大艦巨砲主義
大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、1906年以後1945年まで、世界の海軍が主力である戦艦の設計・建造方針に用いた思想。巨砲巨艦主義とも呼ばれる。艦隊決戦思想を背景として、水上艦の砲撃戦で有利とするため際限なく主砲と艦艇が巨大化していく状況を反映する。
概要
大砲が未発達な時代では、着弾の距離や精度の関係で、砲の大きさよりも数の多さが有利だった。戦列艦の時代では数が強さの目安だった。砲数を増やすため艦体が大型化。なお、この時代は大砲での撃沈は不可能で、艦の損傷や乗員の殺傷が主目的だった。
大砲技術が発達し艦砲で撃沈が可能になると、舷側に穴を空けて多数の艦砲を並べると被害を受けやすくなった。そのため砲数を減らし、一門あたりの威力を高め、敵艦砲に耐える装甲を施す事となり、装甲艦の時代となった。
技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。戦列艦から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・造船技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型の偵察などを目的とする巡洋艦へと分岐した。
日露戦争後の1906年から1920年代までは戦艦が海軍力の主力として最重要視され、列強各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開。「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によって海戦ひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、巡洋艦や駆逐艦などの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力の海防戦艦と呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。この時期には戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。
戦艦の建造競争は1921年のワシントン軍縮会議におけるワシントン海軍軍縮条約締結により一旦中断(海軍休日)したが、1937年の条約明けで一斉に再開された。しかし1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、欧州各国では建艦に手間のかかる戦艦の建造が遅れ気味になった。さらに、1941年12月の真珠湾攻撃とマレー沖海戦における航空機の活躍を受けて大戦中期以後は海軍の主力の座を航空母艦に譲り、また戦後はミサイルが艦艇の主要装備となり、新しい戦艦は建造されなくなった。
なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の湾岸戦争であり、アイオワ級戦艦の「ミズーリ」と「ウィスコンシン」が出撃し、一定の戦果を挙げている。
この語は、比喩として用いられることもある。
歴史
近代戦艦の始祖とされるのはロイヤル・サブリン級戦艦である。なお、1895年から順次竣工したマジェスティック級戦艦が、30.5cm砲4門の主砲を搭載、そしてその砲の威力に対応する装甲を持つ、前弩級戦艦の基本形を確立した。
しばらくは各国ともこの様式で戦艦を建造したが、1906年にイギリスで完成したドレッドノートによって主砲4門の枠が外された。この艦は従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有し、建造中の戦艦をも一気に旧式にするほどの衝撃を与えた。そのためこれ以後世界の海軍はドレッドノートを基準とし、これらを弩級戦艦と称する。
そして超弩級戦艦の登場によって、30.5cmという主砲口径の枠も外され、戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる時代となった。敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚い装甲を備えた戦艦が海戦では有利である。その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。コストパフォーマンスその他の理由によって、前代より排水量・主砲が小型化する場合もあった巡洋艦とは対照的に、戦艦はひたすら大型化の一途をたどった。日英独は戦艦と同じ巨砲を持つ巡洋戦艦も建造した。戦艦の建造は1922年のワシントン軍縮条約締結により全て中断された。この時期の戦艦の設計・建造方針を「大艦巨砲主義」と呼ぶ。竣工年、排水量、主砲の推移を下記に示す。
1902年 | 15,220t | 30.5cm砲 | 4門 | 日本戦艦三笠 (大艦巨砲主義の始まる前) |
1906年 | 18,110t | 30.5cm砲 | 10門 | イギリス戦艦ドレッドノート |
1912年 | 22,200t | 34.3cm砲 | 10門 | イギリス戦艦オライオン |
1913年 | 26,330t | 35.6cm砲 | 8門 | 日本巡洋戦艦金剛 (1番艦のみイギリスで建造、また改装後は戦艦) |
1915年 | 29,150t | 38.1cm砲 | 8門 | イギリス戦艦クイーン・エリザベス |
1920年 | 32,720t | 41.0cm砲 | 8門 | 日本戦艦長門 |
建造中止 | 41,200t | 41.0cm砲 | 10門 | 日本巡洋戦艦赤城 (航空母艦として完成) |
建造数については第一次世界大戦中の1916年までがピークで、1910年からの7年間に全世界で竣工した戦艦は100隻を越える。7年間に建造された戦艦+巡洋戦艦の数を国別に列記する。
イギリス | 40隻 | (チリとオスマン帝国が発注した各1隻の戦艦を含む) |
ドイツ | 25隻 | |
アメリカ | 14隻 | |
日本 | 7隻 | |
フランス | 7隻 | |
イタリア | 6隻 | |
ロシア帝国 | 6隻 | |
オーストリア=ハンガリー帝国 | 4隻 | |
アルゼンチン | 2隻 | |
ブラジル | 2隻 | |
スペイン | 1隻 |
その他も、各国は戦艦の建造構想を持っていた。以下に各国が建造を構想していた最大の戦艦をあげる。
1921年計画 | 48.500t | 50.8cm砲 | 9門 | イギリス戦艦セント・アンドリュー級 |
1917-18年計画 | 49,000t | 40.6cm砲 | 12門 | アメリカ戦艦サウス・ダゴダ級 |
1921年計画 | 47,500t | 46cm砲 | 8門 | 日本戦艦13号艦 |
しかし、これらの艦は建造されずに終わった。ここまで著しく巨大化した艦を建造する予算など、どの国にも無かった。第一次世界大戦の疲弊も原因である。ワシントン条約による建艦競争の中断は、当然の帰結だった。
ワシントン条約明け後、列強の海軍は一斉に戦艦の建造を再開した。アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ドイツはワシントン条約に準じた(公称)35,000tクラスの戦艦を建造した。これらの戦艦は主砲として35.6cmから40.6cm砲を採用し、航空機対策として多数の対空火器を装備していた。しかしワシントン条約以前に構想された艦よりも排水量・主砲口径が縮小され、戦艦の大型化に歯止めがかかっていた。
一方で日本海軍は、同時期に他国の戦艦をはるかに凌ぐ64,000t級の大和型戦艦を建造した。大和、武蔵である。なお、三番艦・信濃は途中で空母へ改装された。日本は大和型よりも大型の51cm砲を積む超大和型戦艦の建造を予定していた(戦中に計画中止)ほか、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造を計画していた。すなわち、当時の各国海軍上層部は依然として「大艦巨砲主義」的な発想を持っていたと考えられる。しかし、直後に始まった第二次世界大戦では海軍の主役の座は航空母艦に移った。かつて想定されていたような戦艦同士の砲撃戦はほとんど発生せず、戦艦の役割はもっぱら対地砲撃、機動部隊や輸送船団の護衛、あるいは通商破壊などとなった。ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦ダンケルク級(1937年竣工)以後、第二次世界大戦後までの9年間に建造された戦艦は27隻だった。
大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子だった。戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、大和、武蔵ともにアメリカ海軍航空母艦搭載機の集中攻撃を受けて沈没した。また大和型の他にも連合国・枢軸国を問わず多数の戦艦が航空機や潜水艦の攻撃で沈没した。
第二次世界大戦前または戦中に建造が開始され、戦後に完成したイギリスのヴァンガードとフランスのジャン・バールを最後に新たな戦艦は建造されていない。
戦艦と射撃システム
戦術的に見ると、大艦巨砲主義の進展は射撃管制装置とも関連している。ドレッドノートが画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とする射法の完成あってのことである。1940年頃まで各国の戦艦は光学式測距儀と方位盤射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。しかし米英では1941年以降レーダーの実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりもレーダーを使用した電測射撃に移行していった。これに対し、日独は米英に電子兵装で格段に後れを取り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用した。なお、フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したもののその効果は不明である。イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみだった。
光学式の測距は特に遠距離射撃では誤差が大きく、近距離でも夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にレーダー管制に劣っていた。そのため、水上艦艇同士の戦闘において電測射撃が行えることはかなり優位だった。ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの方位探知角が不足しており、時には光学観測射撃に後れを取ることもあった。
大艦巨砲主義の終焉
他国より大型の戦艦に巨大な主砲を搭載するという文字どおりの大艦巨砲主義は、ワシントン条約明け後には終焉していたと言える。日本の大和型戦艦を例外として主砲口径の増大には歯止めがかかり、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。これはユトランド(英語読み:ジュットランド)沖海戦の戦訓を元に、速力・防御力とのバランスの取れた戦艦の設計が重要視されたからである。これ以前の戦艦は速度を、巡洋戦艦は防御力を妥協して排水量を抑えていたが、そのような設計の問題点が明らかになった。そこで速力も防御力もともに優れたポスト・ジュットランド艦(高速戦艦)が建造されたが、必然的に排水量も増え、主砲口径の増大を諦めざるを得なかった。例外的に主砲口径を増大させた大和型戦艦は、排水量を抑えるための過度の集中防御と、速度不足を問題視する見解もある。
航空機の発達と第二次世界大戦における実績により航空機の優位が確立し、航空主兵論が台頭し戦艦の時代が終焉した。戦艦の主な役割は、対地砲撃や防空艦としての機動部隊護衛などへと変わっていった。そして大戦後はそういった任務に用いるには戦艦は高価な艦であるとされ、大戦中より建造途中の艦を除いて戦艦の新造は皆無になった。
ただし、二次大戦での戦艦の時代の終焉は時期尚早だったという見解もある。二次大戦で航空機が戦艦を沈めた例を見ると、プリンスオブウェールズ、ビスマルク、大和など、航空戦力に圧倒的差のある例ばかりである。航空機が戦艦を護衛している場合は、レイテ沖海戦のように、航空機が戦艦を撃沈するのは極めて困難だった。しかしそれ以降の航空機の発達と戦艦の発達の限界を考えれば大艦巨砲主義の終焉は必然だった。
現代でも、約40km前後の艦砲の射程距離内に限定すれば、戦艦の巨砲は航空機よりも時間当たりの効率が良い兵器である。事実、湾岸戦争で米海軍は戦艦を運用し、20世紀末まで現役の兵器だった。しかし、その目的で戦艦を新造する価値は無かった。
日本海軍における大艦巨砲主義
日本海軍では、日露戦争時の日本海海戦で大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立された。なお、これは当時としては日本海軍に限ったものではない。その後も太平洋戦争後半期まで軍令・戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる敵艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・巡洋艦・駆逐艦等は脇役に過ぎなかった。
しかし日本海軍は太平洋戦争における真珠湾攻撃など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の露払いとしての航空機が予想以上の戦果を出し、第一航空艦隊(南雲機動艦隊)は地球を半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていた航空主兵論が勢いを増した[1]。航空主兵論は戦艦無用論も含み当時極端とも見られたが太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明した。航空関係者が嘆いていたのは大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたためである[2]。
1942年4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀源田実中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「秦の始皇帝は阿房宮を造り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた[3]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[4]。
海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、ミッドウェー海戦での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。しかし、方針、戦備計画のみで施策、実施などまで徹底していなかった。国力工業力不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。第三艦隊は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊で制空権を獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった[5]。
1943年第三段作戦計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた[6]。1944年2月に第一艦隊が廃され、翌月に第一機動艦隊が創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、機動艦隊が最重要視されることとなった。
その機動部隊と基地航空兵力は、ギルバート・マーシャル諸島の戦い、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。レイテ沖海戦に参加した小沢機動部隊にもはや攻撃力はなく、囮部隊として壊滅した。同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦の武蔵が航空攻撃によって撃沈された。翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され(坊ノ岬沖海戦)、日本海軍は終焉を迎えた。
戦後、航空主兵論者だった源田実大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」と語っている[7]。
比喩表現としての「大艦巨砲主義」
第二次世界大戦の状況を受けて、現在はこの言葉を経済運営や企業経営の分野で、マスコミや経営コンサルタントが批判的に揶揄として使うことが多い。過去の成功例にとらわれた発想で作られ、過大であり柔軟性に乏しく時代の変化に追従できなくなるようなシステムを『大艦巨砲主義』になぞらえ、失敗例の解説や警鐘を鳴らす場合に比喩的に用いる。
ただし、他事業への波及効果を見込んで目玉事業に対し時にコストを度外視して経営資源を傾注することを肯定的に表現する場合はその事業を旗艦(フラグシップ)と呼ぶこともあり、「大艦巨砲主義」と呼称される戦略が必ずしも劣っているわけではない。
またスポーツの世界では野球において、強打者が「大砲」に譬えられることに対応し、強打者を多数並べた打線を組み、本塁打の数を増やすことによって得点力の向上、勝利を目指すプレースタイルの比喩として用いられることがある。
脚注
- ↑ 戦史叢書95海軍航空概史268頁
- ↑ 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁
- ↑ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁
- ↑ 戦史叢書95海軍航空概史268頁
- ↑ 戦史叢書95海軍航空概史269-270頁
- ↑ 戦史叢書95海軍航空概史348頁
- ↑ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁