦) 不明

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天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)に甲斐信濃上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。

概要

本能寺の変によって空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った出来事である。さらに真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。

大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、実質的に昌幸が信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、景勝は北部4郡の支配を維持、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、氏直は上野南部にとどまった。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。

この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に大きな影響を与えていくこととなる。

背景

織田氏による甲州征伐と北陸侵攻

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天正10年3月に甲州征伐を開始した織田信長は甲斐の武田氏を滅亡させ、甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は織田政権下に組み込まれた。信長は国掟を定め、武田遺領を以下のように家臣に分与する。

「天正壬午の乱」直前の所領
国名 群(領地) 受領者 備考
上野国 上野一国 滝川一益 一説に関東管領にも任ぜられたとも
信濃国 小県郡
佐久郡
川中島4郡[1] 森長可
筑摩郡
木曽谷
木曾義昌 本領安堵(木曽谷)
筑摩・安曇は加増
筑摩郡
安曇郡
伊那郡 毛利長秀
諏訪郡 河尻秀隆 名目は甲斐一国
穴山替地として諏訪郡
甲斐国 山梨郡
都留郡
八代郡
巨摩郡
巨摩郡
(河内領[2]
穴山信君 本領安堵
駿河国 駿河一国 徳川家康 うち江尻城領は穴山信君、
興国寺城領は曽根昌世に安堵。

関東の後北条氏は甲州征伐に協調したものの、遺領を得ることは一切できず、後述する歴史経緯からみるとむしろ上野を追い出される形となった。

甲州征伐と前後して、織田氏は御館の乱の混乱が続く上杉氏の攻略も進めていた。新発田重家が織田と通じて造反し、柴田勝家が越中まで侵攻。3月11日からは魚津城の攻囲も始まり(魚津城の戦い)、信濃が織田領になった後は南から森長可の侵攻も計画されていた。5月末には、本拠・春日山城に森の軍勢が迫りつつあって上杉景勝は魚津城に後詰することも適わなくなる。そして6月3日、魚津城が落ちたことで景勝の進退は窮まっていた。

上野・信濃の前史

上野と信濃は、歴史的に越後の上杉氏、関東の後北条氏、甲斐の武田氏がその所領を巡って争ってきた。

上野は、元は関東管領山内上杉家の所領であったが、天文15年(1546年)の河越夜戦を経て天文21年(1552年)に上杉憲政が上野を脱出、北条氏康の領地となる。その後、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に関東管領を譲り、謙信は関東管領としてたびたび関東方面へ侵攻するようになる。

上野は越後と関東を結ぶ重要地であり、上野(特に交通路であった沼田)を巡って謙信と氏康・氏政父子は激しく争った。越相同盟によって一時氏政が謙信の上野領有を承認したこともあったが、基本的に謙信の死まで上野を巡る両者の争いは続いた。武田信玄もまた上野西部にたびたび侵攻しており、永禄6年(1563年)頃に岩櫃城を攻略して吾妻郡を治め、永禄9年(1566年)には箕輪城を攻略して箕輪城以西を領国化した。

謙信の死後に御館の乱が起きると、天正7年(1579年)に謙信の甥・景勝は信玄の子・武田勝頼と同盟を結び(甲越同盟)、同時に甲相同盟が破棄され、上野は武田と北条による争いの場として移り変わる。また、景勝に上野侵攻を承認された勝頼は、家臣の真田昌幸に命令して沼田攻略を開始し、北条方であった沼田城を攻略させ、上野北部2郡(吾妻郡・利根郡)の運営を昌幸に任せた。甲州征伐後、上野全域は滝川一益の所領となるも、昌幸は彼の下につくことでその勢力範囲を維持することに成功していた。

信濃も関東管領である山内上杉家の力が弱まると、甲斐守護であった武田氏が手を伸ばし始める。信玄は家督相続後積極的に信濃に侵攻するようになり、甲斐の北にあたる佐久郡・小県郡の他、同盟関係にあった諏訪郡にも侵攻し、北部を除いて信濃を平定する。信濃を追いだされた村上義清や北部の豪族など信濃の大名は、上野と同様に北の謙信を頼り、謙信はこれを大義名分として信濃へ南下する。両者は北部4郡の入り口にあたり、4郡を支配するために重要な川中島や海津城で何度も対峙した。このような経緯によって国人衆や土豪への影響力など、信濃北部に関しては上杉氏、北部を除く信濃全域は武田氏が強く持っていた。

これら上野・信濃は、先述のように甲州征伐によってそのほぼ全域が織田氏の物となった。しかしわずか3ヶ月後の本能寺の変によって空白化する。織田氏による統治期間が極めて短く、地元の有力者を掌握しきれていなかったことが、天正壬午の乱及び以後の出来事に大きな影響を与えていくことになる。

経過

序盤

テンプレート:Main 天正10年(1582年)6月2日、信長は京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。

家康の転進

変の発生時、堺にいた徳川家康伊賀越えを敢行し、無事に関西を脱出する。一方で、途中まで同行した穴山梅雪は、木津川畔草内で土民に襲われ落命する。

6月4日に岡崎に帰還した徳川家康は、明智光秀討伐の軍を起こすと同時に甲斐の河尻秀隆に使者として本多信俊を派遣する一方で、6日には家臣となっていた武田旧臣岡部正綱に書状を送り、甲斐の穴山領(巨摩郡南部)に城を築くことを命じ、信州佐久には同じく武田旧臣の依田信蕃を向かわせる。正綱は巨摩郡下山城に入って穴山領を横領し、信蕃は武田遺臣900人弱を集めて20日には小諸城へと入った。15日に鳴海で光秀が豊臣秀吉に討たれた(山崎の戦い)という報告を受けた家康は、酒井忠次を津島に前進させ情報を確認し、21日に軍を返して浜松へと戻る。

さらに岡部は曽根昌世と連署で甲斐の武士に知行安堵状を発行。

こうした状況の中、14日、甲斐に派遣された信俊は秀隆に撤退を進言したが殺害された[3]。翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こすと秀隆は脱出を図るが、18日に一揆勢に殺害された。

浜松へ戻った家康は信濃・甲斐の国人衆の掌握を進める一方で、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませて南信濃を確保させる。また、自身も甲斐へと進軍し、7月9日に甲府入りする。この時点で家康は、信濃南部と八代・巨摩・山梨の甲斐3郡を掌握する。他方で、佐久郡は碓氷峠を越えてきた北条に取られてしまう。

北条の進軍

本能寺の報が入ると北条はまず上野へ進軍し、神流川の戦い滝川一益を撃破すると上野の掌握に努める。また、6月26日には信濃佐久郡の豪族を臣従させ、28日に先方軍を送り込む。7月に入って真田昌幸が臣従の意を示すと、昌幸を先方として北条主力軍4万3000を上野より碓氷峠を越えて進軍させる。徳川方の信蕃は小諸城を捨てて後退し、北条は大道寺政繁を小諸城に配して佐久郡を掌握する。

甲斐方面についても、秀隆の死によって混乱した隙をついて郡内地方を掌握し、さらに自らに通じてきた土豪・大村三右衛門を支援し甲斐への進軍を狙った。しかし、上野の掌握に主力を向けていた北条軍の支援は遅れ、三右衛門は梅雪の家臣に討ち取られてしまう。結果、北条の甲斐進軍は徳川に出遅れることとなり、甲斐は東部の郡内掌握に留まる。

織田勢の撤退・上杉の追撃・在郷勢力の動き

柴田勝家は落としたばかりの魚津城からの撤退を決め、森長可も上杉の本拠である越後・春日山城近辺まで侵攻していたが撤退する。上杉景勝は、ただちに長可を追撃して信濃に攻め入るが、長可には逃げられてしまう。景勝はそのまま北信濃の要所である飯山城海津城を奪取し、同地を掌握すると並行して、前信濃守護小笠原長時の実子である小笠原貞慶山浦景国(村上氏)に所領安堵状を出し川中島以南の領有化も画策する。特に6月には長時の弟である小笠原洞雪斎を後援して木曾義昌の深志城(松本城)を攻め落とさせている。

木曾義昌は領地拡大を目指し、美濃国へ撤退する森長可を討とうと試みる。しかし、長可は木曽福島城に押し入ると義昌の嫡男・岩松丸(木曾義利)を人質にし、従わざるを得なくなった義昌は地元の豪族を抑えこんで長可の撤退を手助けせざるを得なくなった。また、神流川の戦いで敗北し、同じく撤退してきた滝川一益にも妨害を試みるが、一益は自身が連れていた信濃衆の人質を明け渡すことを提案し、義昌はこれを受けて見逃している。結果として義昌は序盤に動きを制限されることとなり、先のように深志城を上杉方に奪取されている。

滝川一益の配下にいた真田昌幸は、神流川の戦い後の7月9日には北条への帰属を決める。上野の有力者であった昌幸がついたことにより、後顧の憂いを絶った北条は先述のように上野にいた主力を碓氷峠から信濃国佐久郡へと進軍させる。

その他にも諏訪頼忠が諏訪高島城に入場して再起を図るなど、信濃の在地勢力や旧武田家臣が周辺の大大名の思惑とは別に動き始めていた。

北条の信濃侵攻と上杉との講和

佐久を押さえた北条は、中信の有力者である木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、主力は北進させることで信濃掌握を図る。北条は昌幸ら信濃の諸将の手助けもあって難なく川中島まで攻め入り、既に北信を掌握済みの上杉軍と対峙する。

佐久を奪取された徳川であったが、小諸城を追われた信蕃は武田旧臣の調略とゲリラ戦を展開し、北条の兵站をたたき始める。加えて既に掌握済みの南信及び甲斐から北進の動きを強め、酒井忠次らによる頼忠が守る諏訪高島城への攻城が開始される。

7月末、上杉と徳川の挟み撃ちは避けたい北条と、新発田重家への憂いがある上杉双方の思惑が合致し、講和が結ばれる。北条は上杉の北部4郡の所領化を認め、上杉は川中島以南へ出兵しないとし、北部を除く信濃は北条の切り取り次第とした。

黒駒合戦

景勝との講和がなったことで、北条は徳川に戦力を向けることができるようになり、約4万の主力軍は南へ転進をはかる。さらに、北条氏忠北条氏勝ら1万を甲斐・御坂峠に張り付かせ、また北条氏邦にも秩父から甲斐を窺う体勢をとらせ、徳川1万を三方向から半包囲する形で信濃・甲斐への侵攻を始める。なお、御坂峠の北条1万には未だ房相一和が完全には破綻していなかった安房里見義頼も援軍を出している[4]

8月1日、諏訪・高島城を攻城していた酒井忠次ら3,000は北条の大軍が来るとの報に甲斐に向けて後退する。北条主力軍43,000は、佐久経由で酒井軍を追撃するが、徳川勢は甲斐・新府城への撤退に成功する。

これを追う北条勢も甲斐に入り若神子に着陣、新府城の徳川勢と対峙した(6日)。10日に家康は南の府中の留守を鳥居元忠ら2,000に任せ新府城に陣を移し、徳川方は8,000となる。

8月12日、氏忠・氏勝勢10,000が家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ進撃した。これに対し、鳥居元忠、三宅康貞水野勝成ら2,000が黒駒付近(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って撃退した(黒駒合戦)。

依然、北条と徳川の兵力差は圧倒的なものであったが、この戦で北条方が敗北したことにより信濃諸将の北条離れが進んでいく。8月22日に義昌が家康側に寝返り、さらに9月に入ると昌幸が信蕃に加勢した。家康は信蕃と昌幸に曽根昌世らをつけて戦力を強化し、ゲリラ戦によって信濃・上野間の兵站を乱すようになる。

上野を巡る戦い

黒駒合戦の敗北によって、信濃への影響力が低下した北条は上野の戦力を信濃に割くが、先述のようにそこで昌幸が徳川に付き、昌幸は北条方が入っていた自城・沼田城を急襲して再奪取する。

上野北部を喪失したことにより、信濃への兵站が事実上途絶えた北条は、真田方の沼田城や岩櫃城を攻略目標として大軍を持って攻め入り、真田方の諸砦を落としていく。一方で、沼田城代・矢沢頼綱の活躍や、昌幸の嫡男・真田信幸が手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する吾妻群手子丸城を僅か一日で奪還するなど(加沢記)、激しく抵抗し、上野の要所を落とすには至らなかった。

乱の終結

10月に入ると昌幸が禰津某を討ち取り、信蕃は小諸城を襲って大道寺政繁を駆逐した。また、中信では義昌に続いて家康の支援を受けた小笠原貞慶が洞雪斎を排して旧領である深志(現在の松本市)に入り他の領主らも徳川氏についた。

北条勢は上野や佐久郡にわずかばかりの軍勢を差し向けるも、戦局は好転しなかった。さらに、これらに呼応して関東平野では佐竹義重が活動を活発化させていた。ここに至り北条は家康との講和を決意。10月29日織田信雄を仲介役として講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。

  • 氏直に家康の娘督姫を娶らせる
  • 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない

こうして本能寺の変から約5ヶ月続いた乱はいったん終息する。

その後

大大名による合戦は終わったものの、特に信濃では依然として家康に服従を認めない諸勢力が跋扈し、家康は手を焼いた。有力勢力である諏訪頼忠は12月に和睦して家康に下ったものの、武田旧臣として天正壬午の乱で多大な戦功を挙げた依田信蕃は岩尾城攻めで落命している。また、北部の上杉に対しても目を光らせる必要があり、家康は小県の真田を充てるが後述するように離反されている。

上方では羽柴秀吉が清洲会議を経て織田家の事実上の後継者となっていたが、柴田勝家との対立が日増しに強くなるなど不安定な状況にあった。対柴田のために秀吉と景勝が誼を通じ、他方で家康は北条との和睦を仲介した縁や領地が接することなどから織田信雄と友好関係を築き、後の小牧・長久手の戦いへと発展する。

また、徳川配下となった真田も後述の沼田帰属問題によって上杉に寝返り、徳川との上田合戦や、北条との沼田領を巡る戦いが続く。

沼田領帰属問題

徳川と北条の講和によって上野は北条の切り取り次第となったが、真田領である上野・沼田の領有について大きな問題を残した。

徳川は、形式上従属した真田に対して沼田を北条へ明け渡すことを求めたが、真田は代替地を要求し、両者の関係は悪化した。両者に縁のある信蕃が仲介役となって奔走したが、信蕃が戦死すると両者の溝は決定的なものとなる。しばらくは対上杉への抑えとして真田の重要性が増し、徳川としても強権的な対応を取れないでいたが、やがて真田は対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉に寝返り、徳川と敵対する。

その後、天正13年(1585年)に徳川は上田に攻め入り、また並行して北条が沼田が攻め入ったが真田は守り通した(第一次上田合戦)。その後も小競り合いが続いたがいずれも真田は撃退し、最終的に天正17年(1589年)の秀吉による裁定によって落着する。しかし、この裁定は翌天正18年(1590年)の小田原征伐の遠因となる。

研究史

天正壬午の乱に関する実証的研究は少なく、山梨県をはじめとする自治体史において概説的に触れられる程度であった。平成8年(1998年)、山梨県韮崎市能見城跡の発掘調査が実施された。この調査を通じて天正壬午の乱における築城の歴史的背景が考察され、発掘調査報告書において平山優によるはじめての総説が発表された。

その後、『山梨県史』編纂事業において関係史料が集成されたほか、平成23年(2011年)には平山が旧稿を全面改稿して単著として発表し、武田氏滅亡後の甲斐や家康の動向のみならず、上杉氏や後北条氏、さらに豊臣政権や信濃国衆らの動向を総合的に検討し、東国情勢における意義や戦国時代の終期に関する問題、さらに豊臣政権の天下統一に関わる意義についても論及している。

脚注

  1. 高井郡水内郡更級郡埴科郡
  2. 駿河江尻領を含む
  3. 秀隆が信俊を殺害した理由としては家康が秀隆領を狙っていることを看破した、もしくはそのような疑心暗鬼に陥っていたというのが通説である。実際に家康が本当に秀隆の身の安全を考えていたか、または秀隆を亡き者にしようとしていたかは不明だが、家康が甲斐国を奪う意図を持っていたことは史料でも確認できる。
  4. 竹井英文「“房相一和”と戦国期東国社会」(佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』(岩田書店、2007年) ISBN 978-4-87294-472-3)

参考文献