フェラーリ・F40

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テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 F40(エフフォーティー、伊:effequaranta/エッフェクアランタ)は、1987年フェラーリが創業40周年を記念して製作したリアミッドシップ・後輪駆動の2シータースポーツカーである。公称最高速度は324km/hであり、発売当時は世界最速の市販車であった。

概要

F40は、フェラーリの創始者であるエンツォ・フェラーリがその生涯の最後に、同社の「そのままレースに出られる市販車」という車作りの基本理念を具現化した、歴代フェラーリ生産車の中でも根強い人気を誇る車種である。ボディデザインはピニンファリーナによるもの。開発時のコードネームは「LM」。

車体の基本構成こそ1960年代のフェラーリ製レーシングカー、あるいは従来の市販フェラーリと同様の楕円鋼管 チューブラーフレームによるスペースフレーム方式ではあったが、当時開発されたばかりの複合素材や構造部接着剤といった最新のマテリアルを組み合わせた半モノコック構造とし、高い剛性を得ている。室内はこの素材がむきだしで、内装などはない。ボディ外装やカウルも全て複合素材製。ドアの室内側にはドアノブも無く、代わりのワイヤーを引いてドアを開ける。サイドウィンドウは手動で上下するガラス製のタイプとウィンドウ自体はプラスチック製の固定でスライド式の小窓を備える軽量タイプの2種が選べ、軽量タイプではドアの内張りがいっそう簡素なものになった。シートも複合素材製のバケットタイプでリクライニングなどの調整はできず、3種類のサイズから選択できた[1]。シートベルトも標準は3点式だが4点式もオプションで用意され、雰囲気はレーシングカーそのものだった。また、ステアリングやブレーキにはパワーアシストなどが無い上に、大パワー車ゆえのクラッチペダルの重さが話題になることが多かった[2]。始動時には暖気が充分でないと、ギアが入らないという。燃料漏れやオイル漏れにも注意が必要で、実際にそれが原因と思われる火災で失われた車両もある。なお、一応エアコンも標準で装備される[3]

フェラーリ・スペチアーレとしては製造期間が長く、順次改良された、そのため前期型、後期型と区別されることもある、吸排気系が異なるほか、後期型では車高調整機能が備わる[4]

パワートレインはかつてグループB機構で争われていたWRCおよびレース参戦を目論んで発売されたコンペティションベースモデルの「288GTO」、およびその改良版「288GTO Evoluzione」から引継ぎ、改良を加えた強力なインタークーラー式ツインターボエンジン、F120A型を搭載している。実はこのエンジンはランチアグループCカーランチア・LC2のデチューン版であり、ターボチャージャーは日本の石川島播磨重工(現IHI)製である。排気量2,936ccは当時のFIAが定めたターボ係数1.7を掛けて5,000cc以下のクラスに収まるようにしたものと言われるが、具体的なターゲットとなったレースやカテゴリーは不明である[5]

タイヤはピレリがF40のために開発した「P Zero」が標準だが、ブリヂストンの「POTENZA RE71」も装着された[6]

ボディカラーは公式には赤のみだが、黄色の個体も存在する。

なお、公称最高速度が200mph(約320km/h)を初めて超えた市販車である。

このクルマが持つ出力特性はまさにターボカーのそれ(いわゆるドッカン・ターボ)であり、パワーバンドに入ると同時に急激に立ち上がる強大なパワーには多くの腕に自信があるドライバー達をも悩ませた。

当時フェラーリのF1チームに在籍していたゲルハルト・ベルガーが車両開発を担当し、当時現役のF1ドライバーに、「雨の日には絶対に乗りたくない」「雨の日にはガレージから出すな」と言わせたという逸話が残っている。

動力性能

1988年マラネロにて、当時フェラーリのテストドライバーであったドリアード・ボルサーリによるドライブで、2方向の実測の平均で325.8km/hを記録。 日本でも茨城県谷田部町(現つくば市)の日本自動車研究所 (JARI) のテストコースにて、ベストモータリングなどによる動力性能テストにより0-400mで11.293秒(通過速度203.60km/h)、0-1000mで20.830秒というタイムを記録した。

輸入車としてのF40

日本に初めてお目見えしたのは1987年末である。新車価格は当時の日本のディーラー価格で4,650万円。

発表当時、各国のフェラーリ正規ディーラーにオーダーが殺到する事態となり、日本では当時バブル経済のまっただ中にあったためプレミアが付き、一時は2億5,000万円で取引されたこともあった。日本のディーラーなどでは、F40以外の車種もまとめ買いし、納車を早めるなどをしたため高くなったともいわれている。このように非常に高い価格で取引されたことから、「走る不動産」とも呼ばれた(自動車は「動産」)。

当初発表された生産台数は350台ないし400台であったが、フェラーリは殺到するオーダーを鑑み、急遽F40を増産することで対応。結局1992年の生産終了までに1,311台が生産された。日本の正規輸入車は59台、その内ストラダーレモデルが58台、コンペティツィオーネが1台となっている。

各種メディアにも大々的に紹介され、『カーグラフィックTV』(当時テレビ朝日)は谷田部テストコースでフルテストを行った。

日本での逸話としては、あるジャーナリストが試乗(インプレッション)中に崖から転落し、そのクルマをマラネッロのフェラーリ本社で修理したという話や、市販のビデオソフト「激走! フェラーリF40」で切替徹常磐自動車道を300km/h以上で走行するシーンが問題となり、切替とビデオ販売会社が摘発を受けたという話もある。

模型化も盛んで、田宮模型フジミ模型レベルイタレリポケールブラーゴマテル京商等の各社から模型化された。

レース車両としてのF40

ヨーロッパでは1989年のル・マン24時間レースに出場すべくF40LMが準備されたが、当時のル・マンはグループCの時代でエントリーが認められなかった。その後LMは、アメリカのIMSAシリーズGTOクラスに数戦のスポット参戦をし、数度の表彰台を獲得する。1992年からイタリア・スーパーカーGT選手権が始まると、ミケロット作のF40GTで3年間出場し、ライバルもなく、連戦連勝する。1994年からBPR GTシリーズが始まると、F40GTおよびGTEで参戦するが、マクラーレン・F1という強力なライバルの出現により、3年間で3勝(なぜか1年に1勝ずつ記録した)するにとどまった。前後してレギュレーション改訂され、GTのレースとなったル・マンにも参戦するが、こちらもマクラーレンに歯が立たなかった。1980年代半ばに登場したF40だが、概要にもあるとおり、F40の車体を構成する鋼管スペースフレームなどは1960年代以来の古典的なもので、1990年代最新のマクラーレンに敵うはずもなかった。F40の開発コンセプトから、レースへの参加は当初から考えられてはいたようだが、当時は参加できるレースもほとんどなく(これは最初からわかっていたが)、レース環境が整う頃にはF40は時代遅れという状態だった。

日本国内においては全日本GT選手権に参戦し、1994年のシーズンに1勝したが、テンプレート:要出典範囲がたびたび行われたため、活躍できた期間は短期間であった。 テンプレート:Double image aside テンプレート:-

脚注

  1. 月刊カーグラフィック1987年10月号
  2. 月刊カーグラフィック1988年9月号
  3. ネコ・パブリッシング刊 スーパーフェラーリ p117
  4. ネコ・パブリッシング刊 ROSSO 1999年11月号
  5. ネコ・パブリッシング刊 ROSSO 1999年11月号
  6. 月刊カーグラフィック1989年6月号

関連項目

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