シーア派

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イスラム教宗派の分布図
黄緑:スンナ派
緑:シーア派

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シーア派アラビア語الشيعةラテン文字転写:ash-Shī‘ah)は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。

イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

「シーア」とは

シーアは、アラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーア派の人々が、「アリー派」((شيعة علي、Shī‘ah ‘Alī), と呼ばれたことに由来している。のちには、シーアに単に定冠詞を付したアッ=シーアという語で同派を意味するようになり、宗派の名称として定着した。シーアに属する人のことをシーイー(شيعي、Shī‘ī)といい、スンナ派信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり厳密に言えば同一語の繰り返しである。

信徒分布

シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定される。[1][2][3][4]2009年には、信徒数は約2億人と推定される.[2]。信徒は世界中に分布するが、イランイラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし〔レバノン内戦参照〕だが、人口の半数以上を超えているといわれる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)[5]パキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーンアフガニスタンハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。

シーア派内の宗派では、十二イマーム派はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派(七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。テンプレート:仮リンク(五イマーム派)はイエメンで主流である。

シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンニ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンニ派であった。ただし、現在のイラン・アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝十二イマーム派を国教とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗しそのまま根付いたためである。

教義

アリーの子孫のみがイマームとしてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンニ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンニ派とは異なる教義を発展させていった。

歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーとフサイン)を襲った悲劇の追体験(アーシューラー)、イマームは神によって隠されており(ガイバ)、やがてはマフディー救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものである(ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する)。

スンニ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンニ派に比べ一般に広く行われている。一時婚があるため、一定の条件を満たせば、恋人同士の婚前交渉が認められる。

しばしばスンニ派と比べて過激派だと言われることがあるが、逆に穏健派だと言われることもある。同様に原理主義的だと言われることも原理主義と相容れないと言われることもある。シーア派の実態は分派、学派、時代、地域によって様々であり(スンニ派も同様)、その政治的・宗教的姿勢を一概に言うことはできない。

イランにおいては、フサインサーサーン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国の血を受け継いでいるという伝承があり、ペルシア人の民族宗教としての側面もある。

聖地

すべてのムスリムの聖地であるマッカマディーナエルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマインバグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代の霊廟があり、ここも聖地となっている。

霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。イル・ハン国時代にはイラクのヒッラが、その後19世紀中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、1843年オスマン帝国がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、20世紀前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランのゴム (イラン)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。

歴史

ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのはアブー・バクルであり、以後ウマル・イブン・ハッターブウスマーン・イブン・アッファーンと継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、656年に第4代正統カリフとなった。しかし、ウスマーンが属していたウマイヤ家ムアーウィヤがこれに反対し、激しい抗争の末アリーは661年ハワーリジュ派の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位についてウマイヤ朝を開いた。アリーの子ハサン・イブン・アリーはムアーウィヤと和平を結んだものの、669年にハサンが死亡し、680年にムアーウィヤも死亡すると、ハサンのあとを継いだ弟のフサインがクーファのシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインはカルバラーの戦いによって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンニ派と決定的に決別することとなった。

分派

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シーア派主要分派の系統

シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派イスマーイール派テンプレート:仮リンクなどがある。十二イマーム派はイランイラクレバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。

十二イマーム派

シーア派の多数派である十二イマーム派は、その名のとおり初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人をイマームとする派である。874年に12代イマームが人々の前から姿を消し、ガイバ (イスラム教)(隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、最後の審判の日に再臨すると考えられている。なお、874年から940年までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ。

イスマーイール派

イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインドパキスタンホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。

ザイド派

テンプレート:仮リンクは十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。

そのほかの分派やイスラムからの分離

シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義をもつにいたった分派も存在し、系統不明のアラウィー派イスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教バーブ派)やバハーイー教バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。

シーア派の分派

関連項目

参考文献

  • 桜井啓子 『シーア派 ――台頭するイスラーム少数派』(中公新書、2006年)

外部リンク

脚注

  1. テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite book
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web