サーサーン朝

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ササン朝ペルシャから転送)
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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 過去の国 サーサーン朝(サーサーンちょう、テンプレート:Lang-en-shortテンプレート:Lang-fa-short - テンプレート:ラテン翻字226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。

名称

しばしばササン朝ペルシアササン朝ペルシャとも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝かアケメネス朝を指すことが多い。

概要

テンプレート:イランの歴史

サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原パールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル Ērān Šahr と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタン周辺まで及んだ。

特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の国である。

歴史

起源

サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世であるが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられているテンプレート:仮リンクと言う人物が何者であるのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いたという事実は現在までのところ確認されてはいないし、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親テンプレート:仮リンク(パーパクとも)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に納まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として起こすことになる。

アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原の諸国を次々制圧した。同年4月にテンプレート:仮リンクでパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

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降服するウァレリアヌス帝らと騎乗のシャープール1世。ナグシェ・ロスタムの磨崖像より

以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、セウェルス朝との戦争で戦果を挙げた。244年シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたテンプレート:仮リンクなどの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はテンプレート:仮リンクでゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝となったフィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後にヴァレリアヌスが再度サーサーン朝と開戦したが、シャープール1世は260年エデッサの戦いでヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。

王位継承問題と弱体化

ファイル:Tour nagsh-e-rostam iran.jpg
ナグシェ・ロスタムの「ゾロアスターのカアバ」en:Ka'ba-i Zartosht と呼ばれる遺跡。建物自体の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語碑文がある。

シャープール1世が死去すると長男のホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男のバハラーム1世が即位した。バハラーム1世の治世ではシャープール1世の時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大していった。カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除を主張し、マニ教仏教ネストリウス派キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。

バハラーム1世が死去すると、その弟であったナルセ1世と、息子であったバハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継者に指名されていたが、ナルセ1世はこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ戦の敗北などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、その息子バハラーム3世が更に王位に就く。

ナルセ1世はこれに強く反対し、またカルティールなどと敵対する中小の貴族の支援を受けバハラーム3世を排除した。王位についたナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。

統治体制の完成

ファイル:Julian Campaign 363.png
ユリアヌスの東方遠征(363年)。

ナルセ1世の死後、ホルミズド2世の短い治世を経てシャープール2世が即位した。シャープール2世は生まれる前に貴族や聖職者達によって擁立された。ホルミズド2世には多くの息子がいたが、長男は貴族たちによって殺害され、次男、三男は幽閉されて王位から退けられた。そしてまだ生まれてすらいない胎児であったシャープール2世が即位することが決定され、シャープール2世の母親のお腹の上に王冠が戴せられた。こうしてシャープール2世は生まれると同時に即位し、少年時代を通じて貴族達の傀儡として過ごした。しかし、長じるに順って実権を握りサーサーン朝史上最長の在位期間を持つ王となった。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し城壁を破壊。また前王の死後領内に侵入していたアラブ人と戦ってこれを撃退し、アラビア半島の奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年テンプレート:仮リンクで侵攻してきたユリアヌスを戦死させ、アルメニアの支配権を握るなどした。東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。

対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

中間期

ファイル:Taq-e Bostan - High-relief Shapur II and Shapur III.jpg
ターク・イ・ブスタン小洞のシャープール3世(左)とその父シャープール2世(右)の像。像の左上、右上に各々の像主についてパフラヴィー語碑文が書かれている。

シャープール2世の跡を継いで379年に王となったアルダシール2世、続くシャープール3世は短命に終わる。バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラーム4世は彼らを同盟した。

バハラーム4世の死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年テンプレート:仮リンクが開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。

ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命王が続いた後テンプレート:仮リンクが即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったために多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝とテオドシウス朝の間で交渉が持たれたが決裂。422年に戦争(en:Roman–Sassanid War (421–422))に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。

エフタルの脅威

425年、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でのサーサーン朝の勢力を拡大したが、以後エフタルはサーサーン朝の悩みの種となる。428年テンプレート:仮リンクが滅亡し、テンプレート:仮リンクが成立。

バハラーム5世の跡を継いだ息子のテンプレート:仮リンクは、東ローマ帝国テオドシウス2世と紛争(en:Byzantine–Sasanian War of 440)の後、441年に相互不可侵を結んだ。443年テンプレート:仮リンクとの戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、キリスト教徒であったアルメニア人をゾロアスター教に改宗を迫り動乱が発生した。テオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がen:Battle of Avarayrで勝利しキリスト教の煽動者を処刑、支配を固めた。

ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく西暦457年世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとテンプレート:仮リンクは王位を巡って激しく争いペーローズ1世はエフタルの支援を受け帝位に就いた。

458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むテンプレート:仮リンクの王女が夫Varskenに殺害された。エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、テンプレート:仮リンクen:Vakhtang I Gorgasaliがこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はテンプレート:仮リンクを派遣したが、en:Vahan I Mamikonianが蜂起してVakhtang I Gorgasaliに合流。アードゥル・グシュナスプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。

ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れてペーローズ1世は捕虜となり、息子のテンプレート:仮リンクを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(テンプレート:仮リンク)。ペーローズ1世の死後、貴族達によってテンプレート:仮リンク(在位:484年-488年)が推挙され帝位に就いた。485年にはen:Vahan I Mamikonianがサーサーン朝アルメニアのen:Marzbanに即位。

人質に出ていたカワード1世(在位:488年496年498年-531年)がエフタルの庇護の下で帰国すると、バラーシュ1世から帝位を奪った。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位され、テンプレート:仮リンクが皇帝となった。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込んだ。498年、ジャーマースプは抵抗することなく帝位返還に同意、カワード1世が復位した。同年、ネストリウス派の総主教がテンプレート:仮リンクに立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けずにこれを行うことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

502年、カワード1世はエフタルへの貢納の費用を捻出するため東ローマ領へ侵攻し(en:Anastasian War)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars502年628年)の始まりであった。 526年テンプレート:仮リンク526年532年)が、東ローマ帝国テンプレート:仮リンク連合軍との間で行なわれた。 530年Battle of DaraBattle of Satala531年Battle of Callinicum

最盛期

カワード1世の跡を継いだホスロー1世(在位:531年-579年)の治世はサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父帝の政策を継承して大貴族の影響力排除を進め、またマズダク教の活動を抑制して社会秩序を回復、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避のため、軍備費用の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策に力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。

一方、東ローマではキリスト教学の発達に伴って異教的学問の排除が進み、529年には東ローマ帝国ユスティニアヌス1世が非キリスト教的な学校を閉鎖する政策を実施したため、アテネアカデミアが閉鎖された。このために失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも415年ヒュパティアキリスト教徒により異教徒として虐殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命して来ていた。この結果、ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。

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ホスロー1世の狩猟図を描いた銀盤

ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書写され、これらの注釈などのために各種のパフラヴィー語による『ヤシュト』もこの時期に文書化された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献など一連のゾロアスター教資料群の基礎はこの時期に作成されたものを直接の起源としていると現在考えられている。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身となる、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『テンプレート:仮リンク』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。[1]

タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(おもにホスロー2世の時代にかけて)ギリシア語に翻訳されていた古典の天文・医学・自然科学などの諸文献がパフラヴィー語(中期ペルシア語)へ大量に翻訳され宮廷の図書館へ収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・パフラヴィー語訳が作られたという。(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語によるシャトランジの歴史物語『テンプレート:仮リンク』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣テンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-fa、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である。)

5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のテンプレート:仮リンクなどの周辺のアラブ系王朝も傘下に置くようになった。

ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案であったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが588年テンプレート:仮リンクで対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土の拡張は一部に留まった。569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、テンプレート:仮リンクを引き起こすことになった。

滅亡

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600年前後のサーサーン朝周辺

ホスロー1世の死後、息子のテンプレート:仮リンクが即位。590年にクーデターに遭い、両目を潰された後、処刑された。跡を継いでホルミズド4世の息子テンプレート:仮リンクが即位したが、東方でテンプレート:仮リンクの反乱が発生したためホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。ユスティニアヌス朝のマウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧したが、602年に当のユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて攻め(テンプレート:仮リンク)、フォカスは初戦で大勝を収めた。東ローマ帝国では610年ヘラクレイオスがフォカスを倒して皇帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興していた。

連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、ヘラクレイオスは即位直後から劣勢となり、613年にはシリアのダマスクステンプレート:仮リンク、翌614年には聖地エルサレムが陥落し(テンプレート:仮リンク)、このときエルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。

615年テンプレート:仮リンクが始まり、619年テンプレート:仮リンクが起こった。621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアを占領、アケメネス朝の旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴまで逃亡を計ろうとした。

しかし、622年テンプレート:仮リンクでヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応してテンプレート:仮リンクも起こったが、コンスタンティノポリスでは撃退される(テンプレート:仮リンク)。

627年、ヘラクレイオスの親卒する東ローマ軍がクテシフォン近郊へ侵攻(テンプレート:仮リンク)、ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、クテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のテンプレート:仮リンクに裏切られ殺された。

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テンプレート:仮リンクを屈服させるヘラクレイオス1世。(十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半)

カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なくして病死。王位継承の内戦が発生した。長期に渡る混乱の末、29代目で最後の王となるヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラフラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗していた。

アラビア半島に勃興したイスラム共同体が勢力を拡大、東ローマ領に続きサーサーン領へ侵入し始める。633年ハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻。現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。その後、ハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた[2]。しかし、アブー・バクルの死によるカリフの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年テンプレート:仮リンクで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は陥落前に逃亡、サーサーン朝の領国では飢饉や疫病が蔓延していたという。クテシフォンの北東にあったジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。

641年にヤズデギルド3世はテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクエスファハーンハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対してウマルも軍営都市のバスラクーファから軍勢を招集する。642年ニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。敗戦後エスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。再起を計って東方へ逃れケルマーンスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなりホラーサーンメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方のの助勢を求め、自らが首都の長安まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。

サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラーム共同体が世界帝国へ発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。

後世への影響

後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などのイスラム帝国に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派の第3代イマームフサインの妻の一人となり、第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンの生母となった、といったものやサファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。

特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝マーザンダラーンテンプレート:仮リンクBawandids8世紀-1349年)などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したイスラームの預言者ムハンマドの一族であるハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。

自国史の編纂

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公正なるヌーシルラワーンことホスロー1世が大臣ブズルグミフルのために宴席を設ける。(イルハン朝時代の『シャー・ナーメ』の1写本。1330年作成)

サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーアラビア語で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群やマニ教文書、パフラヴィー語による行政文書などの史料群、パフラヴィー語シリア語ギリシア語ラテン語などの年代記、通貨などにより歴史や実態、文化などが研究されている。

パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝の草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、本来古代のイラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官(マギ)などが口伝によって代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代からこの世の至上の君主であるサーサーン朝の君主の許で、世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、ゾロアスター教文献などもパフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字などを作り出す事によって文字化する契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)と呼ばれる歴史書が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代のフェルドウスィーなどが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。

そのため、現在のイラン民族にとって、アケメネス朝ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝時代については失伝、パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する中期ペルシア語、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリアやイラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、テンプレート:仮リンクを題材にしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。

文化

サーサーン朝で育まれた行政組織や文化は後のイスラム時代にも多大な影響を残した。

宗教的特徴とマニ教の成立

サーサーン朝時代は、西からキリスト教、東から仏教が伝来。サーサーン朝はインドクシャーナローマ中国突厥など当時の大国と係わりがあり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。ゾロアスター教は、キリスト教の東方への浸透と、仏教の西方への浸透を阻む役割を果たした。

銀貨

サーサーンで鋳造された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決裁用の基軸通貨として尊重された。

手工芸

ガラス器や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、正倉院に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。

料理

テンプレート:仮リンクの時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後もアッバース朝イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、ケバブブドウの葉のドルマが含まれている[3]

年表

歴代君主

ファイル:Sasanids.png
サーサーン朝系図

歴代君主の称号はシャーハンシャー(諸王の王)である。

  1. アルダシール1世224年-241年
  2. シャープール1世 (241年-272年
  3. ホルミズド1世 (272年-273年
  4. バハラーム1世 (273年-276年
  5. バハラーム2世 (276年-293年
  6. バハラーム3世 (293年)
  7. ナルセ1世293年-302年)
  8. ホルミズド2世302年-309年)
  9. テンプレート:仮リンク309年
  10. シャープール2世 (309年-379年)
  11. アルダシール2世379年-383年)
  12. シャープール3世383年-388年)
  13. バハラーム4世388年-399年)
  14. ヤズデギルド1世399年-420年)
  15. テンプレート:仮リンク420年-438年)
  16. テンプレート:仮リンク438年-457年)
  17. テンプレート:仮リンク457年-459年)
  18. テンプレート:仮リンク459年-484年)
  19. テンプレート:仮リンク484年-488年)
  20. テンプレート:仮リンク488年-497年、復位:499年-531年
  21. テンプレート:仮リンク (497年-499年
  22. ホスロー1世 (531年-579年
  23. テンプレート:仮リンク (579年-590年
  24. テンプレート:仮リンク (590年-628年
  25. テンプレート:仮リンク (628年)
  26. テンプレート:仮リンク (628年-630年
  27. テンプレート:仮リンク (630年-631年、女帝)
  28. テンプレート:仮リンク
  29. テンプレート:仮リンク
  30. テンプレート:仮リンク (631年-632年、女帝)
  31. ヤズデギルド3世 (632年-651年

参考文献

  1. ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』(山本啓二 訳)勁草書房, 2002/12/20.
  2. 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47
  3. Arthur Christensen. Contes persans en langue populaire. Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918.

関連項目

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