ショパン国際ピアノコンクール

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テンプレート:Portal クラシック音楽 ショパン国際ピアノ・コンクール(ショパンこくさいピアノコンクール、Międzynarodowy Konkurs Pianistyczny im. Fryderyka Chopina)は、ポーランドの生んだ作曲家兼ピアニストのフレデリック・ショパンを記念したピアノ演奏のコンクールで、正式名称はフレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールである。

1927年に第1回が開催された。現在世界的に最も権威あるコンクールの一つと言われ、ピアニストを目指す者にとっては最高の登竜門と見なされている。エリザベート王妃国際音楽コンクールチャイコフスキー国際コンクール、そして本コンクールを合わせて世界三大コンクールと称される。

このコンクールの日本人初入賞者田中希代子である(第5回1955年[1]) 。また、日本人初出場者原智恵子甲斐美和である(第3回1937年[2]) 。

概要

ファイル:Chopin denkmal wwa.jpeg
ワルシャワのショパン像

ショパンの故郷であるポーランドの首都ワルシャワで5年に1回、ショパンの命日である10月17日の前後3週間にわたって開催される。ショパンは、第一次世界大戦で解放されるまで他国によって虐げられたポーランド人の誇りである。大戦後ポーランド人は、ショパンの名を冠した国際ピアノコンクールを、ショパンの命日を中心とした期間に開催することにした。

現在、国際音楽コンクールは数多く開催されているが、このショパン国際ピアノコンクールは現在も続く国際音楽コンクールの中では最古のものである。過去の入賞者には世界の巨匠が名を連ねる。第二次世界大戦中に開催の中断があった。課題曲は、いずれのステージ(予選や本選)においてもすべてショパンの作品のみの演奏が義務付けられている。

1955年の第5回コンクールまでの優勝者は、ポーランドソ連の出身者によって占められていた。しかし1960年の第6回コンクールでイタリア出身のマウリツィオ・ポリーニが圧倒的実力で審査員全員一致の優勝。西側諸国出身者の優勝者が出るようになったのは、これ以降の事。現在のクラシックのピアニストの世界で頂点に立つ才能を世に送り出している。1990年の第12回と1995年の第13回では2回続いて第1位優勝者が輩出されないという状況となったが、2000年の第14回に中国のユンディ・リが15年ぶりに優勝した。

2005年の第15回コンクールの模様はインターネットで全世界に配信された。この回、初の試みとして書類選考を通過した参加者全員をワルシャワへ呼び集め、テープやビデオ審査ではない生演奏による「予備審査」が導入されたが、2つの会場で同時にコンクール予備審査が行われるという審査方法は問題となった。公式日程のほか、市民が気に入ったピアニストを(たとえ予選で落ちた者でも)私的に囲んで演奏会を催したり、期間中遠方からの参加者がピアノを貸してくれる市民宅に逗留したりするなどのイベントが開催されている。

2010年はファイナリストにもプロとして活躍するものがひしめく過去最大の激戦であったが、本選も混戦でユリアンナ・アブデヴェーヴァが優勝した。しかし、DGはアブデヴェーヴァではなくインゴルフ・ブンダーと契約し、その後ダリル・トリフォノフへ契約先を変更。優勝者ではなく、第二位と第三位へCD制作が行われるという異例の事態へ発展した。

開催年と入賞者

第1回 (1927年)

第2回 (1932年)

第3回 (1937年)

第4回 (1949年)

第5回 (1955年)

Honourable mention: Oscar Gacitua(チリ)、Tadeusz Kerner(ポーランド)、Malinee Peris(スリランカ|セイロン)、Giuseppe Postiglione(イタリア)、Manfred Reuthe(西ドイツ)、Imre Szendrei(ハンガリー)

第6回 (1960年)

Honourable mention: Alexander Słobodyanik(ソ連)、Jerzy Godziszewski(ポーランド)、Józef Stompel(ポーランド)、Michel Block(メキシコ)、小林仁(日本)、Reiya Silvonen(フィンランド)

第7回 (1965年)

Honourable mention: Marek Jabłoński(カナダ)、Tamara Koloss(ソ連)、Wiktorya Postnikova(ソ連)、Blanka Uribe(コロンビア)、Lois Carole Pachucki(アメリカ)、Ewa Maria Żuk(ベネズエラ)

第8回 (1970年)

Honourable mention: エマニュエル・アックス(アメリカ)、Alain Neveux(フランス)、遠藤郁子(日本)、Karol Nicze(ポーランド)、Ivan Klansky(チェコスロバキア)

第9回 (1975年)

Honourable mention: Elzbieta Tarnawska(ポーランド)、Wiktor Vasilyev(ソ連)、John Hendrickson(カナダ)、Katarzyna Popowa-Zydron(ポーランド)、Neal Larrabee(アメリカ)、Alexander Urvalov(ソ連)、William Wolfram(アメリカ)、Dan Atanasiu(ルーマニア)

第10回 (1980年)

Honourable mention: Alexander Lonquich(西ドイツ)、Hung-Kuan Chen(台湾)、ケヴィン・ケナー(アメリカ)、アンジェラ・ヒューイット(カナダ)、Bernard D`Ascoli(フランス)、William Wolfram(アメリカ)、Dan Atanasiu(ルーマニア)、イーヴォ・ポゴレリチ(ユーゴスラビア)

第11回 (1985年)

Honourable mention: フランソワ・キリアン(フランス)、Ivari Ilya(ソ連)、Ludmil Angelov(ブルガリア)、三木香代(日本)

第12回 (1990年)

Honourable mention: 及川浩二(日本)、フィリップ・ジュジアーノ(フランス)、田部京子(日本)、有森博(日本)

第13回 (1995年)

Honourable mention: Nelson Goerner(アルゼンチン)、江尻南美(日本)、アンドレイ・ポノチェヴォニー(ベラルーシ)、Katia Skanavi(ロシア)

第14回 (2000年)

Honourable mention: ニン・アン(アメリカ)、広瀬悦子(日本)、ヴァレンチナ・イゴシナ(ロシア)、ラドスラウ・ソブチャク(ポーランド)、Nicolas Stavy(フランス)、ミハエラ・ウルスレアサ(ルーマニア)

第15回 (2005年)

第16回 (2010年)

主な日本人受賞者

主な日本人審査員

公式ピアノ

エピソード

このコンクールは注目度が高いだけに、数々のスキャンダルも巻き起こしている。第6回までの度重なる入賞者数の変更も物議を醸した。

  • 第1回コンクールには、ソ連の作曲家ショスタコーヴィチが参加している。彼が第2位に入賞したという情報は、誤りである(入選したのみ)。
  • 第3回では、日本人として初出場した原智恵子が多くの聴衆の支持を獲得したが、15位入選とされ(13位までが入賞)、前回15位までが入賞であったことを知っていた聴衆が憤慨し、会場は警官隊が出動するほどの大騒ぎとなった。結局困った審査員が特例として彼女に「特別聴衆賞」を贈ることでようやく事態が収まったが、入賞にはならなかった。聴衆次第で、コンクール委員会が救いの手を差し伸べるようになったのは、彼女のおかげである。
  • 第5回では、前回混戦だったことから初めて採用された点数集計計算機で、上位10人がほぼ横並びの大激戦となり、審査員の1人であったミケランジェリアダム・ハラシェヴィチの優勝に異を唱え、ウラディーミル・アシュケナージの優勝と田中希代子の準優勝を主張し、サインを書かずに途中退席した。
  • 第8回では、アメリカのギャリック・オールソンジェフリー・スワンの一騎打ちとなった。スワンが意図的に第3次予選で落とされ、会場前で抗議ビラが配られるという事態へと発展した。反米運動とソ連の圧力といわれている。2010年の「ショパン生誕200年プロジェクト」に招聘されたのは内田光子ではなく、ジェフリー・スワンであり、ポーランドの聴衆はこのことを忘れていなかった。
  • 第10回では、ユーゴスラヴィアからの参加者イーヴォ・ポゴレリチの演奏を巡って審査委員の意見が極端に分かれ、第1次予選を通過したことに抗議してルイス・ケントナーが審査員を辞任し、その後第3次予選でポゴレリチが落選したことにマルタ・アルゲリッチが猛抗議して審査員を辞任するという大騒動が巻き起こった。アルゲリッチは、「審査席に座った事を恥じる」と述べ、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めるのでは無く、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。そしてポゴレリチの事を「彼は天才!」と言い残してワルシャワを去った。
  • 第14回では、マルタ・アルゲリッチが第10回の「ポゴレリチ騒動」以来、20年ぶりに審査員に復帰し、第2次予選から審査員団に加わった。コンクール会場は大盛況で国際ショパン協会会長は、特別にアルゲリッチを出迎えた程であった。またこの回では、15年ぶりに第1位優勝者が出た。しかし、中国人の聴衆が多すぎることに疑問を持つものも多かった。
  • 第15回では、書類選考を通過した応募者全員をワルシャワへ呼び集め、これまでのようにビデオ審査ではなく、現地で生演奏による「予備審査」が行われた。参加者多数のため、コンクール開催のわずか数ヶ月前になってから会場を国立ショパン音楽院のコンサートホールと文化科学宮殿の2つに分けて行うと発表された。参加者は、使用ピアノなど演奏条件のまったく異なるいずれかの会場に振り分けられて演奏することとなった。審査員は、コンクール事務局曰く不公平の無いようにと、日替わりでそれぞれの会場で審査し、終演後に両審査団らが一堂に集まり協議するという、何とも不可解な審査手段が取られた。この年ワルシャワでは全く条件の異なる中、2つの会場で同時にショパンコンクールが行われたのである。この予備審査の方法は大変物議を醸し、大問題となった。アジア系のスポンサーが多かったせいか、アジア人の入選が過去最多となった。
  • 第16回では、本選でのバジャイノフとアブデーエワの演奏中、一時会場の照明が消えるというハプニングがあったが、特に何事もなく演奏は続けられた。アジア人が本選からすべてカットされたのは35年ぶりである。

関連項目

外部リンク

コンクール実況中継動画を紹介したサイト⇒ショパンコンクール中継動画サイト