マレー沖海戦

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズとレパルス
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戦争太平洋戦争
年月日:1941年12月10日
場所南シナ海
結果:日本の戦術的・戦略的勝利
交戦勢力
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(海軍第二十二航空戦隊)
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(海軍東洋艦隊
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 松永貞市少将 トーマス・フィリップス大将
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 九六式陸攻59
一式陸攻26
戦艦1
巡洋戦艦1
駆逐艦4
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 九六式陸攻1
一式陸攻2
不時着大破1
偵察機2
戦艦1
巡洋戦艦1沈没

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マレー沖海戦(マレーおきかいせん)とは、第二次世界大戦及び太平洋戦争の初期の1941年12月10日に、マレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻九六式陸攻)とイギリス海軍東洋艦隊の間で行われた戦闘。

日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の新式戦艦航空機で沈めることはできない[注 1][注 2]」との常識を覆した[1]。当時の世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の終焉を告げる出来事として海軍史上に刻まれている[2]

背景

彼我の情勢

1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった[3]。幾度かの計画変更の後、1941年4月には米・英・蘭の間で協定が結ばれ、米国は艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、英国は東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する[4]

ウィンストン・チャーチル英国首相・国防相キング・ジョージ5世級戦艦デューク・オブ・ヨーク」、レナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した[5]。英軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母「ハーミス」、「アーク・ロイヤル」、「インドミタブル」を送る計画であり、新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦ティルピッツ」の出撃に備えて英国本国のスカパフローから動かすつもりはなかった[6]。これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する[7]。チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていたという[8]

最終的に、キング・ジョージ5世級の一艦である「プリンス・オブ・ウェールズ」、レナウン級巡洋戦艦レパルス」、空母「インドミタブル」、護衛の駆逐艦エレクトラ」、「エクスプレス」、「エンカウンター」、「ジュピター」からなるG部隊が編成された[9]

「プリンス・オブ・ウェールズ」は10月23日にスカパフローを出港、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の太平洋戦争開戦直前の12月2日シンガポールのセレター軍港に到着した[10]。「プリンス・オブ・ウェールズ」はマレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されて英連邦諸国民に安心感を与えた[11]

その一方、空母「インドミタブル」は11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった[12]。かわりに小型空母「ハーミーズ」の合流が決定したが、ダーバンで修理中のため、合流できなかった[13]。フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジ」、「ロイヤル・サブリン」、クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイト」を12月20日頃までに派遣するよう希望している[14]。航空機に関して英軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(英軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった[15]。これはチャーチル首相がソビエト連邦に大量の航空機を供給していたからである[16]

日本軍は英国東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦辰宮丸」が機雷を敷設、さらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦12隻が哨戒していた[17]宇垣纏連合艦隊参謀長は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している[18]。実際に日本軍は松永貞市少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 ツドウム基地:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備して英国東洋艦隊を待ちうけていた[19]。12月8日の早朝、ハワイ真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレーコタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。

日本軍のマレー半島上陸

12月6日、日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した[20]。英軍は日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった[21]。12月7日午前9時50分、宣戦布告前にも拘らず、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBYカタリナ飛行艇を撃墜する[22]。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に「香椎」と輸送船3隻、ナコン方面に「占守」と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に第二〇駆逐隊・第十二駆逐隊・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦「川内」、第十九駆逐隊(磯波、綾波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である[23]。12月8日午前1時30分日本軍はコタバル上陸を開始、英軍も応戦し、真珠湾攻撃より2時間前に交戦がはじまった[24]。英軍機は輸送船「淡路山丸」を航行不能とし、「綾戸山丸」「佐倉丸」大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた[25]

第一航空部隊松永少将は、英国東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。元山航空隊は悪天候のため引き返したが、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投した[26]。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した[27]

英国東洋艦隊出撃

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Z部隊兵力
  • 戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ
  • 巡洋戦艦:レパルス
  • 駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、テネドスヴァンパイア(この艦はオーストラリア籍)

この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかった。トーマス・フィリップス提督はシンガポールの極東軍総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督は午後3時50分に「ウェールズ」に戻ると作戦計画を練った[28]。東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅することで日本軍の機先を制し、日本軍が態勢を立て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てる[29]。ところが英国空軍司令部はコタバル飛行場から撤退したこともあり、フィリップスに対し哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった[30]。「プリンス・オブ・ウェールズ」が抜錨してまもなく、空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機による護衛不可能』と連絡している[31]。それでも東洋艦隊は12月8日午後8時25分にシンガポールを出撃した。事前に英国東洋艦隊の存在があまりにも宣伝されすぎたため、また極東英連邦国民に「危機になれば東洋艦隊が出撃する」と長年にわたって約束していたため、面子の関係からも出撃しないわけにはいかなかったのである[32]。マレー半島とアナンバン諸島の間に日本軍が機雷を敷設していたためZ部隊はマレー半島沿いに北上することが出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船団に向けて進撃した[33]

英軍は前述のように日本軍航空機の性能を過小評価していたため空襲による危険は大きくなく、また主力艦が致命的な被害を受けることもないだろうと判断していた[34]。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。もっとも、かつて「プリンス・オブ・ウェールズ」を砲撃戦で大破させたドイツ戦艦ビスマルク」がフェアリー ソードフィッシュの雷撃によって舵とスクリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在する。

一方、日本海軍の戦力としてこの方面には近藤信竹中将指揮の第二艦隊があり、金剛型戦艦金剛」と「榛名」がいた。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」より劣っていた[35]。このため、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に砲撃戦を挑むことは想定していなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時「プリンス・オブ・ウェールズ」の主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている[36]。他にも重巡洋艦水雷戦隊もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。「金剛」「榛名」以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。

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12月9日 - 10日の動き

ファイル:Mappa Forza Z.PNG
赤:イギリス艦隊の航跡

9日午後3時15分、潜水艦伊65原田毫衛艦長)がZ部隊を発見、以下の電文を打電した[37]

敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「フモハ26」[注 3]、針路三四〇度 速力20 一五一五

宇垣参謀長の「戦藻録」によれば、「伊65」のZ部隊発見地点はマレー半島プロコンドル島の196度225浬である[38]。「伊65」は打電後も接触を続けたが、午後5時20分に一旦見失った[39]近藤信竹中将の第二艦隊には、午後5時25分に「レパルス型戦艦2隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という情報が入った[40]。第二艦隊は反転南下した。「伊65」は午後6時22分に再度発見したもの、上空に水上偵察機(軽巡洋艦鬼怒搭載機)が出現したため潜航したので目標を見失った[41]。空からは、第四潜水戦隊旗艦・軽巡洋艦「鬼怒」と第五潜水戦隊旗艦・軽巡「由良」の九四式水上偵察機、第七戦隊(栗田健男少将)旗艦・重巡洋艦熊野」の零式水上偵察機が日没まで触接を続け、由良機が未帰還となった[42]

午後5時15分に東洋艦隊発見報告を受けた小沢中将は[43]、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令した[44]松永貞市少将は攻撃隊3波を発進させた[45]。陸攻部隊は爆弾を装備し、英戦艦にダメージを与えて日本軍艦隊を掩護する事が任務だったという[46]。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。美幌空第二中隊(武田八郎大尉)は「鳥海」をZ部隊と誤認し、「敵艦隊見ゆ。オビ島の150度、90浬」と報告して吊光弾を投下する[47]。仰天した小沢は松永少将あての電報「照明弾下にあるは味方なり」を連送信して攻撃中止と陸攻隊全機帰投を命じ[48]、これは小沢が本海戦で発した数少ない命令の一つである[49]

その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダーは日本軍水上偵察機を捉えていたが、フィリップスは船団攻撃の決意を変えず、以下の命令を出している[50]

  1. わが目標はシンゴラ沖にして、日本軍上陸部隊支援部隊中主力艦は金剛ただ一隻なるものの如し。他に愛宕級3、加古級1、神通級2の各型巡洋艦と駆逐艦多数あり。
  2. 本長官は明早朝、敵の航空攻撃を受ける以前に敵上陸支援部隊を奇襲せんとするも、これに先立って金剛と遭遇するときは優先的にこれと戦い撃滅せんとす。
  3. 1800(東京時間午後7時30分)信号を待ちて針路を320度とし、さらに1930(午後9時)280度に変針し、24ノットに増速すべし。その後は10日1600(午後5時30分)C地点(アナンバス諸島付近)に於いて集合し得る如く行動せよ。
  4. 明日0745(午前9時15分)を期しシンゴラ突入を決行す。攻撃後は東方に避退す。
  5. 10日未明以前に駆逐艦3隻を分離帰投せしめ、その後は戦艦のみにて突撃す。全軍の武運を祈る。

フィリップスは駆逐艦「テネドス」が燃料不足気味だったため、午後6時30分に艦隊から分離、単艦でシンガポールに引き返させた[51]。その際、テネドス艦長に対し10日朝に無線封止を解除し、アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めている[52]。その後もZ部隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、午後9時45分頃にZ部隊前方5マイルに青い閃光を確認する[53]。これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから南東のコタバルに変更した[54]。Z部隊と小沢艦隊の距離は23マイルに接近しており、豊田穣は「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダー(25マイル)が「鳥海」を捉えなかったことを不思議な事と指摘している[55]。午後10時30分、フィリップスは作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達した[56]。12月10日午前1時、Z部隊はパリサー参謀長より日本軍がクアンタンに上陸したとの入電があり、フィリップスはシンガポールの帰路中に日本軍輸送船団を砲撃することを決意する[57]。だがクアンタン日本軍上陸は誤報であり、Z部隊はかえって日本軍空襲圏内にとどまることになった[58]

翌12月10日午前1時22分、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦「伊58」が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航した[59]。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。

〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度

この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、第三水雷戦隊が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。「伊58」は以後も接触を続け、午前1時45分、「レパルス」に向けて魚雷5本を発射したが、Z部隊の変針が重なり命中しなかった[60]。「伊58」は浮上航走しつつZ部隊を追跡、以下の3通の電文を打電した[61]

  1. 我地点「フモロ」45[注 4]ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一
  2. 敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五
  3. 我触接ヲ失ス 〇六一五

6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、燃料不足の懸念から近藤信竹中将は午前8時15分「水上部隊の追撃を断念す」と打電[62]、小沢中将も潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった[63]

戦闘経過

日本軍の索敵

海軍第二十二航空戦隊(司令官:松永貞市海軍少将、司令部はサイゴン(現在のホーチミン)、第十一航空艦隊所属)

12月10日6時25分、まず松永は元山空第四中隊の九六式陸上攻撃機9機(中隊長、牧野大尉)を索敵任務に投入した[64]。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃、続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊(一式陸攻26機。全機雷装)が出撃、直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。元山航空隊の雷装九六式陸攻1機はエンジン故障のため引き返した[65]。連合艦隊旗艦戦艦長門」では、山本五十六連合艦隊司令長官が「リナウン(レパルス)は撃沈できるが、キング・ジョージⅤ世(プリンス・オブ・ウェールズ)は大破だろう」と発言、三和義勇作戦参謀が2隻とも沈めると反論すると、山本は自論の正しさにビール10ダースを賭けた[66]

一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。日の出は午前7時57分(現地時間0627)、まもなくZ部隊はレーダーで4つの反応を探知して接近したが、貨物船であった[67]。午前8時15分、Z部隊はスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させてクアンタン方面を偵察したが、同方面は平穏で日本軍は存在しなかった[68]。駆逐艦「エクスプレス」も海岸を偵察したが日本軍は存在せず、誤報にふりまわされたZ部隊は午前10時30分ごろシンガポールへの帰路についた[69]。Z部隊は機雷原を避けるため、一旦北東へ向かい、それから南東に針路をとってアナンバス諸島の東方をまわってシンガポールへ向かう[70]。後述の帆足機が「針路60度-30度-160度」と逐次報告したのは、この艦隊運動とされる[71]

日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。九六陸攻に比べ速力の出る一式陸攻部隊はシンガポール付近まで進出したという[72]。11時13分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中の「テネドス」(Z部隊より東南東130マイル)を発見して60kg爆弾2発を投下したが命中せず、英駆逐艦の位置を発信した[73]。午後12時14分、500kg爆弾を装備する元山航空隊第三中隊(二階堂大尉)の九六陸攻9機が戦艦「レパルス」と見誤って攻撃したものの命中弾は得られなかった[74]。「テネドス」は負傷者1名を出したものの無傷でシンガポールに退避した[75]

午前11時45分、3番索敵機(機長・帆足正音予備少尉)が東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した[76]

  1. 敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
  2. 敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
  3. 敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五

司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。帆足は独断で索敵コースを変更しており、東洋艦隊の射撃を受けてから「敵発見」を報告するなど不手際があったが、その過失を問われることはなかった[77]

九六式陸攻の攻撃

ファイル:Repulse-8.jpg
攻撃にさらされる東洋艦隊。巧みな機動で爆撃を回避する「レパルス」と逆に集中攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」。

英国東洋艦隊上空に最初に到達したのは、美幌航空隊の爆装隊の一部8機と、元山航空隊の雷装の、いずれも九六式陸攻隊だった[78]。Z部隊は突如出現した8機の日本軍機に対空砲火を浴びせるが、効果はなかった[79]。午後12時45分、美幌空陸攻隊8機(白井中隊)は「レパルス」を目標に各機2発搭載した250kg爆弾による水平爆撃を実施する[80]。第二小隊二番機は第一弾投下直後に被弾したため第二弾を投下できず[81]、別の1機も故障で投下ができなかったため、250kg爆弾計14発が投下された[82]。このうち、最初の爆撃で1発が「レパルス」の右舷後部カタパルト付近に命中した[83]。右舷後部飛行機格納庫甲板、海兵隊員居住区甲板を貫通し、装甲を施した下甲板で爆発した[84]。爆風でダメージコントロール班員が多数死傷、副長は消火隊5隊を投入したが、艦内の火災は中々鎮火できなかった[85]。飛行機格納庫ではカタパルト上の水上機1機が炎上し、海中投棄を行っている[86]。最大の被害は、命中箇所直下の罐室で高圧蒸気管が破裂したことだった[87]。このような事態になってもフィリップスは英空軍に掩護を求めず、バッファロー戦闘機はシンガポールでの待機を続けた[88]。この攻撃の後レパルスは25ノットで航行した[89]

水平爆撃を行った美幌航空隊白井中隊が退避する中、元山航空隊九六陸攻隊16機(雷装)が東洋艦隊上空に到達する[90]。フィリップス提督は日本軍機が雷撃を行えるとは考えておらず、「プリンス・オブ・ウェールズ」の反応は遅れた[91]。英軍にとって不運なことに、対空火器として期待を集めたポンポン砲は頻繁に故障を起こした[92]。日本軍航空隊は、第一中隊(石原薫大尉)9機と第二中隊(高井貞夫大尉)6機(第二小隊一番機はエンジン故障で帰投)の二手に分かれ、それぞれ「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」に雷撃を行った[93]。第一中隊三番機は撃墜され、二番機(大竹典夫 一飛曹)は「プリンス・オブ・ウェールズ」が転舵を止めたため目標を見失い、直後に右旋回中の「レパルス」を狙った[94]。第二中隊・高井中隊長は艦型が似ている巡洋戦艦「レパルス」と金剛型戦艦の区別がつかず[注 5]、英国国旗を確認してから雷撃を行った[95]。「レパルス」はテナント艦長の巧みな操艦で8本の魚雷を全て回避した[96]。午後1時14分、「プリンス・オブ・ウェールズ」に5本の魚雷が接近、左舷後方と左舷中央に魚雷2本(英軍記録魚雷1本が左舷後方)が命中した[97]。ロースン副長は左舷中央の魚雷は命中ではなく自爆と推測、水圧により浸水が発生したが被害は限定的だった[98]。これに対し、左舷後方に命中した魚雷は「プリンス・オブ・ウェールズ」に重大な損傷を与えた。魚雷命中による損傷に加え、衝撃で湾曲した左舷外側推進軸は回転する太鼓バチの様に周囲を殴打して破壊の限りを尽くした[99]。この時に隔壁が破壊されたため「プリンス・オブ・ウェールズ」は早くも多量の浸水を見るにいたり、左舷に10度傾斜、右舷2軸運転となり速力は20ノットに低下する[100]。速力を16ノットまで低下とする文献もある[89]。艦内では推進機軸管を伝って浸水が広がり、最下層甲板中部(Y缶室、Y機関室、中央機関科指揮所、ディーゼル発電機室)などにも浸水が及んで電力供給が途絶、後部4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た[101]。艦内電話は通じなくなり、通風が不十分となって機械室では熱射病で倒れる乗組員が続出、応急注排水装置が故障、操舵機も電力を絶たれ人力操舵となる[102]。後部指揮所にいた士官は、たった1本の魚雷で「プリンス・オブ・ウェールズ」が致命傷を受けたことに「誰が不沈戦艦と名づけたんだ」とぼやいていた[103]。「プリンス・オブ・ウェールズ」は重大な損傷を受けたにも拘らず、「レパルス」に被害を報告せず、「レパルス」テナント艦長は旗艦の動きと傾斜から損害を推測した[104]。この他、魚雷1本が駆逐艦「エクスプレス」の付近で自爆した[105]

午後1時20分、美幌航空隊第四中隊(高橋勝作大尉)の九六式陸攻8機が戦場に到達した[106]。第四中隊も元山航空隊と同じく「レパルス」と「金剛」の見分けがつかず、撃たれてから英軍と確信した[107]。午後1時27分、故障で魚雷投下に失敗した高橋機を除く7機は魚雷7本を投下するも「レパルス」は全て回避する[108]。高橋中隊の損害は被弾小破3機で、魚雷投下行動を2度やりなおした高橋機の損害は大きかった。第四中隊は魚雷3本命中・左舷傾斜を主張するが、実際には命中していない[109]。午後1時28分(1157)、「レパルス」のテナントは独断で無線封止を破り『発レパルス、宛関連全友軍艦艇。我敵機の雷爆撃を受けつつあり、至急空軍の援助を乞う、位置134NYTW22X09、時刻1158』と発信した[110]。午後1時46分、11機のF2Aブリュースターバッファロー戦闘機がシンガポールを発進したが、到着見込みは午後2時30分以降であった[111]豊田穣は、午後12時30分までに英空軍が出動しなければ、日本軍航空隊の空襲までにバッファローがZ部隊上空に到達できないと指摘している[112]

レパルス沈没

午後1時37分、宮内七三少佐率いる鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機26機は積雲の切れ間から右方向に水上偵察機を発見[113]、午後1時47-48分に雲下に出るとZ部隊を発見した[114]。この水上機は、「レパルス」から発進したビル・クローザー准尉のスーパーマリン ウォーラス水上偵察機だった。『我れ航行の自由を失えり』の信号旗を掲げた「プリンス・オブ・ウェールズ」は、推進軸損傷のため20ノットで緩慢に左旋回し、「レパルス」は28ノットに増速すると右に急速転舵する[115]。鹿屋航空隊第一中隊9機のうち、4機が「ウェールズ」を攻撃して右舷に魚雷3本・左舷1本命中を主張[116]。5機が「レパルス」に向かい、左舷に魚雷1本を命中させて左舷機関室に浸水を生じさせた[117]。続いて鹿屋航空隊第二中隊8機は、2機が「ウェールズ」を攻撃して右舷に魚雷1本命中を主張、6機が「レパルス」を攻撃し、「ウェールズ」に合計魚雷4-5本、「レパルス」に魚雷合計7-10本命中を主張している[118]。これは魚雷命中の水柱を攻撃側が自機の戦果と誤認したものであり、鹿屋空第一中隊第二小隊長として本海戦に参加した須藤は、「レパルス」への魚雷命中は5-6本程度と推測している[119]。「レパルス」に乗艦していた英国人記者によれば、最初に左舷へ魚雷2本(機関部浸水)、次に右舷中央部に2本、最後に1本が後部に命中したと記録している[120]。また、命中したものの不発だった魚雷も目撃されている[121]。鹿屋空第三中隊9機は「レパルス」に挟撃雷撃を行い[122]、対空砲火で2機が撃墜された[123]。この他に11機が被弾し、3機の被害は大きかった[124]。対水雷防御に欠ける巡洋戦艦である「レパルス」は浸水が激しく、被雷から4分を経た午後2時3分(英軍時間12:33)、左舷に転覆して沈没した[125]。駆逐艦「エレクトラ」が571名、「ヴァンパイア」がテナント艦長と従軍記者を含む225名を救助した[126]。宮内少佐・鹿屋空雷撃隊総指揮官は『敵戦艦1隻撃沈、1隻は攻撃続行の要あり』と打電して帰途についた[127]

午後2時、美幌航空隊の九六式陸上攻撃機(武田中隊8機、大平中隊9機、各機500kg通常爆弾装備)が、雷撃を受けて炎上する英戦艦2隻上空に到達した[128]。英軍によれば、最初に攻撃を行ったのは大平中隊である[129]。大平中隊は何もない海面を誤爆して帰還したが[130]、駆逐艦1隻を撃沈したと報告した[131]。戦後、大平は「プリンス・オブ・ウェールズ」を狙って水平爆撃を行おうとしたが、初陣の爆撃手のミスにより、英戦艦のかなり手前の海面に投弾したと証言している[132]。英戦艦乗組員が安堵したのも束の間、武田中隊は「プリンス・オブ・ウェールズ」に水平爆撃を行い、午後2時13分に後部主砲塔付近と左舷艦尾に命中を主張した(英軍によれば命中弾1、不落下弾1)[133]

「プリンス・オブ・ウェールズ」には、午後1時50分ごろ魚雷1本が艦首右舷に命中、2本目が艦橋右舷付近に命中、3本目は後部三番砲塔右舷付近に命中、4本目は右舷外側推進器軸付近に命中、「ウェールズ」の傾斜は回復したが1軸運転・最大発揮速力8ノットとなった[134]。武田中隊が命中させた爆弾は「プリンス・オブ・ウェールズ」の最上甲板を貫通して艦内で炸裂、同艦の船体中央部の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出たほか、火災の煙が罐室に逆流・機関兵は退去した[135]。武田大尉は「プリンス・オブ・ウェールズ」がシンガポールに帰航する可能性を考慮し、日本軍潜水艦により「プリンス・オブ・ウェールズ」にとどめを刺すよう要請して戦場を離脱した[136]。もっとも、爆撃により英戦艦は最後の罐室を放棄したので、航行能力を完全に失っていた。日本軍航空隊が英軍駆逐艦を攻撃せず救助作業を妨害しなかったのは、単純に爆弾や魚雷を使い果たした上に燃料が少なかった為であり、戦後、須藤(一式陸攻雷撃隊)から事情を聞いた「ウェールズ」のゴーディ機関長は落胆している[137]

プリンス・オブ・ウェールズの沈没

ファイル:Escaping from Prince of Wales.jpg
「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」。

合計4-5本(日本軍主張7本、海底調査では4本)[注 6]の魚雷が命中した「プリンス・オブ・ウェールズ」は航行不能になり、左舷艦尾から沈み始めた[138]。駆逐艦「エクスプレス」がカートライト艦長の判断で乗員救助のため「プリンス・オブ・ウェールズ」右舷に横付けし乗組員の収容を始めた[139]。リーチ艦長は負傷者のみ「エクスプレス」への移乗を許可し、残る乗組員には戦闘配置につき「プリンス・オブ・ウェールズ」をシンガポールへ回航させると演説した[140]。トーマス・フィリップスは幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った[注 7][注 8]。だが英戦艦の艦腹から海に飛び込んだ姿も数人に目撃されており[141]、またヒラリー・ノーマン水雷中佐は救命胴衣をつけたフィリップの遺体が海面を漂うのを目撃している[142]。「艦長が艦と運命を共にするのは無益だ」と公言していたリーチ艦長は付近の海面上で目撃されたが、生還しなかった(en) [143]。「レパルス」のテナント艦長は救助された。午後2時30分、三番索敵機(帆足予備少尉機)が戦場に戻り、Z部隊の監視を行う[144]。「レパルス」は既に沈没し、「プリンス・オブ・ウェールズ」は艦中央と艦尾で火災が発生し、艦首は東を向いて惰性で動いていた[145]。日本時間午後2時50分(現地時間13時20分)、「プリンス・オブ・ウェールズ」は左へ転覆し艦尾から沈没した[146]。帆足機は『レパルス型1420ごろ、キング・ジョージ型1450ごろ爆発沈没せり。駆逐艦、レパルスの救助作業につとめたるも、わずかに収容せるのみ。キング・ジョージ型は総員艦と運命をともにせり』と報告した。実際の戦死者は士官20名、下士官兵307名(全乗組員士官110名、下士官兵1502名)、であり、またバッファロー戦闘機隊指揮官は沈没寸前に火焔と黒煙が上がるも大爆発はなかったと証言している[147]

午後2時45分、オーストラリア第453飛行隊のブリュースターバッファロー戦闘機11機が戦場に到着、完全に転覆し、艦尾から沈んでいく「プリンス・オブ・ウェールズ」を目撃した[148]。帆足機はバッファロー8機を視認して積乱雲に退避、午後9時20分にサイゴン基地に着陸して13時間の索敵任務を終えた[149]。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。

戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は両艦の沈没した海域に再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[150]宇垣纏連合艦隊参謀長は、英国戦艦2隻を引き揚げ、修理した上で日本海軍への編入を思案したが、実現しなかった[151]

両軍の損害

  • 日本軍
    • 一式陸上攻撃機2、九六式陸上攻撃機1喪失
      一式陸攻1不時着(後、処分)[152]、偵察機未帰還2[注 9]
  • イギリス軍
    • 沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス
    • 戦死:フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名。

なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾して工廠修理2機、隊内修理25機、喪失機ふくめ21名戦死という被害を出し、2隻の対空砲火がいかに激しかったかを物語る証拠となった[153]。また日本軍は甲巡洋艦1隻の撃沈を記録しているが、これは駆逐艦へ水平爆撃を行った時の至近弾を誤認したものである[154]

その後

2戦艦が撃沈された時点で、まだシンガポールには重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦モーリシャスダナイー級軽巡洋艦ダーバンダナイードラゴン、駆逐艦ジュピターエンカウンター、ストロングホールド、スコット、サーネット、オランダ海軍ジャワ級軽巡洋艦ジャワ、アメリカ海軍の駆逐艦ホイップル、ジョン・D・エドワーズ、エドソール、オールデンがあった。このうち4隻のアメリカ駆逐艦部隊はシンガポールを出航して戦地に向かい、帰路に就く駆逐艦エクスプレスらと遭遇した。エクスプレスは戦闘が終了したことを伝えた。アメリカ駆逐艦部隊は北上を続け、漂流者の捜索を行ったが発見できなかった。

この海戦の結果、インド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。しかし、残存艦はスラバヤ(ジャワ島)に後退してABDA司令部指揮下でABDA艦隊を編成し、1月24日にはアメリカ駆逐艦部隊による攻撃(バリクパパン沖海戦)でボルネオ島上陸部隊が妨害を受けるなど予断は許されない状況であった。

当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは著書の中でマレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している[155]

沈没した「プリンス・オブ・ウェールズ」は水面下68 m(223フィート)の位置で見つかりテンプレート:いつ、不法ダイバーに盗まれるのを危惧したことから2002年になってベルが取り外された。ベルはリバプールの博物館(Merseyside Maritime Museum)で展示されている。「レパルス」はさらに浅い40メートルの海底に沈んでおり、海面から船体が視認できる状態である。双方の艦とも完全に転覆した状態で海底に横たわっている。

影響

戦術的影響

既述の通り、マレー沖海戦は「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった[156]大艦巨砲主義者であった宇垣纏連合艦隊参謀長ですら『鴨がネギを背負って現れた。新鋭戦艦も無謀な行動で海の藻屑になった』と評し、真珠湾攻撃の大戦果とあわせて「日本海軍航空隊」を賞賛している[157]。これを戦訓として、各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を、改めて大幅に増強した。

航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、地上基地の航空部隊の行動圏外では戦艦を始めとする水上部隊は、敵側に航空戦力が存在する状況ではもはや空母なしで単独では行動できなくなってしまった。マレー沖海戦以後は、各国海軍は航空支援なしに戦艦を出撃させることに極めて慎重になる。だが脆弱な飛行甲板という構造上の弱点を抱え、かつ航空機用燃料や爆弾、魚雷といった可燃物を満載している空母がわずか1-2発の爆弾命中で航行不能に陥ったり沈没した事例の枚挙にいとまがない事と比較して、砲戦用の分厚い装甲を備え、水中防御も充実した戦艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた。例えば、日本海軍航空隊が沈めた航行中の戦艦は本海戦における「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」のみである。「プリンズ・オブ・ウェールズ」の沈没について、ラッセル・グレンフェル英海軍大佐は著書の中で『ただ、それは実際上対空防御の伴わぬ戦艦は、空襲により沈められ得るという事実を示したに過ぎなかった』と評している[158]。米軍航空隊も大和型戦艦大和」と「武蔵」の2隻にとどまった。この巨艦2隻の場合も、日本軍側に航空機の護衛が1機もないという特殊な事例だった。

その一方、日本軍は戦闘機の護衛なしに艦隊攻撃を行う危険性を認識しなかった。もし予定通りイギリス艦隊に空母「インドミタブル」が随伴しているか、英空軍戦闘機がマレー半島に多数配備されていた場合、海戦の様相は変わっていた可能性がある[159]。実際に1942年2月20日のニューギニア沖海戦では、空母「レキシントン (CV-2)」を攻撃した第二十四航空戦隊の一式陸上攻撃機15機がF4Fワイルドキャット戦闘機と対空砲火の迎撃で13機を撃墜されて完敗した。

戦略的影響

マレー沖海戦ではイギリス海軍の最新鋭戦艦1隻と巡洋戦艦が撃沈されたが、これはアヘン戦争1840年 - 1842年)以来100年に亘るイギリス植民地主義と海軍全盛時代の「破局の序章」でもあった[160]。シンガポールでは、「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈の速報がラジオを通じてもたらされた瞬間、パニックが発生している[161]。また、事実上イギリスの保護国であり、反英気運が高まっていたイラクでは、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」撃沈の報が入ると、これを喜んだイラク人がバグダードにあるセミラミス・ホテルに飾られていた両戦艦の写真をインクで塗りつぶした。イラクでは、真珠湾攻撃やマレー沖海戦にて日本軍勝利のニュースが入るたび、日本支持のデモが起きるほどであった。[162]

この戦いにより制海権を失った後、2か月後のシンガポール陥落1942年2月15日)でイギリス陸軍は敗れており、東南アジア征服の象徴・要というべきチョークポイントであるシンガポールを失うということは東南アジア支配の終焉を予感させるものとして、インドなど当時イギリスの植民地であった東南アジア各国の独立への機運に影響を与えた[163]

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べた。「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年ヴェトナムに明らかである。」

注釈

  1. 作戦行動中ではなく停泊中ならばタラント空襲(1940年11月11日)や真珠湾攻撃(1941年12月7日)がある。
  2. 1941年4月23日にドイツ空軍はサラミス湾空襲で作戦行動中の戦艦キルキス」と「レムノス」を撃沈している。ただし、両艦とも旧式化して練習戦艦となっていた。
  3. サイゴンの南南西、約65km。
  4. クアンタンの57度140海里の地点
  5. 戦艦「金剛」は、もともとイギリスで建造された巡洋戦艦である。
  6. 魚雷・爆弾の命中数に関して日英の資料で食い違いを見せている。
    • 日本側資料(#豊田、1988385頁)
      • プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷7本、爆弾2発
      • レパルス:魚雷13本、爆弾1発
    • イギリス側資料
      • プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷6本、爆弾1発
      • レパルス:魚雷5本、爆弾1発
    日本側は至近弾による水柱を魚雷の命中と誤認したと言われており、「戦闘経過」では参考文献中のイギリス側資料に準拠している。しかし後年の海底調査では、「プリンス・オブ・ウェールズ」の船体には4箇所の破孔が認められるのみであった(「シーハンター 海底に沈む英国戦艦」ナショナル ジオグラフィック)。
  7. 世界文化社刊『連合艦隊・下巻激闘編』 1997年等、マレー沖海戦を記述した日本側書籍の多くはフィリップ提督の退艦拒否の状況をこの様に記述している。
  8. ただし英語版wikipediaにこの記述はなく、退艦を拒んだかまたは逃げ遅れたとしている(en)。
  9. 不時着大破1と偵察機未帰還2は英wikiに拠る。

脚注

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参考文献

関連項目

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テンプレート:太平洋戦争・詳細テンプレート:Link GA
  1. 「写真週報200号」p.9
  2. #ウエールス最後p.17
  3. #主力艦隊シンガポールへ59頁
  4. #主力艦隊シンガポールへ67頁
  5. #主力艦隊シンガポールへ78頁
  6. #主力艦隊シンガポールへ79頁、#須藤、198211-12頁
  7. #豊田、1988179頁、#須藤,198212-13頁
  8. #ウエールス最後p.10
  9. #主力艦隊シンガポールへ79頁
  10. #豊田、1988184-185頁、#須藤,198217頁
  11. #主力艦隊シンガポールへ82-83頁、#須藤,198218頁
  12. #主力艦隊シンガポールへ81頁、#須藤,198213頁
  13. #主力艦隊シンガポールへ81頁、#須藤,198213頁
  14. #主力艦隊シンガポールへ85頁
  15. #主力艦隊シンガポールへ63-65頁
  16. #主力艦隊シンガポールへ72-73、183頁
  17. #豊田、198875頁、 #須藤,19829頁
  18. #戦藻録(九版)26頁
  19. #須藤,1982 9頁、#ウエールス最後p.3
  20. #主力艦隊シンガポールへ86頁、#須藤、198239-40頁
  21. #主力艦隊シンガポールへ87頁
  22. #須藤、198242-43頁
  23. #須藤、198244-45頁
  24. #主力艦隊シンガポールへ93頁、#須藤、198251頁
  25. #須藤、198251-53頁
  26. #須藤、198254頁
  27. #須藤、198255頁
  28. #主力艦隊シンガポールへ94頁、#須藤、198261-62頁
  29. #主力艦隊シンガポールへ95頁、#須藤、198262頁
  30. #主力艦隊シンガポールへ96-97頁、#須藤、198263頁
  31. #主力艦隊シンガポールへ97頁
  32. #主力艦隊シンガポールへ111頁
  33. #主力艦隊シンガポールへ98頁
  34. #ウェールス最後p.14、#須藤、198265頁
  35. #須藤、1982230頁
  36. #須藤、198280頁
  37. #須藤、19828頁、#聯合艦隊作戦室29頁
  38. #戦藻録(九版)35頁
  39. ドキュメント・マレー沖海戦、34-35ページ
  40. #愛宕戦時日誌(2)pp.12-13
  41. ドキュメント・マレー沖海戦、35ページ
  42. #須藤、198273頁
  43. #須藤、198269頁
  44. #須藤、198271頁
  45. #元山空調書(1)p.13、#須藤、198277頁
  46. #ウエールス最後p.4
  47. #豊田、1988114頁、#須藤、198278頁
  48. #聯合艦隊作戦室29頁。「愛宕」でも受信。
  49. #豊田、1988114頁、#須藤、198279頁
  50. #豊田、1988108頁
  51. #主力艦隊シンガポールへ100頁
  52. #豊田、1988113頁
  53. #豊田、1988113頁
  54. #豊田、1988116頁
  55. #豊田、1988117頁
  56. #豊田、1988120頁
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  58. #豊田、1988121-122頁
  59. ドキュメント・マレー沖海戦、39ページ
  60. #豊田、1988122-124頁、#須藤、198296頁
  61. #豊田、1988124頁
  62. #聯合艦隊作戦室30頁、#目撃者昭和史6巻246頁
  63. #豊田、1988131頁、#戦藻録(九版)42頁
  64. #豊田、1988133頁
  65. #元山空調書(1)p.15
  66. #勝つ戦略負ける戦略71頁
  67. #豊田、1988194頁
  68. #豊田、1988195頁
  69. #主力艦隊シンガポールへ101頁
  70. #豊田、1988196頁
  71. #豊田、1988196頁
  72. #ウエールス最後p.5
  73. #豊田、1988202頁
  74. #元山空調書(1)p.15 、#豊田、1988207-208頁、#須藤、1982122頁
  75. #豊田、1988209頁
  76. #須藤、1982109頁、#豊田、1988192-193頁
  77. #須藤、1982110-111頁
  78. #美幌空調書(1)p.12、#美幌叢書(1)p.49、#レパルス投弾134頁
  79. #主力艦隊シンガポールへ102頁、#豊田、1988218-220頁
  80. #豊田、1988217頁、#レパルス投弾136頁、#須藤、1982123頁
  81. #レパルス投弾137頁
  82. #美幌叢書(1)p.49
  83. #須藤、1982126頁
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  127. #須藤、1982194頁
  128. #須藤、1982189頁、#美幌叢書(1)p.50
  129. #豊田、1988417頁
  130. #須藤、1982195頁
  131. #須藤、1982211頁
  132. #豊田、1988414-415頁
  133. #豊田、1988421-422頁
  134. #豊田、1988373-374頁
  135. #豊田、1988429-430頁
  136. #須藤、1982194頁
  137. #須藤、1982199頁
  138. #豊田、1988386頁
  139. #豊田、1988431-432頁、#須藤、1982174頁
  140. #豊田、1988432頁
  141. #豊田、1988440頁
  142. #豊田、1988440-441頁
  143. #豊田、1988441頁
  144. #豊田、1988433頁
  145. #須藤、1982198頁
  146. #主力艦隊シンガポールへ107頁
  147. #豊田、1988444,448頁、#須藤、1982199頁
  148. #豊田、1988444頁
  149. #須藤、1982204頁
  150. #目撃者昭和史6巻262頁
  151. #戦藻録(九版)43頁
  152. #鹿屋空調書(1)p.18、#須藤、1982220-222頁
  153. #須藤、1982235頁
  154. #鳥海戦闘詳報(1)p.3
  155. #ウエールス最後p.15
  156. #須藤、1982227頁
  157. #戦藻録(九版)42-43頁
  158. #主力艦隊シンガポールへ115頁
  159. #主力艦隊シンガポールへ108頁、#勝つ戦略負ける戦略72頁
  160. #主力艦隊シンガポールへ116,181頁
  161. #陥落の記録87-88頁
  162. http://www2.econ.hit-u.ac.jp/~areastd/japan-arab/japan-arab-2.pdf
  163. #主力艦隊シンガポールへ197頁