五畿七道

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五畿七道(ごきしちどう)とは、古代日本律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。

1869年明治2年)、北海道 (令制) が新設されてからは五畿八道と呼ばれる。 [1]

1871年明治4年)の廃藩置県以降も、五畿八道は廃止されておらず、令制国も併用されていたが、1885年明治18年)以降はすたれ、現在は、五畿八道としての地方区分はあまり用いられなくなっている。

しかし、現在の日本各地の地方名の多く(北陸山陽山陰北海道など)は、五畿八道に由来している。また、東海道新幹線山陽新幹線北陸自動車道などの交通網や、今後想定される東海地震南海地震、また地震発生帯の南海トラフなどの名称にもその名残が見られる。

概要

元々は、中国で用いられていた行政区分「」に倣った物である。日本における「道」の成立については大化改新以前より存在したとする見方[1]もあるが、五畿七道の原型は天武天皇の時代に成立したと言われている[2]。当初は全国を、都(平城京平安京)周辺を畿内五国、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分した。

律令時代からの七道

律令時代からの七道は、概ね地形的要件に基づいて区分されているが、西海道以外では道単位での行政機関は常置されなかった。西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄した。七道の中でも最も重視されたのが山陽道であり、唯一の大路である。七道の各国の国府は、それぞれ同じ名の幹線官道(駅路)で結ばれていた。七道は大路、中路、小路に分けられ、駅路には原則として30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)を置き、駅ごとに駅馬が常備された。備える馬の数が異なっていた。駅周辺(必ずしも周辺とは限らなかった)に駅長駅子を出す駅戸を置き、駅馬の育養にあたらせた。駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設を置き、駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供した。

これら七道には、江戸時代五街道などと重複する呼称がある。時代や成り立ちが異なるものの、ほぼ同じ道筋にはなっている。

その後、細部の境界の移動を除き長らく変更はなかったが、後に、和人地および蝦夷地に新たに北海道が置かれた。以後、五畿八道と呼ぶ。なお、北海道の記録は古く斉明天皇の時代阿倍比羅夫の遠征まで遡り、鎌倉時代には和人が住み道南十二館の時代を経、江戸時代には松前藩領や天領となっていた地域に最後に置かれた。

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 古い行政区分である「四道」があり、神話上の四道将軍はその由来について解説するために創作されたとされる他、国造制から令制国への移行過程で過渡的に用いられたとする見解などがある(前田晴人『日本古代の道と衢』(吉川弘文館、1996年) ISBN 4642022929)。
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