ゼノビア

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 ゼノビアテンプレート:Lang-la)は、3世紀に存在したパルミラ王国の「女王」と呼ばれた人物である。パルミラにあるギリシア語・パルミラ語合璧碑文では、パルミラ語(アラム語パルミラ方言)で「最も傑出した敬虔なる女王、セプティミア=バト=ザッバイ」( ספטמיא בת זבי נהירתא וזדקתא מלכתא spṭmy' bt zby nhyt' w zdqt' mlkt' )と記されている。

生涯

前半生

アラビアのベニサマヤド部族の長ザッバイ(Zabaii ben Selim又はJulius Aurelius Zenobius)を父、「Al-Zabba」(長い美しい髪を持つ娘)と称された母の間の娘として240年頃に生まれたとされる。名前はラテン語で「Iulia (or Julia) Aurelia Zenobia」、「テンプレート:Lang-ar 」(アルファベット表記:al-Zabba' bint Amr ibn Tharab ibn Hasan ibn 'Adhina ibn al-Samida')であったが、一般には「ἡ Ζηνοβία」(ギリシア語)、「Zenobia」(ラテン語、結婚後は「Septimia Zenobia」)と呼ばれることとなった。なお、公文書には「Bat-Zabbai」(Al-Zabbaの娘の意味)との表現も見られる。

父・ザッバイの祖先は2世紀後半にローマ市民権を取得したとされ、セプティミウス・セウェルス帝の皇后として知られるユリア・ドムナとも近い関係であったと伝わる。父ザッバイは少なくとも229年にシリアの部族長であった。母はギリシア人だったという説が有力であるが、ゼノビアが古代エジプト語に堪能であったこと及び古来のエジプト文化に大変精通していたことからエジプト出身であったとの見方もある。いずれにせよ、ゼノビアの前半生・出生には不明点が多い。エジプト語以外にもラテン語・ギリシア語・シリア語・アラビア語に通じ、学問にも秀で、側近で哲学者でもあったカッシウス・ロンギヌスen)の指導を受けてホメロスプラトンの比較論や歴史書を著したとされる(いずれも散逸)。

パルミラの「女王」

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『パルミラ市街を見下ろす女王ゼノビア』("Queen Zenobia's Last Look Upon Palmyra") シュマルツ・ヘルベルト(Herbert Schmalz)による作

ゼノビアの名前が初めて史料に出るのは258年パルミラ一帯を治める有力者であったセプティミウス・オダエナトゥスの後妻として入った時となる。その後、ゼノビアにとって初子となるルキウス・ユリウス・アウレリウス・セプティミウス・ウァバッラトゥス・アテノドラス(以下ウァバッラトゥス)も生まれた(オダエナトゥスには前妻との間に1子(ヘロデス テンプレート:Interlang が有)。オダエナトゥスはガッリエヌス帝に叛旗を翻して皇帝を僭称したティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスの討伐やサーサーン朝の首都クテシフォンへ2度も攻め入る等の功績を挙げてガッリエヌスの信頼を勝ち得た。それら遠征にゼノビアはパルミラ軍に同行しただけでなく、軍装を纏い、その智謀でオダエナトゥスを支えた。

267年にオダエナトゥスが甥・マエオニウス テンプレート:Enlink によって暗殺、またヘロデスも同時に殺害され、パルミラはNo.1及び後継者を相次いで失う混乱状態に陥った(ゼノビアが仕組んだともされる)。ゼノビアはウァバッラトゥスをオダエナトゥスの後継者に据えると共に自らはその共同統治者となることで、一連の事態を収拾することに成功した。

ガッリエヌス(在位253年 - 268年)の治世下より上述したような功績もあってガッリエヌスよりローマ帝国東部属州を委任されていたオダエナトゥスはパルミラを根拠地として既に半独立(パルミラ王国)の状態であった。西方属州にはガリア帝国が割拠、北方属州へはゴート族等の北方異民族の侵入が相次ぐ中、268年にはガッリエヌスが暗殺された。

ゼノビアはローマの迷走に乗じる格好でサーサーン朝の侵略からローマ東部属州を護る」という名目で皇帝直轄領アエギュプトゥス(エジプト)及びカッパドキアパレスティナカルケドン等のローマ東部属州・都市に軍を派遣して次々と「領土」を拡大していった。ゼノビアは自らを「エジプトの女王」と称し、またこれらの事件から「戦士女王(Warrior Queen)」とも呼ばれた。実際にゼノビアは騎馬術にも優れた才能を示したという。ゼノビアはカルタゴの女王ディードーアッシリアの女王セミラミスプトレマイオス朝クレオパトラ7世の後継者を自称したとされる[1]

ローマとの戦争

270年にローマ皇帝となったルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは北方異民族の侵入を撃退すると、ローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けた。アウレリアヌスはパルミラに降伏を勧告したが、272年にゼノビアはローマ帝国皇妃の称号であるアウグスタを自称、ウァバッラトゥスにはアウグストゥスを名乗らせると共にこれを記念した貨幣を発行し、ローマに対抗する姿勢を見せた。

272年、アウレリアヌスはパルミラへ親征し抵抗したビザンティオン等を陥落させた。ゼノビアはウァバッラトゥスと共に軍を率いてローマ軍を迎え撃った。ゼノビア自らが陣頭に立って士気を鼓舞し、戦闘指揮はアエギュプトゥス攻略で活躍したザブダス テンプレート:Enlink に委任したが、2度の戦い(アンティオキア近郊及びエメサ)にいずれも大敗を喫し、ウァバッラトゥスは戦死した(捕虜となった後に死亡したともされる)。

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『アウレリアヌスの前に連行されたゼノビア』("Il trionfo di Aureliano o La regina Zenobia davanti ad Aureliano") イタリア人画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロによる1717年の作

ゼノビアはパルミラへと逃れて、籠城準備を整えた。ローマ軍はパルミラを包囲したが、兵站線が延びきっていたことに加えて、現住のアラブ人による攻撃が包囲を困難とした。ゼノビアはサーサーン朝からの支援も期待したが、エジプトを攻略したプロブスが軍を率いてパルミラへ到着して兵站線が確保できたこと及び軍勢が飛躍的に増加したことで、ゼノビアは敗色を悟りペルシアへ逃亡を図ったものの、ユーフラテス川を越える前にローマ軍に捕縛された。その後パルミラ市もローマに降伏して273年にパルミラ王国は瓦解することとなった。

その後の余生

ゼノビアはローマへと連行され、274年にガリア帝国もローマへ統合したアウレリアヌスの凱旋式(274年)でローマ市内を引き回された。その際にゼノビアは黄金の鎖で自らを縛り、その美貌と威厳をローマ市民に示したという。なお、ゾシモスはローマへの連行中にゼノビアが死亡したと伝えている。

凱旋式の後はローマ国内のティブル(現:ティヴォリ)のウィッラ・ハドリアナの近郊に高級な別荘(ヴィラ)を与えられ、社交界でも活躍する等、贅沢に暮らした[2]。また、ゼノビアはローマの元老院議員(名前は伝わっていない)と再婚し、数人の娘(やはり名前は不詳)にも恵まれ、その娘もローマの高貴な身分の人間と結婚したと伝えられる。いずれにしてもゼノビアに勝利したアウレリアヌス(275年に暗殺)よりも長く生きたことは確実と言える。

その他

ローマにある碑文にはゼノビアの夫(セプティミウス・オダエナトゥス〔Septimius Odaenathus〕)の名を含む「Lucius Septimia Patavinia Balbilla Tyria Nepotilla Odaenathiania」との名称がある。オダエナトゥスにはヘロデス及びウァバッラトゥス以外に子がいないことから、ゼノビア(及びゼノビアの子孫)が夫の名を取って付けられた人物とも考えられる。また、5世紀のキリスト教の司教であるフィレンツェ聖ゼノビウス テンプレート:Enlink はゼノビアの子孫とされる。

アウレリアヌスは書簡に「ローマ人は『一女性と戦っているだけ』と(アウレリアヌスを)侮蔑するが、ゼノビアの性格と実力を知らないからである」と書き残した。

18世紀の歴史家エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中でゼノビアの美貌について「(ゼノビアがその末裔と自称した)クレオパトラに劣らず、貞潔と勇気は遙かに勝り、全ての女性の内で最も愛らしくそして英雄的とされた。歯は真珠のように白く、大きな黒い両瞳は不思議な輝きに満ち、魅力的な甘美さがこれを和らげていた」と記述、また「オリエント世界で屈指の女傑」と評した。

シリアの500ポンド紙幣にはゼノビアの肖像が描かれている。

ゼノビアに関係する作品

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ゼノビアを模った貨幣

歴史書

オペラ・戯曲

関連書籍

  • 小玉新次郎 「第9章 パルミラ女王ゼノビア」『隊商都市パルミラの研究』(東洋史研究叢刊之四十八)同朋舎出版, 1994年2月
  • 塩野七生ローマ人の物語12-迷走する帝国』新潮社
  • 星野之宣 『妖女伝説「砂漠の女王」』(劇画コミックス 集英社
  • 文月今日子 『文月今日子選集10 銀流沙宮殿』(ミッシィコミックス 宙出版

脚注

  1. ヒストリア・アウグスタ」30人の僭称者(TYRANNI TRIGINTA) 27
  2. ヒストリア・アウグスタ」30人の僭称者(TYRANNI TRIGINTA) 30

外部リンク

テンプレート:Sister

  • ラダミストゥスの妻ゼノビア - オペラや絵画に描かれる。本項のゼノビアと混同されることが多い。