プレスター・ジョン

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プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)

プレスター・ジョン (テンプレート:Lang-en-short) は、12世紀から17世紀において流布された、伝説的な東方のキリスト教国の君主ポルトガル語読みのプレステ・ジョアンテンプレート:Pt)の名称も時折使用される。

概要

プレスター・ジョンは英語読みであり、本来のラテン語ではプレスビュテル・ヨハンネステンプレート:La)であり、現在のラテン語発音ではプレスビーテル・ヨハンネス。司祭ヨハネを意味する。キリストの誕生を伝えた東方の三博士の子孫とされ、当初はインド、後にモンゴルなどの中央アジアエチオピアジンバブエ等が「プレスター・ジョンの国」として推定された。

背景

古来からネストリウス派の布教により、東洋にもキリスト教国家があると考えられていた。それらの布教活動を行った人々の中には、長老ヨハネと呼ばれる人物の伝説もあった。この伝説によると、キリストの弟子の一人トマスがインドへ布教しに行き、インドの王ミスダエウスに殺されたと言う。しかし王は後悔し、キリスト教に改宗したと言われている。王の死後、息子のヴィサン(ヨハネと間違えられる)が王位を継ぐと共に、司教も兼ねたと言う。その様な王国がアジアにあるとネストリウス派によってヨーロッパに伝聞として広がったのである。

プレスター・ジョンの伝説が初めて記録に現れるのは、ドイツの年代記作家フライジングのオットーが著した『年代記』の1145年の項で、そこには「前年の1144年アンティオキア公国のレイモンからローマ教皇エウゲニウス3世への使者が、プレスター・ジョンのことを伝えた」とある。[1]それによると、「彼はネストリウス派キリスト教国の王と司教を兼ねた存在で、最近メディアペルシアを破り、十字軍を救援にエルサレムに向かったが、ティグリス川の洪水により引き返した。」とのことで、このため第2回十字軍のとき、この王の救援が期待されたという。

これは、1141年西遼(カラ・キタイ)が、実際にサマルカンド近辺でセルジューク朝軍を破ったことが誤って伝えられたものと思われる。当然、西遼の支配者層は仏教徒であり、キリスト教徒ではない。しかしネストリウス派はヨーロッパから追放され、中央アジアから中国にまで散らばる大コミュニティーを形成していたため、西遼の軍の中にキリスト教徒がいた可能性は否定できない。

ところが1165年ごろ、プレスター・ジョンの手紙と称するものが西欧に広く出回ることになる。その手紙は、「東方の三博士の子孫でインドの王プレスター・ジョン」から「東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノス」に宛てたとされるもので、この手紙は各国語に翻訳され、さらに尾ひれがついて多くの複製が作られた。今日でも数百通が残されている。これに対し、1177年ローマ教皇アレクサンデル3世は、プレスター・ジョン宛ての手紙を持たせた使者を派遣した。その後、使者がどうなったかは定かではない。しかしこの手紙は、西欧では数十年にわたって人気を博したと言う。このプレスター・ジョンの手紙は現代の研究では、当時の西欧人が偽造したものだと考えられている(一部、千一夜物語からの仮借もあると言う)。またマルコ・ポーロも、プレスター・ジョンの国家がアジアにあると確信していた。

十字軍が苦戦する中で、東方からムスリムを蹴散らすキリスト教の援軍が来ることを待望して、噂が広まったと思われる。また、十字軍の時代においては、ヨーロッパのキリスト教諸国よりも、イスラム諸国のほうが文化的にも進んだ先進国であり、これがヨーロッパ人のコンプレックスとなっていた。そのような情勢にあって、イスラム諸国に劣らぬ先進国であるキリスト教国の存在が、当時のヨーロッパ人の願望となったのである。

モンゴル

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オン・カンの伝説

1221年第5回十字軍に従軍したアッコン司教が、「プレスター・ジョンの孫のダビデ王がペルシアを征服してバグダードに向かっている」との報告をもたらした。これは実はモンゴル帝国チンギス・カンのことであり、1245年プラノ・カルピニのジョヴァンニがローマ教皇庁によってグユクの即位式に、1253年にはウィリアム・ルブルックがフランス国王ルイ9世によってモンケの治世に、フランシスコ派修道士らを代表とする使節がそれぞれモンゴル宮廷に派遣された。当時、彼らによって西側に伝えられた話では、チンギス・カンの義父、ケレイトオン・カンがプレスター・ジョンだったが、チンギス・カンと争い殺されたというものである。モンゴルに滅ぼされたケレイト、ナイマンなどの遊牧国家のいくつかは、実際にネストリウス派キリスト教国であり、モンゴル帝室にもネストリウス派キリスト教徒は多かったので、このような話になったと思われる。この後、プレスター・ジョンは完全に伝説となり、聖杯伝説などと結び付けられたりするようになる。

エチオピア

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プレスター・ジョンの版図を描いた地図

早くからエチオピア帝国にキリスト教国(コプト派)があることは知られていたが、イスラム教国で遮られていたため、ほとんど接触がなかった。1306年にエチオピアから30人の使節が来欧し、15世紀ごろからエチオピアの皇帝をプレスター・ジョンと呼ぶようになった。1520年ポルトガルが外交関係を樹立した際も、プレスター・ジョンを皇帝と同義語に使っている。また、モンゴル帝国に追われてアジア側からアフリカへ避難しただけと言う者もいた。

これに対してコプト教会側は激しく否定した。エチオピアは、4世紀にキリスト教に改宗しており、プレスター・ジョンという胡散臭い組織と同一視される事を拒んだ。しかも自分たちは、ソロモン王シバの女王の子メネリクを祖とする皇統を誇っていると豪語した(歴史的な根拠には乏しい)。

しかしヨーロッパの世界地図には長らくエチオピアがプレスター・ジョンの国として描かれた。またポルトガルの航海士ヴァスコ・ダ・ガマもアフリカ東海岸に寄航した折に誤認した。

しかし結局は、エチオピアがプレスター・ジョンの国であるという根拠も証拠も乏しく、断定することはできなかった。

終幕

結局のところエチオピアに否定され、他に存在するという証すら発見できず、何の進展も無かった。

そのうちイスラムの脅威も薄れ最後に西欧を圧迫したイスラム勢力であるオスマン帝国が衰えを見せ、一方でルネッサンス産業革命を経てヨーロッパが世界の先進地域となる事でイスラムに対するコンプレックスも消滅し、17世紀頃までには話題の俎上にあがる事も無くなり、自然消滅してしまう事になった。

現代でも、大航海時代が湧き上がった原因の1つにプレスター・ジョンの伝説があるが、世界中探し回って見つけられなかった為に歴史家や専門家の研究対象となりにくく、世界史の一面としては、影の歴史として据えられてしまったのである。

もっとも、エチオピアがプレスター・ジョンの国と一時期思われた事の影響は後世も残り、西欧列強がアフリカの植民地化に乗り出す19世紀以降において、エチオピアだけは唯一独立を保った。

関連書籍

資料

  • 池上俊一訳、『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』、講談社学術文庫、2009年
    •  司祭ヨハネの手紙のラテン語版と古フランス語版を収録。

プレスター・ジョンに関するフィクション

脚注

  1. 池上俊一訳、『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』、p4

関連項目

外部リンク

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