日本の電気式気動車
電気式気動車(でんきしききどうしゃ)は、自車に搭載したディーゼルエンジン等の内燃機関で発電機を駆動し、その発生電力で台車の電動機を駆動して走行する気動車である。「ガス・エレクトリック」、あるいは、「ディーゼル・エレクトリック方式」とも呼ばれる。
日本の鉄道は狭軌が主体で、線路や路盤も脆弱であったことから、重量が大きくなりがちな電気式気動車の導入には不利で、その類例はきわめて少なく、1950年代までで廃れていた。しかし、近年の技術開発によりハイブリッド型気動車という新しい形態で復活し、再認識されるようになっている[1]。
目次
機械式気動車の問題
日本の気動車は、1920年代に登場して以来、ローカル線の小規模輸送を中心に使用されてきた。
このため、複数車輛の連結運転に必要とされる総括制御(リモートコントロール)技術はそれほど必要とされず、変速装置には総括制御不能だが構造が簡易で済む「機械式」[2]が用いられた。
機械式気動車で2両編成以上を組む場合は、各車両に運転士を一人ずつ乗せ、先頭車運転士が鳴らす汽笛に合わせて、後続車運転士が変速やスロットル操作を行っていた。タイミングを合わせるのが大変難しいため、3両編成程度[3]が実用の限界だった。このような運転方法では高速運転も輸送力のある長大編成運転も困難であるし、1両ごとに運転士が一人ずつ必要になるため、気動車本来のメリットである合理化にも逆行するものであった。
戦前の電気式気動車
エンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動して走行する「電気式(発電式)」気動車・ディーゼル機関車は、欧米で1920年代から登場し、高速列車の分野でも成績を収めていた(ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガーなど)。この方式は基本的にエンジンの回転数調節だけで速度調節ができ、総括制御も簡単だった。
欧米での成功に刺激されて、第二次世界大戦前の日本でも以下のような試みが行われている[4]。
鉄道省キハニ36450形
テンプレート:Main 鉄道省が1930年(昭和5年)にキハニ36450・キハニ36451の2両を試作した20m級の大型ガソリンカーで、日本初の電気式気動車である。1920年代にアメリカの鉄道に出現していた、「ガス・エレクトリック」もしくは「ドゥードゥルバグ」と呼ばれた電気式ガソリンカーを国鉄流に模したものであった(ただし、ドゥードゥルバグは機械式気動車の場合もある)。
片側の運転台直後を機関室として、その床上に艦船向けの発電用エンジンを転用した池貝製作所製の直列6気筒、排気量24.376l、連続定格出力200HP/1250rpmのガソリンエンジンを搭載して、芝浦製作所製の135kW/750Vの発電機を直結駆動、その発生電力で、客室側の2軸ボギー台車(TR14類似のこの形式専用のもの)に装備した三菱電機製 80kW/600VのMT26モーター2個を駆動するシステムである。機関室側の付随台車は3軸ボギー式(TR72類似の専用のもの)で5kW電動機での強制通風ラジエーターを屋上装備するなど、極めて独特な外見の車両であった。機械室には暖房用に小型ボイラーを据え付け、荷重1tの荷物室を持つなどフル装備であった。
キハニ36450が日本車輌製造で、キハニ36451が川崎車輛でそれぞれ製造され、1931年から東海道・北陸線の彦根-長浜間区間列車として運転を開始し、これにあわせて、この区間内に2両編成分の長さのホームを持つ坂田と田村の2駅が新設された。また、1936年には木造電車改造の制御車(キクハ16800形)と編成を組み、総括制御を実現している。
本形式は故障こそ少なかったものの、電気式であることによる重量増に加え、製作費を抑える関係で車体に客車用の部品を流用したり、外板厚も当時の電車と同じ2.6mmとしたため、自重が49.1t、運転整備重量が50tときわめて重いものとなっていた。結果、性能は平坦線では75km/h(キクハ牽引で68km/h)、12.5‰の勾配で40km/h(同26km/h)と(キハニ5000の平坦線での55km/hよりは高いものの)十分といえるものではなく、重軸重(付随台車で10.159 - 10.439t)であったこともあり、ローカル線での使用という本来の目的を達することはできなかった。
結局、鉄道省は一時電気式をやめ、機械式の軽量ガソリンカー(キハ41000形など)の開発に重点を置くようになる。
本形式は電車に改造される計画もあったが、太平洋戦争中に走行休止となり、動力系を撤去して国鉄工場職員の短距離通勤輸送の客車代用や大井工場事務室代用に用いられた時期もあったが1949年に廃車、のち解体された。なお、2軸台車が北陸鉄道ED301に、モーターが東武鉄道日光軌道線ED611に転用された。
満鉄ジテ1形
日本の資本・技術によって運営されていた南満洲鉄道(満鉄)が、1935年に名古屋の日本車輌製造本店で製作した電気式流線型ディーゼル列車である。ジテは編成中の手荷物重油動車の形式であるが、編成を指した通称としても用いられている。同社はこれ以前から主として機械式の気動車を導入しており、電気式気動車としては1931年に重油動車ジハ1形2両と監査用ガソリン動車スペキ1形1両を自社工場において製作・使用した実績があった。
編成一端の手荷物重油動車床上に中速型の500HP級ディーゼル発電機を搭載し、編成の両端台車に駆動用モーターを装架したもので総括制御可能、客車は連接構造であった。ジテ1+ロハフ1+ハフ1+ハフセ1の4両で編成され、合計6編成が製造された。4編成はスイス・スルザー (Sulzer) 社の6VL25型予燃焼室式エンジン、2編成は新潟鐵工所のK6D型直噴式エンジンを搭載した。カタログスペックはほぼ同等だったが、新潟製は約3割重量が重く、スルザーの方が実際の成績も良かったようである。
総重量に比して低出力ではあったが、平坦で駅間距離の長い満鉄線では致命的な問題とはならなかった。大連近郊の近距離・中距離普通列車に用いられた。設計時よりハフセを省いて2編成を連結する配慮(この運用法の場合はジテの従台車をハフセの動力台車と交換して出力を維持した)がされており、1943年にはこの編成でノンストップ高速試験運転を行って奉天 - 新京間 (304.8km) を2時間58分で走破した。
本形式は中華人民共和国成立後、他の満鉄動車とともに電車に改造されて撫順炭鉱の通勤列車に転用された。現在も時折運転される。
相模鉄道キハ1000形
日本の私鉄史上唯一の電気式気動車であり、戦前の私鉄では数少なかったディーゼル動車の一つである。現在のJR相模線を経営していた当時の相模鉄道が汽車製造会社東京支店との共同で1935年に開発した。
側面から見ると「完全な台形」の奇抜な形状を持つ13m級2ドアの小型気動車で、床下にはドイツ・ユンカース社の水平型120HPディーゼルエンジン(5-4TV形、2ストロークユニフロータイプ)を搭載。342V・70kWの発電機を駆動し、発生電力で永久直列に配線された52kW主電動機2個を駆動した(電装部品は東洋電機製造製)。総括制御可能である。
ユニークなのは抵抗器を車載して強力な発電ブレーキを常用していたことで、なおかつその廃熱を車内暖房にも利用するというアイデアを日本で初採用している。この抵抗器暖房のアイデアは1950年代に一部私鉄電車で再び用いられたが(当の相鉄でも試用された)、発熱量の調整が難しく、すぐに廃れた。
この形式は小形軽量化構造の車体で自重17.5tと大きさの割に高出力で俊足でもあり、非常に優秀な成績を上げた。キハ4両のほか1938年に付随車サハ1100形1両も増備され、2 - 3両編成を組んで鉄道省横浜線八王子駅へ乗り入れた実績もある。
旧・相模鉄道は1944年に運輸通信省により戦時買収を受け、国鉄相模線となるがキハ4両は買収対象にならず、前年の1943年に合併していた旧・神中鉄道(現在の相鉄本線)の区間へ転属した。サハについては書類上省籍を得ているが実車はキハ同様転属したとされる。戦中・戦後の混乱期に直流600V電化区間用の電車に改造されたが、時期は諸説ある。東京急行電鉄経営委託期間に同線の架線電圧が全線直流1,500Vに昇圧されたため、当時直流600V電化であった東横線に転属した。新車割当の代替供出として1948年に日立電鉄(2005年廃止)に譲渡され、改装を受けつつ長く使用されたが、1997年までに廃車となった。
鉄道省キハ43000形
テンプレート:Main 鉄道省が、アメリカやドイツの電気式気動車による高速列車に刺激を受け、1937年にキハ43000形キハ43000・キハ43001、キサハ43500形キサハ43500の合計3両を試作した流線型気動車。メーカーは神戸の川崎車輌である。
流麗な車体形状の3両編成で、水平シリンダー形の240PSディーゼルエンジン「DMF31H形」を床下搭載した20m級車のキハ43000形が、17m級付随車のキサハ43500形を挟み込む構成である。エンジンは新潟鐵工所、池貝鐵工所、三菱重工業が各1台製造したうちからキハに各1台を搭載し、交換して試験を行った。キハにはキハニ36450形と同様のMT26を主電動機として一方の台車に2基ずつ吊り掛け駆動方式で装架・駆動していた。鉄道省では幹線の都市間連絡列車に用いることを想定していたといわれる。
本形式は総括制御可能であるのみならず、常に3両編成で運転することを前提に設計されていた。小型の自動式重油ボイラーをキサハ43500に搭載し、3両すべての暖房をまかなう構造だったのである。またキサハには、国鉄の制式気動車としては初設置となるトイレも設けられていた。
意欲作であったが、当時としては大型のエンジンに部品破損などのトラブルが頻出して十分な成績を収められず、量産はされなかった。ほどなく戦時体制下に入り、燃料供給にも問題が生じたため、走行休止となった。
本形式は1945年、浜松工場で米軍機の爆撃により被災し、キハ43000形2両が復旧しないまま廃車された。キサハ43500形のみ電車・気動車の付随車として戦後も飯田線・関西線で使用されたが、1960年代に廃車された。
このように太平洋戦争以前、まとまった両数の電気式気動車を営業運転に供したのは、南満洲鉄道と相模鉄道だけであった。
1938年以降の戦時体制下では燃料不足によって気動車そのものの運行が困難となり、電気式気動車の開発も十分な成果を見ないままに頓挫した。
しかしこの間にもディーゼルエンジンの研究は進められており、1935年から開発が行われた鉄道省の気動車用150ps級ディーゼルエンジンは、1942年に設計を完了している。このエンジンは、のちにDMH17形と呼ばれることになる。
国鉄における戦後の展開
戦後も燃料事情の悪さから気動車の活用はままならなかったが、これが改善された1950年以降、戦前の気動車の再生措置や、新規の気動車製造が、本格的に開始される。だがこれらはすべて機械式気動車であった。
日本国有鉄道は1950年に80系電車を開発して東海道本線に投入、従来機関車牽引の客車列車が主力であった中・長距離列車の分野について、電車で代替できることを証明した。電車に代表される動力分散方式は、加減速性能や線路への悪影響の少なさで、機関車方式より有利であり、80系電車は戦後の国鉄近代化の尖兵となった。
しかし、当時の日本では鉄道の電化区間自体が少なく、多くの路線は主要幹線も含め、維持と運行に経費のかかる蒸気機関車がほとんどすべての列車を牽引していた。このような非電化路線の近代化には、ディーゼル動力の採用が不可欠だった。
蒸気機関車を排除してディーゼル動力に切り替える「無煙化」は、乗客・乗員や沿線への煙害を無くすとともに、列車速度の向上、エネルギー効率の改善、保守・点検の効率化等、鉄道の抜本的な体質改善に寄与するものである。
だが1950年代初頭の日本では、鉄道用ディーゼルエンジン技術が十分な発達を見ていなかった。ことに大型蒸気機関車を代替できるような大型ディーゼル機関車の開発は、大出力エンジンの開発困難によって阻害されており、本格的な大出力機関車は1960年代まで出現しなかった。
相前後して、1936年から1940年にかけて試験途上に在った気動車用液体式変速機の実用化開発が1951年以降台上試験から再開され、同年からキハ42500形に搭載しての実用化試験が開始されていた。
液体式のレイアウト自体は機械式気動車の変速機のみをトルクコンバータ動力伝達に置き換えたような構造である。絶対的な動力伝達効率は電気式に劣るものの、低出力車の場合は電気式より低コストかつ軽量に仕上がり、総合的には効率が良い。総括制御についても、戦前の鉄道省時代、既に液体式変速機開発と並行して専用の電磁遠隔制御システムが開発されており、この面での障害もなかった。
このため、国鉄工作局動力車課の技術陣は液体式を戦後形気動車システムの本命と考えて開発を進めており、実用化目標を1952年中と計画していたが、実際には計画どおりに行かず、1951年から1952年にかけての試験でトラブルが続いており、速やかに量産化して実用投入できる状態になかった。
一方で気動車用のディーゼルエンジンとしては、DMH17形 (150ps/1500rpm) が1951年より量産され、機械式気動車に搭載されて好成績を収めていた。既に使えるエンジンがあるという情勢下、国鉄上層部では、総括制御可能な編成運転のできる気動車の早急な実用化を、気動車開発陣に強く要求した。
やむなく動力車課では、液体式が使用可能になるまでの「当座の実用になる総括制御気動車」として、DMH17系エンジンを利用し、開発が比較的容易な電気式気動車、それも比較的簡略なシステムのモデルを先行製作することを決定した。その産物がキハ44000形気動車である[5]。
当時の開発担当者であった北畠顕正は晩年のインタビューで44000形の開発について「電気式を実用化させようとは思っていなかった」「総括制御気動車を求める上層部へのポーズのために作った車両」とまで語っている[6]。
かつて日本の気動車の歴史では、1950年代初頭の時点で国鉄によって電気式と液体式が比較され、液体式の優位性が実証されたためこちらが採用された、という理解が為されてきたが、北畠証言が事実であれば、国鉄は戦後の総括制御気動車開発の再開時点で、既に電気式気動車の将来性に見切りを付けていたと解するべきであろう。
国鉄キハ44000形
試作車
電気式気動車の試作車として1952年にキハ44000 - キハ44003の4両が製作された。1両では営業運転できない片運転台車であり、2両以上で総括制御を行うことを前提とした設計である。
外観
片運転台、ステップ付片開き3扉構成の20m級鋼製車である。
非電化区間における80系電車的なスタンスで設計されただけに、正面形状は80系電車に酷似した2枚窓の「湘南形」であるが、運転台直後ドアのステップから前面全周までスカートもどきに外板が回り込んでおり、この「顎」から連結器やジャンパ栓が飛び出していて、やや面長な容貌であった。のちにこれらの初期試作車4両は「顎」の部分を切り落としている。
軽量化のため、車幅は通常の国鉄車両より20cm近く狭い2.6m級で、屋根も浅い。これはそれ以前の気動車と同様で、軽量化技術が未発達だった時期のやむを得ない重量削減策であった。
側窓は同時期の80系電車に類似した1段上昇式で、窓下にはウインドウシル(補強帯)が通されている。
車内設備
車内は車幅が狭いためあまりゆとりはなかった。座席は軽量化のため、華奢な骨組みにビニール生地を張った粗末なもので、座り心地は良くなかったという。また暖房装置も戦前形気動車同様に、ヒートエクスチェンジャーによる排気ガスの廃熱を利用した簡易なもので、十分な暖房性能は得られなかった。
台車
台車は新開発の軽量台車であるDT18である。プレスした鋼板部材を溶接して組み立てる近代的な構造で、軸ばねも先進的なウイングばねであった。
しかし、本来十分な柔らかさが必要な枕ばねに、軽量化・単純化のため防震ゴムブロックを採用した。そのあまりの硬さに、乗り心地は惨憺たるものとなった。特に軸ばねの機能が殺されてしまう両抱き式の基礎ブレーキが作動した際の振動はすさまじかったという。
このゴムブロックによる枕ばねは、後続の液体式気動車用台車であるDT19でも無批判に踏襲され、欠陥もそのまま引き継がれてしまった。
動力装置・駆動装置
車体中央にはステップや戸袋を持つ中央扉があり、強度面で不利なため、車体中央から運転台側に寄った床下に重量のある発電セットを搭載している。DMH17A ディーゼルエンジン (150ps/1500rpm) で直結したDM42直流発電機(300V・100kW)を駆動し、発生した電力で後位側台車に架装したMT45主電動機(45kW)2基を駆動した。
このMT45は、日本初の量産型カルダン駆動方式主電動機である(直角カルダン駆動方式)[7]。
当時カルダン駆動電車は、私鉄各社でも開発途上であり、「『電車』ですらない」キハ44000形への採用は、通常では考えられない異例の措置であった。この背景には、試作車としての技術試験の意味合いと、軽量化の一手段としての面があったと推定される。
なお、国鉄はその後の在来線電車では中空軸平行カルダン駆動を標準とし、標準軌間の新幹線ではWN駆動方式を採用したので、直角カルダン方式に対応する国鉄制式モーターはMT45が唯一である。
制御システムは「ゲブス式」と呼ばれる比較的簡易化された方式である。エンジン回転は、力行時1,500rpmの最大連続定格、アイドリング時500rpmでそれぞれ一定とし、高速走行時には主電動機の弱め界磁制御も行う。これら一切は電磁弁で遠隔操作が可能であるため、総括制御が実現された。
なお、キハ44000形とその派生形の電気式気動車、そして同時並行で開発された液体式試作車キハ44500形は、在来の機械式気動車同様に排気ガスがすべて床下排気方式で、古い形態を残している。また連結器も、キハ17形以降で標準となる小型の密着自動式ではなく、軽量型ではあったが並形の自動連結器であった。もっとも、これは日本製鋼所による一連の密着自動連結器開発が未成の時期[8]の計画であったことによるもので、過渡期の車両らしい特徴である。
増備形
キハ44000形試作車は川越線等で試験運転され、一定の成績を収めた。
この結果をもとに、翌1953年、キハ44004 - キハ44014の11両が増備された。基本は試作形に準じているが、鈍重な印象を与える「顎」が廃され、同時に側窓が当時のバスで流行していた「バス窓」となった。これは上段窓をH断面のゴムで支持した固定式とし、下段を上昇式とした、2段窓の一種である。採光と車体強度確保両立の一手段であるが、キハ44000形の場合は強度確保よりも当時の流行に合わせたという感が強い。結果、デザインは大いに軽快になった。
キハ44000形は当初、主に房総地区の路線で2・4両編成を組んで普通列車に使用された。
国鉄キハ44100形・キハ44200形
キハ44000形増備形の兄弟形式と言うべきグループである。1953年(昭和28年)に3両編成5本15両が製造された。
キハ44100形・キハ44200形の外観・性能は、44000形増備車と共通のバス窓タイプだが、中央扉を廃して2扉車となっており、3扉構造のキハ44000形よりも車体強度と重量の面で有利になっている。なお、2扉・バス窓という形態は、後の45000系液体式気動車に引き継がれている。
中央扉に付随するステップと戸袋が廃されたことで台枠の切り欠きも不要となり、強度や艤装上の制約が減ったことを活かし、キハ44000形ではエンジンと発電機を運転台側扉と中央扉間の床下にずらして搭載していたのに対し、キハ44100形・キハ44200形では前後ボギー台車の中間に配置して、重量バランスを改善している。
キハ44200形は基本的にキハ44100形と同形だが運転台の無い中間車に便所を設置しており、水タンクは通路をはさんだ反対側の床上配置とした。
キハ44100+キハ44200+キハ44100という、cM-M-Mcの3両固定編成を組み、登場当初、鹿児島本線の門司港駅 - 久留米駅間で主に快速列車に用いられた。
電気式気動車のその後
電気式は総括制御が容易という長所はあったが、低出力エンジンと効率の低い直流発電機の組み合わせでは、十分な性能は期待できなかった。これは150psで30t超級のキハ44000系にも当てはまる弱点であった。急勾配にも弱く、当初重点配備された房総地区においては、房総東線(現・外房線)大網駅 - 土気駅間の上り勾配において時速が 10 キロメートルを下回り、多客時には自然に停車してしまうことすらあったという[9]。また中央から遠く離れた非電化地域で、地元の国鉄工場に電車技術に関するノウハウのなかった九州では[10]、キハ44100形・キハ44200形の主電動機など電装系のメンテナンスに難渋をきたすという、意外な面からの障害もあった[11]。
エンジンやモーターの出力が低かったこともあるが、キハ44000系グループ自体、開発陣にとっては「液体式実用化までのつなぎの形式」として政策的理由から急造した存在に過ぎず、開発過程自体が消極的であったことも、芳しからざる成績の背景であったとも言える。
一方、本命たる液体式変速機開発での変速機油漏れやクラッチ滑りなどの問題は1952年中に解決し、1952年12月には既に戦前に開発済みであった液体式気動車用総括制御システムを用いて、試作変速機を装備したキハ42500形での2両連結運転試験が成功していた。
こうして1953年3月、キハ44000系の後を追うように、キハ44000形増備車と同スタイルの液体式試作気動車キハ44500形が竣工、試運転に供され、実用水準に達したことが実証された。その結果を受け、1953年後半からはキハ45000系(のちのキハ10系)が液体式気動車の量産形式として大量に増備されるに至った。
少数派となったキハ44000系電気式気動車は、のち液体式化されるなどして以下のような経緯をたどり、最終的にはキハ10系液体式気動車の傍系グループに吸収されることになる。
これらの液体式化改造の際に、台車をDT19に換装したものと、DT18からモーターをおろし、逆転器を装備して流用したものとがある。またエンジンも、DMH17B (160ps) かDMH17C (180ps) となり、連結器も密着自動式に交換された。
キハ44000形(15両)
1957年4月の気動車形式称号改正によりキハ09形(初代)キハ09 1 - キハ09 15となるが、同年から翌1958年にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室とした合造車に改造して、キハユニ15形キハユニ15 1- キハユニ15 15となった。
1、4、11、14の4両は、後に運転台側を貫通型に改造している。
キハ44100形(10両)
1956年末から1957年初頭にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室に改造して、キハユニ44100形キハユニ44100 - キハユニ44109となった。
1957年4月の称号改正でキハユニ16形キハユニ16 1 - キハユニ16 10に改番された。キハユニ16 3は後に貫通型に改造された。キハユニ16 4は1971年にキハユニ16 601に再改造され、アコーディオンカーテンを車内に設けて簡易荷物室部分を拡大した。
1、5、6、9の4両は、1965年と1970年の2度にわたり再改造され、客室を廃した郵便荷物車キユニ16形キハユニ16 1 - キハユニ16 3、キハユニ16 10となった。
- キユニ16形キユニ16 1・キユニ16 2(元キハユニ16形キハユニ16 1・キハユニ16 2) 1965年改造。前半分を郵便室、後部を荷物室とし、便所を設置。
- キユニ16形キユニ16 3(元キハユニ16形キハユニ16 6) 1970年改造。便所付だが1・2とは郵便室・荷物室の配置が逆。
- キユニ16形キユニ16 10(元キハユニ16形キハユニ16 10) 1965年改造。1・2に準ずるが便所はない。
キハ44200形(5両)
1956年から1957年にかけて中間車のまま液体式化された。1957年4月の称号改正でキハ19形キハ19 1 - キハ19 5となった。
1964年には常磐線の荷物輸送に充当する目的で、キハ19 1・キハ19 3 - キハ19 5が片運転台全室荷物車のキニ16形キニ16 1 - キニ16 4に改造された。しかし、電化路線で列車密度の高い常磐線では、停車頻度の多い荷物列車運用へ充当するには、非力なDMH17C 180ps級エンジンを1基搭載するのみの、この時期に一般的であった仕様の気動車では明らかに性能不足であった。そこで、4両は直ちに2エンジン搭載のキニ55形が改造・投入されて本形式は運用を外れ、翌1965年には4両すべてが郵便荷物合造車のキユニ19形キユニ19 1 - キユニ19 4に再々改造されて、房総地区に転用された。
唯1両残ったキハ19 2は、1966年にキニ19形キニ19 1に改造され、四国で使用された。キニ16形とは、後位側への事務室新設などの差異がある。
これらの元電気式気動車30両は、1970年代に入ると老朽廃車が始まり、1980年までにすべて廃車された。
電気式の将来(ハイブリッド気動車)
東日本旅客鉄道(JR東日本)は鉄道総合技術研究所(JR総研)と共同で2003年(平成15年)、シリーズ方式ハイブリッド気動車キヤE991形を試作した。「NEトレイン」と称する[12]。
システム的には電気式気動車に回生電力吸収用の蓄電池を設けた構造であり、日本における半世紀ぶりの電気式気動車とも言える。
ブレーキ時にはモーターから回生させた電力を蓄電池に充電する。発進・加速時や登坂時には蓄電池の電力を併用することでエンジンの負荷を抑え、燃費節減や排気ガス削減を図っている。従来の気動車では不可能だった「走行エネルギーの回収・再利用」を実現したという点では画期的な車両である。
蓄電池は容量 10 kWh(当初)のものを屋根上に搭載し、マンガン系の正極を使ったリチウムイオン二次電池を採用したことも特徴である。発電用エンジンは出力 331 kW / 2100 rpm の国際的な鉄道の排ガス規制に対応したもので、発電機は 180 kW の3相誘導発電機 DM927 である。電機品はE231系のものをベースにした日立製作所製であり、主電動機は MT73 に電圧変更対応を施した 95 kW の MT936 、主変換装置もE231系のVVVFインバータ制御装置をベースに DC 340 V のインバータ・コンバータとした CT905 で、ここの制御装置部が蓄電池、エンジンも制御するハイブリッドシステム統括制御装置となっている。台車は軽量ボルスタレス式空気ばね台車のDT959/TR918 で、これもE231系のものをベースとしている。
基本的には駅停車時や低速走行時にはエンジンを極力停止させることとし(サービス電源は蓄電池から供給)、蓄電池で発車後 25 km/h でエンジンが始動する。この時はエンジンは最高効率域での発電となり、蓄電池からの電力も併せて使用するが、長い上り坂などではエンジンを最高出力で発電させ、エンジン発電のみで走行する。ブレーキは回生・発電併用電気指令式空気ブレーキで、回生時は主電動機の発電で蓄電池を充電するが、抑速時はエンジンの排気ブレーキも使用される。
エネルギー消費については、自動車のハイブリッド車同様、長い勾配がある線区では重量が重いためかえって燃費が悪くなる場合があり、その経済性は運用線区・運行条件により相当に変化すると見られる。
キヤE991形は、小型高出力ディーゼルエンジン、ステンレス製の軽量車体、効率的なパワーエレクトロニクスという有利な条件を具備しており、将来性を期待しうる車両であり、将来の燃料電池導入もシリーズ式採用の理由の一つになっており、実際2006年7月以降水素燃料による燃料電池(65 kW×2台)を搭載して試験を実施する予定である[13]。
キヤE991形による試験の後、JR東日本によって世界初の営業用ハイブリッド気動車キハE200形が製造されることになり、2007年夏より小海線に3両を投入し、営業運転しながら長期試験を行っている[14]。
これらとE231系電車の開発・導入によって、JR東日本は「省エネ車両の継続的導入と世界初のハイブリッド鉄道車両の開発・導入」という理由により、第16回地球環境大賞の文部科学大臣賞を受賞した。
2010年には観光用車両としてHB-E300系が量産・投入されている。
また、2016年春以降運行開始予定のクルーズトレインにおいて、電化区間では架線集電、非電化区間ではエンジン発電機の電力でモーターを駆動する(かつての電気式気動車と同じ)という方式を導入することが発表されている[15]。
一方、2007年10月、北海道旅客鉄道(JR北海道)はモーターアシスト方式ハイブリッド気動車[16]の試作車として、同社のキハ160形気動車を改造した。
長時間の駅停車時や低速走行時にはエンジンを停止させ、蓄電池での発進後、45 km/h でエンジンが始動する。エンジン始動後の力行は、モーターとエンジン両方の動力によって行い、惰行中はエンジンでモーターを回して発電、制動時はエンジンを止めてアシストモーターによって回生、それぞれ発生した電力を蓄電池に充電する。サービス電源は蓄電池から供給され、容量が低下した場合は自動的にエンジンが始動し、充電を行う。こちらも、今までの気動車では不可能であった「走行エネルギーの回収・再利用」を実現している。また、既存の気動車をモータアシスト方式ハイブリッド気動車に改造することも可能であり、実際、当該試作車も既存気動車を改造したものである。
ただし、このハイブリッド駆動システムの根幹を成すのは電子制御によるデュアルクラッチトランスミッション[17]であり、その意味ではこれは機械式気動車の復権とも言える。
JR北海道のモータアシスト方式ハイブリッド気動車試作車は、2007年11月から2009年1月ごろまで営業線での試験運転を行った[18]。
脚注
- ↑ 電気式ディーゼル機関車では、GE(ゼネラル・エレクトリック)の輸出向けナローゲージ用ディーゼル機関車であるU10B形を、1970年に日本車輌でノックダウン生産した55t機が、釧路市の太平洋石炭販売輸送で現役として稼働中である
- ↑ 日本国外においては機械式の総括制御運転が実用化されていて、液体式に比べ伝達効率が高いため、エネルギーの損失が少ないという特徴を発揮している。デンマークでは実用化に向け時速200kmでの試験走行も行われている。
- ↑ 機械式で4両編成を組んだ私鉄の例もあるが、その場合最後尾の1両はエンジンをアイドリングさせた状態で牽引されるトレーラー扱いとなることが多かった。
- ↑ 初期の電気式動力伝達車両が出現し始めて間もない1933年時点で日本の学会誌にも、海外文献(1932年11月)翻訳による情報が紹介されている。(「内燃動車の電気式動力傳達方法に付て」機械學會誌193号(1933年5月)p345-347)。この翻訳ではレオナード式、レンプ式、ゲブス式といった欧米諸国で実用化された直流電源制御各種が、既に配線つなぎの略図、基礎理論とともに列挙されている。
- ↑ 横堀章一(当時、国鉄鉄道技術研究所次長 のち東急車輛製造に移籍)は1951年後期時点で記述されたと思われる「鉄道に関する展望」(「日本機械学會誌」396号 1952年1月1日発行 p10-17)で「ディーゼル機関車と内燃車両」の項目において「『電気式ディゼル動力』の44000形式(2車編成)と、45000、45500形式(3車編成)が新たに制作されている」と記述しており、電気式気動車製作の企画は1951年中の早期から始まっていた模様である。横堀の記述における「3車編成」用の2形式は、のちのキハ44100・44200の両形式を指すものと見られる。なお横堀の記述では、ヨーロッパで流体式(液体式)動力伝達が研究されていることは言及されているものの、1951年時点では技術的安定・完成に至っていなかった国鉄自身の液体式気動車開発については一切言及されていない。
- ↑ 以上の経緯は、岡田誠一『キハ07ものがたり(上)』(2002年 ネコ・パブリッシング)P.36、北畠自身の証言による。岡田は服部朗宏とともに、1950年代当時国鉄運転局車務課に所属していた西尾源太郎に2007年にインタビューを行っている(『国鉄の気動車1950』2007年 鉄道図書刊行会)が、ここで西尾は、1952年当時の総括制御気動車研究における電気式・液体式並立の頃について、北畠ら国鉄工作局陣営が三菱電機の協力の下に電気式44000形を開発し、これに対し運転局列車課長の石原米彦(のち帝都高速度交通営団副総裁)ら運転局陣営が液体式導入を推進したと説明している。しかし、運用に当たる運転局の技術のみでは工作局の動向と無関係に液体式変速システムを導入することは実際問題として不可能で、裏付けとなる検証が求められるところである。
- ↑ 1953年までの短期間に30両もの車両に搭載され、1950年代後半までの数年間ではあるが本格的な一般営業運用に供された。一定の運用実績を残した早い事例と言える。
- ↑ 日本の私鉄向け車両では、1953年4月竣工の京阪1700系電車(第3次車)より日本製鋼所NCBII小型密着自動連結器の採用が開始されている。国鉄キハ44000形第2次車、キハ44100形、キハ44200形およびキハ44500形の4形式はいずれも1953年3月竣工となっており、この新型連結器の完成がぎりぎり間に合わなかったことになる。
- ↑ 白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』、崙書房、105 頁
- ↑ 九州の国鉄で当時電化されていたのは関門トンネルを挟む下関駅 - 門司駅間だけで、しかも電気機関車牽引列車のみであった。因みに九州に国鉄の電車が初めて運行されるのは、1961年の門司港駅 - 久留米駅間電化の時である。
- ↑ 房総地区は国電運行区間に接し、東京駐在の開発技術陣との連携も取りやすかったため、この面での障害は小さかった。
- ↑ 参考までに、日本ではないが、営業用でない(試作車・デモンストレーション車)ハイブリッド気動車では、2000年にアルストムなどが製作した、ドイツ鉄道の618型気動車「コラディア・リレックス」 (Coradia LIREX) の事例が存在する。こちらは電池ではなく、フライホイールにエネルギーを蓄えるシステムである。また、燃料電池の搭載も可能としている。2000年に開催された鉄道技術見本市「イノトランス」で実車が出展された。
- ↑ テンプレート:PDFlink - JR東日本 プレスリリース(2006年4月11日)
- ↑ テンプレート:PDFlink - JR東日本 プレスリリース(2005年11月8日)
- ↑ テンプレート:PDFlink - JR東日本 プレスリリース(2013年6月4日)
- ↑ 同社の呼称は『鉄道車両用モータ・アシスト式ハイブリッド駆動システム(MAハイブリッド駆動システム)』
- ↑ HASTドライブの構造と動作モード(日立ニコトランスミッション)
- ↑ テンプレート:PDFlink - JR北海道 プレスリリース(2007年10月23日)