ダットサン・フェアレディ

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ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカーフェアレディZの源流である。

本稿では前身モデルであるダットサン・スポーツ DC-3、ダットサン・スポーツ1000についても述べる。

歴史

ダットサン・スポーツ DC-3(1952年-1954年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 1952年1月、発売。

ダットサン・フェアレディの源流となるロードスターモデル。直列4気筒 860ccのSVエンジンを搭載。

太田祐一によるデザインは、バルクヘッド以前をダットサン・トラックセダンの意匠と揃えている。

北米で成功を収めていた、イギリスMGTシリーズを目標としていたが、ハンドリングや動力性能では、より旧式のJシリーズにも及ばなかった。

1954年、製造終了。50台の少量生産にとどまった。 テンプレート:-

初代 S210型系(1959年-1962年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表

ダットサン・スポーツ1000

S211型

  • 1957年11月 - 自動車展示会でダットサン・スポーツ1000発表。当初は国内販売も計画されていた。
  • 1958年10月 - 東京モーターショーに生産型を出品。ボディーは当時新素材として日本でも流行していたFRP製で、4座のオープンモデルとされた。シャシダットサン・トラック/セダン211型(ブルーバードの前身)のラダーフレームの流用である。エンジンはOHV988ccのC型で、トラック、セダンと同様であるが、ツーバレル式キャブレターの装着で34馬力(25.35kW)/6.59kgm(64.7Nm)を発揮し、最高速度は115km/hと発表された。
  • 1959年6月 - 生産開始。
  • 1960年 - ボディーサイドにめっきモールが配され、モールを境にしたツートーンカラーとなる。前年からの総生産台数はわずか20台で右ハンドル車のみ。ほとんどが1960年モデルとして北米でテスト販売された。

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ダットサン・スポーツ1000(内装・リアビュー)

ダットサン・フェアレデー1200

SPL212 / SPL213型

  • 1960年1月 - 「フェアレデー1200」発表。
    フェアレディの名を冠した(ただし当時の表記は「フェアレデー」であった)最初の車は、このSPL212型である。車名はミュージカルマイ・フェア・レディ」に由来するもので、当時の日産の社長、川又克二が前年に渡米した際、ブロードウェーでの同ミュージカルの観覧で感銘を受けたことからの命名。型式記号はそれぞれ、「S」が「スポーツ」、「P」が「パワーアップ版」、「L」が「レフトハンドドライブ(左ハンドル)」を表す。数字の百の位の「2」は第二世代の意味であるが、この場合はダットサンセダン210型の派生車であることからそれに揃えた型式となっている。十の位は、奇数が乗用、偶数が貨物用(トラックシャーシ流用のバスも偶数)で、「1」と「2」が小型の「ダットサン」、「3」、「4」以上が「ニッサン」となる。ダットサンスポーツの場合は「小型乗用」なので「1」となる。一の位は、「0」を基本型として改良された回数を表しており、SPL212の場合は、2回目のマイナーチェンジモデルということになる。
    この212と次の213は北米専売モデルの扱いであり、左ハンドルのみの生産であったが、日本国内でも少数がそのまま販売された。
    生産性を考慮し、ボディーは一般的なスチール製としたがシャシに大きな変更は無く、4輪リーフリジッドのままであった。なおダットサントラックのフロントサスペンションは、セダンやフェアレデーに先駆けてダブルウイッシュボーンと縦置きトーションバー・スプリングによる独立式となっている。
    エンジンは、ブルーバードにも使われたOHV1,189ccのE型に変更され、ツーバレルキャブレターを装着し、48馬力/8.4kgmの出力を発揮、フロアシフトの4速トランスミッションを介し、最高速度は132km/hと発表された。
    自動車としての洗練度は英国製ライトウエイトスポーツカーに及ばなかったが、これらの改良により市場での競争力は着実に高まっていった。生産台数は288台。
  • 1960年10月 - エンジンは改良されたE1型となり、出力を60馬力/9.3kgmにアップ。当時アメリカの広告での価格は、新世代のシャシを使う310型ブルーバード4ドアセダンの$1,816に対し、$1,996となっている。
  • 1961年 - SPL213登場
  • 1962年 - 生産終了。生産台数は217台。

2代目 S310型系(1962年-1970年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表

高速化を考慮して小径ホイール、低床フレームの採用で低重心化を図り、エンジンも連続高回転運転を考慮したものに変更された。

フェアレディ1500

SP310 / SPL310型

  • 1961年10月 - 東京モーターショーに「ダットサン・フェアレディ1500」として展示。シャ-シダットサン・トラックの流用であるが、前後のサスペンション支持部の間にX型の補強メンバーが追加され一段と剛性が高められた。このメンバーはシルビアを含むS310型系の大きな特徴でもある。
  • 1962年10月 - 輸出用のDATSUN 1500(SPL310)に加え、日本国内向けモデルのフェアレディ1500(SP310)発表。直列4気筒 G型エンジン(71馬力/5,000rpm)を搭載。
    左向きの後部座席が備わる3人乗りであった。
  • 1963年5月 - 「第1回日本グランプリ」国内スポーツカーB2クラス(1,300~2,500cc)にて輸出仕様キャブレターを搭載するフェアレディ1500(田原源一郎がドライブ)が優勝を飾る。
  • 1963年6月 - 日本GPでの活躍を受け、SUツインキャブを装着し出力が80馬力/5,600rpmへ向上。
  • 1964年3月 - レーシングキット発売。
  • 1964年8月 - マイナーチェンジで2シーターに変更。
  • 1965年4月 - 後述する「フェアレディ1600」と入れ替わるかたちで販売終了。

フェアレディ1600

SP311 / SPL311型

  • 1965年5月 - 「フェアレディ1600」(SP311型)発売。直列4気筒OHV1,595cc、R型エンジン(90馬力/6,000rpm)を搭載。1か月前に発売された「シルビア」とエンジン、トランスミッション、シャシなどを同一とした。フロントブレーキがドラムブレーキ(ツーリーディング式)からディスクブレーキに変更され、さらにギアボックスも強化された。
  • 1966年3月 - 「第4回クラブマンレース」(日本グランプリの前座試合)に直列6気筒DOHC1,992cc、B680X型エンジン(190馬力/7,600rpm)を搭載するフェアレディSが参戦し、ポールポジションを獲得したがリタイア(優勝は同じく初参戦のトヨタ・RTX=後の1600GT)。またGT IIクラスでは、フェアレディ1600が優勝を飾る。
  • 1966年5月 - 第3回日本グランプリ予選において、プリンス・R380ポルシェ・カレラ6等の本格レーシングカーに対し、2位に14秒73の大差でポールポジションを獲得。決勝はリタイア。
  • 1966年11月 - 「第2回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GT-I~Vクラスにて「フェアレディ1600」が総合6位、クラス優勝を飾る。
  • 1967年11月 - ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアアウターハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の形状の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。1965年5月から1967年10月までのモデルは「ローウインドスクリーン」、1967年11月以降のものは「ハイウインドスクリーン」と呼ばれ、区別されている。


フェアレディ2000

SR311 / SRL311型

  • 1967年3月 - 「フェアレディ1600」に追加されるかたちで「フェアレディ2000」(SR311型)発売。
    ソレックスキャブレター2基を備えた新設計の直列4気筒SOHC1,982cc、U20型エンジン(145馬力/6,000rpm)と(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社、39頁参照)、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載。発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなり、高性能車としても注目を浴びる(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社、39頁参照)。
    後に「フェアレディ」の完成形と賞賛されるモデルとなる。テレビコマーシャル杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
  • 1967年5月 - 「第4回日本グランプリ」GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
  • 1967年11月 - 上記の「フェアレディ1600」同様、ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアアウターハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の形状の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。1967年3月から同年10月までのモデルは「ローウインドスクリーン」、同年11月以降のものは「ハイウインドスクリーン」と呼ばれ、区別されている。
  • 1968年1月 - 第37回モンテカルロ・ラリーに、カーナンバー66(ハンヌ・ミッコラ / Anssi Jarvi組)と、同じく70(Jorma Lusenius / Vihervaara組)の2台の「ローウインドスクリーン」タイプのワークスSRL311で初出場。カーバッジはDATSUN 2000。FR車は圧倒的に不利と言われるモンテカルロで、カーナンバー66のミッコラ/ヤルヴィ組が総合9位、グループ3クラス3位を獲得する。
  • 1968年5月 - 「'68日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が1-2-3フィニッシュを飾る。
  • 1968年7月 - SP/SRともにソフトトップを持たないハードトップモデルを追加。
  • 1968年8月 - 「第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GTS-IIクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
  • 1968年11月 - ステアリングギアボックス、マフラーワイパーライセンスプレートランプテールランプなどを変更。
  • 1969年1月 - 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79(Raimo Kossila / Pertti Mannonen組)と、同44(Risto Virtapuro / Charles Lindholm組)の2台の「ハイウインドスクリーン」タイプのSRL311でエントリー。
  • 1969年10月 - 「第6回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
  • 1969年 - 後継車種「フェアレディZ」を発表。
  • 1970年 - 生産終了。

関連項目

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外部リンク

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