パルミラ

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パルミラの神々。左から、月の神アグリボル(Aglibôl)、最高神バアル・シャミン(バアルシャメン、Beelshamên)、太陽神マラクベル(Malakbêl)。1世紀ごろの浮彫、シリアの Bir Wereb, Wadi Miyah 付近で発見、ルーヴル美術館所蔵。

パルミラテンプレート:Lang-en)は、シリア中央部のホムス県タドモル(タドムル、テンプレート:Lang-ar、アルファベット転写:Tadmor)にあるローマ帝国支配時の都市遺跡。シリアを代表する遺跡の1つである。1980年、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。ローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門が代表的。ラテン語読みによるパルミュラとも呼ばれる。

概要

パルミラの遺跡は、シリアの首都ダマスカスの北東、約215kmのシリア砂漠の中にある。ユーフラテス川流域からは南西へ約120km。海抜は400mで[1]、シリア中央部を北東方向へ伸びる山脈(Jabal Abu Rujmayn)の南麓に位置する。北から流れるワジアブオベイド川と、西から流れるワジアイド川が形成した扇状地にあるオアシスに建設されていた。

パルミラのある東西方向の谷間は、地中海沿岸のシリアやフェニキアと、東のメソポタミアペルシアを結ぶ交易路となっており、パルミラはシリア砂漠を横断するキャラバンにとって非常に重要な中継点であった。

紀元前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され、当時からアラム語で現在のアラビア語名と同じく「タドモル」 תדמר (Tadmor) と呼ばれていた。ナツメヤシの産地として知られたオアシス都市であったが、アラム語やヘブライ語など北西セム語ではナツメヤシの実のことを תמר (tamar) といい、都市名はナツメヤシと関係があるともされる[2]ギリシア語でナツメヤシのことを「パルマ」ということから、ギリシア人ローマ人から「パルミラ」と呼ばれたようである。しかしこれとは別に、「タドモル」の語源は、「ダマール(破壊)」や、「タトモル(覆う、包む)」に関連するともいわれ、また、古代西セム語の語根である「ダムル(保護する)」から「守備隊駐屯地」によるともいわれる[2]

紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロードの中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの属州となったこともある。2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。

「軍人皇帝時代」にパルミラ王国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。273年にパルミラは陥落し廃墟と化した。

この後パルミラは衰え、東ローマ帝国イスラム帝国の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままであった。中世には完全に放棄されたが、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されている。

歴史

パルミラの近くからは、約7万5000年前の旧石器時代の石器が発見されている[2]。ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発掘された紀元前2000年代ごろの粘土板からもこの都市の名前(Tadmor、または Tadmur、または Tudmur)と思われる記述が見つかっている[1]

旧約聖書歴代誌第二、8章4節では、古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されている[3]列王記第一の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に「תמר」(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられるが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、タルムードミドラーシュの冊子にある注釈のいくつかではこの街をシリア砂漠にあると記している。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシア語のパルミラの名も併記されている。現代ヘブライ語においてもパルミラはタドモルと呼ばれる。

タドモル(パルミラ)の人々はアラブ人であったが、アラム語の方言(パルミラ語)を話し、アラム文字を手直しした独自の文字(パルミラ文字)を用いていた。パルミラ文字は今も遺跡の各所に残る。

セレウコス朝からローマ時代

アケメネス朝ペルシャから覇権を奪い取ったマケドニア王国アレクサンドロス大王紀元前323年に没すると、ディアドコイ戦争と呼ばれる後継者争いが勃発した。テンプレート:要出典範囲、パルミラの街は自治に委ねられ、後には独立した。紀元前1世紀にはパルティア共和政ローマの間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌した。紀元前41年にローマの将軍マルクス・アントニウスがパルミラを征服しようとしたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗した。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示す。一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産の絹の貿易を支配していたとされる[4]

皇帝ティベリウス(在位14 - 37年)の時代、パルミラはローマ帝国のシリア属州の一部となった[5]106年に南にあるペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権はパルミラに移り、ローマ帝国と東方のペルシア・インド・中国とを結ぶ重要性はこの時期増していった[6]129年、ローマの拡大路線を転換した皇帝ハドリアヌスは視察巡幸の途中にパルミラを訪れた。その魅力にとりこにされたハドリアヌスはパルミラに自由都市の資格を与えパルミラ・ハドリアナ(Palmyra Hadriana, ハドリアナパルミラ〈ハドリアヌスのパルミラの意〉[6])と改名した。

パルミラ王国

テンプレート:Main 212年サーサーン朝(ペルシア)が衰退するパルティアを圧迫し、チグリス川およびユーフラテス川の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになった。パルミラの長官セプティミウス・ヘロドの息子、セプティミウス・オダエナトゥスは皇帝ウァレリアヌス(在位253 - 260年[7])からシリア属州総督に任命された。260年にウァレリアヌス帝がサーサーン朝との戦いで捕らえられ[8]、虜囚となったままビシャプールで死ぬと、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、クテシフォンにも2度侵攻した。オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態にあったが、267年にオダエナトゥスが甥に殺されると、妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを擁立してパルミラの実権を握った。ゼノビアは哲学者カッシウス・ロンギヌス(en)を顧問に迎え、アラビア・ペトラエアの州都ボスラを征服し、さらにはアエギュプトゥス(エジプト属州)へも遠征して領土を拡大した。

北にある大都市アンティオキアも奪おうとしていたゼノビアは、273年に皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270 - 275年)の親征を受けて敗北し、捕らえられローマに送られた。虜囚となったゼノビアはローマ近郊のティヴォリに邸宅を持つことを許され華やかな余生を送ったが、パルミラの街は破壊され、ロンギヌスらパルミラ政府の高官は殺された。

ローマ帝国は、以後パルミラをローマ軍団の基地に変えてしまった。ディオクレティアヌス帝の時代には、ペルシアの侵攻に備えてさらに多くの部隊が駐留できるよう規模が拡大され城壁で囲まれた。

ファイル:Palmyre Vue Generale.jpg
アラブ砦から見下ろしたパルミラ遺跡。列柱道路の先、オアシスの手前に大きなベル神殿がある。

ローマ以後

東ローマ帝国の時代、パルミラに新たに建設されたのはいくらかのキリスト教会のみで、市街の大半は廃墟のまま放置されていた。6世紀、遺跡とオアシスを見下ろす丘の上に砦が建設されている。634年、最初のムスリムがパルミラにたどり着き、次いで636年ハーリド・イブン=アル=ワリード率いる正統カリフ軍がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。800年ごろから数少ない住民もパルミラを去り始め、1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された[9]。カトリック教会は、現在もパルミラに名義司教を残している[10]

1751年、イギリスの探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、1753年にはその報告書を出版した。これはローマ建築の研究およびその後のヨーロッパの古典主義建築の発展に大きな影響を与えた。

現在はホムス県に属し、人口およそ5万6000人のタドモルの街が遺跡の隣にある。

主な建築物

ファイル:Temple of Bel in Palmyra.JPG
ベル神殿。ベル神を祀っていた。

ベル神殿

テンプレート:Main パルミラで最も目を引く建築物は、「中東において紀元前1世紀の最も重要な宗教的建造物」とされるバアル(ベル)の大神殿である[11]。石材の断片だけが残存する神殿は、ヘレニズムの神殿として始まる。中央の聖堂(内陣)は、コリント様式の巨大な二重列柱廊に続き、紀元1世紀初頭に追加された。西のポルチコ(柱廊)とその入口(プロピュライア)は2世紀からである。神殿は205 × 210メートルにおよぶ[12]

ファイル:PalmyraAncientAvenue.JPG
パルミラの列柱道路。ローマの植民都市や軍営の都市計画で、東西に貫く通りはデクマヌスと呼ばれたが、中でも最も主となる大通り(都市軸)はデクマヌス・マクシムス(Decumanus Maximus)と呼ばれた。
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ディオクレティアヌス城砦(手前の列柱)。奥の山の上にあるのは、マムルーク朝が13世紀に建て、17世紀にドルーズ派のマアーン家の領主テンプレート:仮リンクが拡充したファフルッディーン城(カラート・イブン・マアーン)

列柱道路

テンプレート:Main 神殿から始まるパルミラの列柱道路は、古代都市の残る部分に通ずる古代のデクマヌスに相当する。列柱道路には、華麗な装飾が施された記念門(3世紀初頭のセプティミウス・セウェルスの治世にさかのぼる)がある。遺跡の第一区域の端には、大部分が復元された4塔門建築 (tetrapylon) である四面門があり、4つの基壇に各4組の柱を備える(エジプトの花崗岩でできた元来の柱のうち1本だけが今も見られる)。

ディオクレティアヌスの浴場

記念門から少し離れて、ディオクレティアヌスの浴場といわれる浴場と、ナブー(ナボ)神殿が現在に残る。

ローマ劇場

現在のパルミラに残るローマ劇場は、9列の座席をもつが、元来は木造の建築物が付け足されておそらく12列まであった[13]。劇場は紀元1世紀初頭の時代のものとされている。

ローマ劇場の後方には、地元貴族が法を議論し、政治的決定を行なった小さな元老院の建物、また、キャラバンが支払をする場所であったことを示唆する碑文があるいわゆる「関税所」が位置する。すぐ近くには大きなアゴラ (48 × 71m) が、宴会場(トリクリニウム)の遺構とともにある。アゴラの入口は、セプティミウス・セウェルスと彼の家族の像が飾られていた。

ディオクレティアヌス城砦

テンプレート:Main 横軸となる通りは、シリアの統治者ソシアヌス・ヒエロクレスによって築かれたディオクレティアヌス城砦へとつながり[14]、中央に大きな principia (軍隊の本営を収容する広間)の遺構がある。近くにはシリアの女神アラートの神殿(西暦2世紀)がある。ディオクレティアヌス城砦のそばのダマスカス門とバール=シャミン神殿は西暦17年に建立され、後にオダエナトゥスの統治下で拡大した。遺構には内陣 (cella) へと通じる注目すべきポルチコ(柱廊玄関)がある。

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早朝のパルミラ遺跡のパノラマ
ファイル:Vista panorámica de Palmira.jpg
パルミラ遺跡のパノラマ
ファイル:Palmyra Ruines Temple of Bel.jpg
ベル神殿周辺のパノラマ
ファイル:Palmyre - théâtre pano.jpg
ローマ劇場のパノラマ

ギャラリー

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

脚注

  1. パルミラの遺跡 (1988)、13頁
  2. 2.0 2.1 2.2 パルミラの遺跡 (1988)、14頁
  3. パルミラの遺跡 (1988)、17頁
  4. Terry Jones' Barbarians, Terry Jones, Alan Ereira
  5. パルミラの遺跡 (1988)、19-20頁
  6. 6.0 6.1 パルミラの遺跡 (1988)、22頁
  7. パルミラの遺跡 (1988)、24頁
  8. ヒッティ、120頁
  9. "Palmyra". Catholic Encyclopedia. (1913). New York: Robert Appleton Company.
  10. Palmyra (Titular See) - catholic-hierarchy.org
  11. Ross (1999), p. 165
  12. パルミラの遺跡 (1988)、49頁
  13. Ross (1999), p. 169
  14. Ross (1999), p. 171

参考文献

外部サイト

テンプレート:Sister

テンプレート:シリアの世界遺産