アンティオキア公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記

ファイル:Principality of Antioch locator.svg
アンティオキア公国, 1135.

アンティオキア公国は、第1回十字軍が聖地に建設した十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。

アンティオキア公国の建設と拡大

第1回十字軍以前は、アンティオキアセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だったが、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え[1]、セルジューク朝から回復しようと考えていた。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主)に就任し、アンティキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモンは十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。

ボエモンは1100年に小アジア内陸のセルジューク朝系ムスリム政権ダニシュメンド朝の王ダニシュメンド・ガーズィーを討とうとして、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまうと、甥のタンクレード摂政に就任した。ボエモンは身代金を払い解放されると、同じ十字軍国家のエデッサ伯国と協力しシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルバグダードをうかがう勢いだったが、モースルのムスリム軍に完敗し退却を余儀なくされた(ハッラーンの戦い)。さらにアンティオキアのあり方をめぐって宗主権を主張する東ローマ帝国の圧迫を受けたため、援軍を求めてイタリアに帰国してしまい、再びタンクレードが摂政となった。

1108年にはボエモン1世がマケドニアで東ローマ皇帝アレクシオス1世とデヴォル条約を結びアンティオキア公国を東ローマ帝国の臣下とすることを約束したが、タンクレードはこれを拒み独立国としてあり続けることを選んだ。1111年ボエモンがイタリアで死ぬと、タンクレードはボエモンの遺児(ボエモン2世)を立てて摂政を続けた。タンクレードはエデッサ伯国と協力して東ローマ帝国からラタキアを奪い、バニヤースの南をトリポリ伯国との境界とした。また北シリアの主要都市で内陸に隣接するアレッポにはシリア・セルジューク朝リドワーン王が陣取っていたが、これと戦ってオロンテス川の中流域とアレッポを取り巻く周囲に至るまでの内陸側をすべて征服し、シリアの強国として君臨するアンティオキア公国の事実上の建国者として活躍した。

アンティオキア公国の縮小

タンクレードは1112年に死去し、サレルノ伯ロジェ(ルッジェーロ)が摂政に就くが、1119年のサルマダの合戦で、シリア・セルジューク朝滅亡後アレッポの君主となっていたイル・ガーズィーとの戦いで戦死した。代わってエルサレム国王ボードゥアン2世が摂政に入ってアンティオキア公国はエルサレム王国の保護国となった。

1126年には公位の正統後継者であるボエモン(1世)の遺児ボエモン2世が公位に立ったが、1130年、小アジアへの攻略中、ダニシュメンド王の息子に当たるエミール・ガージーとの戦いの最中に伏兵にかかり死去した。未亡人でエルサレム王ボードゥアン1世の娘であったアリックスはアンティオキアを一時支配下に置き、1128年以降アレッポを拠点にして急速にシリアを回復しつつあったムスリム君主、ザンギーと組もうとしたが、ボードゥアン1世は娘の反逆に激怒してアンティオキアを奪回して娘をラタキアに流罪とし、アンティオキア公国は再びエルサレム王(ボードゥアン1世、および1131年よりフールク)の影響下に入った。

フールクは1136年に至ってアンティオキア公位継承者である10歳の公女コンスタンスに36歳のレーモン・ド・ポワティエを娶わせて公位を継がせたが、この年までにオロンテス川の内陸側の領土はザンギーによって征服されていた。さらに1138年、アレクシオス1世の息子である皇帝ヨハネス2世コムネノスが南下してアンティオキアを攻囲し、レーモン・ド・ポワティエは東ローマ帝国への臣従の誓いを余儀なくされた。十字軍諸国はアンティオキアを東ローマ帝国に返す代わり、東ローマ帝国はシリアの数都市を征服して十字軍諸国に渡すという取り決めとなったため、アンティオキア公国はエデッサ伯国とともに東ローマ帝国のシリア攻撃に従わせられた。最初の攻撃目標であった都市シャイザルの攻撃にあたって、救援に来たザンギーによるムスリム諸王への応援呼びかけや、十字軍国家側と東ローマ帝国側の離反策のために、結局成功しなかったが、1142年にヨハネス帝が死ぬまで圧力を受けた。

1144年エデッサ伯国がザンギーによって征服されると、アンティオキア公国は1146年にザンギーの死後ザンギー朝を継いだ息子ヌールッディーンの強い攻勢にさらされることになった。この危機に対して派遣された1148年第2回十字軍はエデッサでもアンティオキアでもなくダマスカスへ向かい失敗に終わり、1149年レーモンはヌールッディーンに敗れて戦死し、アンティオキア公国の東半分はアレッポのザンギー朝によって完全に奪われた。

強盗騎士ルノー・ド・シャティヨン

1153年、寡婦となったコンスタンス女公は、1147年に一旗揚げにシリアに到来し征服欲を満たす機会を求めていた「強盗騎士」ルノー・ド・シャティヨンと結婚し、ルノーが新たな公となった。ルノー・ド・シャティヨンは些細な口実を元に東ローマ帝国の領土であったキプロス島を攻略した後、農村や教会、修道院を残らず略奪し住民を虐殺し、キプロスは再起不能の打撃を受けた。

これにより皇帝マヌエル1世コムネノスによるアンティオキアへの懲罰としての遠征を招いた。アンティオキア公ルノーは抵抗は無益と悟り、マヌエル帝の陣営に乞食の様な格好で現れ卑屈に許しを乞い、東ローマ帝国への臣従を誓わされた。1159年、マヌエル帝は君主としてアンティオキアに入城するデモンストレーションを行った。以後、東ローマ帝国はしばらくの間シリアで強い影響力を発揮し、ヌールッディーンも十字軍国家も互いに手が出ない状態になる。

1160年にルノーはアレッポ北部を略奪しようとして囚われ、ヌールッディーンの捕虜となった。コンスタンスはルノー救出を訴えたが、公国の貴族たちはコンスタンスと前夫レーモン・ド・ポワティエの子ボエモン3世を次の公爵とするよう主張しコンスタンスと対立した。ルノーは結局公位(妻コンスタンスの摂政位)を失い、1163年にボエモン3世が即位した。ボエモン3世は皇帝マヌエル1世の宗主権を認め、皇帝の姪と結婚し、正教会総主教をアンティオキアに迎え入れた。また、マヌエル1世の皇后エイレーネーが1159年に死去すると、その二度目の妻としてコンスタンスとレーモンの娘マリー・ダンティオケが選ばれた。マリーはマヌエル1世の息子(アレクシオス2世コムネノス)を産み、その摂政として東ローマで権勢をふるった。

ルノーは16年後釈放されてエルサレムに現れ、ムスリムとの徹底抗戦を主張して各地を略奪し王国内の穏健派からもムスリムからも忌み嫌われたが、サラディン軍にハッティンの戦いで大敗し処刑された。

高まるムスリムの圧力

1164年、ヌールッディーンの部下シールクーフファーティマ朝エジプトへ、内紛とエルサレム王国によるエジプト攻撃から救援すべく向かったが、その間シリアに残ったヌールッディーンを攻めようとした十字軍国家連合軍は大敗し、ボエモン3世もしばらく捕虜となってしまった。

シールクーフの戦いは、ファーティマ朝とエルサレム王国が連合軍を組んでしまうことで長い戦いになり、戦いを制したシールクーフが死に、甥のサラーフッディーン(サラディン)がファーティマ朝を滅ぼしアイユーブ朝を確立する。これはヌールッディーンの疑念を招いたが、彼は間もなく没し、以後サラーフッディーンがエジプト・シリアのムスリムを統合することになる。彼は1187年ハッティンの戦いに勝利し、エルサレムを占領して十字軍国家からほとんどの都市を奪うが、イタリアの都市国家の艦隊と第3回十字軍の援助を受けてアンティオキア公国はアンティオキア市と若干の属領を辛うじて保った。

アルメニア人の支配

1194年、ボエモン3世は北部に隣接するキリキア・アルメニア王国と争い、講和条件としてキリキア王の娘を自身の長男と娶わせた。この婚姻から生まれたレーモン・ルーベンはアンティオキア公とキリキア王の血を引くことになり、ボエモン3世の次男でトリポリ伯国を継承していたボエモンが、1201年父の死に伴ってアンティオキア公ボエモン4世として即位すると、アンティオキア公国に対するキリキアのアルメニア人の干渉を招くことになった。キリキア王は1216年からレーモン・ルーベンをアンティオキア公位につけることに成功するが、1219年にボエモン4世がアンティオキア公位に復帰し、アンティオキア公国とトリポリ伯国は同君連合となった。ボエモン4世の死後、同名の5世、6世が続くが、その後の十字軍においてアンティオキア公国が貢献するところはなかった。

1254年にボエモン6世はキリキア王ヘトゥーム1世の娘と結婚し、両国はアンティオキア公位を巡る抗争に終止符を打ったが、これによってアンティオキア公国はほとんどキリキア・アルメニア王国の属国のようになった。

モンゴル軍への加勢、そしてアンティオキア公国の滅亡

1258年バグダードアッバース朝を滅ぼしたフレグ率いるモンゴル軍がシリアに進軍すると、キリキアとアンティオキアはこれをムスリムに対する聖戦とみて、これに従ってムスリムと戦いダマスカスとガザを陥落させエジプトに向かったが、1260年アイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍と連合軍はバイバルス率いるエジプトのマムルーク軍に敗れた。

アイユーブ朝を滅ぼしマムルーク朝スルタンとなったバイバルスは、キリキアとトリポリ=アンティオキアに対する懲罰戦を練った。フレグ没後の混乱に乗じてバイバルスは1265年北上し、キリキアの諸都市を破壊し再起不能とした。さらに1268年トリポリ攻撃にかかったがトリポリ伯を兼ねるボエモン6世が篭城の準備をしていると見るやアンティオキアに向かい、たった4日でこれを占領し、全住民を奴隷とするか虐殺して都市を完全に破壊した。

これによってアンティオキア公国は滅亡し、以後、東地中海最大の都市だったこともあったアンティオキアは廃墟の中の一寒村と化し歴史から姿を消した。

アンティオキア公からトリポリ伯になってしまったボエモン6世はバイバルスと休戦し、以後休戦は継続されたが、再度モンゴル軍が侵攻したあとの1289年にトリポリは陥落しトリポリ伯国も滅亡した。

歴代君主

系図

テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree/end

 :アンティオキア公

関連項目

脚注

  1. 古代においてはローマ帝国領であり、7世紀にイスラム帝国に奪われたものの10世紀からセルジューク朝の侵攻を受けた11世紀後半までは東ローマ帝国がイスラム勢力から奪回・領有していた。

参考文献

  • Steven Runciman, A History of the Crusades Vol.III, Cambridge University Press, 1954.
  • 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年テンプレート:Link GA