中村紘子

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テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 中村 紘子(なかむら ひろこ、1944年7月25日 - )は、日本ピアニスト。旧姓名、野村紘子。本名、福田紘子。

ショパン国際ピアノコンクールで、日本人として、田中希代子の初入賞以来、10年ぶり二人目の入賞者として広く知られている。 1955年[1] 1965年[2]

山梨県東山梨郡塩山町(現・甲州市)に生まれ、東京都世田谷区等々力で育つ。夫は小説家庄司薫。紘子自身も後年著述業に進出した。

人物・来歴

陸軍少佐野村典夫と曜子(旧姓中村)の長女として、疎開先の山梨県で誕生。ただし戸籍上は曜子の妹として入籍されている[1]。母中村曜子は、印刷会社経営を経て、1967年以降、銀座の画廊「月光荘」の経営に参画し、ソ連美術を扱って成功を収めた。曜子の主宰する会員制サロン「サロン・ド・クレール」には小山五郎千宗室三島由紀夫浅利慶太相沢英之中曽根康弘石田博英円城寺次郎嘉門安雄谷村裕永野重雄といった政財界人や文化人が集っていた。なお月光荘は、世界救世教に、レオナルド・ダ・ヴィンチの贋作「『岩窟の聖母』の聖母の顔のための習作」を21億5000万円で売り込もうとした事件(月光荘事件)を機に没落し、1989年に経営破綻した(負債総額188億円)。

3歳半からピアノを習う。桐朋学園の「子供のための音楽教室」の第1期生で、4歳から井口愛子に師事した。同期には小澤征爾堤剛江戸京子などがおり、この世代がいわゆる桐朋の黄金時代とされている。慶應義塾幼稚舎在学中、1953年から1954年頃に両親が離婚。母に育てられる。

1954年全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学生の部で全国第1位入賞。慶應義塾中等部に進み、1958年全日本学生音楽コンクールピアノ部門中学生の部で全国第1位入賞。1959年日本音楽コンクールで第1位特賞を受賞した。1960年に岩城宏之指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会にソリストとしてデビュー。同年、NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストに抜擢された。その際、同行指揮者の外山雄三と岩城宏之の部屋を夜な夜な「往復」したことで師匠が激怒、井口門下を破門されるテンプレート:要出典

その後、桐朋学園女子高校音楽科を中退して渡米、日本人として初めての全額奨学金を獲得してジュリアード音楽院に進み、ロジーナ・レヴィーンに師事した。

1965年、第7回ショパン国際ピアノコンクールで、第4位入賞と最年少者賞を併せて受賞した。この時の1位はマルタ・アルゲリッチであった。(第7回1965年 [3]

これは、1955年、第5回ショパン国際ピアノコンクールで、日本人として初入賞した田中希代子以来、10年ぶり二人目の入賞となった。(第5回1955年 [4]

なお、中村は、受賞以降、今日に至るまで公式ホームページをはじめ様々な形で、プロフィールに『ショパン・コンクールで日本人初の入賞 』と自己紹介・自己PRをしているが、これは明らかな誤りである。[5][6]

このコンクール入賞以後、国内・海外で演奏活動を続ける一方で、ショパンチャイコフスキーアルトゥール・ルービンシュタインはじめとする様々な国際コンクールの審査員を務める。日本では第3回浜松国際ピアノコンクールから審査委員長を務め(第1回は小林仁、第2回は安川加寿子)、コンクール創立10年たらずで国際ピアノコンクール連盟に加盟させるなど一級レベルの国際ピアノコンクールにまで持ち上げ、若いピアニストの育成にも力を入れている。

1974年9月に芥川賞作家庄司薫と結婚した。演奏旅行で家を空けることの多い中村の愛猫を庄司が預かるなどするうちに交際、結婚に至った。

ノンフィクション作家エッセイストとしての顔も持ち、1989年には「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

2005年、エクソンモービル音楽賞受章。

2008年、紫綬褒章受章。

評価

20世紀最高の音楽批評家の一人とされる、「ニューヨーク・タイムズ」のハロルド・ショーンバーグがお気に入りだったピアニストの一人で、著書「ピアノ音楽の巨匠たち」のなかでも彼女の演奏について、「絢爛たる技巧」と「溢れる情感」、そして特に「ロマンティックな音楽への親和力」にあると評している。

レパートリー

古典派およびロマン派中心ではあるが、矢代秋雄ピアノ協奏曲の初演を行った他、三善晃武満徹といった日本の現代作曲家の作品も多く採り上げている。

エピソード

1999年ごろ、母校である慶應義塾中等部から招かれてリサイタルを行った際、演奏をはじめてもいっこうにおしゃべりを止めない生徒たちのあまりの態度の悪さに演奏を中断し、静かにしなさい、と叱責した。しかし生徒の方はそれで静かになったものの、保護者のおしゃべりはやまなかったという。また演奏終了後、楽屋に挨拶に来た校長から「よくぞ言ってくださいました」と声をかけられ、本来おしゃべりをやめさせるのは校長先生の仕事だろうに、世も末だ、と慨嘆したという。[2]

出演歴

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コンサート

テレビ

テレビコマーシャル

著作

  • 『私の猫ものがたり』集英社、1983 のち文庫
  • 『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』中央公論社、1988 のち文庫、新潮文庫 
  • 『ピアニストという蛮族がいる』文藝春秋、1992 のち文庫、中公文庫 
  • 『アルゼンチンまでもぐりたい』文藝春秋、1994 のち文庫、中公文庫 
  • 『どこか古典派(クラシック)』中央公論新社、1999 のち文庫
  • 『国際コンクールの光と影』日本放送出版協会 (NHK人間講座) 2003  
  • 『コンクールでお会いしましょう 名演に飽きた時代の原点』中央公論新社、2003 のち文庫

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 溝口敦『消えた名画』(講談社、1993年)
  2. 演奏家人生50年「中村紘子」私の知られざるエピソード 「週刊新潮」2009年9月24日号
  3. CBS/SONYカセットテープ解説文