ウィンストン・チャーチル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Redirect テンプレート:政治家 サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルテンプレート:Lang-en, テンプレート:Post-nominals1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリス政治家作家軍人

1900年に政界入りした。はじめ保守党の政治家だったが、1904年自由党へ移籍し、自由党政権で閣僚職を歴任した。第一次世界大戦時にはテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクとして戦争を指導した。1925年に保守党へ復党し、大蔵大臣を務める。1930年代の停滞期を経て、第二次世界大戦の開戦とともに海軍大臣となる。1940年首相となり、1945年に退任するまでイギリスの戦争を主導した。チャーチルの半ば独裁的な指導のもとにイギリスは戦争を戦い抜き、アメリカソ連に並ぶ戦勝国の地位を得た。しかしイギリス軍は大戦中にドイツ軍日本軍に惨敗して威信を傷つけられることが多く、植民地での反英闘争激化を招いた。その結果、イギリスは戦後に植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現した。1955年4月にアンソニー・イーデンに首相職を譲って政界の第一線から退いた。

ノンフィクション作家としても活躍し、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。

目次

概要

1874年第7代マールバラ公爵の三男で政治家のランドルフ・チャーチル卿の長男としてオックスフォードシャーのウッドストックにあるブレナム宮殿で生まれる。母はアメリカ人ジャネット夫人

祖父がアイルランド総督に任じられ、また父がその秘書となった関係でアイルランドで幼少期を過ごす。1888年パブリックスクールハーロー校に入学するも、成績が悪かったため、大学に進学せず、1893年6月にサンドハースト王立陸軍士官学校に入学した。父の死後の1895年4月にテンプレート:仮リンクの騎兵将校となった。

1895年11月にはスペイン軍に従軍して蘭領キューバの反乱軍と戦い、初めての実戦経験を得る。1896年より連隊とともに英領インドに派遣され、セカンダラバードでインド人召使に囲まれた生活を送る。1897年にはインド西北部のパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦に参加した。この時の戦争体験を初めての著作『テンプレート:仮リンク』に記した。1898年スーダン侵攻にもテンプレート:仮リンクに所属して従軍し、オムダーマンの戦いに参加した。戦後この戦いについての『テンプレート:仮リンク』を著した。

1899年に一度除隊し、テンプレート:仮リンク庶民院議員テンプレート:仮リンク保守党候補として出馬するも落選した。1900年第二次ボーア戦争には従軍記者として従軍したが、ボーア人の捕虜となる。しかし同年のうちに捕虜収容所から脱走し、これが話題となって知名度を上げる。その後再び騎兵将校として再入隊し、ボーア戦争の第1段階の終わりであるトランスヴァール共和国首都プレトリアの占領まで戦った。この後のゲリラ戦と化した第2段階には従軍せず、帰国。ボーア戦争に関する『テンプレート:仮リンク』と『テンプレート:仮リンク』の2作を著した。

ボーア戦争中のカーキ選挙である1900年のテンプレート:仮リンクにオールダム選挙区から保守党候補として出馬し、初当選を果たす。しかしテンプレート:仮リンクジョゼフ・チェンバレン大英帝国外に対する保護貿易論であるテンプレート:仮リンクの導入を主張するようになると、自由貿易主義者としてそれに反発し、自由貿易護持の立場を明確にしようとしないアーサー・バルフォア首相や保守党を見限り、1904年5月には自由党へ移籍した。

関税問題に揺れるバルフォア保守党政権は1905年12月に総辞職し、ヘンリー・キャンベル=バナマンを首相とする自由党政権が発足すると、テンプレート:仮リンクとして政府に参加。植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人に対する融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカにまつわる問題に取り組み、また英領東アフリカの視察旅行を行った。

1908年、33歳のときにはハーバート・ヘンリー・アスキス内閣のテンプレート:仮リンクに就任した。デビッド・ロイド・ジョージとともに急進派閣僚として社会改良政策に尽力した。1909年にはテンプレート:仮リンク制定を主導し、また社会保障費を乏しくするとして自由帝国主義派閣僚たちの主張する海軍増強案に反対した。1908年、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した。

1910年2月にテンプレート:仮リンクに就任。1911年にはテンプレート:仮リンク第2部の失業保険制度の構築を担当した。一方でテンプレート:仮リンクをはじめとするストライキ運動の鎮圧を指揮したことで社会主義への敵意を強めるようになり、社会改良政策に取り組んだ急進派政治家としての面もこの頃から無くなっていく。

ドイツとの建艦競争が激化する中の1911年10月にテンプレート:仮リンクに就任。ドイツとの戦争準備を進めた。1914年8月に第一次世界大戦が開戦すると陸軍を大陸へ輸送させつつ、海軍からも航空部隊や水兵を上陸させ、ベルギーアントワープの防衛に当たろうとしたが、失敗。同年12月のフォークランド沖海戦に勝利したものの、1915年3月より開始させたガリポリ上陸作戦には惨敗を喫した。第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーがチャーチルに抗議して辞職するとチャーチル批判が強まり、1915年5月に自由党と保守党の大連立政権として再発足したアスキス挙国一致内閣では、海軍大臣を外され、テンプレート:仮リンクに左遷された。さらにガリポリ作戦の中止が決定された後の同年11月には閣僚職を辞した。

1916年12月にアスキスが失脚してロイド・ジョージが首相となると転機が訪れ、1917年7月にテンプレート:仮リンクとして再入閣を果たした。戦車の増産に努め、イギリスの勝利に貢献した。戦後の1919年1月にはテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクに転任。動員解除を指揮しつつ、ロシア革命を阻止すべく反ソ干渉戦争を主導した。ロシアの共産化は防げなかったが、赤化ロシア軍のポーランド侵攻は撃退できた。だが、干渉戦争を快く思わないロイド・ジョージにより1921年1月にテンプレート:仮リンクに転任させられた。イギリスの委任統治領となったイラクパレスチナアラブ人を懐柔すべく、テンプレート:仮リンクを主宰し、ハーシム家の者たちをイラク王やヨルダン王に据える一方、国際連盟の委任状に基づき、裕福なユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。1922年10月の保守党の政権離脱に伴うロイド・ジョージ内閣の総辞職につき、閣僚職を辞した。さらに同年11月の総選挙で落選。この頃に一次大戦に関する『世界の危機』を著した。

1923年11月の総選挙で保守党・労働党・自由党のいずれも単独で政権が取れない状況になると自由党は労働党に接近し、ラムゼイ・マクドナルド内閣の成立に協力した。チャーチルは反社会主義の立場からこれに反発し、自由党を離党。1924年10月の総選挙には保守党候補として出馬し、反共演説で人気を博し、当選を果たした。

同選挙の保守党の圧勝でスタンリー・ボールドウィン内閣が成立すると大蔵大臣として入閣した。新興国アメリカ日本の勃興でイギリス貿易が弱体化し、また戦争の影響で海外投資が減少し、貿易外収支も大幅に減る中、イギリス金融を再び世界をリードする地位に戻そうと戦前レートでの金本位制復帰を行った。だがこれはポンドの過大評価であったため、石炭産業をはじめとするイギリス輸出業に更なる打撃を与える結果となり、炭鉱労働者を中心としたゼネストを招いた。1929年総選挙の保守党の敗北でボールドウィン内閣は総辞職し、マクドナルドの労働党政権となった。

その後の世界大恐慌の中で保守党はマクドナルドと挙国一致内閣を組むも、チャーチルは閣僚職から遠ざけられた。1930年には『テンプレート:仮リンク』、1931年には『テンプレート:仮リンク』を出版した。1930年から1935年頃にかけてインド総督アーウィン卿やマクドナルド挙国一致政権が推し進めようとしたインド自治に強く反対し、保守党執行部との対立を深めた。1935年にマクドナルドが退任し、保守党首班政権となるもチャーチルは干され続けた。この間、ナチ党党首で1933年にドイツ首相に就任したヒトラーによる軍拡・領土拡張方針に対する融和政策に反対し続けた。

1939年9月にネヴィル・チェンバレンが融和政策を破棄してドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発。これを機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰した。1940年4月の北欧戦を主導したが、惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレンに帰せられ、1940年5月にその後任として首相職に就いた。同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗し、6月にフランスは陥落した。1940年8月から9月にかけてイギリス本土の制空権を狙うドイツ空軍の攻撃を受けるも、撃退することに成功した(バトル・オブ・ブリテン)。1940年11月にフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に三選したことでアメリカの反独姿勢が強まり、1941年3月には武器貸与法が制定され、アメリカのイギリス支援が本格化した。

チャーチルはドイツの同盟国イタリアによるギリシャ侵攻、イギリス半植民地エジプトへの侵攻の撃退に力を注ぐも、精強なドイツ軍の介入で苦戦を強いられ、ギリシャではドイツ軍に惨敗(ギリシャ・イタリア戦争)、北アフリカ戦線でもエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ軍に追い込まれていった。しかし1941年6月からヒトラーがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開始したことで、スターリンが独裁するソビエト連邦と同盟関係になった。1941年8月にはソ連とともにイラン侵攻し、同国の石油資源を確保するとともにソ連支援ルートを作った。

1941年8月にカナダニューファンドランド島沖に停泊する戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上でルーズベルトと会談を行い、「民族自決権」を盛り込んだ「大西洋憲章」と呼ばれる合意を行うも、チャーチルはナチス支配下のヨーロッパ諸国限定と解釈し、アジアアフリカへの適用は拒否した。またドイツの同盟国日本に強硬な要求を突き付けることもこの会談で確認され、1941年12月にアメリカの強硬要求を拒否した日本がアメリカの真珠湾を攻撃したことでアメリカとも同盟関係となった。

1942年3月には日本軍シンガポールを陥落させ、また7月にはドイツ軍トブルクを陥落させるなど、イギリスの威信が傷付く事態が連発。これによりインド人やエジプト人の間に独立の希望が広がり、反英闘争が激化、大英帝国のアジア・アフリカ支配体制は根幹から揺るがされた。しかし1943年からは敵国への空襲を強化して相手の足腰を弱め、北アフリカからドイツ軍を駆逐し、イタリア上陸を開始するなど攻勢に転じた。イタリア戦線はドイツ軍の勇戦で膠着状態となったが、1943年11月のテヘラン会談でチャーチル、ルーズベルト、スターリンの「三巨頭」は英米軍のフランスへの上陸作戦、それに乗じたソ連の攻勢を約し、これに基づき1944年6月にノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態は崩れた。1944年11月には三巨頭でヤルタ会談を行い、ドイツの分割占領、ポーランドのソ連支配が約束されるとともに、ソ連の対日参戦の密約が結ばれた。

1945年5月にドイツが無条件降伏すると、労働党が挙国一致内閣を解消。7月に解散総選挙を行うも、保守党は惨敗し、政権を失った。チャーチルは野党党首に落ちたものの、以降も自らの知名度を生かして独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。1946年3月にはアメリカのテンプレート:仮リンクで「鉄のカーテン」演説を行う。また労働党政権がインドをはじめとする植民地を次々と手放していくことを帝国主義者の立場から批判した。また二次大戦の回顧録『テンプレート:仮リンク』全6巻を1948年から1巻ずつ出版して話題となり、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。

1951年10月の総選挙での保守党の勝利で政権を奪還。1953年のスターリンの死で米ソが雪解け時代に向かう中、チャーチルも共産主義国に対する融和的態度を取るようになった。一方で核武装、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も粛々と進める。また植民地独立を阻止することに力を注いだが、時代の趨勢には抗えず、ほぼ失敗に終わった。老衰が原因で1955年4月にアンソニー・イーデンに首相職を譲って引退した。

テンプレート:仮リンク』を出版した後、1965年に死去した。 テンプレート:-

生涯

出生と出自について

誕生

1874年11月30日、午前1時30分頃、ランドルフ・スペンサー=チャーチル卿とその夫人ジャネットの長男としてウッドストックにあるマールバラ公爵家の自邸ブレナム宮殿で生まれた[1][2][3]

父ランドルフ卿は第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチルの三男であり[4]、1874年春にマールバラ公爵家の領地であるテンプレート:仮リンクから出馬して庶民院議員に初当選し、保守党の政治家になっていた人物である[5][6][注釈 1]

母ジャネット(愛称ジェニー)はアメリカ人投機家テンプレート:仮リンクの次女であった[9]

父母は普段はロンドンで暮らしているが[10]、この日はテンプレート:仮リンクであり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催の舞踏会が予定されていた[2]

スペンサー=チャーチル家の伝統で代父(祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付けられた[11]

12月27日にブレナム宮殿内の礼拝堂で洗礼を受けている[12]。新年を迎えるとランドルフ卿一家はロンドンの自邸へ帰り、チャーチルは乳母エリザベス・エヴェレスト(Elizabeth Everest)によって養育されることになった[12][13][注釈 2]

テンプレート:Gallery

父の家系について

ファイル:1st Duke of Marlborough arms.png
マールバラ公爵の紋章。

チャーチル家が栄進するきっかけを作ったのは、17世紀ウィンストン・チャーチルだった。このウィンストンは弁護士の息子で、自身も弁護士になったが、清教徒革命の際に王党派の騎兵将校として戦ったこと、また初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズの姪を妻としたことで1660年王政復古後に成功を掴んだ。テンプレート:仮リンクの議員に当選し、また宮内庁の会計官となり、ナイト爵を与えられたのだった[16][17]

その息子であるジョン・チャーチルが一気に公爵にのし上がった人物である。ジェームズ2世ウィリアム3世アン女王の三代に軍人として仕えた彼は、モンマスの反乱を鎮圧し、名誉革命ではジェームズ2世を裏切って革命の成功に貢献し、大同盟戦争スペイン継承戦争では対仏同盟軍の総司令官として数々の戦功をあげるという活躍をした[18][19]。アン女王の寵愛を受けた女官サラ・ジェニングスと結婚したことで、とりわけアン女王から引き立てられ、スペイン継承戦争の戦功により初代マールバラ公爵に叙され、またテンプレート:仮リンクに広大な所領と、同地にブレンハイムの戦いの戦勝を記念するブレナム宮殿(ブレンハイムの英語読み)を建設するための資金30万ポンドを下賜された[20][21][22][3]。これは戦功に対する恩賞としては前代未聞の大盤振る舞いだった[23]

初代マールバラ公爵には無事成人した男子がなかった。議会はマールバラ公爵位を存続させるため特例として女系での継承を許可した[24][21]。これにより初代マールバラ公爵の死後、長女ヘンリエッタが第2代マールバラ女公爵となったが、彼女の息子も早世したため、彼女の死後、マールバラ公爵位は、彼女の妹であるテンプレート:仮リンク第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの間の子第5代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーに継承されることになった[24][21]

以降このチャールズ・スペンサーの直系男子がマールバラ公爵位を継承していくことになるが、チャールズはスペンサーの家名を使い続けたのでチャーチルの家名はこの時に一度消えた[24]。しかしチャールズの孫であり、1817年に当主となった第5代マールバラ公爵ジョージは、ワーテルローの戦いの戦勝ムードの中で武勲ある家名チャーチルを復活させることを許可され、以降「スペンサー=チャーチル」の二重姓を使用するようになった[25][23]

このジョージの孫にあたるのがチャーチルの祖父である第7代マールバラ公爵ジョン・スペンサー=チャーチルである。彼の代には歴代当主の浪費と、産業化に伴う地主の没落という世相を反映してマールバラ公爵家の家計は相当苦しくなっていた[25][26]。所領や家財を売り飛ばしてなんとか生計を保つという有様だった[25][26][4]

第7代マールバラ公爵には5人の息子があったが、うち3人は早世し、2人が無事成長した。長男ジョージと三男ランドルフ卿である[4]。この三男ランドルフ卿がチャーチルの父親である。

母の家系について

一方アメリカ人の母ジャネットは、1709年頃にイングランド・ワイト島からテンプレート:仮リンクに移民した開拓者ティモシー・ジェロームの子孫である[21][27]

ティモシーはコネチカット州テンプレート:仮リンクで一財産を築いた[28]。ティモシーの末子であるサミュエルはテンプレート:仮リンクの地主としてさらに成功を収め、その息子アーロンはアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの親戚の娘と結婚した[28]。アーロンの息子にアイザックがおり、そのアイザックの息子がチャーチルの祖父にあたるテンプレート:仮リンクだった[28]

レナードは南北戦争後の復興事業で大儲けし、先祖たちよりも大きな成功を収めた。銀行経営者、ウォール街の投機家、『ニューヨーク・タイムズ』の株主、サンフランシスコ横浜を繋ぐテンプレート:仮リンクの所有者、競馬場経営者、そして馬主にもなった[29][28]。彼はニューヨーク州議会議員を1年だけ務めた小金持ちアンブローズ・ホールの娘クラリッサ・ホールと結婚した。ホール家の伝承によるとホール家にはインディアンイロコイ族の血が流れているというが、正確なところは不明である[30]

レナードとクラリッサ夫妻は4人の娘を儲けた。そのうちの次女がチャーチルの母ジャネットであった。ジェローム一家はやがてパリに移住し、フランス皇帝ナポレオン3世から厚遇された[9]。レナードはまもなくパリを離れたが、クラリッサと娘たちはパリで暮らし続け、ジャネットもパリで育つことになった[31]。一家は普仏戦争で一時フランスを離れたものの、戦後パリに戻った[32]

1873年8月12日にワイト島のテンプレート:仮リンクに停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿は初めて知り合い、その場で惹かれあった二人は、3日後には婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ちであることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚した[33][34]

ランドルフ卿とジャネットは結婚して7カ月半という早産で長男チャーチルを儲けたのだった[10]

アイルランドでの幼少期

ファイル:Churchill 1881 ZZZ 7555D.jpg
7歳の頃のチャーチル(アイルランド・ダブリン)

1876年にランドルフ卿は兄ブランドフォード侯爵ジョージ皇太子エドワード・アルバート(愛称バーティ、後の英国王エドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで、皇太子の不興を買い、皇太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界における立場を失った[35][36][37]

時の首相・保守党党首ベンジャミン・ディズレーリが皇太子との関係を仲裁してくれたものの、ディズレーリからほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう勧められたランドルフ卿は、アイルランド総督に任命された父マールバラ公の秘書として妻や2歳の息子チャーチルを伴って1877年1月9日アイルランドに赴任した[35][38][39]

アイルランドにおいては公爵夫妻はダブリンフェニックス・パークの総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くのテンプレート:仮リンクで暮らした[7]。チャーチルが物心をついたのもアイルランドであり、彼は回顧録の中で「私が記憶している最初の場所はアイルランドだ」と書いている[35]

アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストがチャーチルの養育にあたっていた[40]。チャーチルは彼女のことを「ウーマニ」と呼んで慕い、8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった[41][42]。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り[43]、「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしたという[42]。またこの頃から家庭教師が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという[44]1879年の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと常に気を揉んだという[45][46]

1880年2月4日、弟テンプレート:仮リンクがダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二人のみである[47][48][注釈 3]

この直後にテンプレート:仮リンクがあり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、一家そろってイングランドに帰国した[47]。ランドルフ卿は再選を果たしたものの、保守党は大敗し、ディズレーリ内閣は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した[51][47]

学生生活

聖ジョージ・スクール

1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父ランドルフ卿の決定でテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクに入学した[52][53][54]

この学校でのチャーチルは落ちこぼれだった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児だった[55]。校長からもよく鞭打ちに処された[56][57][注釈 4]。チャーチル自身もこの学校については良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している[59]

1884年夏に聖ジョージ・スクールを退学した。乳母エヴェレストがチャーチルの身体に鞭で打たれた跡があるのを見つけて、それを母ジャネットに報告した結果、ジャネットの判断で退学することになったのだという。アメリカ人であるジャネットはイギリス上流階級のサディスティックな教育方法に慣れておらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという[57]

ブライトン寄宿学校

つづいてブライトンにある名もなき寄宿学校に入学した[60][61]

チャーチルにとってこの学校は聖ジョージ・スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わったことのない、親切と共感があった。」と幸せそうな回顧をしている[60]。この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響していると思われる[62]

この学校でのチャーチルの成績表によると、品行はクラス最低だが、英語、古典、図画、フランス語はクラスで7番目から8番目ぐらいだった[63]乗馬水泳に熱中し[62][64][65]、作文に関心をもったのもこの頃だという[62]

チャーチルは巷で自分の父が「グラッドストン首相のライバル」などと大政治家視されているのを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「ノンポリはバカなのだろう」などと公言していた[65]

その父ランドルフ卿は1886年成立のソールズベリー侯爵内閣で大蔵大臣庶民院院内総務に就任し、次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職する羽目になり、事実上失脚することとなった[66][67][68]テンプレート:-

ハーロー校

ファイル:Jennie Churchill with her sons.jpg
1889年の弟テンプレート:仮リンク(左)、母ジャネット(中央)、チャーチル(右)

1888年3月、パブリック・スクールハーロー校の入試を受けた。入試試験の出来はいまいちで、苦手なラテン語にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、学校側としても落とすわけにもいかず、校長の判断で合格ということになった。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた[69][70][71][注釈 5]

ハーロー校での成績は悪かった[69][72]。無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し始めたかと思うと全くやらなくなるという気分のムラが激しかったという[69]。ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された[73]。また当時のハーロー校では下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという[74]

しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃やフェンシング水泳も得意だった[75][72][76]。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた[77][70]。「ハーローヴィアン」という校内の雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才能を磨いていった[74]

当時のハーロー校にはサンドハースト王立陸軍士官学校への進学を目指す「軍人コース」という教育コースがあり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは軍人コースに入れるしかないと考えていた[78][79]。チャーチルによればチャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時にランドルフ卿が部屋に入って来て、チャーチルに「陸軍に入る気はないか」と聞いたが、それに対してチャーチルがイエスと答えたことで最終的にこの進路が決まったのだという[78][80]

しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった[78][79]。ハーロー校の校長の薦めでチャーチルはサンドハースト王立陸軍士官学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった[78][81]テンプレート:-

軍人・従軍記者として

サンドハースト王立陸軍士官学校

ファイル:Winston Churchill 1874 - 1965 ZZZ5426F.jpg
1895年2月、第4女王所有軽騎兵連隊に入隊したチャーチル

18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので[注釈 6]、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった[82][81][83][注釈 7]

幼時から軍隊に憧れていたチャーチルはここにヴィクトリア女王の軍隊の軍人となったのであった[82]

つまらない数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中することができるようになった[83][85]。とりわけアメリカ独立戦争普仏戦争に強い興味を持ち、その研究に明け暮れた[85]

ただしこの頃、父ランドルフ卿の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなくなっていた[86]。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしている[87][85]

1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校の卒業試験に合格した[88][89]アルダーショット駐留のテンプレート:仮リンクに配属された[89]

父の死

父ランドルフ卿の健康状態は数年前から悪化し続けていた。ランドルフ卿は1894年6月に最後の思い出作りでジャネットとともにアメリカ日本、また英領香港、英領シンガポール、英領ラングーンなどアジア植民地を歴訪する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという[87]。医者の予言通り、父は旅行から帰国した直後の1895年1月24日に死去した。45歳という若さだった[83][88][90][注釈 8]

チャーチルは自伝の中で父の死について「父と同志になりたいという夢、つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。私に残された道は父の思い出を大切にし、父の意志を継ぐことだけだった」と書いている[88][92]

父の死によって家長となったチャーチルは、逼迫したチャーチル家の家計をしょって立たねばならなくなった。父は晩年にロスチャイルド家から融資を受けて南アフリカ金鉱株を買っていたが、これを相続したチャーチルは南アフリカ金鉱株の高騰で早々に莫大な利益をあげることができた。しかし相続した借金額も巨額だったので、結局その利益はほとんど返済に充てるより他になかった[84]

同年7月には乳母エヴェレストも死去した。チャーチルは彼女のことを「私の20年の人生で最も親密な友人だった」と評し、その死を大いに悲しんだ[92][93]。彼女の葬儀はチャーチルが一切を手配した[90]

初訪米とキューバ反乱鎮圧戦への参加

騎兵将校になったチャーチルは、戦争が起きる気配がないことを残念がっていた。ナポレオン戦争時代に生まれたかったとよく愚痴をこぼしていた[94]

そんな中の1895年テンプレート:仮リンクスペインの支配に抗するテンプレート:仮リンクホセ・マルティらの反乱が勃発した(第二次キューバ独立戦争)。関心を持ったチャーチルは軍から2ヶ月半の長期休暇をもらい[注釈 9]、さらにスペイン政府にキューバの反乱鎮圧に協力したいと申し出て、キューバ渡航の許可を得た[94]

こうして1895年11月初め、レジナルド・バーンズという同僚とともにキューバへ向けて出港した。途中アメリカ・ニューヨークに立ち寄り、母方の祖父レナード・ジェロームの友人であるアメリカ下院議員テンプレート:仮リンクから歓迎された[96][95]。チャーチルはこの頃すでに政界進出の野望を持っていたので[97]、コクランから演説手法について色々と手ほどきを受けた[96][98]。またコクランの紹介でニューヨーク市内の各所を見学したが、とりわけ裁判所に驚いた。法廷が普通の部屋であり、裁判官も検事も弁護士もイギリスのようにカツラや法服を着用せず平服で出廷してきたからである。チャーチルは「伝統や威厳などまったくなかった。それでも絞首刑判決を下せるというのは、大したことだ。」と感心している[98]

キューバに到着した後はスペイン軍と行動を共にした。チャーチルはこの従軍中にキューバ製葉巻と昼寝の習慣を身につけたという[99][100][101]。またこの戦争中、チャーチルは『テンプレート:仮リンク』紙と特派員契約をしており、報告書を同新聞社に送っている[102][103]。この経験で特派員として戦地に赴くことは、いい小遣い稼ぎになると味をしめたようだった[104]

21歳の誕生日である1895年11月30日に初めて「実戦」経験を得た。道で朝食をとっていたところ、ゲリラの銃弾が顔のすぐ近くをかすめたのだった。その敵たちはすぐに姿を消した[99][105][106]。その数日後にはさらに激しい銃撃戦に遭遇した。敵は30分ほど銃撃を続けてすぐに撤退したので、チャーチルが戦功を立てることはできなかったが、この戦闘で彼は初めて戦死者を見ることになった[107]

チャーチルは口には出さなかったが、圧政に抗しようという今回の反乱の精神には一定の理解を持っていた[99][100]。だが、その一方で彼はゲリラの野蛮な戦法は嫌っており、それに勇敢に立ち向かうスペイン軍人たちを尊敬していた[100]。またスペイン軍人と話しているうちにスペイン人は決してキューバ人を憎んでおらず、イングランド人がアイルランド人に対して持っているような感情をキューバ人に対して持っていると考えるようになった[99]

チャーチルの後年の帝国主義思想は、このキューバでの経験が背景になって形成されたと考えられる。すなわち、他国を支配することでイギリス人の支配民族としての責任感を強くしていけば、その支配は被支配民族を搾取するためではなく、被支配民族に慈悲を与えるためのものとなっていくであろうという考え方である[99]テンプレート:-

英領インド勤務

ファイル:Churchillpoloindia0001.jpg
1897年インド勤務時代のチャーチル。ポロ用の馬とインド人召使とともに。

イギリスに帰国したチャーチルは更なる従軍経験と特派員としての原稿料を渇望していた(母の借金が膨らんでおり、チャーチル家の家計はますます苦しくなっていた)。オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起したクレタ島テンプレート:仮リンクが発生した南アフリカなどに特派員として赴く事を希望し、母を通じて各方面に手をまわしたが、実現しなかった[108]

そんな中の1896年冬に所属する第4女王所有軽騎兵連隊とともにチャーチルは英領インドに転勤となった[109][101]。インド駐留のイギリス軍将校はまるで王侯のように暮らし、日常生活をすべてインド人召使に任せていた。チャーチルもインドでそのような生活を送った[109][110]。インド人召使はかなり薄給で雇うことができるが[110]、困窮していたチャーチルにはそれでも厳しく、インド人金融業者から借金している[109]

インドは平穏すぎて退屈な時間が多く、チャーチルにとって面白いものではなかった。彼はこのインド勤務時代を利用して多くの読書をした[111][110]アリストテレスの『政治学』、プラトンの『共和国』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、マルサスの『人口論』、ダーウィンの『種の起源』、マコーリーの『テンプレート:仮リンク』などに影響を受けたという[111][112][113]

インド勤務時代に唯一参加した実戦は、1897年夏にインド西北の国境付近で発生したパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦だった。この反乱が発生するとチャーチルは鎮圧に派遣されたマラカンド野戦軍に入隊を希望し、はじめ新聞の特派員、将校に欠員が生じた後にはその後任として戦闘に参加した[114]。しかしチャーチルは勲章を得ようと焦るあまり、しばしば独断で無謀な行動に出たため、やがて帰隊させられた[115]

この時の体験談を処女作『テンプレート:仮リンク』としてまとめた。この作品の評判が良かったため、チャーチルは続いて『テンプレート:仮リンク』という地中海沿岸の某国の革命運動を舞台にした小説を書いた。これも好評を博し、かなりの収入になった[116][117]

1898年夏に休暇をとってイギリスに帰国した[118]テンプレート:-

スーダン侵攻に従軍

この頃、イギリスではスーダン問題が再浮上していた。スーダンはもともとイギリスの傀儡国家エジプトの属領だったが、1881年に発生したマフディーの反乱により、時の英国首相グラッドストンが放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれ、英国支配から離れた独立国家となっていた(テンプレート:仮リンク)。しかしロシアフランスエチオピアへの野心が高まる中、首相ソールズベリー侯爵はそれに先手を打つべく、エチオピアに隣接するマフディー国家へ侵攻することを決定したのだった[119]

戦争を渇望していたチャーチルはこの侵攻にも従軍することを希望した。『マラカンド野戦軍物語』を高く評していた首相ソールズベリー侯爵と会見できたのを好機としてエジプトの実質的統治者だったイギリス駐エジプト総領事テンプレート:仮リンクを紹介してもらい、彼の決定により従軍できることとなった[118]。この戦争でも『テンプレート:仮リンク』紙と特派員契約を結んだ[120]

1898年8月にホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス軍に加わって、ナイル河を遡って進軍した[118]。キッチナー軍は9月1日にはマフディー国首都オムダーマンを包囲し[121]、翌9月2日、マフディー軍4万が打って出てきて、オムダーマンの戦いが始まった。キッチナー将軍はテンプレート:仮リンクに突撃を行わせた(歴史上最後の騎兵突撃とされる)[122]。チャーチルはインド勤務時代に肩を脱臼していた関係で、他の騎兵将校たちのように剣ではなく拳銃を使用して突撃したため、比較的安全に戦うことができた[123][124]。戦いは多くの戦死傷者を出しながらもイギリス軍の勝利に終わり、マフディー国家は滅亡し、スーダンはイギリスとその傀儡国家エジプトの主権下に戻った。

インドの第4女王所有軽騎兵連隊に帰隊したチャーチルは、今回の戦争についてまとめた『テンプレート:仮リンク』を著した。この著書の中でチャーチルはキッチナー将軍を批判的に書いている。特に戦い方が犠牲を問わなすぎることや、兵士たちがテンプレート:仮リンク[注釈 10]の墓を暴いたのを止めなかったことを批判している。チャーチルはすでに政界に転じる決意を固めていたため、キッチナーに遠慮する必要がなかったのだと思われる[126]テンプレート:-

軍を除隊、選挙に初挑戦

1899年春に陸軍を除隊した[127]。これは作家としてだいぶ名前が売れて文筆で生計を立てていく自信が付いたので、金がかかってしょうがない騎兵将校はこの際やめてしまおうという判断だったと思われる[124]

1899年6月にテンプレート:仮リンク庶民院議員テンプレート:仮リンク保守党候補として出馬した[128]オールダムは繊維産業の町で労働者が有権者の中心だったため、保守党としてはディズレーリの「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していたランドルフ卿の息子を候補に担ごうとしたのだった[129]

チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識した選挙戦を展開し、「帝国を維持するには自由な人民、教育ある人民、飢えない人民が必要だ。だからこそ我々は社会政策を支持する」と演説した[130]。だが補欠選挙の最大の争点は社会政策ではなく、国教会に地方税を投入するソールズベリー侯爵の政策に対する賛否だった。自由党はこれを徹底的に批判して選挙戦を有利に展開し、チャーチルも選挙戦後半でつい「私が当選したらこの法案には反対する」という失言をしてしまい、変節者という批判を受けてますます不利な立場に追いやられた[131]

イギリスの選挙区は1884年の第3次選挙法改正以来、原則として小選挙区になっていたが[132][133]、オールダム選挙区は数少ない2議席選出の大選挙区だった[134]。しかし選挙の結果は、2議席とも自由党がとり、チャーチルは今一歩のところで落選となった[135]

第2次ボーア戦争に従軍

ファイル:Churchill gallery2.jpg
1899年、第二次ボーア戦争時の従軍記者チャーチル

南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国オレンジ自由国を併合せんと目論むソールズベリー侯爵内閣テンプレート:仮リンクジョゼフ・チェンバレンはボーア人を戦争に追い込もうとあらゆる手で挑発を続け、とうとう1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発した[136][128]

チャーチルは再び『モーニング・ポスト』紙の特派員となり、今回は民間ジャーナリストとして戦地に赴いた[137]。戦闘が発生しているテンプレート:仮リンクへ向かい、11月15日には装甲列車に乗せてもらったが、この列車は途中ボーア人の攻撃を受けて脱線し、チャーチルを含めて乗っていた者らのほとんどが捕虜になってしまった[135][137]

トランスヴァール首都プレトリアの捕虜収容所に収容された。チャーチルは今の自分は民間人の立場なのだからすぐに釈放されると思っていたが、英字新聞が「『チャーチル中尉』の勇気ある行動」を称える記事を載せたせいで、釈放されるどころか、下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺される可能性も出てきた[138]。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱走した[137]。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークロレンソ・マルケスのイギリス領事館にたどりついた[139][140]

この間、新聞報道などで「チャーチルが捕虜収容所を脱走したが、再逮捕されて銃殺された」という噂が流れていたため、チャーチルの生存が判明したことへの反響は大きかった[139][141]。この頃、戦況はテンプレート:仮リンク将軍率いるイギリス軍が全滅したり、各地でイギリス軍が包囲されたり、イギリス軍が劣勢であった[142]。そのためチャーチルのこの脱走劇は戦意高揚のいい英雄譚となった[143]

この後、チャーチルはブラー将軍のおかげでケープ植民地で新編成された南アフリカ軽騎兵連隊に中尉階級のまま再入隊できた[144][145]レディスミスで包囲されるイギリス軍の救援作戦に参加し、ついでテンプレート:仮リンクの指揮下でヨハネスブルクプレトリアへの侵攻作戦に従軍した[144][145]1900年6月5日[146]のプレトリア占領の際にはチャーチルは真っ先に自分が収容されていた捕虜収容所に向かい、そこにイギリス国旗を掲げて復讐を果たした[144]

国土が占領されてもボーア人が屈することはなく、この後、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していくのだが、チャーチルはそれを体験することなく、プレトリア占領とともにイギリスへ引き上げた[144]

帰国後ただちにボーア戦争に関する『テンプレート:仮リンク』と『テンプレート:仮リンク』の2作を著した[147]テンプレート:-

保守党の新米議員として

庶民院議員に当選

トランスヴァール共和国首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相ソールズベリー侯爵と植民地相チェンバレンは、いま解散総選挙すれば有利な議会状況を作れると踏んで、1900年9月1日に総司令官ホレイショ・キッチナー将軍にトランスヴァール併合宣言を出させるとともに、9月25日に議会を解散した[146]

こうして「カーキ(軍服の色)選挙」と呼ばれたテンプレート:仮リンクが行われた[135][148]

チャーチルはこの総選挙に再びテンプレート:仮リンクから保守党公認候補として出馬した。今度の選挙は、捕虜収容所からの脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった[135][148]。与党(保守党自由統一党)の選挙戦を取り仕切っていた植民地大臣チェンバレンもチャーチル応援のため選挙区入りしてくれた[148]

選挙の結果は自由党候補テンプレート:仮リンクが最も得票したものの、チャーチルも第2位の得票を得た。オールダム選挙区2議席を選出するため、チャーチルも次点当選できた[149]。こうしてチャーチルは26歳にして庶民院議員となったのだった[150]

総選挙全体の結果も与党保守党と自由統一党が野党自由党テンプレート:仮リンクに134議席差をつけて勝利した[151]テンプレート:-

講演会と処女演説

ファイル:Wc0042-3b13159r.jpg
1900年末の保守党議員チャーチル。訪米時の写真。

保守党の庶民院議員となったチャーチルは早速イギリス各地で講演会を行って金を稼いだ。さらに1900年末には北アメリカ大陸に渡り、アメリカや英領カナダで同じような講演会を開いてさらに稼いだ[147][150]

アイルランド系アメリカ人はアイルランド魂で反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もどちらかというとボーア人寄りの人が多かった。そのためチャーチルもアメリカ人からしばしばボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャーチルも侵略戦争であることは否定できず、「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない」と弁明している[147]。しかし講演会の人の集まりはよく、かなりの収入にはなった[147]

1901年1月にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が国王に即位した[152]。チャーチルは、新国王のもとで1901年2月から開会された庶民院に初登院した[153]

チャーチルのテンプレート:仮リンクは、自由党急進派でボーア戦争に反対するデビッド・ロイド・ジョージ議員の激しい反戦論に対抗して、政府を擁護するものだった[154]。ただその演説の中でチャーチルは「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」とボーア人を擁護するかのような発言も行い、植民地大臣チェンバレンをいらだたせた[155]

1901年5月24日にはフリーメーソンに加入している[156][157][158]

「ヒューリガンズ」結成

チャーチルが最初に目指したのは父ランドルフ卿が大蔵大臣として取り組もうとした陸軍予算の削減だった。テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクが常備軍を現行の二個軍団から三個軍団に増設したいという方針を示したのに対して、チャーチルは1901年5月に反対演説に立ち、「非ヨーロッパの野蛮人を相手にするのは一個軍団で十分だし、ヨーロッパ人を相手にするには三個軍団でも不十分だ。イギリスには世界最強の海軍があればよい」と述べた[159]。この演説は、野党自由党からは喝采が送られたが、保守党執行部は新米議員の造反に驚き、「親孝行と公務を混同してはならない」と批判した[159][160]

これをきっかけにチャーチルは保守党執行部に造反することが増えていく。父が「テンプレート:仮リンク」と呼ばれる党執行部に造反する小グループを作っていたのに倣い、首相ソールズベリー侯爵の末子であるテンプレート:仮リンクらとともに反執行部的小グループを形成しはじめた。やがてこのグループは「フーリガンズ」と「ヒュー・セシル」の名前を組み合わせて、「テンプレート:仮リンク」と呼ばれるようになった[161]

チャーチルとしては保守党左派と自由党右派(自由帝国主義者)を一つにまとめ、政界再編のきっかけとすることを考えていたという[162]

ジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論への抵抗

1902年7月11日、長らく首相を務めてきたソールズベリー侯爵が病により退任し、代わってアーサー・バルフォアが大命を受けた。この頃からボーア戦争が客観的に評価されるようになったことで世論は政権に批判的になっていき、政権与党内の結束力も乱れていった。こうした中で関税問題をめぐって政権与党内の分裂が始まることとなった[163]

第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政が赤字となった。それを補うために各種増税が行われ、その一環で穀物関税再導入も暫定的かつ少額でという条件で実施された[164]。こうした中、チェンバレンは大英帝国内にテンプレート:仮リンクを導入する関税改革を行うべきと主張するようになった。これはすなわち帝国外に対する関税を永続させよという保護貿易論であった[165][166]

チェンバレンの保護貿易論をめぐってイギリス世論は二分された。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった[167]。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し[168]、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった[167][169]。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した[170][171]

この論争は政界にも大きな影響を及ぼし、第二次ボーア戦争の評価をめぐって小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた野党自由党が自由貿易支持・反チェンバレンのもとに団結した。一方政権与党は自由貿易派と保護貿易派に分裂していった[168][172]

チャーチルやヒュー・セシル卿ら「ヒューリガンズ」は自由貿易を支持し、チェンバレン批判を行った[172]。自由貿易を支持することは父ランドルフ卿の魂を継承することでもあったし[173]、またチャーチルの選挙区であるオールダム選挙区の主要産業である木綿産業を満足させる効果もあった[169]

1903年5月、チェンバレンが関税改革案を明確に提示してきたのを受けてチャーチルはバルフォア首相に対して「首相がチェンバレン植民地相の保護貿易論を明確に否定する声明を出されないのであれば、私としては党を変える必要が出てきます」という内容の手紙を送った[169]。さらに同年11月にはチェンバレンの本拠であるバーミンガムに乗り込んで、チェンバレンの保護貿易論を批判するという挑発行動をとった[174]テンプレート:-

自由党の政治家として

自由党へ移籍

ファイル:Churchill19040001.jpg
1904年の自由党議員チャーチル

チャーチルは自由貿易支持を明確にしない保守党を見限り、自由党への移籍を希望するようになった。しかし自由党への移籍は容易ではなかった。世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては今さら保守党内自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかったからである[175]

しかし1904年5月に自由党からテンプレート:仮リンクからなら自由党候補としての出馬を認めるという打診を受け、チャーチルはこれに飛びついた[176]。この選挙区は保守党が強く、自由党ははなから当選を諦め、1900年の解散総選挙の際にも対立候補を立てなかった選挙区だったが、元保守党議員のチャーチルなら当選の見込みもあるのではと自由党執行部は考えたのである[176]

こうしてチャーチルは1904年5月から保守党を離党して自由党に移ることとなった[177]。この移籍について彼は「我が父に酷い仕打ちをした保守党から離れる機会に恵まれて本当にうれしい」と述べている[173]

以降チャーチルはバルフォア政権や保守党に激しい攻撃を加えるようになった[178]。並行して父ランドルフ卿の伝記『テンプレート:仮リンク』の執筆を開始した。父に関する資料を徹底的に集め、元首相で自由党自由帝国主義派の領袖ローズベリー伯爵や敵対する元植民地大臣チェンバレンからも協力してもらった[179]。1905年末に完成したこの伝記は、ランドルフ卿を美化し、またチャーチル自身に我田引水を図ろうという意図も見えるが、ことさらバルフォア首相やチェンバレンを批判的に扱うような露骨なことはしなかったので、好評を得た[180][181]

キャンベル=バナマン内閣植民地省政務次官

1905年12月、関税問題で閣内不一致となったバルフォア内閣は総辞職し、自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに大命降下があり、自由党政権が発足した[173][180][182]。この内閣にチャーチルは自ら希望してテンプレート:仮リンクとして参加した[173][183]

1906年の解散総選挙

キャンベル=バナマンは少数与党政権の状態から脱するべく、1906年初頭にも解散総選挙に打って出た。この選挙でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬したチャーチルは保守党候補からの「裏切り者」との批判に対して「私は保守党にいた時、バカなことをたくさん言いました。そしてこれ以上バカなことを言いたくなかったので自由党へ移ったのです」と反論して笑いをとった[183]。そして自由貿易支持を訴えて手堅く支持を広げていき、当選を果たした[184][181]

この総選挙は全国的に自由党の圧勝に終わった選挙であり、改選前に401議席をもっていた保守党と自由統一党は157議席に激減した。一方自由党は一気に377議席を獲得し、自由党の友党アイルランド国民党も83議席を獲得した[185]。自由党としては1886年以来の安定政権を作ることが可能となった選挙であった[186]。最大の勝因は自由党候補たちの自由貿易支持の主張である。前述したように、庶民は食品の値段が上がる保護貿易には断固反対だった。チャーチルも「この選挙ははじめから自由党有利だった」と分析している[187]

英領南アフリカにまつわる問題の処理

植民地省政務次官となったチャーチルは、まず全土がイギリス領となった南アフリカの問題にあたった。前保守党政権はボーア人を強圧的支配下に置こうとしたが、チャーチルはボーア人とイギリス人が協力して成り立つ自治政府の樹立を目指した。英語オランダ語の平等を認め、またボーア人・イギリス人問わず100ポンド以上の財産を持つ成年男子に選挙権を認めることとした[188]。一方で先住民である黒人の権利は無視され、「ボーア人とイギリス人が協力してつくる自治政府」に強圧的に従わされることとなり、人種隔離政策などが推し進められていくことになる[188]

1906年総選挙で関税問題以外のもう一つ争点になっていたのが、英領南アフリカの鉱山で働いている中国人移民労働者の問題だった。南アフリカでは1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人がから南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていたが[189]、このように大量の人間を船に詰め込み、鉱山で重労働をさせる行為は、イギリスが禁止している「奴隷貿易」に該当するのではという問題だった。1906年総選挙では自由党候補の一部が中国人奴隷が虐待されている姿を描いたポスターを使用して国民に衝撃を与えた[190]

庶民院で植民地省を代表するチャーチルは、はじめ「中国人労働者たちは自発的な雇用契約で南アフリカの鉱山で働いている。極端に解釈したとしても奴隷には分類できない。」と答弁してこうした批判を一蹴していた[191][注釈 11]

ところが、この後ケープ植民地総督アルフレッド・ミルナーが中国人労働者に対する鞭打ちを許可したことが判明し、この問題が再燃した。ミルナー批判動議が提出されたが、チャーチルは自由党議員を結束させてこの動議を否決させることに成功した[191]。しかし批判熱はなかなか収まらず、さらにキリスト教の観点から「送られてくる中国人たちが船の中で同性愛をしているのでは」という批判も出てきて、問題はさらに紛糾した[186]

結局植民地省は1906年11月に中国人労働者の輸入を停止させた[193]。その後、この問題の処理は1907年より設置されたテンプレート:仮リンクに委ねられることになり、同政府の決定で中国人労働者の新規移民は禁止され、移民が認められなかった者は契約期間満了次第、清へ送り返すこととなった[194]テンプレート:-

英領東アフリカ視察旅行
ファイル:Churchillwatchtower0001.jpg
1907年、英領東アフリカ。即席の観測台で辺りを見回すチャーチル

1907年にチャーチルは植民地大臣エルギン伯爵の許可を得て、イギリス領東アフリカへ視察旅行に出た[195]

マルタ島キプロス島スエズ運河を通過して1907年10月にモンバサに到着した[195][196]。当時の東アフリカは完全にイギリスの支配下にあり、現地のイギリス人たちは現地民に対して絶対的支配者としてふるまっていた。それを見たチャーチルはそうした統治でも平和を保つことができるイギリスの支配の偉大さを再確認したという[197]

チャーチルはウガンダへ向かい、ヴィクトリア湖アルバート湖を繋ぐ鉄道建設予定地を通りながら、視察を行った[195]。先住民とも触れ合い、ブガンダテンプレート:仮リンクの引見も受けた。王は当時11歳の少年だったが、チャーチルはその気品に気後れして「イエス」「ノー」しか答えられなかったという。王はチャーチルに「戦の踊り」を披露してくれた。先住民たちはチャーチルを紳士的に歓迎し、チャーチルの方もアフリカ人が気に入ったようだった[198]

狩猟も楽しみ、サイイボイノシシを仕留めた。ライオンも狙ったが、成功しなかったという[197]

チャーチルはアフリカの風景の美しさに魅了され、『ストランド・マガジン』に寄稿した『アフリカ旅行記』の中でも風景をよく描写している[199]。また「鉄道が完成すればウガンダはランカシャーの綿産業の原料供給地にできるだろう。」という野望を書きつつ、「この地の開発が進むとともに白人やインド人の移住者が増え、先住民の黒人との間に摩擦が増えてくるであろう」という懸念も書いている[200]テンプレート:Gallery テンプレート:-

アスキス内閣商務大臣

1908年1月にイギリスに帰国した[201]。この年の4月にキャンベル=バナマン首相が退任し、大蔵大臣ハーバート・ヘンリー・アスキスに大命降下があり、テンプレート:仮リンクが成立した[202]

この内閣においてチャーチルはテンプレート:仮リンクとして入閣した。これは通商大臣ロイド・ジョージがアスキスの首相就任で空いた大蔵大臣に就任したことによる玉突き人事だった[203][204]

補欠選挙と社会主義への敵意

当時のイギリスには入閣する際に議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため[注釈 12]、チャーチルも議員辞職し、それに伴うマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区の補欠選挙に出馬した。前回の総選挙と異なり、今回は自由党に風は吹いておらず、しかも元来保守党が強い選挙区であるから、チャーチルは苦しい選挙戦を強いられた。保守党も「裏切り者」チャーチルを落とすために全力をあげた結果、チャーチルは僅差で落選した[206][207]

しかしチャーチルは知名度の高い議員だったので彼に出馬要請する選挙区は他にもあった。 スコットランドテンプレート:仮リンクで前職議員の叙爵(貴族院入り)に伴うテンプレート:仮リンクが行われることになり、同選挙区の自由党組織から出馬を要請されたチャーチルはこれを承諾した。この補欠選挙にはチャーチルの他に保守党候補、労働党候補、禁酒主義者のテンプレート:仮リンクの3候補が出馬していた[208]

ダンディー選挙区は2議席選出する大選挙区だった。前回の総選挙では自由党と労働党が議席を分け合ったため、この選挙区の自由党員には労働党のせいで1議席しか取れなかったと恨む者が多く、チャーチルも自由党票を固めるため労働党批判を中心的に行った[208]。その結果、チャーチルはこの選挙で初めて社会主義への本格的な敵意を露わにし、「社会主義は裕福な者を引きずり落とす。自由主義は貧困者を持ち上げる。」「社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃する」「社会主義は支配を高める。自由主義は人を高める」といった対比型の社会主義攻撃を展開した。この演説が功を奏し、チャーチルは大勝で当選を果たした[209]

結婚

1908年9月、33歳の時にテンプレート:仮リンクと結婚した[210][211]

彼女は礼儀作法はしっかりしていたが、財産は特になく、フランス語の家庭教師をして生計を立てている女性だった。父親はサー・ヘンリー・ホージェー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人であり、母親はテンプレート:仮リンクの娘であった[212]

二人は1908年3月の晩餐会で知り合い、チャーチルの方が最初に彼女に惹かれたという。チャーチルは彼女に自分の著作『ランドルフ・チャーチル卿』を読んだか聞いてみたが、読んでいないようだったので本を送ると約束したが、チャーチルは本を送り忘れたという。しかし後日再開した時には彼女の方もチャーチルに惹かれるようになっていたという[213][212]

そして8月に従兄弟マールバラ公のブレナム宮に彼女を招いた際にチャーチルの方からプロポーズし、受け入れられたという[211][212]。二人の結婚式はウェストミンスター大寺院で行われた[212]。チャーチル夫妻は娘4人と息子1人(長男テンプレート:仮リンク)に恵まれる[214]テンプレート:-

職業紹介所設置法
ファイル:Churchillkaiser0001.jpg
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と英国商務大臣チャーチル(1909年、ドイツ陸軍演習の視察)

チャーチルが商務大臣となった頃のイギリスの経済状況は悪かった。1907年後半から不況が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた[215]。こうした中で労働党の「労働権の確立」を訴える運動が盛り上がっていき[216]、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と主張して再攻勢をかけてきていた[215]

自由党としては伝統的支持層である中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来自由放任主義の立場である自由党が社会政策を実施する背景となった[217]。チャーチル自身も1906年総選挙の遊説の際にスラム街を見て、下層民の悲惨な生活にショックを受け、社会政策の必要性を痛感するようになったといわれる[218]

アスキス内閣によって実施された社会政策には「老齢年金法」や「国民保険法」(健康保険失業保険)、「炭鉱夫8時間労働制」、「職業紹介所」などがある[219]。このうちチャーチルが商務大臣として主導したのが「職業紹介所」と「失業保険制度」である[220]

チャーチルは1909年秋にドイツ陸軍大演習の視察としてドイツを訪問したが、この際にドイツの職業紹介所を視察して回った。当時ドイツも多くの失業者を抱えていたが、チャーチルはドイツの労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したという[221]

帰国したチャーチルはウィリアム・ベヴァリッジとともにテンプレート:仮リンクを起草して、これを成立させた[222][223][219]。この法律により、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所は中央政府が直接設置運営することになり、職業紹介所を全国に大幅に増やすことが可能となった[224][219]。この法律は失業にあえぐ国民から歓迎され、チャーチルは至るところで「親愛なるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声を受けたという[224]

しかし実は職業紹介所の設置は労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくすることを主眼としていた[224][225]。労働組合もこれを見抜き、「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」としてこの法律に反対した[224]。労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した[226]

チャーチルは1909年に労働党議員の要請を受け入れて、失業保険法案(Unemployment insurance bill)を議会に提出するも、この法案は貴族院で廃案にされた[227]

その結果、労働党の「労働権」確立を求める運動は弱まるどころかますます強まっていったのである[228]

テンプレート:-

海軍増強論争をめぐって
ファイル:ChurchillGeorge0001.jpg
アスキス内閣の二大急進派閣僚ロイド・ジョージ(左)とチャーチル(右)

イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけドイツがイギリスに急追していた。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった[229]

これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した[230]

しかし1908年2月にドイツ帝国議会で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指すことになった[231]。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった[232]

こうした中で発足したアスキス内閣は、発足後ただちに自由帝国主義派と急進派の閣僚の間で海軍増強論争が起こった[233]テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクや外務大臣エドワード・グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障費の財源確保を優先させるべきと主張した[234]。チャーチルは1908年8月15日のスウォンジでの演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している[235]

チャーチルのこの行動についてテンプレート:仮リンク代理であるテンプレート:仮リンクは「チャーチルは信念や主義で海軍増強に反対しているわけではなく、自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対している」と分析した[236]

しかしグレイ外相が「海軍増強が受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド・ジョージがドイツ脅威論をある程度認めるようになったことでチャーチルも立場を変更せざるをえなくなった。ロイド・ジョージとチャーチルは1909年と1910年の2年間に4艦の弩級戦艦を建艦することを認めるに至り、これにより閣内対立は一時収束した[235]

しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した[237]。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦を建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した[238]。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた[239]テンプレート:-

「人民予算」をめぐって

大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「テンプレート:仮リンク」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった[240]。「人民予算」の増税案は所得税率の引き上げ、相続税の引き上げと累進課税性の強化、そして土地課税制度導入など富裕層から税金を取り立てるものだった[241][242]。しかし野党保守党は「富裕層から取るのではなく、関税改革によって歳入増加を図るべき」と主張して人民予算に反対した[243]

この論争でイギリス社会は二分された。チャーチルは「人民予算」を支持する者たちを糾合して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成した。一方保守党のテンプレート:仮リンクらはこれに対抗して「テンプレート:仮リンク」を結成した。両組織とも激しい大衆取り込み・動員を行ったが、世論の支持はチャーチルの「予算賛成同盟」にあった[241][244]。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟のマールバラ公から圧力を受けており、「人民予算」にいまいち熱心ではなかったという[245]

「人民予算」は1909年11月4日に庶民院を通過したが、保守党・地主貴族が牛耳る貴族院から「土地の国有化を狙う社会主義予算」として徹底批判を受け、11月30日に圧倒的大差で否決された。これを受けてアスキス首相は議会を解散した[246][247]

1910年1月に行われたテンプレート:仮リンクでチャーチルは再びスコットランドのダンディー選挙区から出馬したが、スコットランドでは地主貴族や保守党に対する反発が強かったので当選は安泰だった。そのため選挙戦中、チャーチルは自分の選挙区よりも他の選挙区の自由党候補の応援演説に駆け回った[248]。全国的には自由党は苦戦を強いられ、選挙の結果は、自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も失った[249]。人民予算については自由党を支持するが、海軍増強問題では大増強を訴える保守党を支持するという者が多かったのが原因だった[250]

この選挙で自由党は過半数を失い、以降アイルランド国民党と労働党の閣外協力を得て政権を維持することとなった[248]。この両党の支持を得て「人民予算」は可決成立した[251]

アスキス内閣内務大臣

ファイル:Winston Churchill Vanity Fair 8 March 1911.jpg
内務大臣チャーチルの戯画(1911年3月8日の『バニティ・フェア』誌)

この選挙後、チャーチルは重要閣僚職であるテンプレート:仮リンクに就任した。35歳での内務大臣就任であり、これは歴代内務大臣で第2位の若さである(1位はサー・ロバート・ピール准男爵の33歳)[248]

議会法制定をめぐって

キャスティング・ボートを握るアイルランド国民党はアイルランド自治法案成立の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する貴族院改革を主張するようになった[252]。労働党党首ケア・ハーディはさらに過激に貴族院廃止を主張した[253]

こうした情勢の中、自由党も政権維持のため否応なしに貴族院改革に乗り出さねばならなくなった。1910年4月14日に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対しても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった[254]。チャーチルは庶民院におけるこの法案の審議を任された[255]

ちょうどその審議の最中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が新国王に即位した。政界に「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が広まり、自由党、保守党双方の話し合いの場が設けられた(「憲法会議(Constitutional conference)」)[256][257]

この時の融和ムードを利用してロイド・ジョージは自由党と保守党の中の「極端分子」を排除して大連立政権を作ることさえ計画し、バルフォアら保守党幹部に折衝を図った[258]。チャーチルもこの計画に乗り気であり[259]、保守党内の知り合いの議員に折衝を図ったが、保守党のチャーチルへの嫌悪感は強く、相手にされなかった。ロイド・ジョージの大連立構想にとってチャーチルはむしろ邪魔な「極端分子」に該当したようである[255]

結局大連立構想も「憲法会議」も決裂し、首相アスキスは国王から「貴族院改革を問う解散総選挙に勝利したならば国王大権で貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した[256][260]。こうしてこの年二度目の総選挙が行われることとなり、自由党は貴族院改革、保守党は関税改革を争点にして選挙戦を戦った[261]。チャーチルは前回選挙と同様、自分の選挙区より他の選挙区の自由党候補の応援に駆け回り、貴族の特権をはく奪すべきことや、生活費の上昇をもたらす保守党の関税改革を批判する演説を行った[262]

結局、テンプレート:仮リンクの結果は前回とほとんど変わらず、自由党272議席、保守党・自由統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席をそれぞれ獲得した[263]。しかし自由党とアイルランド国民党をあわせれば過半数を得たことから、アスキス首相は議会法案を再度提出。新貴族院議員任命をちらつかせて貴族院をけん制し、1911年8月10日議会法は成立し、庶民院の優越が確立した[264][265]

チャーチルは国王への報告書の中で「長期に及んだ不穏な憲法危機がやっと収束しました」と報告している[266]

失業保険制度の構築

この議会法制定により蔵相ロイド・ジョージはテンプレート:仮リンクを制定させることができた[267]

この法律は第1部と第2部に分かれており、第1部は賃金労働者のほとんどを加入対象とする健康保険制度、第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした失業保険制度を定めたものであり、廃案になった先のチャーチルの失業保険法を再導入したものだった[267][268]。失業保険は一部の職種の労働者に限定されているが、これは実験的導入であるためであり、成功した場合には他の業種の労働者にも拡大させるとしていた[268]

チャーチルは商務大臣だった頃から引き続いて失業保険問題を担当し、同法第2部の具体的制度の構築にあたった[253][269]。ロイド・ジョージが主導する健康保険の方は既存の民間保険団体や医療関係者の既得権とぶつかり合い、大揉めになったが、チャーチルの主導する失業保険の方はほとんど抵抗を受けなかったという。資本家は自分たちが必要としない労働者を失業保険が面倒を見てくれるということで基本的に歓迎し、労働組合も失業した組合員を持てあましていたため、反対の声は小さかったのである[270]

「シドニー街の戦い」
ファイル:Sidney street churchill.jpg
テンプレート:仮リンクの直接指揮を執る内務大臣チャーチル(丸で顔を囲ってある人物)

1910年11月16日、ロンドンイースト・エンドテンプレート:仮リンクにある宝石店で警官殺しを伴った強盗事件が発生した[271]

チャーチルは死亡した警察官たちの国葬を執り行いつつ、逃げた犯人の捜索を命じた。捜査を進めていくと、どうやらこの事件はロシアから亡命してきた反帝政革命家グループの犯行である可能性が濃厚となった。1911年1月初めになってそのグループの隠れ家がシドニー街にあることが判明し、警察が踏み込もうとしたが、銃で応戦され、テンプレート:仮リンクと呼ばれる銃撃戦が勃発した[272][273]

この報告を受けたチャーチルは現場に行って、警官隊の直接指揮を執った[272][274][注釈 13]。やがてその家から火の手が上がると、チャーチルは消火しようとする消防隊を押しとどめて、その家が燃え尽きるまで待機を続けた。家が焼け落ちた後、警察がその跡を調べたが、犯人の焼死体は2体しか出ず、他の者がどうなったかは不明だった[275]

この事件によりチャーチルの脳裏には社会主義への恐怖が焼きついたという[276]。社会政策に取り組み、軍拡に反対したチャーチルの急進性もこの頃から弱まっていくことになる[277]

ストライキの弾圧
ファイル:Tonypandy riots 1.jpeg
1910年、チャーチル内務大臣の命令でテンプレート:仮リンクを鎮圧すべく出動した警察官たちが道を閉鎖している。

暴動的ストライキに対しては事情のいかんを問わず厳しい弾圧の姿勢で臨んだ[278]

1910年11月8日に南ウェールズテンプレート:仮リンクで苛酷な炭鉱労働を行っていた労働者たちがテンプレート:仮リンクを起こした。これに対してチャーチルは、戦争大臣テンプレート:仮リンクを通じてテンプレート:仮リンク将軍率いる軍隊や警察部隊を鎮圧に派遣し、炭鉱夫労働組合指導者に対して「軍事力を行使することも躊躇しない」と恫喝した[279][278][280]。この軍事的恫喝のおかげで炭鉱夫2人の殺害だけでストを鎮圧することに成功した[278]

ちなみにチャーチルは個人的には炭鉱夫たちに同情していたが、内務大臣として法令の遵守を第一とし、また従来の戦争好きの性格と相まってこういう決断を下すこととなった[281][278]。それでも鎮圧軍を派遣するにあたっては軍隊に対し、「軍は炭鉱経営者たちの個人的使用人ではない」ことや「労働争議に介入したり、スト破りの役割を果たしてはならない」ことを訓令した[280]

だからといってチャーチルが労働者たちから免責されることはなかった。この事件以降チャーチルは労働者の激しい憎悪の対象となり、「トニパンディを忘れるな」は労働運動の合言葉になっていったのである[279]。労働党もチャーチルやロイド=ジョージら「自由党急進派」なる者たちへの不信を高めていった[282]

前述した国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのものであったが、それもむなしく、1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こしたことで再び盛り上がった[283]

1911年7月の第二次モロッコ事件[注釈 14]によりドイツとの戦争準備に入ることが決定された中での大ストライキであり、政府としては緊急に処理しなければならなかった[285]

チャーチルは弾圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行った。労働者たちは軍隊派遣に強く反発し、むしろ軍隊が派遣された場所で積極的な暴動ストライキが発生した。ロンドン、リヴァプール、テンプレート:仮リンクでは軍隊の発砲で多数の労働者が死傷する事態となり、イギリスは混乱の極致に陥った[286]

ここに至ってチャーチルも自分の弾圧路線が誤りであったことを認めざるをえなくなった。テンプレート:仮リンクはこの頃のチャーチルについて「打ちのめされたようだった」と語っている[287]。結局このストライキはロイド・ジョージが経営者たちのところを回ってドイツとの戦争が不可避かつ間近であると説得し、労働者に対して融和的態度を取らせたことで収束に向かった[287]。労働党議員ラムゼイ・マクドナルドは「この危機に際して、チャーチル内務大臣が、民衆操作に通じていたなら、市民的自由の意味を理解していたなら、内相の権限を機能的に行使できる能力があったなら、こんな大混乱には陥らなかっただろう」と語っている[287]

チャーチルは1911年8月15日の庶民院で「軍隊は国王陛下の物であるから、本来は労働争議にも干渉できる。しかし労働争議の仲裁は商務省に任せられているので、軍隊は労働争議が犯罪を伴った場合のみ治安維持目的で出動するべきだ」と述べ、自分が軍隊を出動させたのはあくまで治安維持のためであったことを強弁した[288]。だが労働組合側にこのような弁を信じる者はなく、労働組合のチャーチルへの嫌悪感は決定的となった。このことは労働者層に支持を拡大したいアスキス内閣にとってアキレス腱となった[288]テンプレート:-

アスキス内閣海軍大臣

内閣の中に置かれているテンプレート:仮リンクの席上、戦争大臣ホールデン子爵が海軍にも陸軍のテンプレート:仮リンクに相当する組織を設置すべきであると主張した。テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクはこれに反対したが、委員のほとんどはホールデン子爵を支持し、首相アスキスもホールデン子爵を支持したことで、マッケナは海軍大臣を辞することとなった[289]

1911年10月23日、マッケナと役職を交換する形でチャーチルが海軍大臣に就任した。閣僚としての地位は内相の方が上だが、ドイツとの開戦が迫っている情勢だけにこの閣僚職への就任は責任重大であった[290]

チャーチルは内務大臣として海軍火薬庫に警備を派遣するなどドイツとの戦争準備に尽力し、また帝国防衛委員会の会合にも積極的に参加してきた。そのため海軍の軍備や組織の問題に強い関心を持っており、その熱意をアスキスに認められた形であった[290]。またアスキスはチャーチルを急進派から切り離したがっており、彼を海軍大臣とするのはその観点からもちょうどよいと考えられた[291]

ドイツとの建艦競争
ファイル:Winston Churchill - 1914 Cartoon - Project Gutenberg eText 12536.png
野党である保守党(TORY)から支持を受けるチャーチル海相の海軍予算増額案を風刺した絵(1914年1月14日『パンチ』誌)

海軍大臣となったチャーチルは、バッテンベルク家ルイス王子第一海軍卿に任じつつ、70歳過ぎですでに引退していたジョン・アーバスノット・フィッシャー元提督を自らの相談役として重用した[292][293][294]。フィッシャーの提案を受け入れながら、海軍軍備増強を進めた[293]

13半インチ砲にかわって15インチ砲を導入し、クイーン・エリザベス級戦艦に搭載した[295]。またフィッシャーは装甲よりスピード重視の軍艦製造を目指したため、燃料を石炭から重油に転換する必要性に迫られ、フィッシャーが委員長を務める王立委員会のもとにテンプレート:仮リンクを創設し、19世紀以来イギリスが握っている中東の石油利権をより強力に掌握した[295][296][294]。また海軍航空隊の創設と育成にもあたった。そのためチャーチルを「イギリス空軍の父」とする主張もある。チャーチル本人によれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空用語を作ったのは彼なのだという[297]

一方首相アスキスは建艦競争の緩和を目指し、1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこれ以上海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をヴィルヘルム2世にもちかけた(テンプレート:仮リンク[298]

このホールデン子爵訪独中の1912年2月9日、チャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を行った[299][298][300]。チャーチルとしてはホールデン子爵をサポートするつもりでこの演説を行ったのだが、かえってヴィルヘルム2世の心証を悪くし、ホールデン子爵の提案はドイツ海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶されてしまった[301]

チャーチルは、1912年春にポーランド沖で150隻の軍艦と王室ヨットを動員した観艦式を開催し、ドイツを威圧した[302]。さらに王室船「エンチャントレス」号(HMS Enchantress)で地中海の視察旅行を行った。チャーチルは第一次世界大戦前の海相在任期間のうち実に4分の1をこの船の上で過ごしている[302]古代ギリシャ劇場跡を訪問した際にチャーチルはテンプレート:仮リンクを思い起こし、ドイツ軍はアテナイ軍と同じ運命をたどるだろうと思い込むようになったという[302]

海軍予算の面では1912年は巨額を要求したが、1913年は控えめだった[303]。1913年3月26日には、英独両国の建艦競争を1年間休戦するという「海軍休日案」をドイツに提案しているが、相手にされなかった[303][301]。そのため1914年1月には海軍予算の大幅増額を要求し、軍事費拡大に慎重な急進派閣僚ロイド・ジョージと対立を深めた[303][304][305]。結局この論争はアスキス首相の決定によりチャーチルの言い分が認められた[303][305]。3月の庶民院でチャーチルがこの海軍予算案を発表した際には、与党自由党からではなく、海軍増強を主張していた野党保守党から喝采されるという珍現象が発生した[306]

アイルランド問題をめぐって

1912年から1914年にかけてアイルランド自治法をめぐって議会が紛糾する中、アイルランド北部アルスタープロテスタントや保守党員たちは「アルスター義勇軍」を結成し、アイルランド自治にアルスターが含まれることに抵抗した。これに対抗してカトリックが大多数の南アイルランドもアイルランド義勇軍を結成した。この両軍が睨みあう状態となり、アイルランドは内戦寸前の状態に陥った[注釈 15]

そうした中、チャーチルは1914年3月19日に独断で艦隊をアラン島に出動させてアルスター義勇軍を牽制した[305]。チャーチルの父ランドルフ卿はかつて「アルスターは戦うだろう。そしてアルスターは正しいだろう」と述べたことのある親アルスター派であり、チャーチルもそれに影響されていた[309]。そのため逆にチャーチルこそがアルスターを牽制する役にふさわしいと考えられたのである[310]

アイルランド自治法案は1914年5月26日に3度目の庶民院可決が成り、議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。しかし内乱誘発を恐れたアスキス首相は、アルスターを6年間自治の対象から除外する修正案も提出した。その修正案について各方面との交渉中に第一次世界大戦が勃発し、保守党党首アンドルー・ボナー・ローとの交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになった。内乱の危機は世界大戦のおかげで回避されたのだった[311][312][313]

第一次世界大戦勃発

1914年6月のサラエボ事件を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国対ロシア、フランス第一次世界大戦が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれ、とりわけロイド=ジョージが参戦に反対した。しかしチャーチルは、熱烈に参戦を希望し、ドイツがロシアに宣戦布告した8月1日には独断で海軍動員令を出した[314]。自由党以外では保守党とアイルランド国民党が参戦を支持していた[315]。これを見たチャーチルはもし戦争賛成・反対で内閣や自由党が分裂するなら、反戦派は容赦なく追放し、保守党と連立政権を作るべきことを主張した[316]

8月2日にドイツ軍がベルギーの中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド=ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。参戦反対派のテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクによればロイド=ジョージの転向はチャーチルの影響であったという[317]

8月4日にイギリス政府はドイツにベルギーからの撤退を求める最後通牒を発したが、午後11時までの期限になってもドイツからの返信はなく、同時刻から参戦を決定する閣議が首相官邸で開催されたが、アスキス首相夫人テンプレート:仮リンクによると、この時チャーチルは幸せそうな顔つきで大股でずんずんと歩いて閣議室へ向かっていたという[315][316]

この頃の妻への手紙の中でチャーチルは「全てが破滅と崩壊に向かっているが、私は興味津津で、調子がよく、幸せな気分だ。恐ろしいことかもしれないが、私は戦争準備が大好きだ。」と書いている[315]

一進一退の戦況
ファイル:Churchillfisher19140001.jpg
引退したジョン・アーバスノット・フィッシャー元提督を第一海軍卿に任じるチャーチル海相の風刺画(『パンチ』誌)

英独の最初の海戦は8月5日に王立海軍軽巡洋艦アンフィオン」がドイツ帝国海軍機雷敷設艦ケーニギン・ルイゼ」を撃沈するも機雷に接触し、「アンフィオン」も沈没したという小規模戦闘だった。以降、このような小規模戦闘が繰り返されることになり、両国とも主力艦隊は軍港に温存して決戦を避けた[318]

チャーチルは艦隊を英仏海峡から北海へ移し、陸軍を安全に大陸へ輸送することに貢献した[319]。また海兵部隊をダンケルクに送りこみ、ここに海軍航空部隊の基地を置き、ドイツ軍の爆撃飛行船ツェッペリンの英本土飛来を阻止しようとした。またこの飛行場を防衛するため、陸軍兵器の開発にも携わり、陸上戦艦委員会を創設して装甲自動車や無限軌道自動車の開発・研究を行い、これらの研究が後に戦車を生み出すことになった[320]

10月初めには予備水兵から成る師団をドイツ軍に包囲されるアントワープ防衛に送り、かつ彼自身もアントワープに入り、防衛戦の直接指揮を執った[321][322][323]。しかし結局アントワープ防衛には失敗し、イギリス軍のうち二個大隊がドイツ軍の捕虜となった[324]。チャーチルは何の戦果もあげられずに、アントワープ陥落の4日前の10月6日にイギリス本国へ逃げ戻ってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党から「無駄な犠牲を出した愚かな作戦」「ヒーロー気取り」と激しい批判を受けた[321][325][326]

チャーチルは、開戦以来マスコミの評判が悪かった第一海軍卿ルイス王子(ドイツ人の血をひいていた)にアントワープ事件の責任を取らせて辞職させ、その後任としてフィッシャーを第一海軍卿に任じた[327][328]

この直後の12月にはフォークランド沖海戦が勃発し、王立海軍が勝利した。チャーチルは勝利に浮かれ、更なる大規模海戦を希望したが、ドイツ海軍はますます軍港に閉じこもってしまい、以降チャーチルの海相在任中には大規模な海戦は起こらなかった[329][330][注釈 16]

ガリポリの戦い

テンプレート:Main 1914年10月には反露親独的なオスマン=トルコ帝国がドイツ側で参戦しており、1915年1月にロシア帝国軍最高司令官ニコライ大公はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請した[328]

閣内にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争いがあったが、このロシアからの要請を期に戦争大臣ホレイショ・キッチナーは東方派に転じた。チャーチルも東方派になり、王立海軍をダーダネルス海峡に送りこむことを閣議で主張するようになった。閣議の結果、膠着状態の西部戦線打開策としてこの作戦が承認され、海軍だけではなく陸軍兵力をテンプレート:仮リンクから上陸させる作戦も決定された[332]

この作戦は1915年3月18日に英仏連合軍で実施に移された。合計18隻の英仏艦隊でもってダーダネルス海峡沖に攻めよせ、トルコ軍の要塞に次々と砲撃を加えて潰す事に成功した。ところが戦闘中に英仏軍の戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大被害を受けたため、テンプレート:仮リンク提督はエジプトからの増援の到着するまで作戦を延期すべしとの判断を下した[333][334][335]

その報告を受けたチャーチルは激怒し、ただちに再攻撃を行い、ダーダネルス海峡を突破し、マルマラ海にいるトルコ艦隊を撃破すべしと主張したが、ド・ロベックの判断を支持するフィッシャーらが反対し、再攻撃を要求しつつも最終判断は提督に任せるという返信を送ることとなった[334][335]

既に上陸を開始していた陸上部隊は海上からの援護なきまま戦う羽目となり、しかも一気に大軍を上陸させず、少しずつ上陸させたために、英仏海軍の攻撃から立ち直ったトルコ軍から攻撃を受けて大損害を被った[333][336]

チャーチルは後年までこの時に迅速な行動を起こさなかったことを後悔し、「もし英国艦隊がこの時にコンスタンティノープルに砲塔を向けられていれば、トルコは戦争から脱落し、バルカン半島諸国はすべて連合国側につき、1915年までには連合軍の勝利で終わり、ロシア革命が起こる事もなかったであろう」と推測している[337][338]テンプレート:-

罷免

5月半ば、もともとダーダネルス海峡での作戦に乗り気ではなかったフィッシャーが抗議の意味を込めて辞職した。チャーチルは慰留したが、拒否された。フィッシャーは保守党党首ボナー・ローに宛てて送った手紙の中で「海相が我々を破滅に導いています。あの男はドイツ人より危険です」と書いている[339]。もともとチャーチルを激しく嫌っていた保守党は開戦以来、チャーチルを「素人海相」「専門家に対抗する策士」などとこき下ろして批判してきたが、そこにこのガリポリの戦いの失態とフィッシャー辞職が来たので、チャーチル批判の機運は最高潮に達した[339]

また保守党は膠着状態の西部戦線の弾薬不足も批判しており、その批判動議が議会で可決された。これによりアスキス内閣は総辞職を余儀なくされた[340]。しかし戦時の政治危機を危惧したアスキスやロイド・ジョージ、保守党のボナー・ローらが交渉した結果、保守党内で目の敵にされているチャーチルを海軍大臣から外すことを条件として自由党と保守党が大連立政権を樹立することで合意した[333][341][342]

チャーチルは5月17日にこれを知ったが、非常にショックを受けた。保守党党首ボナー・ローに再考を願う手紙も書いたが、効果はなかった[341]

「貴方のように素晴らしい才能を持った人が40歳やそこらで終わるわけはないですよ」と励ましてくれた者もいたが、それに対してチャーチルは「いや、私が望んでいた事は完全に失われたのだ。それは戦争を遂行し、ドイツを負かすことだ。」と語った[343]

アスキス連立内閣ランカスター公領担当大臣

こうして挙国一致内閣としてのテンプレート:仮リンクが成立した。この政権には自由党と保守党のみならず、労働党からも戦争賛成派[注釈 17]議員の一部が参加した[344]

保守党前党首バルフォアがチャーチルに代わる海軍大臣に就任し、チャーチルは閑職のテンプレート:仮リンクに左遷された。ただ閣僚として戦争会議には残ることができ、チャーチルはこれが目的で閑職であっても閣僚職を引き受けたのだった[345]

戦争会議はダーダネルス委員会と改称され、ダーダネルスでの作戦指導を専門とするようになった。チャーチルはダーダネルス作戦の続行を主張して受け入れられ、8月に改めてガリポリ上陸作戦が決行されたが、更なる犠牲者を出しただけに終わった。結局10月末にはガリポリ半島から撤退することが委員会で決定された。ダーダネルス作戦は25万人に及ぶ英仏軍将兵の死傷者を出しただけで何も得る物なく終わった。ダーダネルス委員会も解散することとなった。アスキス首相は少数の閣僚で構成する戦争委員会を新設したが、もはやチャーチルはそこには入れてもらえなかった[346][347]

閣内に留まる意味がなくなったチャーチルは11月15日をもってランカスター公領担当大臣を辞し、内閣から離れた[348][349]

西部戦線に従軍

ファイル:WinstonChurchill1916Army.gif
1916年、テンプレート:仮リンク所属のチャーチル少佐(中央)。

とにかく行動をしていないと済まないチャーチルは、閣僚職を辞職してまもない1915年11月19日には西部戦線に従軍しようと、フランスへ向かった。イギリス海外派遣軍総司令官ジョン・フレンチ将軍は、チャーチルに陸軍少佐の地位とテンプレート:仮リンク所属の大隊司令官の地位を与えた(チャーチルは一応元騎兵中尉であり、テンプレート:仮リンクでは中佐の階級を持っていた)[350][351][352]。もっとも軍部内では「政治家崩れの軍人」と批判が強く、また本国議会でも保守党がチャーチルの行動を批判し、チャーチルの旅団長就任を妨害した[350][352]

チャーチルは着任早々、部隊のシラミに宣戦布告して、その駆除キャンペーンを実施した。さらにブリキの風呂を作らせて塹壕の中での生活の改善を図り、一日に三回は塹壕の状況の確認に回ったという[350][352]。またなるべく早期に塹壕戦を終わらせねばならないと考え、塹壕を突破できる戦車の開発を急ぐべきと覚書の中で書いている[350]

チャーチルの副官によればチャーチルは「戦争とは笑顔で楽しみながらやるゲームである」とよく語っていたという[350][353]

1916年4月、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し過ぎたため、他の大隊と合併され、チャーチルも大隊指揮官から解任された[354]。結局チャーチルは主要な会戦に参加することなく[355]、5月にロンドンに帰国することとなった[331]テンプレート:-

再起を狙って

ファイル:Chuchillpunch19160001.jpg
失脚して文筆で生計を立てるチャーチルの風刺画(1916年『パンチ』誌)

イギリスに帰国したチャーチルは新聞に投書する文筆業で生計を立てるようになった[354]。また政界では再起を狙って大連立に否定的な野党的議員と連携して政界再編を起こそうと尽力した[354]

1916年9月から「ダーダネルス調査委員会」が開催され、ダーダネルス作戦についての文書公開と調査が行われ、チャーチルも聴聞会に召喚された。チャーチルは自分が常に海軍の専門家から同意を得て作戦を実行したことを強調した[354]

同年12月にはより強力に総力戦体制を構築できる政府の樹立を求めていたロイド・ジョージが、保守党の支持も得て、「戦争委員会の再編成を行い、少数の閣僚のみで構成するようにし、その委員長は自分にすべき」と首相アスキスに要求した。アスキスは首相である自分を委員長にするよう要求したが、ロイド・ジョージは拒否し、名目上の首相になるのを嫌がったアスキスが辞職したことで、テンプレート:仮リンクが成立することとなった[356][357][358]

チャーチルはこの機に再入閣を希望し、ロイド・ジョージもチャーチルを入れてやろうと骨折りしてくれたが、保守党党首ボナー・ローがチャーチルの入閣に強く反対し、ロイド・ジョージも当面はそれを受け入れざるを得なかった[359][360]

チャーチルはそれでも諦めることはなく、延々と入閣工作を進めた[355]

一方ロイド・ジョージ首相はダーダネルス調査委員会の報告でチャーチルの名誉が回復されるまで入閣を辛抱するようチャーチルを説得していた。この報告は1917年3月に発表され、ダーダネルス作戦の失敗の責任はチャーチル一人のせいにされるべきものではなく、アスキス元首相にも重大な責任があるとしていた[361]テンプレート:-

ロイド・ジョージ内閣軍需大臣

1917年7月にチャーチルはテンプレート:仮リンクとしてロイド・ジョージ内閣に入閣した[360]。ただしテンプレート:仮リンク(戦争委員会)のメンバーには加えられず、必要に応じて召集され、意見を述べるだけとされた[362]

それでも保守党やマスコミのチャーチルの閣僚就任への憂慮は強く、ロイド・ジョージの回顧録によると彼はチャーチルを閣僚に任命した直後の数日間は保守党に離反されて政権が潰れることも覚悟しなければならなかったという[363][360]

この閣僚就任でチャーチルは再び議員辞職し、それに伴って行われたダンディー選挙区補欠選挙に出馬した。大連立の建前から保守党は対立候補を立てることを見送ったが、禁酒派のスクリムジャーが禁酒に加えて反戦も訴えて出馬し、労働者層の票はかなり彼に流れた。一応チャーチルが再選したものの、この選挙区におけるチャーチルの安泰にも陰りが見えてきたことを物語る結果となった[364]

戦車の開発

1917年4月にはアメリカが連合国側で参戦していた。アメリカはそれ以前から金融や物資の面で英仏を支援していたが、アメリカ参戦以降はその支援が更に増加した[365]

軍需大臣となったチャーチルはこれを全力で活用し、塹壕を突破するための新兵器「戦車」の開発を急いだ。11月のカンブレーの戦いでは400台近い戦車を投入し、その有用性を証明できた。これ以降ロイド・ジョージ首相も戦車開発の拡大を支持した[366]。戦争末期には1万台もの戦車製造計画を立てている[319]

このためチャーチルはしばしば「戦車の父」と呼ばれるようになり、彼自身もこのあだ名を好んでいた[319]

チャーチルは後に「政府が1915年の段階で戦車の有用性を理解できていれば戦争は1917年に終わらせられた」と評している[366][367]テンプレート:-

クレマンソー仏首相を尊敬

1917年3月、厭戦気分が高まるロシアで帝政が打倒され、混乱のすえにウラジーミル・レーニンのソビエト政権が樹立された。11月に革命ロシアはドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して戦争から離脱してしまった[368]。フランスでも厭戦気分が高まり、反戦ストライキなどが多発するようになったが、1917年11月にフランス首相・陸相に就任したジョルジュ・クレマンソーは反戦ストライキを徹底的に弾圧することで、なんとか戦争遂行体制を維持した[369]

ロイド・ジョージはフランスの状況が不安になり、チャーチルをフランスに派遣した[370][369]。チャーチルはクレマンソーとともに英仏両軍の前線を視察して回り、両国の結束を将兵たちに示した[371][369]

クレマンソーは70代の高齢でありながら血気盛んな人で、しばしば砲火に身をさらすことも厭わなかった[371]。チャーチルは他の政治家を尊敬するということがほとんどない人だったが、その唯一の例外はこのクレマンソーであった。特にクレマンソーが「私は何の政治的原則もない男だ。私は現実に起こる事象を経験に照らし合わせて処理するだけだ。」と語ったことにチャーチルは共感を持ったようである[372]

チャーチルは23年後にクレマンソーの「私はパリの前面で戦い、パリ市中から戦い、パリの後方でも戦い続ける」という言葉を拝借することになる[372]テンプレート:-

第一次世界大戦の終結

1918年3月からドイツ軍の最後の攻勢(1918年春季攻勢)があり、英仏軍・ドイツ軍双方に多くの犠牲者が出たが、7月頃からアメリカ軍の本格参戦でドイツ軍が劣勢となっていった[373]。9月終わりにはドイツ軍の実質的指導者エーリヒ・ルーデンドルフ大将も休戦を考えるようになり、ドイツ政府にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンとの交渉を開始させた[374]。11月初めにはドイツ革命が勃発し、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命する事態となった[375]。11月9日から宰相になっていたドイツ社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトは休戦協定の締結を急ぎ、11月11日に連合国軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥との間に講和条約を締結し、第一次世界大戦を終結させた[376]

ロンドンでは11月11日午前11時に終戦を告げるビッグ・ベンの鐘が鳴らされた。この音を聞いたチャーチルは妻とともに首相官邸へ向かったが、その際に勝利に喜びかえる群衆を見た。中にはチャーチルの車の上に乗ってきた者もあったという。チャーチルはこの時の光景を「何千人という群衆が喜びのあまり走りまわっていた。ドアというドアが開き、誰もが仕事を放り出した。国旗があちこちに掲げられた。鐘が鳴り終わらぬうちにロンドンは勝ち誇る落花狼藉の街となった。世界を縛る鎖は断たれたのだ。」と書いている[377]

もっとも戦争に勝利しても、海外投資の縮小、軍需産業以外の産業の減退、アメリカと日本の台頭、ロシア革命やアイルランド民族運動の脅威などイギリスの受けた打撃・地位の低下は取り返しのつかないものがあった[378]

クーポン選挙

ロイド・ジョージ首相はこの戦勝気分が冷めぬうちに戦時中延期され続けていた総選挙を行うことを決意した[379][380]

戦争終結翌月の12月に解散総選挙が実施され、大連立政権は「カイザーを縛り首にしよう」「ドイツ人から賠償金を取り立てよう」といったスローガンを掲げて国民の愛国心を煽る選挙戦を展開した。大連立政権支持の候補者にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ローから推薦書(クーポン)が与えられた(このためクーポン選挙と呼ばれる)[381]。チャーチルは引き続きダンディー選挙区から出馬し、「反戦派、敗北主義者、臆病者」を罵りつつ、今後は国際連盟創設によって平和を維持しようと訴えた[382]

選挙の結果は大連立政権が大勝をおさめ、チャーチルも大差で再選を果たした[382]。一方「敗北主義者」とされたアスキス元首相ら自由党アスキス派、ラムゼイ・マクドナルドら労働党反戦派などクーポンをもらえなかった議員たちは惨敗した[383][382][384]

大連立の中でもとりわけ保守党が大勝し、彼らが今後の政局の主導権を握る事となった[385][386][387]。保守党はこの大勝後もしばらく自由党のロイド・ジョージを首相のままにして大連立政権を継続するが、これは戦争直後は挙国一致を続けるべきという空気が強かったためと言われている[388]

ロイド・ジョージ内閣戦争大臣

ファイル:Churchill and Pershing in London for Victory Parade July 1919 IWM Q 67721.jpg
1919年7月19日、ロンドンで行われた戦勝パレードでアメリカ軍のジョン・パーシング大将と会見するチャーチル戦争大臣。

チャーチルは1919年1月から戦争大臣兼テンプレート:仮リンクに任じられた[389][319]

チャーチルが「戦争終結後に戦争大臣になってもな」と愚痴ると、保守党党首ボナー・ローから「戦時中にお前を戦争大臣に任命する変わり者はいないよ」と皮肉られたという[389]

動員解除をめぐって

チャーチルの戦争大臣としての最初の仕事は動員の解除であった。兵士たちは一日も早く動員解除されて帰国することを希望していたが、後述する干渉戦争の影響もあって動員解除はゆっくりと行われ、しかも雇用者から重要労働者と認められた者から順番に動員解除するという方針をとったため、兵士たちの間に不満が高まった[383]

1919年1月3日、港町テンプレート:仮リンクでフランスに向かわされるのを嫌がった兵士3000人から4000人が乗船命令を拒否して、動員解除を求める集会を開く事件が発生した。こうした動員解除に関する運動はイギリス各地、各部隊に急速に広がっていった[383]。それでなくても長引く戦争でイギリス国内は貧困化しており、ストライキと暴動と扇動が多発し、赤旗があちこちに掲げられている状況だった。動員解除を適切に行わねば大変な事態に進展する可能性があった[319]

チャーチルは評判の悪い重要労働者から動員解除という方針を変更し、入隊が早い者から順に動員解除という反発が少ない方式に切り変えた。これによって動員解除に関する蜂起は沈静化していった[390]

他方、労働運動系のストライキは高まっていく一方で2月にはグラスゴーゼネストがあり、市役所が労働者に乗っ取られ、赤旗が立てられる事件が発生した。チャーチルは軍隊と戦車を派遣してこれを鎮圧した[391]。7月に発生した炭鉱ストライキは首相ロイド・ジョージが「イギリスにもソビエト政権誕生か」と恐怖したほど拡大した[391]。この時もチャーチルはラインに駐留している4個師団を呼び戻し、ストライキ参加者を徹底的に掃討することを主張したが、この時はロイド・ジョージ首相により却下された(もし4個師団を呼び戻していたとしてもその4個師団がストライキに参加して余計に目も当てられない状況になる可能性の方が高かった)[319]

反ソ干渉戦争
ファイル:BritishInterventionPoster.jpg
「赤の化け物」との戦いを支援することをロシア人に訴えるイギリスのポスター。

ソビエト・ロシアに対しては大戦中の1917年末頃からイギリス、フランス、アメリカ、日本などが干渉戦争を仕掛けて、共産革命の阻止を図ろうとしていた[392]。イギリスは北ロシアに駐留する部隊を通じてアントーン・デニーキンアレクサンドル・コルチャークら帝政派ロシア軍人から成る白軍を支援していた[393]

戦後、ロイド・ジョージ首相は反ソ干渉戦争から撤退することを希望し、アメリカのウィルソン大統領とも協力して関係主要国及びロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、白軍の反対により流産となった。イギリス国内でもチャーチルや保守党がボルシェヴィキとの妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張した[393]

そんな中、戦争大臣に就任したチャーチルは早速、各部隊司令官に対して兵士たちがロシア出兵可能な状況かどうかを問う秘密質問状を送ったが、各司令官とも否定的な返答をした。そのためイギリスの干渉戦争はロシア国内の反ソ勢力の支援継続以外には不可能であった[394]。ロイド・ジョージがパリ講和会議出席のためにイギリス不在の間、チャーチルはこれに全精力を注いだ[393][395]。チャーチルが白軍に行った支援は実に1億ポンドにも及ぶ[396][397]

さらにアメリカ大統領ウィルソンから「各国が出兵するなら干渉戦争に反対しない」との言質を取ったチャーチルは、連合国ロシア委員会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた[394]

チャーチルは「歴史上のあらゆる専制の中でもボルシェヴィキの専制は最悪であり、最も破壊的にして、最も劣等である。『ドイツ軍国主義よりはマシ』などというのもデマだ。ボルシェヴィキ支配下のロシア人は帝政時代よりずっと悲惨な状態に置かれている。レーニントロツキーの残虐行為はカイザーのそれを軽く超える。」「ボルシェヴィズムは政策ではなく、疫病である。思想ではなく、ペスト菌である。」「私がボルシェヴィキを嫌悪しているのはその愚かな経済政策や不合理な主義の故ではない。奴らが侵入した土地にはその犯罪的体制を支えるために赤色テロが行われるからだ」などとソビエト・ロシアへの敵意を煽る演説を盛んに行った[398][399]

こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった[400]。労働党はチャーチルがイギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした[401]

こうした声に押されて、チャーチルも1919年秋までには英軍をほぼ撤退させざるをえなくなり[400]1920年春までにはロシア内戦はソビエトの勝利で事実上終了した[396]。また同年7月頃にはポーランド・ソビエト戦争の戦況もソビエト有利に傾いていった。ソビエト軍によるポーランド侵攻が開始されるようになると、チャーチルはポーランド側で参戦することさえ計画したが、労働者がゼネストを起こして抵抗したため、物資支援に留まらざるを得なかった。チャーチルは軍需品をダンツィヒ経由で大量にポーランド軍に送り、ついにソビエト軍はワルシャワ攻略に失敗してロシア本国に敗走していった[402]。ロシアの赤化は阻止できなかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大を食い止めることには成功し、チャーチルも干渉戦争に一定の成果があったと評価したようである[402]

しかしロイド・ジョージは干渉戦争や反共闘争に否定的であり、チャーチルを植民地大臣に転任させることでこの問題から引き離し、同年3月16日にはソビエトと通商協定を締結することで世界に先駆けてソビエトの存在を容認した[400]。一方チャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷すぎるヴェルサイユ条約を課したことでドイツを「反共の防波堤」にすることに失敗したと批判的に見ていた[403]。チャーチルは「ボルシェヴィキが強くならないうちに倒しておかなかったことを、いつか諸列強は後悔する時が来るだろう」と予言している[401]

この干渉戦争以降、チャーチルは保守党から好意的な目で見られるようになっていった[404]テンプレート:-

ロイド・ジョージ内閣植民地大臣

ファイル:Churchillhatter0001.jpg
ロイド・ジョージから色々な役職を与えられるチャーチルの風刺画。今は植民地大臣の帽子をかぶっている(『パンチ』誌)

1921年1月にチャーチルは植民地大臣に転任した[405][397][406]

第一次世界大戦に勝利したイギリスは敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を国際連盟からの委任統治領という形で獲得したため、大英帝国は過去最大の領土を領有するに至った[405]。しかしそれに伴い問題も多く抱えることになった。

中東の委任統治領をめぐる問題

イギリスは大戦時、アラブ人にトルコに対する反乱(アラブ反乱)を起こさせるため、彼らに戦後の独立を約束していた(フサイン=マクマホン協定)。これによりハーシム家ファイサル王子らアラブ勢力は『アラビアのロレンス』として知られるイギリス軍人トーマス・エドワード・ロレンスらとともにトルコと戦った。一方でイギリスは大戦中にユダヤ人の協力を引き出すため、パレスチナにユダヤ人国家建設も認めており(バルフォア宣言)、さらに他方でフランスとの間に「肥沃な三日月地帯」を英仏で分割統治するというサイクス・ピコ協定も結んでいた(三枚舌外交[407][408]

結局、戦後にはサイクス・ピコ協定が最優先され、パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)とイラクイギリス委任統治領メソポタミア)はイギリス委任統治領、シリアフランス委任統治領シリア)とレバノンフランス委任統治領レバノン)はフランス委任統治領になったから、ファイサル王子の立てていた大アラブ帝国構想は粉々になり、アラブ人の間に不満が起こり、イラクやシリアで暴動が発生するようになった[408][409]

ファイル:Cairo Conference 1921.jpg
1921年5月18日のカイロ会議。中央に座っている人物がチャーチル植民地大臣。

これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年にテンプレート:仮リンクを主宰した。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄アブドゥッラー1世もパレスチナから切り離したトランスヨルダン王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、またイランとの通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった[408][410]。またイラクに駐留するイギリス軍を陸軍から王立空軍に変更し、駐留費の節約も実現した[408]

一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた[411]

この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた[411]。以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった[412]テンプレート:-

アイルランド自由国をめぐって

大戦中の1916年4月にダブリンでアイルランド民族主義者が蜂起を起こすも鎮圧され、その指導者が即決の軍事裁判で処刑されるという事件があった(イースター蜂起[413]。この事件を機にアイルランド民族主義が燃え上がり、1918年の総選挙でもアイルランド国民党に代わって急進的なアイルランド独立政党シン・フェイン党が躍進した[414][382]

シン・フェイン党はロンドンの議会に入ることを拒否し、ダブリンに独自の国民議会を形成した。アイルランド義勇軍の武装抵抗も激化し、まもなくシン・フェイン党の政治的抵抗と合流した[414]。ロイド・ジョージ政権はこうした運動を白色テロで厳しく弾圧し[415]、シン・フェイン党も禁止処分とした[416]。だがシン・フェイン党は屈さず、ゲリラ戦を続行した[416]

国王ジョージ5世の北アイルランド訪問で対立関係が一時的に緩和して休戦が成り、その間の1921年10月からロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府とアーサー・グリフィスマイケル・コリンズらシン・フェイン党代表者の交渉の場が設けられた[417]。この交渉の際、コリンズはイギリス政府が自分に5000ポンドの懸賞金をかけたことを批判したが、それに対してチャーチルは「5000ポンドもの価値をつけられれば十分ではないかね。私は25ポンドだぞ。」と述べ、ボーア戦争で捕虜収容所から脱走した際に付けられた自分の懸賞金の額を引き合いに出したという[418]

この交渉の結果、アルスターのうち統一派が多い6州にはイギリスに残るかアイルランドに加わるかの選択権を残しつつ、それ以外のアイルランドは大英帝国自治領アイルランド自由国として独立することで妥協に達した(英愛条約[418][415][419][注釈 18]

チャーチルは庶民院でアイルランド自由国法案の説明を行い、その中で「半世紀にわたるイギリス政治の苦しみであり、対外的にはアメリカや自治領諸国との関係悪化の原因だったアイルランド問題がこれで消滅する。」と宣言した[418]。だが保守党のうち60名ほどの議員はこの法案に反対した[418]。未来の保守党党首であるスタンリー・ボールドウィンは、この法案は自由党ロイド・ジョージ派と保守党内法案賛成派を統合して新たな党を作ろうというロイド・ジョージの布石ではと疑いを持つようになった[419]テンプレート:-

チャナク危機

敗戦国トルコはセーヴル条約によりギリシャに領土の一部を引き渡すことになったが、トルコ国民軍を率いるムスタファ・ケマル・パシャはこれを無視してギリシャ占領軍に攻撃を仕掛けて駆逐した(希土戦争)。のみならずケマル軍は1922年9月にダーダネルス海峡(第一次世界大戦後、中立化されていた)付近まで侵攻してきて、チャナクに駐屯するイギリス軍を攻撃する構えを見せた(チャナク危機[420][421][422]

ロイド・ジョージ首相は、現地イギリス軍に持ち場の死守を命じた。チャーチルははじめトルコに同情的だったが、ケマルの恫喝的な態度を見て、危険人物と察知し、ロイド・ジョージの方針を支持した。チャーチルの主導で大英帝国自治領にも対トルコ開戦のときには出兵することを求める政府決議が出された[423][421]。さらにロイド・ジョージはトルコが侵略を辞めない場合にはイギリス地中海艦隊を派遣することを決定し、ギリシャにも支援を約束し、ケマルに最後通牒を突きつけた[423]。 イギリスの強硬な態度を恐れたケマルはギリシャとの休戦に同意し、希土戦争を終結させた[424][421]

ただこの件は国民の批判を集めた。大戦から解放されたばかりなのに新たな戦争を招きそうな外交をするなという世論が強かったのである。この世論を背景に労働党のみならず大連立相手の保守党もロイド・ジョージ批判やチャーチル批判を行った[425]。またボールドウィンら保守党内の反大連立派はロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争を起こして解散総選挙することで自分たちに有利な議会状況を作ろうとしているのでは、という疑いを持っていた[426]

政権崩壊

チャナク事件はきっかけに過ぎず、自由党と保守党の大連立はすでにガタが来ていた。保守党議員たちはロイド・ジョージのワンマン政治にうんざりしていたし、アイルランド自由国に承服しかねる思いの者も多くいた。このまま大連立を組んでいたら保守党は次の総選挙で惨敗し、党が分裂すると考えている者もいた[427]

ただ保守党党首は1921年3月にボナー・ローが病で退任してからオースティン・チェンバレン(ジョゼフ・チェンバレンの長男)が務めており、彼は大連立維持派だった。チェンバレンは1922年9月の閣議でのロイド・ジョージ首相の早期解散方針にも賛同を与え、保守党内でひんしゅくを買った[428]。そしてついに10月19日、保守党社交界テンプレート:仮リンクで開催された保守党庶民院議員274名の会合の席上でボールドウィンが大連立を解消すべき旨の動議を提出したところ、185対88で可決されるに至った。前党首ボナー・ローも連立解消に賛成していた[429][430][431]

これを受けてチェンバレンは保守党首職を辞し、首相ロイド・ジョージも辞職した[430][432]。後任の保守党党首にはボナー・ローが就任し、大命も彼が受けた[425]テンプレート:-

総選挙に落選して議員失職

首相となったボナー・ローは1922年11月にも解散総選挙に打って出た[433][434]

チャーチルはこの頃、盲腸の手術のために入院中だったが、これまで通りダンディー選挙区から出馬した。しかし今回は自由党候補がもう一人出馬していた。また労働党候補として出馬したエドモンド・モレルとは連携が成らず、彼は対立候補として出馬した。結党されたばかりのイギリス共産党も対立候補を送りこんできた。禁酒主義者のスクリムジャーも再び対立候補として出馬した[435]。チャーチルは病室から「私は自由党員、自由貿易主義者として出馬するが、有権者におかれては進歩的で理性的な保守党員とは協力していただきたい」という選挙区民に向けてのメッセージを出した。このメッセージの効果もあり保守党は対立候補を立てなかった[435]

チャーチルは投票日直前に椅子ごと運ばれて選挙区入りし、自由貿易擁護や反共の演説を行ったが、「好戦派閣僚」との噂が尾を引き、選挙区民からの評判は悪かったという[436]。また共産党員たちが「テンプレート:仮リンク」を歌ったり、「アイルランド共和国万歳」の叫び声をあげるなどしてチャーチルの演説を妨害した。チャーチルは怒りのあまり「この爬虫類どもが!」と叫んだという[437]

選挙の結果、ダンディー選挙区は、スクリムジャーとモレルが当選し、チャーチルは落選した。これについてチャーチルは「私は一瞬にして、官職、議席、党、おまけに盲腸を失ったのである」と回顧している[437][438]

選挙全体の結果は保守党が345議席、労働党が142議席、自由党ロイド・ジョージ派が62議席、自由党アスキス派が54議席を獲得し、保守党の大勝に終わった[437]

チャートウェル邸購入

ファイル:Chartwell02.JPG
チャーチルが購入したチャートウェル

落選後、南フランスのカンヌへ移住し、世界大戦に関する著作『世界の危機(The World Crisis)』の執筆と絵を描くことに精を出した[439][440]。『世界の危機』は全5巻であり、1923年から1931年にかけて順次発売された[439]

この作品は「世界史を装ったチャーチルの自伝」「ダーダネルス作戦自己弁明の書」などの批判もあったものの[441][439]、チャーチルにかなりの印税をもたらし、これによってケント州チャートウェル邸と広大な土地を購入することができた[442][443]。以降チャーチルは週末にはこのチャートウェル邸で過ごすようになった[443]。子供たちもこの屋敷が気に入ったようだった[444]

もっともこの屋敷は古ぼけていたので手直しが必要であり、チャーチルも職人たちとともに煉瓦積みに参加し、やがてそれが趣味の一つとなっていった[445][446]テンプレート:-

総選挙に再落選、自由党との亀裂

ファイル:Churchill by Matt0001.jpg
1923年に描かれたチャーチルのイラスト

1923年5月にボナー・ローが喉頭癌で首相を退任した。後任の候補としてボールドウィンかカーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵の二人が考えられたが、国王ジョージ5世は、庶民院を優先してボールドウィンに大命を与えた[447]。しかし同年11月、党を固めきれていなかったボールドウィンは、党をまとめる効果を狙って、また世論も保護貿易に傾いてきたと判断して、関税改革を掲げた解散総選挙に打って出た[448][449]

チャーチルはこの選挙にテンプレート:仮リンクの自由党候補として出馬した。チャーチルは保守党が対立候補を立てるのを控えてくれるのでは、という期待を抱いていたが、保守党は対立候補を立ててきた。労働党からの攻撃も激しく、とりわけダーダネルス作戦に関する『世界の危機』第2巻が出版された直後であったため、ダーダネルス作戦を批判する野次が盛んに飛んだという。結局、労働党候補が勝利し、チャーチルは再び落選した[450]

この総選挙では自由党ロイド・ジョージ派とアスキス派が自由貿易擁護で共闘していた[451]。選挙戦で保守党は食料には関税をかけないと約束していたが、自由党と労働党が煽った結果、結局「高いパンか安いパンか」が争点になっていった[452]。その結果、保守党は87議席も落として257議席となり、労働党は191議席、自由党は151議席を獲得した。どこも単独では政権を作れない状態となったのである[451][452]

自由党の指導者に復帰していたアスキスは、労働党政権を誕生させる意向であった。チャーチルは「社会主義政権など誕生させたら重大な国家危機が生じる」としてこれに強く反対し、保守党・自由党連携による反社会主義政権の樹立を求めたが、受け入れられなかった。ここに至ってチャーチルは反社会主義の信条を失わぬため、自由党を離党する決意を固めた[453]

保守党の政治家として

保守党復党と議員再選まで

1924年1月に労働党議員提出の内閣不信任案が自由党の賛成を得て可決され、ボールドウィンは辞職し、かわって労働党のラムゼイ・マクドナルドが大命を受け、史上初の労働党政権が誕生した[452]。一方総選挙に敗れたボールドウィンは同年2月に関税改革を保守党の方針から取り下げた。これにより自由貿易主義者のチャーチルも保守党へ戻りやすくなった[453]

3月のテンプレート:仮リンクで行われたテンプレート:仮リンクに「無所属の反社会主義候補」として出馬した。ここは保守党のニコルソン家の地盤であった。チャーチルは「私は保守党と争うつもりはない。それどころか私は保守党こそが反社会主義者の集合場所になるべきだと考えている」と演説した[454]。保守党内では正式な保守党候補がいる選挙区にチャーチルが出馬したことへの怒りの声も多かったが、チャーチルの反社会主義姿勢を評価する声もあり、複数の保守党議員から選挙協力を受けることができた[455]。オースティン・チェンバレンやバルフォアのような保守党大物政治家もチャーチルに推薦書を書いてくれた[456]。だが結局、選挙の結果は、僅差でニコルソン家の者の当選となり、チャーチルは三度目の落選を喫した[455][456]

チャーチルは保守党に接近を続け、食料以外の関税導入にも前向きになっていった。そしてとうとう1924年9月にテンプレート:仮リンクの保守党候補に指名されたのであった[457]。ただしチャーチルが正式に保守党員になったのは1925年であり[458]、選挙区への立候補届け出では党派として「立憲派」という保守党組織がよく使用する名称を使っている[459]

マクドナルド労働党政権のソ連との国交正常化[注釈 19]やキャンベル起訴撤回問題など労働党左派に配慮した政策に保守党や自由党は批判を強めていった。10月8日に自由党のアスキスからこれらの政策を批判する動議が提出され、保守党がこれに賛成票を投じたことで可決され、マクドナルド内閣は解散総選挙に打って出ることになった[461][462]

この選挙でもチャーチルは激しい社会主義攻撃を展開し、「社会主義者がブリタニアに着せようとしているドイツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女のは汚らしい赤旗ではなく、ユニオン・ジャックの旗でなければならない」と演説した。エッピング選挙区は反共主義の機運が強く、チャーチルの反共演説も選挙区民を熱狂させ、圧勝しての当選を果たすことができた[463]。投票日直前にジノヴィエフ書簡問題が発生して有権者の社会主義への恐怖が高まっていたことで全国的にも反共を掲げる保守党が圧勝している(保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席)[464]

第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣

1924年11月4日にボールドウィンに大命があり、第2次ボールドウィン内閣が発足した[465]

ボールドウィンはチャーチルがロイド・ジョージと組んで保守党と自由党の中道派による「中央党」を結成する事態をかねてから恐れていた。そのためチャーチルを閣内に取り込んでおこうと考え、大蔵大臣という重要閣僚職を彼に提示した。チャーチルはそれほど高い地位の閣僚職に任命されるとは思っていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラー(Chancellor)にならないか?」と聞かれた時、はじめランカスター公領担当大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかと思ったという。だが大蔵大臣(Chancellor of the Exchequer)のことだと聞かされた時、感動のあまり、チャーチルの目から涙が溢れたという[466][467]

この閣僚職は父ランドルフ卿が務めていた地位であり、次期首相最有力候補の閣僚職であった[466]

金本位制復帰

大蔵大臣チャーチルの事績として最も知られているのが第一次世界大戦の勃発で中断されていた金本位制への復帰である。

大戦後、イギリスの輸出産業は新興国アメリカや日本に押されて弱体化を続けていた。またイギリスの海外投資の多くも戦争で手放すこととなり、イギリスの国際収支を支えてきた貿易外収入は大きく減少していた[468]。因みにイギリスの海外投資の多くはアメリカによって買い取られており、これによって世界金融の中心はイギリスのシティからアメリカのウォール街に移ろうとしていた。ドルはポンドに先んじて大戦終結直後に金本位制に復帰し、世界通貨の地位を確立していった[469]

こうした国際的地位の低下に焦っていたシティの金融業界はイギリスの国際投資と国際貿易の再興を狙って戦前レート(1ポンド=4.86ドル)での金本位制復帰を主張するようになった[470][468]

1918年の膨大な政府支出のために戦後直後のイギリスはインフレ的な国内信用拡大が起こっていた[471]。しかし1920年以降はデフレになり、需要は低下し、物価は下がり、失業率は高まっていった。ポンド高も進み、1922年末には1ポンド=4.63ドル、1924年総選挙後には1ポンド=4.79ドルとなった。戦前レートでの金本位制復活を行っても大きな混乱なく実施できそうな相場であり、いい機会に見えた[469][472]

チャーチルはもともと国際投資より国内信用の拡大を志向してインフレ政策を希望していたが、大蔵官僚やイングランド銀行テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクの説得を受けて、戦前の輝かしい地位にイギリスを戻したいという願望が強まり、ほとんど何の準備もなく、1925年4月に金本位制復活を宣言した[473][474][475]

賃金切り下げ反対ゼネストの弾圧

戦前レートでの金本位制復帰はポンドの過大評価であったので、イギリスの輸出競争力は低下し、輸出産業、とりわけ石炭産業が大きな打撃を受けることとなった。炭鉱経営者たちから成るイギリス鉱山協会は1925年6月に賃金協定を破棄して賃金切り下げを行うことを宣言した[476][477][475][478][479]。これに対抗して炭鉱組合やテンプレート:仮リンクゼネストの意思を表明した[480][478][481]

経済学者ジョン・メイナード・ケインズはこのゼネストに共鳴し、チャーチル批判の小冊子『チャーチル氏の経済的帰結』を著し、シティの声ばかり聞いて炭鉱労働者を犠牲にすることがチャーチルの経済政策の帰結と論じている[470][482][483]

このゼネストに対してボールドウィン首相は、「王立委員会を設置して調査するので、その調査が終わるまで賃金切り下げ分の補助金を政府が出す」ことを約束して懐柔した。しかし王立委員会は1926年3月に多少の労働環境の緩和を盛り込みながらも、賃金切り下げと補助金打ち切りを求める報告書を提出したため、再びゼネスト突入の危機が高まった[484][485][486]。労働組合会議幹部の間には交渉を求める声が多かったが、政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否、労働組合会議の総評議会は1926年5月3日からゼネストに突入することとなった[487][482][488][486]

このように1926年のゼネストは政府の挑発によるところが大きかったので、王立委員会の設置はスト破りなどゼネストを骨抜きにする体制を整えるための政府の時間稼ぎで、態勢が整うや政府は挑発してゼネストを起こさせたという批判がある[489]。そしてその立場からは挑発を行わせた閣僚はチャーチルだという見方が多かったが、定かではない[490]

いずれにしてもボールドウィン首相は非常事態法を制定して労働運動弾圧を開始した[491]。そしてその弾圧を最も強力に支持したのは労働運動の背後に常に共産主義者の陰謀を見ているチャーチルであった[491][492]。チャーチルは政府機関紙として『テンプレート:仮リンク』を創刊し、ゼネストが違法であることを訴えた[493]。こうした政府の攻撃は奏功し、ゼネストは大衆の支持を得ることはできなかった[494]

政府と資本家による労働運動切り崩し工作も成功し、労働組合会議は若干の賃金切り下げを認めるに至り、5月11日にはゼネスト中止を宣言した[495][496]。鉱山労働組合のみ従おうとせず、単独での労働争議を続けたが、彼らも11月までに資本家の要求をすべて受け入れる無条件降伏に追い込まれてストは集結した[495][489][497][494]テンプレート:-

ムッソリーニ伊首相を尊敬
ファイル:Duceeburzagli.JPG
1928年のイタリア首相ムッソリーニ

イギリスの半植民地エジプト訪問の帰路の1927年1月にイタリアを訪問し、1922年以来政権を掌握していたファシスト党党首で首相ベニート・ムッソリーニと会見した[498]

イタリアを離れる際、イタリアの新聞記者たちに対してチャーチルは、「もし私がイタリア人だったら、レーニン主義の獣欲と狂気に対抗する貴方達の戦いを支持し、行動をともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘を演じる必要がなく、我々には我々流の物事の進め方がある。しかし最終的には我々が共産主義と戦い、その息の根を止めることに成功すると確信している。」と語った[499][498][500]

さらに「ファシズムの国際的価値」として「破壊的な勢力に対抗して、文明社会の名誉と安定を守ろうという大衆の意思を正しく導く方法を世界に示した」ことを指摘し、「ロシア革命の毒に対する最も有効な解毒剤」であると評価した[498][501]

チャーチルはムッソリーニに非常な興味を持ち、彼の著作を読み、その生涯を調べることに熱心だった。とりわけ彼のローマ帝国を復活させて「劣等の文明」を支配して導こうという「帝国の使命」の思想には同じ帝国主義者として強い共感を持っていた。後の第二次エチオピア戦争イタリア領東アフリカ帝国建設も高く評価していた。1940年にフランス戦役が勃発して英伊が交戦関係となった後にさえも「(ムッソリーニが)偉大な男であることは否定しない」と述べていた[502]テンプレート:-

総選挙の敗北で政権崩壊

1929年5月の総選挙でチャーチルはエッピング選挙で再選を果たすも、選挙全体の結果は失業対策を訴えた労働党が289議席を獲得して第一党に躍進した。保守党は260議席、自由党は59議席しか獲得できず、保守党政権は崩壊、チャーチルも大蔵大臣を退任することとなった。代わって自由党の協力を受ける労働党政権、第2次マクドナルド内閣が発足した[503]

もっともこの選挙に保守党が勝利していたとしてもチャーチルは大蔵大臣から罷免されていたといわれる。というのもボールドウィン首相が選挙戦中に「チャーチルは再入閣させない」と周囲に漏らしているからである。チャーチルはこの段階でも自由党と保守党の連合構想を持っており、自由貿易を捨てきれないでいた。そのため党内保護貿易主義者から不満を買っており、孤立しつつあったのである。また個人的にもボールドウィン首相は大蔵省の管轄外のことにまで口を出して閣議の和を乱しがちなチャーチルを嫌っていた[504][505]

10年に亘って干される

以降チャーチルは10年にわたって閣僚職に就くことができなかった。

1929年秋のアメリカ・ウォール街の暴落に端を発する世界大恐慌はイギリスも襲い、1929年5月に115万人だったイギリスの失業者数が1930年12月には250万人に倍増した。失業手当が膨大となる中、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、1931年8月に総辞職を余儀なくされた[505][506]

困難な時局に対応できる強力な政府が求められた結果、マクドナルドを首相のままとした保守党、自由党、労働党大連立派(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)の3党の大連立による挙国一致内閣が成立した[505][507]。しかしチャーチルは入閣できなかった[508]

挙国一致内閣はチャーチルが再導入した金本位制を停止し、大英帝国を排他的なブロック経済圏にする保護貿易を推し進めた。これはイギリスが1世紀近く前に自由貿易に移行して以来の歴史的な保護貿易への回帰だった[509]

チャーチルは自由貿易主義者だったが、あまりの失業者数の増大に彼の信念も揺らぎ、新聞社経営者テンプレート:仮リンクらが唱える「帝国自由貿易」という自由貿易の名を借りた帝国特恵関税制度を支持するようになった[510]

1930年には『テンプレート:仮リンク』を出版し、庶民院議員となるなるまでの自分の人生を振り返った。冒険活劇調であり、インド人を「蛮族」呼ばわりし、「蛮族」が自分の活躍でばたばたと倒されていった事を自慢げに書いている[511]。1931年からは『テンプレート:仮リンク』の執筆を開始した。これは先祖である初代マールバラ公爵の全6巻の伝記であり、マールバラ公を「貪欲で道徳とは無縁の人物」とするマコーレーの評価に反駁したものだった[512]テンプレート:-

インド自治に反対

ファイル:Gandhi portrait 1931.jpg
チャーチルが憎悪したガンジー1931年)。

第一次世界大戦中にロイド・ジョージ内閣はインド人から積極的な戦争協力を得るために戦後のインド自治を約束していた。しかし戦争が終わっても自治の見通しは立たず、ガンジーの非暴力抵抗運動が盛り上がりを見せていた[513]。これを懐柔すべく、インド総督アーウィン卿(後のハリファックス卿)は、1929年にインドの大英帝国自治領化が最終目標であり、そのためのロンドンのテンプレート:仮リンクにインド人代表団が参加できるようにすることを宣言した[510]

首相マクドナルドや保守党党首ボールドウィンは、アーウィン卿の宣言を支持したが、熱心な帝国主義者であるチャーチルは反対した。インド人には自治は尚早であること、インドの支配層はインドの民を代表しているとはとても言えない者たちであること、大英帝国の繁栄の根源であるインドに自治を与えることは自分で自分の手足を切り捨てているも同然であること、一度でもインド・ナショナリズムに譲歩したら、なし崩し的に独立まで突き進んでしまうであろうことなどを指摘した[514][513]

ガンジーは、はじめアーウィン卿の宣言に対して歩み寄ろうとしなかったので1930年5月に投獄されたが、1931年1月には釈放されてアーウィン卿との交渉に応じることになった[515][516]。しかしガンジーを嫌悪するチャーチルは、ガンジーを釈放したり、交渉に応じるアーウィン卿を批判した[517]。二人の交渉が行われた2月には「アジアによくいる托鉢に成り済ました英国法学院卒業の扇動家ガンジー弁護士が、半裸姿で陛下の名代たるインド総督と対等交渉している。このような光景を許していればインドの不安定と白人の危機を招く」と警鐘を鳴らし、さらにガンジーを「狂信的托鉢」と断じた[515][518][519]

またインド自治の危険性を感じ取ろうとしない大衆にも怒りを感じており、「彼らは失業と増税の心配ばかりしている。あるいはスポーツと犯罪報道に夢中だ。今、自分たちが乗っている大型客船が静かに沈みつつあるというのが分からないのか。」と憂慮した[515]

しかしチャーチルのこうした強硬なインド自治反対論は党首ボールドウィンに嫌われた。1931年1月にボールドウィンが「インド政治指導層の支持を得たインド政策ならば支持する」と宣言したことがきっかけでチャーチルはボールドウィンと完全に袂を分かち、「影の内閣」からも離脱した[515][520][521][522]

1933年3月17日にマクドナルド挙国一致内閣は、後のインド統治法の叩き台となる白書を発表した。そこにはインド各州に自治権を付与すること、インド人が参加する連邦政府を創設し、インド総督の権限の一部を連邦政府に移すこと、またインド総督が責任を負う立法議会を設置することなどが盛り込まれていた[523]。チャーチルはこの白書に反対し、1933年4月には自らを副総裁としたテンプレート:仮リンクを結成した[524]。その創設大会でチャーチルは「ガンジー主義の粉砕」を訴える演説を行ってイギリスでもインドでも注目された[525]

インド防衛連盟は加入者数こそ少なかったが、父ランドルフ卿が創設したプリムローズ・リーグと同様、保守党議会外大衆組織に大きな影響を及ぼしていた[525]。1933年6月のテンプレート:仮リンクの会合では参加者の3分の1からインド自治反対の票を獲得し、さらに1934年秋の保守党大会ではインド自治賛成543票に対して、インド自治反対派520票とかなり僅差にまで持ち込んでいる[525]

しかし1935年1月にマクドナルド挙国一致内閣がインド統治法を提出するとチャーチル派の情勢は悪くなった。チャーチルが1935年1月30日にBBCのラジオ放送で行ったインド自治反対の演説は評判が悪く、また同年2月には長男テンプレート:仮リンクがインド統治法反対を公約に掲げて保守党公認候補に対抗する形でウェイヴァトリー選挙区の補欠選挙に出馬するも落選した[526]。インド統治法案の庶民院での審議においても第三読会までのどの投票でもチャーチル派は90票以上の票を集められなかった。最終的には1935年6月5日の庶民院の採決で264票差の大差をつけられて、チャーチルは敗北し、インド統治法が可決されることとなった[527]

しかし結局インド統治法に定められた「インド連邦」は藩王国が反発して加盟を拒否したため、施行されることはなかった[528]。またヨーロッパ情勢が緊迫化している中、チャーチルもこれ以上この件で保守党執行部と対立を深めるのは好ましくないと判断し、自分の選挙区に宛てて闘争終了宣言を出した。その中で元首相ソールズベリー侯爵が1867年に選挙法改正をめぐって敗れた際の「政治的敗北を受け入れることは、あらゆるイギリス人や政党の義務だ」という言葉を引用した[528]

ヒトラーへの危機感

チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ・バイエルン州ミュンヘンに立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは国会議員選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が第一党となり、その党首であるアドルフ・ヒトラーが近いうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命される可能性が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部エルンスト・ハンフシュテングルと知り合い、彼からヒトラーと会談してみないかと勧められ、それを承諾した[529]

ただチャーチルは反共主義者ではあっても、反ユダヤ主義者ではなかった。むしろかなり早期からシオニズムを支持している政治家だった[530]。そのためチャーチルはハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけている。どうやらこの質問がヒトラーの耳に入って機嫌を損ねたらしく、会見はヒトラーの方から拒否された[531]。後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作って断った。」と回顧している[532][533]

この半年後の1933年1月に首相に任じられたヒトラーは、その年のうちに独裁体制を整え、国際連盟からも脱退し、1935年3月には念願のヴェルサイユ条約ドイツ軍備制限条項の破棄を宣言して再軍備を開始した[533]

イギリスでは一般に保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けられては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党とドイツ共産党以外の政党がほとんど力を失っている今のドイツでは、もしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権につくのは恐らく共産党だった。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融和派が多かった[534]。保守党党首ボールドウィンやその後任の党首となるネヴィル・チェンバレンも同様であった。

ところがチャーチルはこうした立場に立たず、対独強硬論者となった。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備えようとするだろうし、反ソ防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅かすというリスクの方が大きそうに思えた[535]。またチャーチルはヒトラーを歴史的文脈で捉えており、スペイン王フェリペ2世、フランス王ルイ14世、フランス皇帝ナポレオン、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世といったイギリスが常に戦ってきた「ヨーロッパの勢力均衡を崩す者」に連なる存在だと考えていたのである[536][537]

また1930年代のチャーチルは干されていたことから、あえて保守党主流と一線を画す対独強硬論に立つことで、ドイツ脅威論が盛り上がってきたところを保守党中枢に返り咲こうという政治的狙いだった可能性もある[538]

チャーチルはドイツの再軍備要求は断固拒否しつつ、イギリス自身は軍備増強を行うべきであると主張した[539]。また次の戦争では海軍ではなく空軍が決定的役割を果たすと見ていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らし続けた[540][541]

1936年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められていたラインラントにドイツ軍を進駐させた。フランス政府は対独開戦すべきかどうか判断に迷い、イギリス政府に窺いを立てたが、ボールドウィン首相(マクドナルドは1935年6月に退任し、保守党党首ボールドウィンが再び首相となった)は融和政策に基づき、放置すべしとした。イギリス国内の世論も「ドイツの領土にドイツ軍が入っていっただけ」という融和的空気が強かった。だがチャーチルは一人激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮ることなく、ただちに戦争を開始しただろう」と述べ、フランスの人材不足を嘆いたという[542]

一方でヒトラー以外のファシズム指導者には好意的であり、1935年にムッソリーニのエチオピア侵攻について帝国主義者の立場から「エチオピア人はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種」として熱烈に支持した[543]。同じく1936年のスペインのフランコ将軍による左翼との戦い(スペイン内戦)も反共主義者としての立場から共感を持ち、労働党が左翼政府を支持しようとするのに対してチャーチルはボールドウィン内閣の不干渉方針を支持した[544][545]テンプレート:-

エドワード8世の退位をめぐって

1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードがエドワード8世として即位した。エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、いまだ王妃を持っていなかった。ただ皇太子時代からアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと付き合っていた。この女性は1936年10月までテンプレート:仮リンクと結婚しており、つまりエドワード8世は人妻と交際していたのだった[546]

1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は彼女と結婚したいという意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには二度も離婚歴のあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった[547]。またエドワード8世は外交への介入が目立つ王であり、ラインラント問題の際にも親独派としてドイツの邪魔をしないようイギリス政府をけん制するなどしてきた[548]。ボールドウィン首相としてはこういう自己主張の強い王より、気の弱い王弟ヨーク公アルバートの方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するつもりなら退位するよう迫った[549][547]

これを知ったチャーチルは、王室への忠誠心、またボールドウィンへの敵意もあってエドワード8世の擁護に回った[547][550]

エドワード8世も11月16日にボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた貴賎相婚(シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、コーンウォール公夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった[551]。これを聞いたボールドウィンは自分を辞職させてチャーチルを首相にする陰謀と確信し、「退位されないつもりなら辞職させていただきます。その場合『王VS政府』の戦いがはじまり、イギリスは未曽有の危機に陥るでしょう」と奏上した[552]

これに対してチャーチルは「王が臣下の助言を拒否したら、退陣すべきは臣下であって王ではない。臣下が王に圧力をかける権利などない」と君主主義の立場からボールドウィン批判を展開した[550]。チャーチルは自分を支持する議員たちをかき集めたが、40人程度しか糾合できなかった[553]

12月2日にボールドウィン首相はエドワード8世に最後通牒を付きつけた。世論も自治領政府もボールドウィンを支持しているとのことだった[554]。それでもエドワード8世はチャーチルと相談してから決断したいとその場での即断は避けた[549]。12月4日にエドワード8世の引見を受けたチャーチルは退位を思いとどまるよう説得にあたったが、もうエドワード8世にはチャーチルとともに王党派を率いて政府と戦う意思はなくなっていた[550]

結局エドワード8世はこの二日後の12月6日に弟ヨーク公に譲位することを国民に発表し[555]、12月9日には正式に退位文書に署名した[556]

チャーチルの立場はなくなり、12月7日のチャーチルの庶民院での演説は批判の野次で轟々となった。激怒したチャーチルは、ボールドウィン首相に向かって「貴方は陛下を叩きのめさなければ気が済まないのですか」と叫んだ[550]テンプレート:-

ネヴィル・チェンバレンの対独融和政策への反対

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R69173, Münchener Abkommen, Staatschefs.jpg
1938年9月のミュンヘン会談。左から英首相チェンバレン、仏首相ダラディエ、独首相ヒトラー、伊首相ムッソリーニ、伊外相チアーノ

1937年5月にボールドウィン首相は政界引退し、代わってネヴィル・チェンバレンが保守党党首・首相に就任した[557][556]。チェンバレンもボールドウィンと同様「閣議の和を乱す危険分子」チャーチルを入閣させる意思はなかった[558]

1937年中、チャーチルは駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップと会見したが、彼の東ヨーロッパに対する領有権主張を聞いて、ドイツの領土的野心が強まっているとの確信を強めたという[559]

実際この頃からヒトラーはかつてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が領有していた領土のうちドイツ系住民が多数派の地域の割譲を要求するようになっていた。1938年3月にはドイツ民族国家のオーストリアがドイツに併合された。チェンバレンは許容範囲内と判断し無視したが[560]、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合計画を批判する演説を行った。これについて妻クレメンティーンの親族であるミットフォード姉妹の四女ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード(ヒトラーとナチズムに惹かれてドイツに飛び、ヒトラーの側近になっていた)がオーストリア人はみんな併合を望んでいるという手紙をチャーチル宛てに送ってきたが、チャーチルは翻意することなく、「公正な国民投票が行われていたらオーストリア人はナチスの支配下にはいることを拒否したはずだ」と返信した[561]

つづいてヒトラーは旧オーストリア=ハンガリー帝国領ズデーテン地方(当時はチェコスロバキア領)のドイツへの割譲を要求するようになった[562]。さすがに心配になってきたチェンバレンは1938年9月15日にドイツ・バイエルン州・ベルヒテスガーデンのヒトラーの別荘を訪問し、ヒトラーを直に説得しようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツ人がいかにチェコスロバキア政府によって酷い弾圧を受けているかをとうとうと語り、逆にチェンバレンを口説き落とした[563]。結局チェンバレンはフランスを説き伏せて、9月29日に英仏独伊の四国首脳によるミュンヘン会談を行い、正式にズデーテンのドイツ領有を認めた[564][565]

これを聞いたチャーチルは「我々は敗北した」[566]、「これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが」と語ったという[567]。チャーチルとチャーチル派の議員30名ほどはミュンヘン協定に抗議すべくその批准決議に欠席した[568]。ちなみにこの頃にはヒトラーの方もイギリス国内で対独強硬論をまき散らしているチャーチルの存在を意識するようになっており、チャーチルを「戦争挑発屋」と呼んで批判している[568][569]

しかしミュンヘン協定もむなしく、1939年3月にはチェコスロバキアの内紛でチェコとスロバキアが分離したのを利用してドイツはチェコを保護領とした(チェコスロバキア併合[570]。これにより政界も世論も融和政策は失敗だったとの認識が強まった[571]。ここに至って労働党は英仏とソ連の同盟を主張するようになり[572]、反共主義者のチャーチルまでもがそれに賛成した(チャーチルの場合はイデオロギーからではなく勢力均衡論からだが)[573]

だがチェンバレン首相はソ連との同盟には否定的だった。彼はソ連をイデオロギー的に嫌っていたし、ソ連は英仏とドイツを潰し合わせようとしているという疑念を強く持っていた。それにソ連共産党の軍隊である赤軍スターリン大粛清によってミハイル・トゥハチェフスキー元帥をはじめとする高級将校のほとんどが抹殺されていたため、同盟を結んだところでまともな戦力として勘定できないと考えられた[574]

一方スターリンも独ソを反目させようという英仏の陰謀を警戒しており、ドイツと協定を結んでおく必要性を感じていた[575]。ヒトラーもビスマルク以来のドイツの二正面作戦回避戦略であるロシアとの接近を考えていた[576]。こうして利害が一致したスターリンとヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約の秘密協定において東ヨーロッパを独ソ両国で分割支配することが取り決められた[577]

イデオロギー上相いれないはずの両国の握手に世界は驚いたが、チャーチルはスターリン支配下のソ連はレーニン時代に比べて、共産主義がお題目化しており、他の列強と大差がなくなってきていると考えていたため、さほど驚かなかったという。それよりみすみすソ連をドイツにくれてやったチェンバレンの外交センスの無さに批判的だった[578]テンプレート:-

チェンバレン内閣海軍大臣

第二次世界大戦開戦と海相就任

英仏とソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年9月1日にポーランド侵攻を開始した。閣僚からも対独開戦を要求されたチェンバレンは、9月2日にドイツに宣戦布告した[579]。フランスは平和を望んでいたが、イギリスに引きずられてフランスも対独参戦させられた[580]。ここに第二次世界大戦が開戦した。

開戦した以上、チェンバレンとしても対独強硬派の代表格チャーチルを登用しないわけにはいかず、チャーチルを海軍大臣に任じた。チャーチルは24年ぶりに海軍省大臣執務室に復帰した[581]。全艦隊に「ウィンストン帰る」と書いた電報を送っている[579]

チャーチルは長らく政権から離れていたとはいえ、コネを使って政府の軍事情報を収集するのを怠らなかったし、1935年からは帝国防衛委員会付属の防空研究委員会に所属していたので航空機の最新知識もそれなりに持っており、役職をこなすうえで難はなかった[582]

チェンバレン首相は開戦後も早期の平和実現を願っており、今度の戦争は第一次世界大戦のような徹底抗戦ではなく、経済圧力を主眼にしようと考えていた。ドイツをやせ細らせて、領土拡大が「割に合わない」ことをヒトラーに思い知らせ次第、早期講和に持ち込む考えである[583]。だが「戦争屋」チャーチルは第一次世界大戦の時と同様イギリスかドイツ、どちらかが倒れるまで徹底的に戦うつもりだった。これについて閣僚の一人テンプレート:仮リンクは「奴は100年でも戦うつもりでいる」とチャーチルを批判している[584]

海戦の状況は一進一退だった。開戦間もない1939年10月13日から14日にかけてドイツ海軍の潜水艦Uボートによって戦艦ロイヤル・オークが沈められた[585][586]。しかし12月には逆にイギリス戦艦がドイツ海軍の装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを自沈に追い込んだ[585][586]

北欧での戦い
ファイル:Bundesarchiv Bild 183-L03926, Drontheim, britische Kriegsgefangene.jpg
北欧戦でドイツ軍の捕虜になったイギリス将兵。

テンプレート:Main 一方陸戦の方では、ポーランドが開戦からわずか4週間にしてドイツ軍とソ連赤軍によって蹂躙され、独ソ分割占領をうけていた。しかし英仏軍とドイツ軍の間に本格的な戦闘は発生していなかった(まやかし戦争)。

そんな中、沈黙を破ったのはソ連だった。1939年11月から赤軍がフィンランド侵攻を開始したのである(冬戦争)。西欧を主戦場にするのを嫌がっていた英仏首脳は、フィンランドに遠征軍を送り、ここを独ソとの主戦場にすることを考えた。チャーチルも基本的にそれに賛成しつつ、フィンランド遠征の途中にノルウェー北端のナルヴィク港を占領し、またドイツの鉄供給地であるスウェーデンの鉄鋼鉱山を破壊するという計画を立案した。しかし結局フィンランドがソ連と講和して一時休戦したため、この作戦は流産した[587][588]

実はチャーチルは冬戦争が起こる前からノルウェーの港の占領を目論んでおり、この計画はヒトラーにも察知されていた。ドイツ軍はイギリスの先手を打つ形で1940年4月9日から北欧侵攻を開始した[589]デンマークを一日で陥落させたドイツ軍は、ノルウェーの港に次々と上陸してきた。チャーチルも対抗して英仏軍をノルウェーに上陸させたものの、チャーチルの作戦は全て裏目に出て、精強なドイツ軍によって散々に粉砕されてしまった[590]

チャーチルは回顧録で「我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士たちにとっては物の数ではなかったのだ」と書いている[591]

チェンバレンの首相退任をめぐって

ガリポリの戦い以来の惨敗っぷりにチャーチルも海相失脚を覚悟したが、5月7日から8日にかけて庶民院で行われたノルウェー作戦についての討議では、その批判はチャーチルではなく、首相チェンバレンに向かった。チャーチルは「ノルウェー戦の敗北は自分の責任だ」と主張してチェンバレンを擁護しようとしたが、自由党党首ロイド・ジョージは「防空壕になるのはやめときなさい」と言ってチャーチルを止めた[592][593]

与党議員からも続々と造反者が出る中、チェンバレンは、労働党との大連立による挙国一致内閣で政権強化する道を模索するようになった。だが労働党の議員たちはチェンバレンよりチャーチルを首相とする大連立を希望する者が多かった。彼らはかつてチャーチルが行った労働運動弾圧の恨みを忘れていなかったが、左翼イデオロギーからヒトラーとの戦いを徹底的に遂行する者を希望していたのである[594]

世論もチャーチルの首相就任を支持する者が多かった。チャーチルはクリミア戦争時のパーマストン子爵、あるいは一次大戦時のロイド・ジョージのような立ち位置にあり、首相にふさわしい人物であった[595]

だが、もう一人、首相候補として各方面から割と反発が少ない外相ハリファックス子爵(インド総督だったアーウィン卿)もいた[596]

5月9日にチェンバレンはチャーチルとハリファックス子爵の両方を召集した。チェンバレンはハリファックス子爵を首相にしたがっており、チャーチルに「ハリファックス卿の内閣で働く意思はあるか」と聞いたが、チャーチルは沈黙していた。そこへハリファックス子爵が「貴族院議員の私が首相になるのは望ましくないでしょう」と述べたことでチャーチルが首相に就任することが決まったという[597][598][599]テンプレート:-

首相・保守党党首として

第1次チャーチル内閣

1940年5月10日午後6時にバッキンガム宮殿で国王ジョージ6世より組閣の大命を受けたチャーチルは、テンプレート:仮リンクを発足させた。労働党も参加を了承した挙国一致内閣であった[600]。戦争を指導するテンプレート:仮リンクは5人で構成したが、2人は労働党の議員であり、そのうちの1人が後の首相アトリーだった[600]

5月13日に首相として初めて庶民院へ入り、「我々の目的が何かと言えば、一言で答えられる。勝利だ。どれだけ犠牲を出そうとも、どんな苦労があろうと、そこに至る道がいかに長く困難であろうとも勝利のみである」と演説した[601][602]。保守党はチャーチルを歓迎しない者が多かったが、労働党はチャーチルに拍手を送った[603]

首相就任時、チャーチルは65歳、対するヒトラーは51歳だった[597]。以降5年に亘る2人の激闘が始まることとなった。

言論弾圧の強化

チャーチルは就任早々「内務大臣は、外国に従属している、または指導者が敵国政府指導者と関係を持っている、あるいは敵国政府のシステムに共感をもっていると認められる組織のメンバーを誰であろうとも裁判なしで無期限に投獄できるものとする」というテンプレート:仮リンクの修正規則18(1a)を制定してイギリスを言論弾圧国家に変貌させ、ファシスト、共産主義者、敵性外国人を次々と逮捕した[604][605]

イギリスファシスト連合指導者サー・オズワルド・モズレー准男爵が「マグナカルタ以来保障された人権を侵している」と同規則を批判したが、チャーチルは取り合わず、彼を逮捕させた。他にもテンプレート:仮リンク反ユダヤ主義者の保守党庶民院議員)やテンプレート:仮リンクモンロー主義者の駐英アメリカ大使館員)らを逮捕した。親族といえども容赦せず、ミットフォード姉妹の三女でモズレーの妻であるテンプレート:仮リンクも逮捕させ、夫と同じ牢獄に送った[606][605]

フランス敗北

テンプレート:Main

ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-126-0350-26A, Paris, Einmarsch, Parade deutscher Truppen.jpg
1940年6月、パリで戦勝パレードを行うドイツ軍騎兵。

チャーチルが首相に就任した5月10日はちょうど「まやかし戦争」が終わった日だった。同日早朝、フランスを陥落させるべくドイツ軍がベルギーオランダへ侵攻を開始し、「西方電撃戦」がはじまったのである。

英陸軍は1939年9月以来、海外派遣軍22万5000人をフランスに上陸させ、フランス・ベルギー北部に展開させていたが、ヒトラーはこの軍の包囲を狙ってエーリヒ・フォン・マンシュタインテンプレート:仮リンク立案の作戦に基づく攻勢をかけさせた。ハインツ・グデーリアンテンプレート:仮リンクらが率いるドイツ軍装甲部隊はフランス軍の盲点になっていたアルデンヌを通過して、ディナンセダンからマース川渡河に成功しフランス軍を一蹴しながら英仏海峡めがけて進軍した[607]。王立空軍はフランス軍支援のため戦闘機を出撃させるも、その半数近くが撃墜されてしまった[608]

慧眼なヒトラーは、今は歩兵攻撃の時代ではなく、戦車や車両が最前線を突き進んでいく電撃戦の時代であることを見抜いていたが、チャーチルは第一次大戦の観念を捨てきれていなかった。戦後チャーチルは「猛スピードで進軍する重装甲部隊の侵略が、どれほど先の大戦の大革新であったか私は全く理解できていなかった」と回顧録の中で述べている[609]

5月15日朝7時頃にチャーチルはフランス首相ポール・レノーからの電話で起こされた。電話口でレノーはいきなり「我が国は敗北しました。」と言いだした。寝ぼけていたチャーチルには意味がよく分からず、黙っていたが、レノーは「我々は敗北しました」を繰り返した。チャーチルはレノーを落ち着かせようとしたが、彼はパニック状態だった。チャーチルはとにかく明日にもパリを訪問することを約束した[610][611]

5月16日午後にパリに到着したチャーチルは、レノーの言ってることが大げさでも何でもなかったことに気付かされた。連合国最高司令官モーリス・ガムラン仏参謀総長は真っ蒼な顔で小刻みに震えていたという。チャーチルは「フランス軍の本隊と予備隊はどこにいるんです」と聞いたが、ガムランは「そんなものはもうありません。」と答え、ただちに王立空軍10個飛行中隊を増援に送ることを要求した。チャーチルはフランス脱落を恐れてやむなく了承したが、恐らく独軍の電撃戦を空から阻止することはできないだろうと見抜いていたという。また、この増援によりイギリス本土に残る飛行中隊は25個だけになった。これはギリギリの線だった。これ以上出せばイギリス本土の制空権がドイツ空軍に脅かされる可能性が高かった[612][613]

ファイル:Dunkirk2.gif
ダンケルクの撤退で船に乗り込む英軍兵士たち。

一方、海外派遣軍は英仏海峡に到達したドイツ軍によって南フランスのフランス軍主力と切り離されて、ダンケルクに追い込まれた。チャーチルは彼らの全滅も覚悟したが、なぜかヒトラーはグデーリアンらドイツ軍装甲部隊指揮官たちに追撃を許さなかったため、海外派遣軍とフランス軍部隊の一部を加えた33万8000人は5月29日から5日間にわたって行われたイギリス本土への撤退作戦に成功した(ダンケルクの撤退)。この謎の奇跡にイギリス国内はまるで勝利したかのように喜びに湧きあがった[614][615][616]

ダンケルクの撤退成功で決定的破滅を免れたとはいえ、撤退は勝利ではなく、イギリスが追い込まれている状況に変わりはなかった。さすがのチャーチルにも弱気が覗いてきた。5月28日には親ナチ派のロイド・ジョージに入閣を要請しているが、これはドイツに和平交渉を提案しなければならなくなった場合に備えてのことともいわれる(この入閣要請はロイド・ジョージの方から拒否された)[617]。ダンケルクの撤退成功後の6月4日の庶民院での演説では「万が一イギリス本土が占領されたとしても我々は戦いをやめないであろう。海の彼方にも広がる我が帝国は、新世界から海軍を使って旧世界の救援と解放を目指す。」と語り、アメリカの支援の期待と大英帝国植民地にイギリス政府を移す可能性を示唆している[618][619][620]

ドイツ軍の南フランスへの進軍が開始される中、フランス政界では和平派の声がますます強まっていった。チャーチルはフランスが降伏してフランス海軍力がドイツに接収されるのを恐れるあまり、「フランス艦隊を全てイギリスの港に送れ」だの、英仏を「英仏連邦」という名の一つの国家にしよう(=フランスの全船舶をイギリスが共同所有)だの身勝手な要求を行い、フランス人から顰蹙を買った。イギリスの敗戦も時間の問題と考えられていたので「死体(イギリス)と結合するくらいならナチスの占領下に入った方がマシ」というのがフランスの政治家・軍人の主流意見となった[621][622][623]

6月16日にフランス首相となったフィリップ・ペタン元帥はヒトラーに和平交渉の意思を伝え、6月22日にも独仏休戦協定の締結に応じた[624]。こうして、シャルル・ド・ゴールなど一部の亡命軍人を除き、フランスはドイツとの戦いから離脱したのだった。 テンプレート:-

バトル・オブ・ブリテン
ファイル:Back to the wall.jpg
英国政府の戦意高揚プロパガンダ・ポスター。追い詰められながらも大英帝国の壁を守るチャーチルの図
ファイル:Wc0107-04780r.jpg
1940年、空襲警報でヘルメットをかぶるチャーチル

テンプレート:Main 1940年夏のイギリスは破滅の一歩手前だった。西欧諸国や北欧諸国はほとんどがドイツに占領されるか、その衛星国家になっていた。東欧も独ソに分割占領され、またドイツは日本やイタリアと同盟関係を結んでいた。アメリカ参戦だけがイギリスの唯一の希望という状態だったが、アメリカの国民世論はモンロー主義が根強く、大統領フランクリン・ルーズベルトも大統領選挙を前にしてチャーチルの誘いには簡単には乗ってこなかった。イギリスは独力でブリテン島の守りを固め、ドイツ軍の攻撃を待つしかなかった。チャーチルはこの時の状況を後に「イギリスの最後の審判の時が刻まれたと全世界が思いこんでも何の不思議があろうか。」と評した[625]

フランスに勝利したのち、ヒトラーはイギリスに和平を提唱したものの、チャーチルは強硬路線を曲げようとせず、これを拒絶した[626]。やむなくドイツ軍はイギリス上陸作戦「アシカ作戦」の立案を開始したが、これを成功させるためにはイギリス本土の制空権を握る必要があった。チャーチルもまず襲来してくるのはドイツ空軍と予期しており、イギリス本土を攻撃させておいて、敵の空軍力を粉砕するという方針を取った[627]

ドイツ空軍の空襲は8月10日から開始された[628]。ドイツ空軍ははじめ港や基地、飛行場など軍事施設を中心に空襲をかけてきた[626]。イギリス軍機がこれを迎え撃つべく出撃し、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリス本土上空での激闘が始まった。最初の二週間はドイツ軍機が次々と撃墜されてイギリス優勢であったが、8月24日を境にイギリス軍機の撃墜も目立つようになり、消耗戦の様相を呈してきた。それでも王立空軍は最後までドイツ空軍に制空権を渡すことはなかった[628]

またこの間にチャーチルは1000機の爆撃機をもって最初のベルリン空襲を敢行したが、戦果は乏しかった[629]。ヒトラーはこの復讐で、まだ制空権を握れていないにも関わらず、9月7日からドイツ空軍爆撃機にロンドン空襲を開始させた[630][631]。だが、これはドイツ側の重大な判断ミスとなった。これによってイギリス軍機に撃ち落とされるドイツ軍機の数が急増したのである。チャーチルも「戦闘機部隊司令官はドイツ空軍の攻撃目標がロンドンになったことに安堵していた」と書いている[630]

一方チャーチルは爆撃を受けた町を視察して回り、そこで葉巻をくわえながらVサインをして見せた。これはやがて彼のトレードマークとなった。この一連の視察でチャーチルの国民的人気は大いに高まり、独裁的地位を確立するに至った。チャーチルはなおも議会を重んじるかのような発言はしていたが、反対派の声はこのチャーチル人気の前に圧殺されるようになったのである。イギリスに独裁者が現れるのは護国卿クロムウェル以来のことであるとされる[632]

バトル・オブ・ブリテンで失われたパイロットと航空機の損失にヒトラーも動揺し、9月17日にはアシカ作戦の中止を決定した[633][634][631]

さらにこの年にはもう一つ、チャーチルにとって事態の好転の兆候があった。1940年11月に行われたアメリカ大統領選挙でルーズベルトが三選したことで、アメリカ政府が平和を求める国民世論を無視してモンロー主義を放棄するようになり始めたのである。ルーズベルトは1940年12月末のラジオ放送で「イギリスが敗れれば、全ヨーロッパ、全世界がドイツに征服され、人類の自由と幸福は失われるだろう」などと演説し、公然とドイツ批判、イギリス支持の主張を行った。そして1941年3月にはモンロー主義者の反対を押し切って武器貸与法を制定し、イギリスに武器や兵器を戦後払いで提供し始めたのである[635]

北アフリカ戦線
ファイル:Rommel with his aides.jpg
北アフリカのドイツ軍を指揮したエルヴィン・ロンメル。チャーチルは敵であっても彼には敬意を表していた[636]
ファイル:Churchill Morshead (AWM 024764).jpg
1942年8月5日、エジプト駐留イギリス軍を視察するチャーチル。

一方イタリア首相ムッソリーニは大戦初期には中立を保っていたが、フランス戦のドイツの勝利が確実となった1940年6月になってドイツ側で参戦した。しかしイタリア軍は貧弱でフランスのアルプス山脈防衛部隊に返り討ちにされてしまった。続くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍も一部参加していたが、やはりその働きは杜撰を極めた[637]。だがムッソリーニは、地中海の覇権を目指し、ヒトラーの援助の申し出も拒否して独断でエジプト王国(名目上独立国家だったが、実質的にはイギリスの軍事支配下にあった)とギリシャに侵攻を開始した[637]

チャーチルは乏しいイギリスの物資と戦力をこの地中海の戦いに注ぎこんだ。アメリカの参戦を促すためにイギリスの勝利が必要であったが、簡単に戦勝を上げられそうなのは目下この戦域だけだったからである[638]

この目論見は奏功し、1940年12月にエジプト駐留イギリス軍はエジプトへ侵攻してきたイタリア軍を返り討ちにし、逆にイタリア植民地リビアへ侵攻し、イタリア軍をトリポリまで追い詰めた[639]。イタリア軍を北アフリカから駆逐できればイギリスは地中海を自由に動けるようになり、物資確保の面で有利であった[640]。またギリシャ戦線でもイタリア軍は敗北し、イギリスはここに空軍基地を設置してドイツの重要な資源地であるルーマニアの油田への空襲も狙えるようになった[640]

ヒトラーも看過できなくなり、地中海にドイツ軍部隊を派遣することを決定した。1940年12月にはギリシャのイタリア軍救出のためのマリータ作戦を発動し、ついで1941年1月にはゾネンブルーメ作戦を発動してドイツアフリカ軍団がトリポリへ送られるようになり、2月にはその指揮官としてエルヴィン・ロンメル中将が派遣されてきた[641]

一方チャーチルはテンプレート:仮リンクアーチボルド・ウェーヴェルの訴えを無視して北アフリカの兵力を強引にギリシャに割いた。その結果は惨憺たるもので、イギリス軍はギリシャでドイツ軍に蹴散らされた[642]

ロンメル指揮下の北アフリカ・ドイツ軍もこれに乗じて1941年3月末からイギリス軍に対する攻勢を開始し、リビアのほとんどの地域からイギリス軍は駆逐された。トブルクだけはオーストラリア軍の勇戦でなんとか持ちこたえたが、そこも包囲された[643]。チャーチルは6月にもトブルク包囲を解こうとイギリス中東軍司令官ウェーヴェル大将に命じてバトルアクス作戦を開始させたが、ドイツ軍に蹴散らされて惨敗に終わった[644]。チャーチルはウェーヴェルを解任し、クルード・オーキンレック大将を後任とすると、11月にもクルセーダー作戦を開始させ、ドイツ軍を後退させた[645]。しかし1942年5月からドイツ軍の反攻があり、6月までにリビアからイギリス軍は駆逐された(ガザラの戦い)。とりわけチャーチルはトブルクの陥落を恐れ、同市の守備軍に死守命令を下したが、司令官が独断で降伏してしまった[646]

トブルク陥落は、この数か月前のシンガポール陥落と相まって、イギリス国内に強い衝撃を与え、戦時中のチャーチル批判は1942年7月に最も強まった。議会では内閣不信任案が提出された。挙国一致内閣のオール与党だったため、不信任案自体は大差で否決されたものの、戦時の挙国一致内閣で内閣不信任案が提出されること事態が異例であった。こんなことは一次大戦時にも起きたことはなかった[647]。チャーチルもこれを「深刻な挑戦状」と捉えたという[648]

19世紀以来続いているイギリスのエジプト占領体制も揺らぎ始めた。エジプト駐留イギリス軍は書類を焼き始め、パレスチナへの撤退準備を開始していた。これを見たエジプト民族主義者たちの間にはロンメルがイギリスの圧政から解放してくれるという期待感が広がり始めた[648]。エジプト王ファールーク1世も独立のチャンスが来たと見て反英内閣の組閣を計画したが、エジプトの実質的支配者であるイギリス大使テンプレート:仮リンクがエジプト王の宮殿を包囲し、「イギリスに逆らうつもりなら拉致する」と無法な脅迫をしたことでこの計画は水泡に帰した[649]

もしエジプトをドイツ軍に突破された場合、失われるのはエジプト支配権だけではなかった。北アフリカのドイツ軍がコーカサスに進軍している東部戦線のドイツ軍と合流することになり、イギリスの「インドの道」は閉ざされ、大英帝国アジア支配体制のすべてが崩壊する恐れがあった[650]

だが、ロンメルの快進撃はここまでだった。ドイツ軍が勢いに乗って開始したエジプトへの進軍は7月中に停滞した。チャーチルは8月3日にもエジプト首都カイロに入り、チュニジアに上陸予定の英米軍支援のための攻勢に出ることを拒否したオーキンレックを解任し、第8軍司令官にバーナード・モントゴメリーを任じて新体制を整えた[650]。10月から11月にかけてのエル・アラメインの戦いでモントゴメリー率いるイギリス軍はロンメルのドイツ軍を撃破し、さらに11月にモロッコとアルジェリアに英米軍の上陸が成功した[651]。1943年3月にはロンメルは戦線を離脱し、北アフリカのドイツ軍は5月までに降伏した。 テンプレート:-

独ソ戦勃発
ファイル:Posters11.jpg
セルビア救国政府陰謀論系のプロパガンダ・ポスター。フリーメーソンのユダヤ人に操られるスターリンとチャーチルの図

テンプレート:Main 北アフリカ戦中の1941年6月22日にヒトラーはバルバロッサ作戦を発動し、東ヨーロッパのソ連占領地域にドイツ軍が侵攻を開始した。これを見てチャーチルはその日のうちにスターリンに無条件の協力を約束する電報を送った。この時チャーチルは秘書に「ヒトラーが地獄へ攻めいれば、私は地獄の大王を支援するのだ」と語ったという[652]

1941年8月にもイギリスとソ連は共同でイラン侵攻し、同国の石油資源を確保しつつ、ソ連支援ルートを作った[653]

当面イギリスがソ連に対して行える支援はこのルートを使っての物資支援に限られていた。スターリンはチャーチルにフランスへ上陸して「第二戦線」(西部戦線)を開くよう再三要求し[652]、イギリス国内でも左翼が「即刻、第二戦線を」と街の壁のあちこちに落書きして歩くようになった[654]

だがチャーチルはこれを拒否し続けた。一度、駐英ソ連大使が「第二戦線を開け」とあまりにしつこかった時には、つい最近までの独ソの近しい関係を引き合いに出し、「貴方がたに何か要求される筋合いはない」と突っぱねたこともあった[652]。アメリカ参戦後にはアメリカのルーズベルトが第二戦線論に乗り気だったが、チャーチルはルーズベルトに直談判して中止させ、北アフリカのアルジェリア・モロッコへの上陸作戦に変更させた[655]

結局、1944年6月のノルマンディー上陸作戦まで本格的な「第二戦線」が開かれることはなかった。 テンプレート:-

大西洋憲章
ファイル:Franklin D. Roosevelt, F.D.R. jr. Churchill, and Elliott R. at the Atlantic Conference - NARA - 196902.tif
1941年8月、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上のチャーチルとアメリカ大統領ルーズベルト。

テンプレート:Main 1941年8月にはイギリス自治領カナダ・ニューファンドランド島沖に停泊中の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上でアメリカ大統領ルーズベルトと会談した。ここで両首脳は「大西洋憲章」を締結した。これは第一次世界大戦時にウィルソンが発表した14カ条を真似たもので領土不拡大や民族自決を盛り込んでいた。後に国際連合憲章の原型になった米英の共同文書として知られている[656]

だがチャーチルはこの憲章の適用範囲はナチス支配下のヨーロッパ諸国のみであり、大英帝国が広がるアジアやアフリカは除外されるべきと主張した[657][658]。そのことを憲章の民族自決に関する条項にも盛り込ませようとしたが、アメリカはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたため、拒否された[659]

ルーズベルトが「永久平和の手段」として世界自由貿易を提案したのに対して、チャーチルは「帝国内関税特恵制度を変更するつもりはない」とこれを拒絶した。だがルーズベルトはなおも食い下がり、「ファシスト奴隷制と闘いながら、同時に自分たちの18世紀的植民地支配体制から全世界を解放する気はないというのはいかがなものか」などとイギリス批判をはじめた。これを聞いたチャーチルは激昂のあまり卒倒しかけたという[660]

しかしアメリカがなんと言おうとチャーチルはアジアとアフリカは憲章の適用外という解釈を取り続け、憲章締結後も植民地の民族運動家に対する弾圧をやめようとはしなかった[656]。また憲章のうち領土不拡大という理念もやがて英米ソの三国が領土分割を約束し合うようになったことで、完全に無視されるに至った[656]

またこの会談の際、ドイツの同盟国であり、南西太平洋地域のフランス植民地に進駐した日本に対して戦争も辞さない強硬な姿勢をとるべきことがチャーチルの発案により米英両国で確認された[661]。これに基づいてか、アメリカは11月に日本に対して「中国から撤兵せよ。満洲事変以前の状態に戻せ」というこれまでにない強硬要求を突き付けた。日本を戦争に追い込むための挑発だったという説もある[662]

アメリカと日本の参戦

1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃で日米が開戦した。この報告を聞いたチャーチルは大喜びし、早速ルーズベルトに電話した。ルーズベルトは「その通りだ。日本は真珠湾を攻撃した。これで我々は同じ船に乗ったわけだ。」とチャーチルに語ったという[663]。チャーチルの回顧録は「その日の夜、興奮と感動で疲れ果てていたが、私は救われた人間、感謝の気持ちに溢れた人間として眠りに付くことができた」と書いている[664][665]

チャーチルはその翌日にも日本に宣戦布告した。日英が交戦状態となったことを知らせる駐英日本大使への通知はやけに丁重で、「閣下の忠実なる僕、ウィンストン・S・チャーチル」という署名で結んでいた。チャーチルによればこれから殺す相手にはできるだけ丁重にした方がいいのだという[666]。また、日本に付き合う義務はないのになぜかドイツもアメリカに宣戦布告した。これもチャーチルにとっては願ってもないことだった[667][668]

回顧録の中でチャーチルはこの時に勝利を確信したと主張している。「ついにアメリカがその死に至るまで戦争に突入したのだ。これで我々は戦争に勝った。イギリスと大英帝国は滅亡を免れたのだ。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本人にいたっては粉微塵に粉砕されるだろう」と書いている[667]

1941年末に訪米したチャーチルは、アメリカ議会で「一体日本人は我々をどういう国民だと思っているのか!我々がそんなに簡単に屈する国民だと思っているのか!」と反日演説を展開した[669]

なお日本との開戦により、数年前から日本と交戦状態にある中華民国総統蒋介石の政府とも連携関係に入ったが、チャーチルは蒋介石に「ドイツとの戦線が最優先であり、日本との戦線は二義的意味しかない」と通達している[670]。蒋介石政府はすでにアメリカから大量の支援を受けていたにも関わらず、その多くを自らの私財として貯め込むような腐敗政権であり、このような政府を支援してもまともな戦いは期待できなかった。同盟国というよりもお荷物に近い存在だった[670]

アジア戦線
ファイル:BritishSurrender.jpg
1942年2月15日、シンガポール。山下奉文中将と降伏交渉を行うパーシバル中将

チャーチルの予想に反し、アジア戦線でもイギリスは惨敗続きだった。イギリスが阿片戦争で獲得した英領香港はわずか17日間で日本の手に落ちた[671]

さらに英領シンガポール沖ではイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス日本軍の爆撃機によって沈められた。1942年1月終わりからシンガポールは日本軍に包囲されたが、チャーチルは同市のイギリス軍に死守命令を下し、降伏を許さなかった[672][673]。また「アジア人に対するイギリスの威信が弱まる恐れがある」として「包囲」という言葉の使用を禁じた[672]。だが結局、現地司令官アーサー・パーシバル中将は独断で包囲軍司令官山下奉文中将に降伏を申し出、シンガポールは陥落、英軍12万人から13万人が捕虜となった[674][673]

シンガポールはイギリスがほぼゼロから作り上げ、世界第四位の港にまで育て上げた大英帝国繁栄の象徴であっただけに、それが陥落した衝撃は大きかった[675]。チャーチルもシンガポール陥落を聞いてショックのあまり、寝込んでしまったという[676]。また「日本の勢いを侮り過ぎていた」と舌を巻いたという[669]

日本軍は更に英領インドに隣接する英領ビルマにも進軍を開始した。こうした中でインドのテンプレート:仮リンクは独立のチャンスが来たと見て1942年8月より反英闘争「テンプレート:仮リンク」を開始した。これに対してイギリス当局は徹底的な弾圧をもって臨んだ[675][677][678]。ガンジーやネルー、全インド会議派委員会幹部が次々と逮捕・投獄されていった[677][679]

この直後、またしてもアメリカから「インドに大西洋憲章を適用せよ」との横やりが入ったが、チャーチルは拒絶した[680]。この後もアメリカはしつこくイギリスのインド支配破壊を画策し続け、我慢の限界に達したインド総督リンリスゴー侯爵は、1943年に本国インド担当省に対して「善意の干渉家がアメリカから流出してくるのを防いでほしい」と要請している[681]

一方アジア太平洋の戦局の方はますますアメリカのダグラス・マッカーサー大将の独壇場と化しており、イギリスの出る幕はなくなっていった[682]。この状況についてイギリスの外交文書も「マッカーサー将軍の一人遊び」「マッカーサー将軍の独裁」という表現をよく使用するようになる[683]

イタリア半島に上陸

北アフリカ戦線に勝利した米英軍は、イタリア侵攻が可能となった。1943年7月にシチリアへ上陸作戦を決行して成功[684]。連合国の激しい空襲でイタリア人の戦意は衰え、ストライキや暴動が多発し、ムッソリーニは失脚。後任の首相ピエトロ・バドリオは9月にも連合国と講和し、イタリアは戦争から脱落した[684]

ムッソリーニを尊敬していたチャーチルは、回顧録の中で「この独裁者には共産主義からイタリアを守った功績がある。だが彼の失敗は1940年6月にヒトラーの勝利に惑わされてイギリスに宣戦布告してきたことだ。この時に彼は誤った道に進んでしまった。もしあの時に中立を保っていれば、この戦争を利用して更なる繁栄に至ったであろうに。」と惜しんでいる[685]

この後イタリアはドイツ軍によって占領されたため、結局戦場になった。米英軍は1943年9月9日ナポリの南方サレルノへの上陸に成功したが、アルベルト・ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍の勇戦で米英軍は散々に蹴散らされてほとんど侵攻できなかった[686]

最終的にはノルマンディー上陸作戦に呼応した1944年5月の攻勢でようやくドイツ軍を押し込むことに成功し、1944年6月4日にローマを陥落させた[687]

カイロ会談とテヘラン会談
ファイル:American and Allied leaders at international conferences - NARA - 292624.tif
カイロ会談の際の蒋介石、ルーズベルト、チャーチル。米英中の軍人たち

1943年11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蒋介石と会談を行い、対日問題を協議した(カイロ会談[685][688]

ルーズベルトは蒋介石と仲が良く、以前から香港を日本から奪還したらイギリスではなく蒋介石に渡そうと目論んでいた(香港奪還後イギリス軍がただちに香港総督府にイギリス国旗を立てて植民地統治を再開したのでこの企みは阻止できた)[689]。さらに戦後には中国を第四の大国にしようなどという構想さえ思い描いていた[690]。チャーチルは中国など全く興味がなかったし、蒋介石とも話はしたが、何の感銘も受けなかった。こんな国を第四の大国にしようなどというアメリカの考えには到底賛成できなかった[690]

続けて、11月から12月にかけて英ソ占領下のイラン・テヘランでルーズベルトとスターリン、チャーチルのいわゆる「三巨頭」うちそろっての初めての会談を行った(テヘラン会談)。ちょうどこの会議中にチャーチルは69歳の誕生日を迎えたため、3人はバースデーケーキの前で会談した[691]。この会議で翌年5月にも米英軍が北フランスと南フランスに上陸作戦を決行することと、それに呼応してソ連軍が攻勢に出ることが約束された[687][692]。またチャーチルは地中海のイギリスの覇権を確保しようとエーゲ海方面での作戦を提案したが、ルーズベルトにより阻止された[692]

会議ではスターリンの高圧的な態度が目に付いた[693]。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルと違い帝国主義者ではない」と思っており、スターリンに好感を持っていた[688]。何百万人も殺戮してきたスターリン、そんなスターリンに好感を抱くルーズベルトとは感覚が違い過ぎることを痛感させられる場面もあった[注釈 20]

ノルマンディー上陸作戦と共産化阻止
ファイル:The British Army in North-west Europe 1944-45 BU2637.jpg
ドイツへ侵攻するイギリス軍部隊を視察するチャーチルとモントゴメリー。

1944年6月6日にはドワイト・アイゼンハワー元帥率いる米英軍がノルマンディー上陸作戦に成功し、ドイツにとっての西部戦線が形成された。これに呼応してイタリア半島戦線の米英軍や東部戦線の赤軍も攻勢を開始(バグラチオン作戦)した。ドイツは1943年から本格化した米英軍の空襲に苦しめられ燃料やベテラン兵員の不足によりこのような大規模な一斉攻勢を抑える力はもはやなかった。8月24日にはパリが陥落、1944年末までにはフランス全土からドイツ軍は駆逐された。11月11日にチャーチルはパリを訪問し、臨時政府大統領となったド・ゴールとともに無名戦士の墓に花をささげた[695]

一方、チャーチルの懸念はもはやドイツではなく、戦後のソ連の脅威であった。ゲリラが多いバルカン半島は戦後共産化してソ連に呑み込まれる可能性が高かった。チャーチルは、これを阻止すべく1944年8月にもユーゴスラビアのチトーと会見し、ユーゴを共産化しないとの言質を得ている[696]。10月にはモスクワを訪問し、スターリンとの間にバルカン半島諸国の英米ソの勢力割合を話し合った[697][698]

同じ月にイギリス軍はギリシャへ上陸して同国を占領したが、12月には共産主義勢力ギリシャ人民解放軍が反乱を起こす。チャーチルはこれを徹底的に鎮圧させた。これには「イギリス人はドイツと戦ってきたギリシャの愛国者たちをアメリカの武器で殺している」としてアメリカやイギリス国内から批判が起こったが、この時のチャーチルの断固たる処置のおかげでバルカン半島の中でギリシャだけは共産化を免れた[699]

チャーチルは回顧録の中で「ナチズムとファシズム亡き今、文明が直面しなければならない危険は共産主義であることを私は見抜いていた」と書いている[699]テンプレート:-

ヤルタ会談
ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg
ヤルタ会談の三巨頭。左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。

テンプレート:Main 1945年2月、ソ連領クリミア半島ヤルタでスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三巨頭によるヤルタ会談が行われた。ドイツを無条件降伏させ、その後、英米ソ仏で分割占領することがこの会談で取り決められた。当初、ルーズベルトとスターリンは英米ソの三国だけで分割占領するつもりだったが、チャーチルの説得でフランスも入れられることになった[700]。この会談で日本と中立条約を結ぶソ連が対日参戦する密約も結ばれた[701]

この会談で一番揉めたのはポーランド問題だったが、これは結局ソ連優位で妥協する形となり、ソ連が送る「民主的指導者」がポーランドを統治することが取り決められた[702]。チャーチルは回顧録の中で「これが米英ソの同盟関係を破綻に導く最初の大きな原因となった」と書いている[703]

また国際連合に関する構想もヤルタ会談で本格的に具体化された。大国の拒否権制度もこの時に決まった。チャーチルも「我が国の帝国主義的利益を守るためには必要不可欠」として拒否権制度に賛成した[703]。ちなみに国際連合はヤルタ会談で開催が決められた1945年5月のアメリカ・サンフランシスコでの連合国会議において正式に創設されている[703]テンプレート:-

形だけの「勝利」を得て
ファイル:Churchill waves to crowds.jpg
1945年5月8日、保健省のバルコニーから群衆に演説するチャーチル。

1945年春に米英軍と赤軍は東西からドイツ領へ侵攻を開始し、1945年4月30日にヒトラーは赤軍が迫り来るベルリン内の総統地下壕内で自殺に追い込まれた。ヒトラーの遺書の指名でドイツ大統領となったカール・デーニッツ提督は5月8日に無条件降伏し、ヨーロッパ戦争は終結した[704]

1918年の時のようにビックベンが鳴り、人々は街に繰り出してお祭り騒ぎとなった。庶民院議員たちはみんなでウェストミンスター寺院に参拝し、神に感謝を捧げた[705]。チャーチルはテンプレート:仮リンクのバルコニーから群衆に「これは諸君の勝利である」と宣言し、皆で愛国歌「ブリタニアよ、支配せよ」を熱唱した[704]

戦前の大英帝国は全て戻り、新たに北アフリカ全域、レヴァント地方、イランがイギリス軍の占領下に置かれていた。地中海の支配権も戦前以上に強力にイギリスが握っていた。さらにイギリス軍はドイツとイタリアとオーストリアを分割占領していた。チャーチルはそれをもって大英帝国衰退論を否定し、「大英帝国はそのロマンティックな歴史上、いつの時代よりも強力になっている」と宣言した[706]

しかしそれは幻想だった。もはやイギリスに大英帝国を維持する力はなくなっており、この後わずか数年の間に帝国のほとんどの地域に独立され、イギリスは一介の島国に没落する運命にある。ちなみにヒトラーも自殺の少し前に「大英帝国はすでに滅びる運命にある」と予言し、チャーチルを「帝国の墓掘り人」と呼んで批判していた[707][注釈 21]

さらにイギリスの海外投資は戦前の四分の一に激減し(ケインズの試算によると米国の損失の35倍とされる)、イギリスの産業・貿易は衰退、国民生活は困窮した。アメリカの「武器貸与法」のせいで80億ポンドの負債を抱えることになったうえ、イギリスの工業産業は事実上兵器産業だけになってしまい、もはや世界の覇権国の地位をアメリカに奪われるのを防ぐ手段はなかった[708][709]

勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、チャーチル自身も大戦中から自国の没落を肌で感じ取っていた。テヘラン会談の際に「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らしている[710]

自国の没落に加えてチャーチルが不安だったのは、スターリンの台頭であった。1945年4月、スターリンと仲よしのルーズベルトの死でアメリカ政府もようやく共産主義を危険視するようになったものの、すでに手遅れな感があり、東ヨーロッパの大半はスターリンの支配下に堕ちていた。チャーチルは回顧録の中で「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と書いている[711]

解散総選挙に惨敗、退陣
ファイル:ChurchillTrumanYStalinEnLaConferenciaDePostdam23071945--BU 009195.jpg
ポツダム会談の際のチャーチル、アメリカ大統領トルーマン、スターリン。チャーチルは選挙戦中、この会議に出席したが、開票が近付くと帰国し、選挙に惨敗して再び出席することはなかった。

1935年以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた[712]。労働党も1944年の党大会で戦争終結後の総選挙では、挙国一致内閣を解消して野党として戦うことを決定していた[713]

ドイツが降伏したことで労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否した[714][715]。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった[714]。チャーチルは6月15日にも庶民院を解散し、7月5日に総選挙が行われた[712]

労働党は「未来に目を向けよう」をスローガンに社会保障政策やイングランド銀行、燃料・動力産業、鉄鋼業の国有化など社会改良主義政策を主張した。対するチャーチル率いる保守党も社会保障政策を公約に掲げていたが、その訴えはチャーチルの戦功を誇示し、また労働党と社会主義政策を批判することを中心としていた[716]

チャーチルはラジオ演説で労働党やアトリーが主張する政策は「社会主義である」として批判し、「社会主義は全体主義や卑屈な国家崇拝と不可分の存在」「教条主義的社会主義者は自由な議会を敵視する」「社会主義のたどり着く先はゲシュタポの弾圧政治」と国民に訴えたが、つい先日まで彼の内閣の閣僚だったアトリーをゲシュタポ扱いする罵倒は評判が悪かった[717][718][719]

またチャーチルは、保守党、労働党のどちらが政権を握ってもイギリスの外交上の一貫性が保たれるよう、ソ連占領下ドイツ・ポツダムで開催予定の米英ソ三国首脳によるポツダム会談にアトリーも連れていこうと考えていたが、これに対して労働党全国執行委員会委員長ハロルド・ラスキは強く反対し、アトリーに行かないよう指示を出した[720][721]。アトリーは議会内労働党の党首だが、労働党の党規約では全国執行委員会が党内での地位が最も高く、議会内労働党もその指示に従わねばならなかった[720]

チャーチル率いる保守党はこれを労働党の「党指導部絶対」「議会政治軽視」の体質と批判した[720]。これは的はずれな批判というわけではなかったが、保守党はまたしても「ナチス総統ラスキ」などというどぎつい表現を使って批判運動を行ったため、逆に保守党の方が批判を招く結果となった[722]

総選挙の結果は労働党394議席、保守党213議席、自由党12議席という労働党の大勝に終わった[723]

この選挙結果については様々な説があるが、前述の個人攻撃への不評より、慢性的な保守党の人気の凋落が原因と考えられる[722]ギャラップの世論調査によれば、チャーチルの人気は高かったものの、労働党は1942年以降順調に支持率を上げており、それに勝てなかっただけということのようである[724]。また労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していない[721]

ともかくこの議席差ではチャーチルは退任せざるを得ず、7月26日に国王ジョージ6世に辞表を提出した。国王からの慣例の次期首相の下問に対してアトリーを推挙した[725]。またこの際に国王からガーター勲章を授与するとの叡慮があったが、「選挙に敗れた首相が、どうして陛下からガーター勲章を頂けますでしょうか」と述べ、拝辞した[726]テンプレート:-

野党党首として

下野したチャーチルは70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった[727]

またこの時期に『テンプレート:仮リンク』を全6巻で著し、1948年から1年ごとに1巻ずつ出版されていった[727]。チャーチルの口述方式で著され、チャーチルの自画自賛が目立つが、陸海軍将官や歴史学者などを総動員した大著となった。この本はベストセラーとなり、チャーチルに莫大な富をもたらし、首相在任中の1953年にはノーベル文学賞の受賞にも至っている[728][注釈 22]

反共闘争
ファイル:Photograph of President Truman waving his hat and Winston Churchill flashing his famous "V for Victory" sign from the... - NARA - 199350.jpg
1946年3月、アメリカ・ミズーリ州へ向かう列車の中でVサインをするチャーチル。トルーマン大統領とともに

労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった[708]。これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判した[729][730]

老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは1946年3月にアメリカ・ミズーリ州テンプレート:仮リンクで「鉄のカーテン」演説を行った。

テンプレート:Quotation

さらにこれに対抗する「英語諸国民の兄弟としての団結」を訴えた。これ以降、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争屋」「反ソ戦争挑発者」「ヒトラーのドイツ民族優越論に匹敵する英語圏国民優越論者」などと批判するようになった[731]

一方ルーズベルト時代の親ソ方針を全面破棄する事を決意していたアメリカ大統領トルーマンもチャーチルのフルトン演説にこたえて、1947年3月にトルーマン・ドクトリンを発表し、ソ連封じ込めの反共政策をアメリカの公式政策に決定した[732][733]。イギリス労働党政権は初めこうしたアメリカやチャーチルの反共姿勢に反対し、イギリスをアメリカとソ連の中間に立つ「第三勢力」にしようと考えていたが、二次大戦で消耗したイギリスは、マーシャル・プランに参加してアメリカの援助を受けなければならない弱い立場だったため、最終的には労働党政権もアメリカに従って行動する路線を選択することになった[734]

チャーチルは共産主義に対抗するため、西側ヨーロッパ諸国を一つにまとめる必要性を痛感し、1945年11月からヨーロッパ合衆国構想を盛んに主張するようになった。1946年夏、いまだヘルマン・ゲーリングらドイツ人戦犯に対するニュルンベルク裁判が行われていたこの時期にドイツもこのヨーロッパ合衆国の中に加えるべきと提案して人々を驚かせた[735]。この構想は1948年3月の西欧同盟、1949年5月の欧州評議会などで結実を見た[732]。アメリカも1949年4月にはヨーロッパ反共体制の北大西洋条約機構(NATO)を発足させている[736]

一方共産主義陣営も攻勢を強めていた。1948年2月には東欧で唯一西側に開かれていたチェコスロバキアでクーデタが発生し、同国が共産化された(チェコスロバキア社会主義共和国[734]。同年8月にはソ連がベルリン封鎖を強行した[737]。1949年9月にはソ連の原爆保有が判明し、西側諸国に衝撃を与えた。同年10月には中国の国共内戦毛沢東率いる中国共産党軍の勝利に終わり、総統蒋介石らは台湾へ追われ、中国が共産化した(中華人民共和国[734]

そしてついに1950年6月、北朝鮮韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。イギリス労働党政権は「韓国が侵攻を退けるのに必要な支援を行う」とした国連決議に基づき、マッカーサー元帥の指揮下にイギリス軍を派遣した[738]。もちろん保守党もこの出兵を支持した[739]テンプレート:-

大英帝国の崩壊

この頃のイギリスにとって、共産主義と並ぶもう一つの脅威は植民地民族運動の激化であった。労働党政権時代にインド、パキスタンスリランカヨルダンイスラエルなどが続々と独立し、長きにわたる大英帝国のアジア中近東支配に終止符が打たれた。同時期フランスも植民地民族運動に悩まされて植民地帝国崩壊の瀬戸際に立たされていた。しかしフランスが強引に植民地を維持しようとしてインドシナアルジェリアで泥沼の内戦に陥っていったのに比べると、イギリス労働党政権は「引き際を心得ていた」と評価されている[740][注釈 23]

だが帝国主義者チャーチルにはもちろんそんなことは認められなかった。「大英帝国はアメリカの借款と同様に急速に減少している。その急速さには慄然とさせられる。『逃亡』、これが唯一ふさわしい言葉だ」「労働党は我らの先人たちが200年の時を費やして行ってきたことの全てを、インド帝国とともに投げ捨てた。」と批判した[740]

政権奪還

1950年2月の解散総選挙があった。争点はほとんど国内問題に集中した。というのも労働党政権の積極的な反共外交は保守党としても文句のつけようがなかったからである。植民地放棄には不満もあったが、今さら植民地回復は不可能であり、保守党も代替案は出せなかった[741]。選挙戦で労働党は5年間に行った社会改良政策の実績を誇り、対する保守党は労働党政権は国民全員に耐乏生活を押し付けただけと批判した[742]

選挙の結果は労働党315議席、保守党298議席、自由党9議席をそれぞれ獲得し、労働党と保守党の議席差は17議席差にまで縮まった[743][741][744]。保守党は大幅に失地回復したものの、政権を獲得できず、失望感が広がった[741]

だが、過半数をわずか8議席上回ったに過ぎない労働党の政権維持は困難になった。落ち目になったことで労働党内の党内紛争も激化していった[745]。政権運営に行き詰ったアトリーは1951年10月にも庶民院を解散して解散総選挙に打って出た[746]

この頃、チャーチルが40年前に創設したアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニーがイラン政府によって国有化された。激怒したチャーチルはイラン政府を激しく批判したので、チャーチルは「戦争挑発屋」か否かというのがこの選挙の争点の一つとなった[747]。選挙戦でチャーチルは、労働党政権の北アフリカ政策や中近東政策の愚策を批判し、「スーダンアーバーダーンテンプレート:仮リンク」は三大惨事であると主張した[748]

選挙の結果、保守党が321議席、労働党が295議席を獲得し、保守党が政権を奪還した[749]。得票数の上では労働党の方が上回っていたが、小選挙区制度の賜物で保守党が勝利した[750][751]

第2次チャーチル内閣

ファイル:Churchillcabinet1955.png
1955年、チャーチルとチャーチル内閣の閣僚たち

こうして6年ぶりに首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康な状態とは言い難かった[752]

1952年2月にジョージ6世が崩御し、エリザベス王女がエリザベス2世として女王に即位した[726][753]。1953年には女王よりガーター勲章を授与され、以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる[726]

政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鋼鉄産業を民営化したが、一方でそれ以外の労働党政権の社会改良政策は継承した[754]テンプレート:仮リンクハロルド・マクミランは住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した[754][747]

1953年3月のスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチルの共産主義国に対する融和的態度が見られるようになった[755]。彼が軟化したのは原爆の時代に世界大戦を起こしたらイギリスの生存が危ういと考えたためだった[756]。東西は「雪解け」と呼ばれる緊張緩和の時代へ向かっていき、同年7月には朝鮮戦争が終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐるジュネーヴ協定が締結されたが、イギリスはアメリカの軍事介入を抑えてこの協定締結を成功させる役割を果たした[756]

しかしその一方でチャーチルは反共政策も粛々と進めた。西ドイツを反共の防波堤にするために同国の再軍備を促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器を慎重に蓄えるよう命令を出したが、これはソビエトが前進してきた場合、ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話を暴露し、国際的な反響を呼んだ[757]。また原爆開発を推進し、1952年10月にはオーストラリア沖で核実験を行った(ハリケーン作戦)。米ソに次ぐ第3の核保有国としての存在感を世界に知らしめた[758]。1954年にはアジア反共体制の東南アジア条約機構(SEATO)に参加した[758]

一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代の趨勢には抗えず、前政権に引き続いて、失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係が緊迫する中、エジプトを反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍をエジプトから撤兵させることになった[758]。イランとは引き続き、石油国有化をめぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった[758]。1952年にケニアマウマウ団の乱が勃発すると、チャーチルは空軍をも出動させて反英ゲリラの鎮圧にあたった。だが懐柔のために様々な植民地支配の緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にはチャーチル退任後の1963年12月にケニアは独立した[759]

1954年11月30日に80歳を迎え、グラッドストンに次ぐ高齢首相となった[755]。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議で昔話をとりとめもなく語すばかりになっていた[760]。多くの閣僚がチャーチルを引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランがチャーチルに引退を勧めた。チャーチルは素直にこれを了承し、1955年4月に首相職を辞した[761]。後任の首相・保守党党首になったのは外相サー・アンソニー・イーデンだった[762][755]

退任にあたってエリザベス2世は伯爵位を与えるとの叡慮を示したが、チャーチルは庶民院議員として政治家を続けることを希望し、これを拝辞した[754]テンプレート:-

退任後

退任後、第二次大戦前から著していた『テンプレート:仮リンク』を出版した。英米の連携強化を意識して「英語圏の国民の歴史上の地位と性格を探る」とした著作であり[763]カエサルブリタニア侵攻からチャーチルが第二次ボーア戦争に立つまでを描いた作品だった[764]

首相退任後も1955年の総選挙、1959年の総選挙で当選を果たして庶民院議員を務め続けたが、政界の表に立つことはなかった。1956年にイーデン首相が第二次中東戦争の失敗で退任した際に一部にチャーチル待望論も出たが、実現はしなかった[765]

1963年にアメリカ連邦議会からアメリカ名誉市民の称号を送られた。ホワイトハウスでの授与式には長男ランドルフが代わって出席し、チャーチルはメッセージだけ送った。そこには「私はイギリスがおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」と書かれていた。これに対してアメリカの元国務長官ディーン・アチソンから「イギリスは帝国を失い、新しい役割は見つけられていない」と嫌味を返された[762]

チャーチル自身も最晩年には「私は非常に多くのことをやってきたが、結局何も達成することはできなかった」と語るようになった。チャーチルの二度の世界大戦の「勝利」は帝国の崩壊と米ソの世界支配をもたらしただけだった。「大ブリテンは神から選ばれ、世界を導く義務を負っている」というチャーチルの信念はついに崩れ去ったのだった[766]

死去

晩年のチャーチルはひどく老衰し、言葉の意味もよく分からなくなっていた[767]。また頻繁に涙を流すようになったという[768]

老いてもチャーチル人気は健在で、毎年チャーチルの誕生日の前夜にはチャーチルのハイド・パーク・ゲートの屋敷の周りに人々が集まってきた。チャーチルも屋敷の窓に立ち、集まってくれた人々に向けてVサインを送っていた。1964年11月29日にもチャーチルは元気な姿を群衆に披露したが、これが公衆に見せた彼の最期の姿となった[769]

クリスマスを過ぎた頃からチャーチルの様子がおかしくなり、1965年1月8日になると脳卒中を起こし、左半身がマヒした。持ち直すことはなく、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠した。最後の言葉はなかったという[769]。奇遇にもこの1月24日は父ランドルフ卿の命日であった[770]

エリザベス2世女王の叡慮により、チャーチルの遺体を入れた棺は3日間テンプレート:仮リンクに安置された。国民の参拝が許可され、30万人もの人々が参拝に訪れたという[771]

その後、チャーチルの棺は国葬でセント・ポール大聖堂まで送られた[764][771]。セント・ポール大聖堂での葬儀にはエリザベス2世女王も出席した。イギリスには君主は臣民の葬儀に出席しないという慣例があり、これはその慣例が初めて破られた事例であった[772][773]

葬儀後、チャーチルの遺体はブレナム宮殿の近くになるテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクの墓地に葬られた[764]。ここはチャーチルの両親が葬られた墓地であり、チャーチルも両親の墓の近くで眠っている[773]テンプレート:Gallery テンプレート:-

人物

テンプレート:保守

帝国主義

チャーチルはロイド・ジョージと並ぶ急進派のリーダーとして知られていたが、1909年頃からロイド・ジョージともども自由帝国主義者となった[774]。チャーチルの帝国主義はある程度の柔軟性があったものの、基本的には絶頂期のヴィクトリア朝大英帝国が未だ続いているかのような幻想の帝国像を思い描いていた[775]

チャーチルは1942年11月に「私は大英帝国を清算するために首相になったのではない」と宣言したことで知られる[776][777]。これはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたアメリカのルーズベルトをけん制した演説だった[777]。ルーズベルトはしばしばチャーチルの帝国主義精神を批判し、面と向かって「貴方の血には400年の植民地獲得の本能が流れている」などと言ってきたこともある[777]。一方チャーチルの方もルーズベルトに「貴方は大英帝国を無くそうとしているとしか思えない」と言い返したことがある[777]

チャーチルがヒトラームッソリーニに対して抱いていた共感の一つに「優等文明は劣等文明を支配・指導する」という理論があった。チャーチルは常々インド人やインド文明を劣等視し、イギリスによって支配されることが必要不可欠と確信していた。インド人に選挙制度を与えるべきか否か聞かれた際にチャーチルは「彼らはあまりにも無知なので誰に投票したらいいか分かるはずもない。彼らは人口45万人の村で4、5人が集まって村の共通の問題を討論するような簡単な組織さえ作ることができない身分の卑しい原始的人種なのだ。」と答えている[778]

一次大戦時には植民地住民は白人、有色人を問わず、ほとんどが帝国に忠実だった。だが、二次大戦時には、カナダ、オーストラリアなど白人自治政府は帝国に忠実だったものの、有色人被支配民たちは、もはや忠実ではなくなっていた。この頃には有色人たちも情報を多く入手するようになっており、戦争の意味や帝国に支配され続ける意味に疑問を感じはじめていた。そして彼らの多くが枢軸国と連携することでイギリスの植民地支配に立ち向かったのである[779][注釈 24]

1942年のシンガポール陥落は、アジアにおけるイギリスの威信を決定的に崩壊させた。勇気を得たインド人たちは、同年から反英闘争「インドから出て行け」運動を開始した。これに対してチャーチルは徹底的弾圧をもって臨み、ガンジーやネルー、ヒンズー教指導者など1万人以上の者を投獄した。だが、それもむなしく大戦が終わるまでにイギリスの植民地支配体制は根底から揺さぶられた。枢軸国と協力したチャンドラ・ボースやインド国民軍の兵士たちが殉教者としてインド国民の間で英雄視されていくことにイギリス人たちは落胆した[780]

チャーチルが恐れていた通り、戦後の労働党政権がインドの民族主義者たちに譲歩の姿勢を見せた時、後は全てが時間の問題となり、一気にインド独立まで突き進んでいった。イギリスがインドを放棄した時、他のアジア植民地もなし崩し的に独立していった[781]。波及はアジアに留まらなかった。二次大戦中、イギリス軍はアフリカ植民地の黒人住民たちを駆りだしてドイツ軍や日本軍と戦わせていた。この戦いを通じて黒人兵たちは絶対的支配者だと思っていたイギリス人が無敵の存在でもなんでもないことを知った。彼らは復員した後、多くが職を見つけられなかったこともあって二次大戦での見聞を生かしてイギリス植民地支配との戦いの主力となり、ついにアフリカ各国の独立を実現した[782]

戦後のアジアとアフリカの独立の嵐が過ぎ去ったあと、イギリスに残されたものはイギリス連邦という加盟国を縛る規則が何もなく、女王を戴くか否かまでもが自由という奇妙な連邦だけだった[781]

反共主義

一次大戦前の自由党政権時代、チャーチルはロイド・ジョージとともに急進派閣僚として多くの社会改良政策に取り組んだが、一次大戦後に2人の道は隔てられた。ロイド・ジョージは生涯社会改良政策に情熱を捧げたが、チャーチルの方は「アカの恐怖」に捕らわれていったからである[783]

一次大戦後の列強諸国による反ソ干渉戦争の最大の推進力はチャーチルであった。ロイド・ジョージは後年、チャーチルについて「彼は共産主義を心から憎悪していた。彼の公爵家の血が、ロシア大公皆殺しに強い怒りを感じさせたのだ。ロシア革命を病的に嫌悪する余り、帝政が凋落した原因を冷静に分析することができなかった」と評している[399][401]

チャーチルの反共はその後、死ぬまでずっと続いた。彼の反共演説を上げれば切りがない。「ボルシェヴィズムはその誕生の時にくびり殺しておけば、人類にとって計り知れない幸福があったであろう」「共産主義者と議論をしても無駄だ。共産主義者を改宗させたり、説得しようとするのも無駄だ。もっと容赦なく実力を行使し、何が起ころうとも道徳的配慮などしないということをソ連政府に理解させることが唯一の平和への道だ。」「アメリカの原爆のみがソ連の軍事侵攻を抑えているのだ。」[756]

一方でチャーチルは共産主義者であってもレーニンだけは(忌み嫌いつつ)ある種の畏敬の念を抱くことがあった。レーニンについて「彼の慈愛は北極海のように冷たく広い。彼の憎悪は絞首刑執行人の首なわより固い。」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった。」「ロシア人の最大の不幸はレーニンが生まれてきたことだが、その次の不幸は彼が死んだことだ」と評している[784]

議会主義

ずっと議会政治の中で生きてきたチャーチルは基本的に議会主義者である。だが、1930年前後に世界各国で議会政治が終焉ないし後退していく中、チャーチルも議会主義はもう終わった思想であり、独裁政治にこそ未来があると考えた時期があった。1930年に出版されたテンプレート:仮リンク著『試される独裁政治』の英語翻訳本でチャーチルは「イタリアのムッソリーニ、トルコのケマル、ポーランドのピウスツキなど権威ある国家指導者たちが、弱体にして非効率的、しかも民意を反映していない議会政治に取って代わる日は近い」という前書きを寄せている[785]

しかし1935年頃からヒトラーとの対決姿勢を強めていくにつれて再び議会主義を旗印とするようになった。ヤルタ会談の際、チャーチルはスターリンとルーズベルトに対して「ここにいる3人の中でいつでも選挙で国民から放り出される危険があるのは私だけだ。だがその危険があることを私は誇りに思っている」と述べたという[786]。ただし戦時中にはチャーチルもほぼ独裁者であった[787]

1945年の総選挙において、議会外組織が議員を含めた党全体を指導するという労働党を「議会政治軽視」としてナチ党になぞらえて批判したことは前述したとおりである。 テンプレート:-

親ユダヤ主義

チャーチルはアーサー・バルフォアと並び、ハイム・ヴァイツマンに感銘を受けて英国政界で真っ先にシオニズム支持者になった政治家の一人である[788]。首相在任中にもチャーチルはしばしばユダヤ人のパレスチナ移民を増加させたがっていたが、外務大臣アンソニー・イーデンが現地アラブ人の反発を買って中東駐留英軍が危険に晒されかねないと反対して押しとどめていた[789]

第二次大戦前・戦中、アメリカ世論は概して反ユダヤ主義的であり、ユダヤ人の問題についてはナチス・ドイツの主張に共感を寄せる者さえ少なくなかった。アメリカ政府もユダヤ人を救うための行動をほとんど起こそうとしなかった。一方チャーチルはユダヤ人に同情し、ホロコーストについて「この殺戮は恐らく世界史上最大かつ最悪の犯罪行為である」と怒りを表明し、アウシュヴィッツ強制収容所ガス室を空爆してユダヤ人を救出すべしと訴え続けた。しかし米英政府内でそんなことを主張しているのはチャーチルだけであり、「軍事施設以外の空爆など費用と時間の無駄」とアメリカ軍に反対されて退けられてしまった[790]

個人的にもチャーチルはユダヤ人との交友が多く、彼らからしばしば助けてもらっていた。たとえば1938年にチャーチルは借金がかさみすぎて、チャートウェル邸の売却を検討せねばならない家計難に陥ったことがあったが、ユダヤ金融業者サー・ヘンリー・ストラコッシュがその借金を肩代わりしてくれたおかげで危機を乗り切っている[791]。首相時代にはロスチャイルド家の当主第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルドを自らの護衛隊員として側近くに置いていた[792]

生活習慣

葉巻をよく噛んでいたが、噛んでいるだけの時も多く、実際に吸った量はそれほど多くはなかったという[793]。酒豪であるが、晩餐会などの席上では酒も飲んでいるふりをしているだけの時が多く、酔い潰れないよう注意を払っていた[794]

ヒトラーと同様、深夜型の生活を送っていた。通常は朝10時から活動を開始し、深夜2時に就寝していた。朝の眩しさから逃れるため、寝る時はいつも黒い目隠しをして寝ていた。また昼食後には2時間昼寝する習慣があった[795]

猫背なうえに太っていた。猫背は小さい頃から、肥満は30代半ば頃からである。ダイエットのつもりで早足で歩く癖があった[796]

嗜好

チャーチルは第一次大戦中にランカスター公領担当大臣に左遷された際に暇な時間がたくさんでき、それ以降、絵画を描くことを趣味とするようになった[797][798][799]。戦争中でも、どこに行くにしても絵の道具一式を持参するほどの絵描き好きだった[763]

マーガレット王女から「なぜ風景画しか書かないのです」と聞かれた際にチャーチルは「風景ならモデルに似せる必要がないからです」と答えたという[763]。絵の腕前はなかなか高かったらしく、政治思想からチャーチルにあまり好感を持っていないパブロ・ピカソが「チャーチルは画家を職業にしても、十分食っていかれただろう」と評価している[793]

大変な読書家でもあり、大きな蔵書を残した。チャーチルは「本を全部読むことができぬなら、どこでもいいから目にとまったところだけでも読め。また本は本棚に戻し、どこに入れたか覚えておけ。本の内容を知らずとも、その場所だけは覚えておくよう心掛けろ」という言葉を残している[800]

映画ではネルソン提督の悲恋を主題とした『美女ありき』(原題:That Hamilton Woman, Lady Hamilton)を好んだ[801]

鼻歌を歌うのが好きだったが、口笛は嫌い、人がやっているのを聞くとすぐに止めにかかったという[801]

チャーチルは動物好きであり、ネコキツネ白鳥金魚などを飼っていた。ペットたちのことで困るとすぐにロンドン動物園に電話してどうしたらいいか尋ねたという[800]。また競走馬も多数所有していた。チャーチルはこれらの馬を大切にし、馬に向かって数分にわたって語りかける癖があったという。また馬が驚くという理由で自動車を嫌っていた[802]

バトル・オブ・ブリテンの緒戦の頃、ロンドン動物園からロンドン空襲があった場合、動物は銃殺せねばならないとの意見が出たが、チャーチルはこの話にショックを受け、「ロンドン中に空襲があれば、火の海になり、死骸の山が累々だ。ライオントラはその死体を求めて吠え回る。それを君たちは銃を持って撃って回るのだよ。可哀そうじゃないか」と語ったという[629]

偉大の追求と無謀さ

ファイル:Churchill Shooting M1 Carbine.jpg
第二次大戦中、射撃練習をするチャーチル首相

チャーチルは涙もろく、小鳥が死んだだけでも泣く人だったが、一方で真の同情は持っていないことが多かった[629]

チャーチルは「輝かしい栄光を残して滅びよ」という持論を持っており、ヒトラーと同じく死守命令を好んだ[803]。また空襲で確実に敵国心臓部に打撃を与えていくという確実な戦法より、強襲、ゲリラ戦、おとり作戦、罠など派手な作戦を決行することを好んだ[804]

チャーチルが命じる数々の無謀な作戦には帝国参謀総長テンプレート:仮リンク大将やアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将も頭を抱えた[805]。チャーチルの無謀な作戦のために多くの人間が死に追いやられていったが、彼は誰が死のうとほとんど関心を持たなかった[806]

チャーチルは戦争を騎士道的な決闘ゲームのように考えていたため、栄光を残すためだけにこういう不合理な作戦を平気でやった。対して合理主義の権化であるアメリカ人たちは戦争など物量と物量のぶつかり合いでしかないのだから、相手の物量を叩き潰す空襲だけが重要と考えて、チャーチルの無駄な行動には不満を抱く者が多かった[804]

チャーチルは自分が「選ばれた者」であり、全ての運命を決定する存在なのだと思い込んでいた[807]。自分の「偉大さ」を追い求め、とりわけ先祖の初代マールバラ公に自分を重ねていた[808]。たとえ自分や自国が実態の上でどれだけ没落していようとも顧みることもなく、自分を超大国の指導者と信じ、アメリカのルーズベルト大統領やソ連のスターリン大元帥と対等の存在だと思い込んでいた[809]テンプレート:-

その他

  • チャーチルは第二次世界大戦を「不必要な戦争」と呼んでいた[581]
  • その演説は誇張が目立ち、中身がないとも言われるが、演説に盛り込まれる報告は割と詳細だった[810]
  • Vサインで知られるが、これは勝利のVictoryから来ている[811]
  • 現在でもチャーチル人気は高く、2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の世論調査では1位になった[812]。また2016年から発行される予定の5ポンド紙幣の裏面にチャーチルの肖像が使用される予定である(表面はこれまで通りエリザベス2世女王)。イングランド銀行総裁サー・マーヴィン・キングは「偉大な英国の指導者」と述べた[813]

日本との関係、日本観

チャーチルの生涯で最も大きなウェイトを占める外国はアメリカとドイツである。それには及ばないが、日本もチャーチルの中では一定の比重を占めている国であった[814]

チャーチルは基本的に東洋の国にはほとんど興味がなく、日本についても知識が多かったわけではない[803]。だが、チャーチルは中国人については一切興味がなかったのに対し、日本人に対しては一定の親近感を持っていた[815]

同盟国として

ファイル:Churchhill 02.jpg
若き日のチャーチル

確認できる限り、チャーチルが日本を最初に意識したのは父ランドルフ卿と母ジャネットが日本旅行をした明治27年(1894年)である。日本から送られてきた母の手紙の中に日本の写真が同封されており、チャーチルは母への返信で「お母さんからの手紙はとてもうれしいです。写真は美しく、日本の思い出の品として一生大事にしようと思っています」と書いている(この時に日本で撮られた写真が父ランドルフ卿が映っている最後の写真でもある)[816]

その次にチャーチルが日本を強く意識したのは明治37年(1905年)に日露戦争で日本が勝利した時である。チャーチルは「日露戦争の結果はただ一国をのぞいて全ての列強を驚かせた。ヨーロッパで唯一、冷静な目で日本の軍事力を測定できていたイギリスは、今度の戦争で得るところは大きかった。イギリスの同盟国日本が勝利したことで、フランスはイギリスとの友好を求めるようになった。ドイツ艦隊はまだ建造中だが、イギリス艦隊が無事中国から本国へ帰還できるようになったことは大きい。」と評した。イギリス艦隊が帰れるようになったのは、日本艦隊が中国におけるイギリスの権益の防衛を肩代わりしてくれたからであり、その代わり日本はイギリスから朝鮮半島を併合することと中国に一定の権益を持つことを許可されたのである[817]

一方でチャーチルは一次大戦後に日英同盟の破棄を主導した人物でもある。1936年にアメリカのテンプレート:仮リンクへの寄稿文の中でチャーチルは「私はアメリカとの関係が悪くなるような外交をしないことがイギリスの最も大事な基本方針と心得ている。日英同盟の破棄は英米関係を悪化させないための辛い選択だった」と語っている[818]

ちなみに二次大戦前後になるとチャーチルは日英同盟を破棄したのは間違いだったと語るようになった[819]テンプレート:-

日英離間・対立の中で

昭和6年(1931年)9月の満洲事変の際には、これを「侵略」と批判する声もあった中、チャーチルは「日本人が中国で行っている事は我々がインドで行っていることと同じ」「これで中国も少しは収まるだろう」として満洲事変支持を表明している[820][815][注釈 25]

一方昭和前期に起きた軍人による政治的諸事件、昭和7年(1932年)の五一五事件や昭和11年(1936年)の二二六事件には憂慮し、「偉大で名誉ある日本の政治家たちが次々と暗殺者の手にかかってしまった。尊厳と神聖性を持つミカドとその政府は懸命に犯罪者を処断したが、日本がこの不可欠の処置を取るのに悲痛な努力を必要としたこと自体に英米は注目している」と述べている[822]

また日本の右翼や軍人たちの間で高まるアジア主義にはより強く警戒し、「『日本人のアジア』を意味する『アジア人のアジア』というスローガンが実行に移されれば、英語圏の国で反発しない国は存在しないだろう。それは日本にとってあまりにも危険な道である。」と警告している[823]

だが、大戦中には日本に無条件降伏を突きつけてやると鼻息を荒くするアメリカに対して、チャーチルは柔軟な態度を取ってきた方である。ポツダム会談でもチャーチルは「日本軍人たちの軍人としての面子が立つよう、こちらからも何らかのアクションを取るべきだ」と主張したが、アメリカ大統領トルーマンは「真珠湾攻撃以降の日本軍人に名誉などない」と突っぱねた[824]

原爆投下については「原爆投下に関する時間をかけた討議はほとんどなかった。二、三回の原爆投下でより大きな際限のない殺戮を回避し[注釈 26]、終戦へ導き、世界に平和をもたらすことができるのだから、それは奇跡のような手段だった。」と弁明している[826]

皇太子明仁親王の訪英

昭和28年(1953年)、日本が主権を回復したばかりの頃、エリザベス2世の戴冠式に出席するため、若き皇太子明仁親王(今上天皇)が昭和天皇の名代として訪英した。だが戦後まもないこの頃、イギリスのメディアでは反日報道が連発しており、日英関係が良好な時期とは言い難かった[827]。首相チャーチルは日英両国が早急に憎しみの連鎖から抜け出すことが双方の国益と考え、明仁親王訪英でイギリス人が凶行を起こさないよう心を砕いた。明仁親王の警護に自ら陣頭指揮を取るチャーチルの姿はバトル・オブ・ブリテンの時を思わせたという[828]

チャーチルは明仁親王のための午餐会の席で「英国民の生活が安定しているのは立憲君主制のおかげである。そんな英国民は一致して皇太子殿下を歓迎する。殿下の英国滞在が楽しいものとなり、また何か学ばれるものがあることを心から願う。日英両国は君主を冠するという点で共通の紐帯を持っている。」「この食卓に飾られている青銅の馬の置物は私の母が1894年に日本から持ち帰ったものだ。母によれば、母にこれを送ってくれた日本人は、『日本にはこうした美術を作れる文化があるのに西洋人は評価せず、野蛮国扱いし続けた。日本が何隻かの軍艦を所持してやっと一等国と認めた。』と語り、西洋諸国の価値基準を批判したという。これは含蓄のある言葉である。どの国も美術に力を入れ、軍拡をしなくてもよくなる時代が来ればと願う。平和を愛する日本のため、殿下のご健康をお祈りする」と演説し、慣例に反して女王陛下より先に天皇陛下に乾杯を捧げた[829]

またチャーチルと会談する明仁親王は79歳になり耳が遠くなっているチャーチルのために耳元で話すなどの配慮をし、その光景は孫が祖父に語りかけているようで出席者たちを和ませたという[830]

チャーチルはこの午餐会の席に反日の急先鋒のエクスプレス系新聞の社主であり、保守党の政治家でもあるテンプレート:仮リンクも招いていたが、これは自分と明仁親王の親密な光景を見せることで反日報道を辞めさせる意図だった。ビーバーブルック卿もこの午餐会以来、反日報道を止めるよう傘下のメディアに指示を出した[831]テンプレート:-

吉田茂や岸信介の訪英

明仁親王の訪英に続いて、昭和29年(1954年)10月には内閣総理大臣吉田茂の訪英があった。吉田はずっと訪英を希望していたが、反日機運の強いイギリス世論に配慮してイギリス政府から拒否され続けていた。だが前年の明仁親王の訪英中にチャーチルが吉田の訪英を許可し、実現に至った。明仁親王の訪英のおかげで日英関係は改善に向かい始めたとはいえ、未だ反日世論は根強く、歓迎ムードはなかった[832]

吉田を迎える晩餐会の席でもチャーチルは青銅の馬の像の話をした。またこの席上でチャーチルは戦時中の日本人の勇敢さを称賛し、戦争の良い面は再び友人に成れることであると語った[833]。チャーチルと吉田は独裁政治に反対し、立憲君主制を支持する立場で一致し、共産主義問題を話し合った[834]。また吉田から送られた安田靫彦富士山の絵をチャーチルは非常に気にいった様子だったという[835]

昭和32年(1957年)に内閣総理大臣岸信介が訪英。岸は引退したチャーチルの私邸を訪問した。この時チャーチルは富士山の絵を指して、いつか訪日して自分で富士山の絵を描いてみたかったが、叶いそうもないと涙ぐみながら語ったという[836]

家族・親族

ファイル:Mr. and Mrs. Winston Spencer Churchill.jpg
チャーチルと妻クレメンティーン(1915年)
ファイル:Churchillwithsonandgrandson.jpg
ガーター騎士団の正装をまとうチャーチル。子のランドルフ、孫のテンプレート:仮リンクとともに(1950年代)。

1908年9月に軍人の娘クレメンティーンと結婚した。チャーチルは収入は多いものの、金銭に無頓着で最高級の贅沢品ばかりを集める浪費癖があったのでクレメンティーンが代わって家計を支えた[837]。チャーチルは公的にも妻を頼りにし、彼女の前で演説の予行練習をするのを習慣としたという[837]

夫妻は5子に恵まれた。1909年生まれの長女テンプレート:仮リンク、1911年生まれの長男テンプレート:仮リンク、1914年生まれの次女テンプレート:仮リンク、1918年生まれの三女テンプレート:仮リンク、1922年生まれの四女テンプレート:仮リンクである[838]

長男ランドルフは一時期庶民院議員も務めたが、基本的にはジャーナリストとして働いた[839]。父の影に隠れて目立たない人物だったという[840]。チャーチルの死後まもなく、ランドルフも後を追うように死去した[770]

長女ダイアナは南アフリカの富豪サー・ジョン・ベイリー准男爵(Sir John Bailey, 2nd Baronet)と結婚したが、後に離婚して保守党の政治家テンプレート:仮リンクと再婚。1963年に自殺した。ダイアナの自殺の時にはチャーチルも老衰しきって死を待つばかりだったので、娘の自殺を聞いてもさほど悲しんでいる様子はなかったという[840]

次女サラは女優になり[837]、芸人テンプレート:仮リンクと結婚したが、やがて離婚し、写真家アンソニー・ビューチャンプ(Anthony Beauchamp)と再婚するも死別。結局テンプレート:仮リンクと三度目の結婚をした[840]

三女マリーゴールドは幼くして死んだ[837]

四女メアリーは保守党の政治家テンプレート:仮リンクと結婚している[840]

チャーチルは家族に動物のあだ名をつけていた。サラは「のろま」という意味で「ラバ」、メアリーは子供の頃不器量だったので「チンパンジー」、妻クレメンティーンは「ネコ」だったという[444]

チャーチルの弟ジョン・ストレンジの娘テンプレート:仮リンクはチャーチルの後任の首相イーデンに後妻として嫁いでいる[839]

妻の親族は波乱万丈な生涯を送った人が多い。有名なところでは、妻の甥にあたるテンプレート:仮リンクと、妻の従兄テンプレート:仮リンクの娘たちミットフォード姉妹がいる。エズモンドは学生時代から共産主義者として鳴らし、「チャーチルのアカの甥」と呼ばれていた[841]。ミットフォード姉妹の五女であるテンプレート:仮リンク(同じく共産主義者)と駆け落ちし、スペイン内戦に左翼陣営で参加[842]。その後、アメリカへ移住し、大戦がはじまるとカナダ空軍に入隊してドイツ空軍と戦ったが、1941年11月末に北海上で戦死した。チャーチルからジェシカにエズモンドの戦死を伝えたという[843]

ミットフォード姉妹の三女ダイアナと四女ユニティはファシズム運動家となった。ダイアナは結婚していた貴族と離婚してイギリスファシスト連合指導者のオズワルド・モズレーと再婚したが、第二次世界大戦中にモズレーとともに投獄を受けた。四女ユニティはドイツへ飛び、ヒトラーとの関係が噂されるほどヒトラーの親密な側近となった。彼女は英仏開戦を阻止しようと努力していたが、開戦に至ってしまうと絶望して自殺未遂を起こした。その後イギリスへ戻されたものの、この時の傷がもとで後に死亡した[844]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

テンプレート:Reflist

出典

参考文献

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:Sister

外部リンク

  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
クレメント・アトリー |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 首相
1951年-1955年 |style="width:30%"|次代:
サー・アンソニー・イーデン |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
マニー・シンウェル |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国防担当閣外大臣
1951年 - 1952年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ネヴィル・チェンバレン |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 首相
1940年-1945年 |style="width:30%"|次代:
クレメント・アトリー |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
新設 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国防担当閣外大臣
1940年 - 1945年 |style="width:30%"|次代:
クレメント・アトリー |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ネヴィル・チェンバレン |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 庶民院院内総務
1940年-1942年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1939年-1940年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大蔵大臣
1924年-1929年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
初代ミルナー子爵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1921年-1922年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1919年-1921年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
初代ミルナー子爵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1919年-1921年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1917年-1919年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1915年 |style="width:30%"|次代:
ハーバート・サミュエル |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 海軍大臣
1911年 - 1915年 |style="width:30%"|次代:
アーサー・バルフォア |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ハーバート・グラッドストン |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1910年 - 1911年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
デビッド・ロイド=ジョージ |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1908年-1910年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
第9代マールバラ公爵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1905年 - 1908年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク テンプレート:S-ppo |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ネヴィル・チェンバレン |style="width:40%; text-align:center"|イギリス保守党党首
1940年-1955年 |style="width:30%"|次代:
サー・アンソニー・イーデン テンプレート:S-aca |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ハーバート・ヘンリー・アスキス |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:仮リンク
1914年 - 1918年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:仮リンク
1929年 - 1932年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|ブリストル大学総長
1929年 - 1965年 |style="width:30%"|次代:
第10代ボーフォート公爵 テンプレート:S-hon |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
初代ウィリンドン侯爵 |style="width:40%; text-align:center"|23px テンプレート:仮リンク
1941年-1965年 |style="width:30%"|次代:
サー・ロバート・メンジーズ |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1959年-1964年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク

  1. 転送 Template:End

テンプレート:ノーベル文学賞受賞者 (1951年-1975年) テンプレート:イギリスの首相 テンプレート:Normdaten テンプレート:Good article テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

  1. サンズ(1998) p.18
  2. 2.0 2.1 ペイン(1993) p.42
  3. 3.0 3.1 山上(1960) p.3
  4. 4.0 4.1 4.2 ペイン(1993) p.27
  5. ペイン(1993) p.38
  6. 河合(1998) p.20
  7. 7.0 7.1 7.2 ペイン(1993) p.45
  8. 神川(2011) p.14-15
  9. 9.0 9.1 ペイン(1993) p.34
  10. 10.0 10.1 河合(1998) p.22
  11. サンズ(1998) p.26-27
  12. 12.0 12.1 サンズ(1998) p.27
  13. 山上(1960) p.5-6
  14. 河合(1998) p.33
  15. サンズ(1998) p.35
  16. 森(1987) p.240-242
  17. 臼田(1979) p.18-23
  18. 河合(1998) p.11-15
  19. 森(1987) p.248-253
  20. 河合(1998) p.14-15
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 サンズ(1998) p.24
  22. 森(1987) p.252-254
  23. 23.0 23.1 森(1987) p.255 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E6.A3.AE.281987.29255"が異なる内容で複数回定義されています
  24. 24.0 24.1 24.2 臼田(1979) p.192
  25. 25.0 25.1 25.2 臼田(1979) p.194
  26. 26.0 26.1 河合(1998) p.19
  27. ペイン(1993) p.31
  28. 28.0 28.1 28.2 28.3 ペイン(1993) p.32
  29. 河合(1998) p.21
  30. ペイン(1993) p.33
  31. ペイン(1993) p.34-35
  32. ペイン(1993) p.35
  33. 河合(1998) p.21-22
  34. ペイン(1993) p.37-38
  35. 35.0 35.1 35.2 河合(1998) p.23
  36. ペイン(1993) p.43-44
  37. 森(1987) p.265-266
  38. ペイン(1993) p.44
  39. サンズ(1998) p.28-29
  40. ペイン(1993) p.45/47
  41. サンズ(1998) p.27/32
  42. 42.0 42.1 ペイン(1993) p.47
  43. 河合(1998) p.34
  44. サンズ(1998) p.33-34
  45. 河合(1998) p.24
  46. サンズ(1998) p.30
  47. 47.0 47.1 47.2 サンズ(1998) p.34
  48. ペイン(1993) p.48
  49. サンズ(1998) p.68
  50. ペイン(1993) p.49
  51. 河合(1998) p.25
  52. 河合(1998) p.348
  53. サンズ(1998) p.41
  54. ペイン(1993) p.52-53
  55. ペイン(1993) p.54
  56. 56.0 56.1 ペイン(1993) p.56
  57. 57.0 57.1 サンズ(1998) p.54
  58. サンズ(1998) p.48-49
  59. サンズ(1998) p.48
  60. 60.0 60.1 サンズ(1998) p.56
  61. ペイン(1993) p.56-57
  62. 62.0 62.1 62.2 62.3 河合(1998) p.35
  63. ペイン(1993) p.56-57
  64. ペイン(1993) p.57
  65. 65.0 65.1 山上(1960) p.7
  66. 山上(1960) p.11
  67. 神川(2011) p.406
  68. サンズ(1998) p.175
  69. 69.0 69.1 69.2 ペイン(1993) p.58
  70. 70.0 70.1 70.2 山上(1960) p.8
  71. 河合(1998) p.35-36
  72. 72.0 72.1 山上(1960) p.9
  73. サンズ(1998) p.149
  74. 74.0 74.1 ペイン(1993) p.60
  75. ペイン(1993) p.59/62
  76. サンズ(1998) p.133/170
  77. 河合(1998) p.36
  78. 78.0 78.1 78.2 78.3 78.4 河合(1998) p.38
  79. 79.0 79.1 ペイン(1993) p.62
  80. サンズ(1998) p.124-125
  81. 81.0 81.1 サンズ(1998) p.187 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E3.82.B5.E3.83.B3.E3.82.BA.281998.29187"が異なる内容で複数回定義されています
  82. 82.0 82.1 82.2 ペイン(1993) p.64
  83. 83.0 83.1 83.2 山上(1960) p.12
  84. 84.0 84.1 河合(1998) p.47
  85. 85.0 85.1 85.2 85.3 ペイン(1993) p.66
  86. サンズ(1998) p.208
  87. 87.0 87.1 河合(1998) p.41
  88. 88.0 88.1 88.2 河合(1998) p.42
  89. 89.0 89.1 ペイン(1993) p.69
  90. 90.0 90.1 ペイン(1993) p.70
  91. サンズ(1998) p.264-265
  92. 92.0 92.1 サンズ(1998) p.267
  93. 山上(1960) p.13
  94. 94.0 94.1 山上(1960) p.14
  95. 95.0 95.1 ペイン(1993) p.71
  96. 96.0 96.1 河合(1998) p.44
  97. 河合(1998) p.43
  98. 98.0 98.1 ペイン(1993) p.72
  99. 99.0 99.1 99.2 99.3 99.4 河合(1998) p.45
  100. 100.0 100.1 100.2 ペイン(1993) p.73
  101. 101.0 101.1 山上(1960) p.15
  102. 河合(1998) p.45-46
  103. ペイン(1993) p.71/74
  104. 河合(1998) p.46
  105. ペイン(1993) p.74
  106. 山上(1960) p.14-15
  107. ペイン(1993) p.74-75
  108. 河合(1998) p.46-47
  109. 109.0 109.1 109.2 河合(1998) p.48
  110. 110.0 110.1 110.2 山上(1960) p.16
  111. 111.0 111.1 河合(1998) p.49
  112. 山上(1960) p.17
  113. ペイン(1993) p.76
  114. 河合(1998) p.52-53
  115. 河合(1998) p.53
  116. 山上(1960) p.18
  117. 河合(1998) p.53-56
  118. 118.0 118.1 118.2 河合(1998) p.56
  119. 川田(2009) p.423-426
  120. 山上(1960) p.19
  121. 川田(2009) p.428
  122. 河合(1998) p.57
  123. 河合(1998) p.57-58
  124. 124.0 124.1 山上(1960) p.20
  125. 川田(2009) p.426
  126. 河合(1998) p.58
  127. 河合(1998) p.59
  128. 128.0 128.1 山上(1960) p.22
  129. 河合(1998) p.65-66
  130. 河合(1998) p.67
  131. 河合(1998) p.68
  132. 神川(2011) p.360
  133. 村岡、木畑(1991) p.182
  134. 河合(1998) p.65
  135. 135.0 135.1 135.2 135.3 河合(1998) p.69
  136. 坂井(1967) p.187-195
  137. 137.0 137.1 137.2 山上(1960) p.23
  138. 河合(1998) p.60
  139. 139.0 139.1 河合(1998) p.61
  140. 山上(1960) p.24
  141. 山上(1960) p.25
  142. 坂井(1967) p.196
  143. 河合(1998) p.62
  144. 144.0 144.1 144.2 144.3 河合(1998) p.63
  145. 145.0 145.1 ペイン(1993) p.85
  146. 146.0 146.1 坂井(1967) p.198
  147. 147.0 147.1 147.2 147.3 河合(1998) p.64
  148. 148.0 148.1 148.2 山上(1960) p.26
  149. 河合(1998) p.70-71
  150. 150.0 150.1 山上(1960) p.27
  151. 坂井(1967) p.200
  152. 山上(1960) p.29
  153. 河合(1998) p.72
  154. 河合(1998) p.73
  155. 河合(1998) p.74
  156. テンプレート:Cite web
  157. テンプレート:Cite journal
  158. テンプレート:Cite web
  159. 159.0 159.1 河合(1998) p.75
  160. 山上(1960) p.30
  161. 河合(1998) p.76
  162. 河合(1998) p.76-77
  163. 池田(1962) p.152
  164. 坂井(1967) p.205
  165. 坂井(1967) p.208
  166. 池田(1962) p.153
  167. 167.0 167.1 坂井(1967) p.212
  168. 168.0 168.1 池田(1962) p.156
  169. 169.0 169.1 169.2 河合(1998) p.79
  170. 池田(1962) p.157
  171. 坂井(1967) p.211-212
  172. 172.0 172.1 坂井(1967) p.211
  173. 173.0 173.1 173.2 173.3 山上(1960) p.32
  174. 河合(1998) p.80
  175. 河合(1998) p.80-81
  176. 176.0 176.1 河合(1998) p.81
  177. 坂井(1967) p.218
  178. 河合(1998) p.82
  179. 河合(1998) p.83
  180. 180.0 180.1 河合(1998) p.84
  181. 181.0 181.1 山上(1960) p.33
  182. 坂井(1967) p.319
  183. 183.0 183.1 河合(1998) p.85
  184. 河合(1998) p.86
  185. 坂井(1967) p.340
  186. 186.0 186.1 河合(1998) p.86-87
  187. 坂井(1967) p.342
  188. 188.0 188.1 河合(1998) p.90
  189. 市川(1982) p.156
  190. 河合(1998) p.91
  191. 191.0 191.1 河合(1998) p.92
  192. ブレイク(1979) p.207
  193. 市川(1982) p.157
  194. 河合(1998) p.93
  195. 195.0 195.1 195.2 河合(1998) p.97
  196. ペイン(1993) p.113
  197. 197.0 197.1 ペイン(1993) p.114
  198. ペイン(1993) p.114-115
  199. ペイン(1993) p.116
  200. 河合(1998) p.98
  201. ペイン(1993) p.117
  202. 坂井(1967) p.376
  203. 河合(1998) p.102
  204. 山上(1960) p.33-34
  205. 河合(1998) p.103-104
  206. 河合(1998) p.104-106
  207. 山上(1960) p.34-35
  208. 208.0 208.1 河合(1998) p.107
  209. 河合(1998) p.108
  210. 山上(1960) p.35
  211. 211.0 211.1 河合(1998) p.110
  212. 212.0 212.1 212.2 212.3 ペイン(1993) p.118
  213. 河合(1998) p.109
  214. ペイン(1993) p.119
  215. 215.0 215.1 ピーデン(1990) p.21
  216. 坂井(1967) p.383
  217. ピーデン(1990) p.19-21
  218. 坂井(1967) p.385-386
  219. 219.0 219.1 219.2 村岡、木畑(1991) p.235
  220. ピーデン(1990) p.25-26/34
  221. 河合(1998) p.115
  222. 河合(1998) p.115-116
  223. 坂井(1967) p.385
  224. 224.0 224.1 224.2 224.3 坂井(1967) p.387
  225. ピーデン(1990) p.26
  226. 坂井(1967) p.387-388
  227. 高橋(1985) p.167
  228. 坂井(1967) p.388
  229. 坂井(1967) p.394
  230. 坂井(1967) p.393-396
  231. 坂井(1967) p.397
  232. 坂井(1967) p.397-398
  233. 坂井(1967) p.393
  234. 坂井(1967) p.397-398
  235. 235.0 235.1 坂井(1967) p.398
  236. 坂井(1967) p.403
  237. 坂井(1967) p.403-404
  238. 坂井(1967) p.404
  239. 坂井(1967) p.407
  240. 村岡、木畑(1991) p.238
  241. 241.0 241.1 村岡、木畑(1991) p.239
  242. 坂井(1967) p.414
  243. ピーデン(1990) p.26-29
  244. 坂井(1967) p.421
  245. 河合(1998) p.120
  246. 村岡、木畑(1991) p.239-240
  247. 坂井(1967) p.428
  248. 248.0 248.1 248.2 河合(1998) p.122
  249. 坂井(1967) p.434
  250. 坂井(1967) p.433
  251. 坂井(1967) p.435
  252. 坂井(1967) p.443-444
  253. 253.0 253.1 河合(1998) p.123
  254. 坂井(1967) p.447
  255. 255.0 255.1 河合(1998) p.125
  256. 256.0 256.1 村岡、木畑(1991) p.241
  257. 坂井(1967) p.448
  258. 坂井(1967) p.449-452
  259. 高橋(1985) p.174
  260. 坂井(1967) p.452-453
  261. 坂井(1967) p.453-454
  262. 河合(1998) p.126
  263. 坂井(1967) p.455
  264. 坂井(1967) p.460
  265. 村岡、木畑(1991) p.242
  266. 河合(1998) p.127
  267. 267.0 267.1 高橋(1985) p.168
  268. 268.0 268.1 ピーデン(1990) p.30
  269. ピーデン(1990) p.34
  270. ピーデン(1990) p.33-34
  271. ペイン(1993) p.121
  272. 272.0 272.1 272.2 河合(1998) p.130
  273. ペイン(1993) p.121-122
  274. 山上(1960) p.45
  275. ペイン(1993) p.124
  276. ペイン(1993) p.125
  277. 山上(1960) p.47
  278. 278.0 278.1 278.2 278.3 ペイン(1993) p.120
  279. 279.0 279.1 河合(1998) p.129
  280. 280.0 280.1 坂井(1967) p.478
  281. 河合(1998) p.129-130
  282. 山上(1960) p.43
  283. 坂井(1967) p.479-480
  284. 坂井(1967) p.466
  285. 坂井(1967) p.479
  286. 坂井(1967) p.480-481
  287. 287.0 287.1 287.2 坂井(1967) p.481
  288. 288.0 288.1 坂井(1967) p.484
  289. 坂井(1967) p.468-469
  290. 290.0 290.1 河合(1998) p.133
  291. 坂井(1967) p.469
  292. 河合(1998) p.135
  293. 293.0 293.1 ペイン(1993) p.133
  294. 294.0 294.1 山上(1960) p.56
  295. 295.0 295.1 河合(1998) p.136
  296. ペイン(1993) p.133-134
  297. 山上(1960) p.57
  298. 298.0 298.1 坂井(1967) p.491
  299. 河合(1998) p.137
  300. ペイン(1993) p.134
  301. 301.0 301.1 坂井(1967) p.492
  302. 302.0 302.1 302.2 ペイン(1993) p.135
  303. 303.0 303.1 303.2 303.3 河合(1998) p.138
  304. 山上(1960) p.55
  305. 305.0 305.1 305.2 坂井(1967) p.508
  306. 河合(1998) p.139
  307. 坂井(1967) p.494
  308. 村岡、木畑(1991) p.250
  309. 河合(1998) p.144
  310. 河合(1998) p.146
  311. 坂井(1967) p.512-513
  312. 河合(1998) p.149
  313. 山上(1960) p.59
  314. 河合(1998) p.150
  315. 315.0 315.1 315.2 河合(1998) p.151
  316. 316.0 316.1 山上(1960) p.63
  317. 河合(1998) p.150-151
  318. ペイン(1993) p.142-143
  319. 319.0 319.1 319.2 319.3 319.4 319.5 ペイン(1993) p.170
  320. 河合(1998) p.154
  321. 321.0 321.1 河合(1998) p.154-155
  322. ペイン(1993) p.146
  323. 山上(1960) p.66
  324. ペイン(1993) p.147-148
  325. ペイン(1993) p.148
  326. 山上(1960) p.67
  327. ペイン(1993) p.150
  328. 328.0 328.1 河合(1998) p.156
  329. ペイン(1993) p.151-152
  330. 山上(1960) p.68
  331. 331.0 331.1 山上(1960) p.80
  332. 河合(1998) p.156-157
  333. 333.0 333.1 333.2 河合(1998) p.157
  334. 334.0 334.1 ペイン(1993) p.157
  335. 335.0 335.1 山上(1960) p.70
  336. 山上(1960) p.70-71
  337. ペイン(1993) p.158
  338. 山上(1960) p.71
  339. 339.0 339.1 山上(1960) p.72
  340. 村岡、木畑(1991) p.258-259
  341. 341.0 341.1 山上(1960) p.73
  342. 高橋(1985) p.181
  343. 山上(1960) p.73-74
  344. 344.0 344.1 山上(1960) p.74
  345. 河合(1998) p.159-160
  346. 河合(1998) p.159-161
  347. 山上(1960) p.71/75
  348. 河合(1998) p.161
  349. 山上(1960) p.75
  350. 350.0 350.1 350.2 350.3 350.4 河合(1998) p.165
  351. ペイン(1993) p.165
  352. 352.0 352.1 352.2 山上(1960) p.78
  353. 山上(1960) p.79
  354. 354.0 354.1 354.2 354.3 河合(1998) p.167
  355. 355.0 355.1 ペイン(1993) p.167
  356. 河合(1998) p.168
  357. 高橋(1985) p.184-185
  358. 村岡、木畑(1991) p.261
  359. 河合(1998) p.169
  360. 360.0 360.1 360.2 山上(1960) p.83
  361. 河合(1998) p.169-170
  362. 河合(1998) p.173
  363. 河合(1998) p.170
  364. 河合(1998) p.171
  365. 山上(1960) p.84
  366. 366.0 366.1 河合(1998) p.174
  367. 山上(1960) p.85
  368. 山上(1960) p.85-86
  369. 369.0 369.1 369.2 山上(1960) p.86
  370. 河合(1998) p.175
  371. 371.0 371.1 河合(1998) p.175-176
  372. 372.0 372.1 ペイン(1993) p.169
  373. ベッケール、クルマイヒ(2012) p.145/154
  374. ベッケール、クルマイヒ(2012) p.163-164
  375. ベッケール、クルマイヒ(2012) p.164-165
  376. ベッケール、クルマイヒ(2012) p.165/170
  377. 山上(1960) p.87-88
  378. 山上(1960) p.105
  379. 河合(1998) p.177
  380. 山上(1960) p.88
  381. 村岡、木畑(1991) p.281
  382. 382.0 382.1 382.2 382.3 河合(1998) p.179
  383. 383.0 383.1 383.2 村岡、木畑(1991) p.282
  384. 山上(1960) p.89
  385. 河合(1998) p.179-180
  386. 山上(1960) p.88-89
  387. 高橋(1985) p.190
  388. ブレイク(1979) p.234
  389. 389.0 389.1 河合(1998) p.180
  390. 河合(1998) p.180-181
  391. 391.0 391.1 河合(1998) p.181
  392. 山上(1960) p.93
  393. 393.0 393.1 393.2 河合(1998) p.182
  394. 394.0 394.1 河合(1998) p.183
  395. 山上(1960) p.94
  396. 396.0 396.1 河合(1998) p.184
  397. 397.0 397.1 ペイン(1993) p.171
  398. 山上(1960) p.94-95
  399. 399.0 399.1 河合(1998) p.186
  400. 400.0 400.1 400.2 村岡、木畑(1991) p.284
  401. 401.0 401.1 401.2 山上(1960) p.97
  402. 402.0 402.1 山上(1960) p.98
  403. 河合(1998) p.187
  404. 河合(1998) p.184-185
  405. 405.0 405.1 河合(1998) p.188
  406. 山上(1960) p.99
  407. 山上(1960) p.99-100
  408. 408.0 408.1 408.2 408.3 河合(1998) p.189
  409. 山上(1960) p.100-101
  410. 山上(1960) p.101
  411. 411.0 411.1 ヒルバーグ(1997)下巻 p.339
  412. 村岡、木畑(1991) p.360
  413. 村岡、木畑(1991) p.275
  414. 414.0 414.1 村岡、木畑(1991) p.286-287
  415. 415.0 415.1 村岡、木畑(1991) p.287
  416. 416.0 416.1 山上(1960) p.102
  417. 河合(1998) p.190
  418. 418.0 418.1 418.2 418.3 418.4 河合(1998) p.191
  419. 419.0 419.1 坂井(1974) p.17
  420. 河合(1998) p.193
  421. 421.0 421.1 421.2 山上(1960) p.104
  422. 坂井(1974) p.18
  423. 423.0 423.1 坂井(1974) p.19
  424. 河合(1998) p.193-194
  425. 425.0 425.1 河合(1998) p.194
  426. 坂井(1974) p.20-21
  427. ブレイク(1979) p.235/239-241
  428. ブレイク(1979) p.240
  429. 河合(1998) p.193-194-195
  430. 430.0 430.1 ブレイク(1979) p.241
  431. 坂井(1974) p.24-28
  432. 君塚(1999) p.191
  433. 山上(1960) p.107
  434. 村岡、木畑(1991) p.289
  435. 435.0 435.1 河合(1998) p.195
  436. 山上(1960) p.107-108
  437. 437.0 437.1 437.2 河合(1998) p.196
  438. 山上(1960) p.108
  439. 439.0 439.1 439.2 山上(1960) p.109
  440. 河合(1998) p.197
  441. 河合(1998) p.198
  442. 河合(1998) p.198-199
  443. 443.0 443.1 山上(1960) p.110
  444. 444.0 444.1 ペイン(1993) p.176
  445. 河合(1998) p.199
  446. 山上(1960) p.111
  447. 坂井(1974) p.34
  448. 河合(1998) p.200
  449. 坂井(1974) p.37-41
  450. 河合(1998) p.201
  451. 451.0 451.1 ブレイク(1979) p.257
  452. 452.0 452.1 452.2 坂井(1974) p.42
  453. 453.0 453.1 河合(1998) p.202
  454. 河合(1998) p.202-203
  455. 455.0 455.1 河合(1998) p.204
  456. 456.0 456.1 山上(1960) p.115
  457. 河合(1998) p.204-205
  458. ブレイク(1979) p.266
  459. 河合(1998) p.205
  460. 坂井(1974) p.76
  461. 坂井(1974) p.47-49
  462. ブレイク(1979) p.263
  463. 河合(1998) p.206
  464. 坂井(1974) p.50-52
  465. 坂井(1974) p.53
  466. 466.0 466.1 河合(1998) p.207
  467. ブレイク(1979) p.265-266
  468. 468.0 468.1 村岡、木畑(1991) p.292
  469. 469.0 469.1 河合(1998) p.209
  470. 470.0 470.1 ピーデン(1990) p.60
  471. ピーデン(1990) p.62
  472. ピーデン(1990) p.63-65
  473. ピーデン(1990) p.66
  474. 河合(1998) p.209-210
  475. 475.0 475.1 関嘉彦(1969) p.137
  476. 河合(1998) p.211-212
  477. 坂井(1974) p.59
  478. 478.0 478.1 村岡、木畑(1991) p.293
  479. ピーデン(1990) p.68
  480. 河合(1998) p.213
  481. 坂井(1974) p.60
  482. 482.0 482.1 河合(1998) p.212 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E6.B2.B3.E5.90.88.281998.29212"が異なる内容で複数回定義されています
  483. ペイン(1993) p.186
  484. ピーデン(1990) p.68-69
  485. 坂井(1974) p.63
  486. 486.0 486.1 関嘉彦(1969) p.138
  487. 村岡、木畑(1991) p.293-294
  488. 坂井(1974) p.65-66
  489. 489.0 489.1 ピーデン(1990) p.69
  490. 河合(1998) p.213-214
  491. 491.0 491.1 山上(1960) p.119
  492. 河合(1998) p.215
  493. 坂井(1974) p.67-68
  494. 494.0 494.1 関(1969) p.139
  495. 495.0 495.1 村岡、木畑(1991) p.294
  496. 関(1969) p.138
  497. 坂井(1974) p.68
  498. 498.0 498.1 498.2 山上(1960) p.122
  499. 河合(1998) p.216
  500. ペイン(1993) p.192
  501. ペイン(1993) p.192-193
  502. ペイン(1993) p.193/209/212
  503. 山上(1960) p.122-123
  504. 河合(1998) p.218
  505. 505.0 505.1 505.2 山上(1960) p.123
  506. 村岡、木畑(1991) p.297-298
  507. 村岡、木畑(1991) p.298
  508. 山上(1960) p.124-125
  509. 山上(1960) p.124
  510. 510.0 510.1 河合(1998) p.220
  511. ペイン(1993) p.194
  512. ペイン(1993) p.195
  513. 513.0 513.1 山上(1960) p.125
  514. 河合(1998) p.221
  515. 515.0 515.1 515.2 515.3 河合(1998) p.222
  516. 坂井(1988) p.88
  517. 坂井(1988) p.88-89
  518. ペイン(1993) p.200
  519. 坂井(1988) p.89
  520. ブレイク(1979) p.274-275
  521. 坂井(1988) p.90
  522. マッケンジー(1965) p.188
  523. 坂井(1988) p.91
  524. 坂井(1988) p.93-94
  525. 525.0 525.1 525.2 河合(1998) p.225
  526. 坂井(1988) p.102-104
  527. 坂井(1988) p.107-109
  528. 528.0 528.1 坂井(1988) p.109
  529. ルカーチ(1995) p.58
  530. ルカーチ(1995) p.72
  531. 河合(1998) p.229
  532. 河合(1998) p.229-230
  533. 533.0 533.1 山上(1960) p.127-128
  534. 山上(1960) p.133
  535. 山上(1960) p.134-135
  536. 坂井(1974) p.139
  537. 山上(1960) p.134
  538. 山上(1960) p.135
  539. 山上(1960) p.134-131
  540. 河合(1998) p.235
  541. 山上(1960) p.132
  542. 山上(1960) p.138
  543. ペイン(1993) p.212
  544. ペイン(1993) p.213
  545. 山上(1960) p.139-140
  546. 山上(1960) p.141
  547. 547.0 547.1 547.2 山上(1960) p.142
  548. 坂井(1974) p.193
  549. 549.0 549.1 河合(1998) p.246
  550. 550.0 550.1 550.2 550.3 ペイン(1993) p.216
  551. 坂井(1974) p.201-202
  552. 坂井(1974) p.202
  553. 坂井(1974) p.203
  554. 坂井(1974) p.204-205
  555. 山上(1960) p.143
  556. 556.0 556.1 坂井(1974) p.205
  557. 河合(1998) p.247
  558. 河合(1998) p.248
  559. ペイン(1993) p.217
  560. ペイン(1993) p.222
  561. ラベル(2005) p.285
  562. 河合(1998) p.250
  563. ペイン(1993) p.224-225
  564. 坂井(1977) p.135-137
  565. 山上(1960) p.146
  566. 坂井(1977) p.145
  567. ペイン(1993) p.225
  568. 568.0 568.1 山上(1960) p.148
  569. 河合(1998) p.252
  570. 山上(1960) p.148-149
  571. 坂井(1977) p.161-162
  572. 坂井(1977) p.176
  573. 山上(1960) p.149-150
  574. 坂井(1977) p.183-184
  575. 坂井(1977) p.193-194
  576. 坂井(1977) p.192
  577. 坂井(1977) p.194
  578. 河合(1998) p.253-254
  579. 579.0 579.1 河合(1998) p.254
  580. 山上(1960) p.151
  581. 581.0 581.1 山上(1960) p.152
  582. 河合(1998) p.255
  583. ルカーチ(1995) p.44
  584. ルカーチ(1995) p.45
  585. 585.0 585.1 ルカーチ(1995) p.47
  586. 586.0 586.1 ペイン(1993) p.228
  587. ルカーチ(1995) p.47-48
  588. 河合(1998) p.259-260
  589. ペイン(1993) p.49-50
  590. ペイン(1993) p.229
  591. ルカーチ(1995) p.53
  592. ルカーチ(1995) p.53-55
  593. 河合(1998) p.260-261
  594. ペイン(1993) p.229-230
  595. ブレイク(1979) p.290
  596. 河合(1998) p.261-262
  597. 597.0 597.1 ルカーチ(1995) p.55
  598. 河合(1998) p.262
  599. 君塚(1999) p.199
  600. 600.0 600.1 河合(1998) p.263
  601. ペイン(1993) p.232
  602. 河合(1998) p.267
  603. 河合(1998) p.266
  604. ラベル(2005) p.374-375
  605. 605.0 605.1 ルカーチ(1995) p.118
  606. ラベル(2005) p.375-376
  607. ルカーチ(1995) p.96
  608. ルカーチ(1995) p.98
  609. ルカーチ(1995) p.97
  610. ペイン(1993) p.232-233
  611. ルカーチ(1995) p.99
  612. ペイン(1993) p.233
  613. ルカーチ(1995) p.99-100
  614. ペイン(1993) p.234
  615. 山上(1960) p.162-163
  616. ルカーチ(1995) p.127-156
  617. ルカーチ(1995) p.153
  618. ペイン(1993) p.235
  619. 山上(1960) p.163
  620. 河合(1998) p.270
  621. ルカーチ(1995) p.191-193
  622. ペイン(1993) p.236-237
  623. 山上(1960) p.166
  624. 山上(1960) p.167
  625. 山上(1960) p.170
  626. 626.0 626.1 山上(1960) p.171
  627. ペイン(1993) p.242
  628. 628.0 628.1 ペイン(1993) p.243
  629. 629.0 629.1 629.2 ペイン(1993) p.245
  630. 630.0 630.1 山上(1960) p.173
  631. 631.0 631.1 ルカーチ(1995) p.302
  632. ペイン(1993) p.240
  633. 河合(1998) p.273
  634. ペイン(1993) p.244
  635. 山上(1960) p.176
  636. ショウォルター(2007) p.6
  637. 637.0 637.1 ショウォルター(2007) p.209
  638. ショウォルター(2007) p.209-210
  639. ショウォルター(2007) p.210
  640. 640.0 640.1 ショウォルター(2007) p.211
  641. ショウォルター(2007) p.212
  642. ペイン(1993) p.246
  643. ショウォルター(2007) p.218-225
  644. ショウォルター(2007) p.226-227
  645. ショウォルター(2007) p.229-241
  646. ショウォルター(2007) p.252-256
  647. 河合(1998) p.288-289
  648. 648.0 648.1 ショウォルター(2007) p.256
  649. モリス(2010) 下巻 p.225-227
  650. 650.0 650.1 ショウォルター(2007) p.257
  651. 河合(1998) p.290
  652. 652.0 652.1 652.2 河合(1998) p.283
  653. 山上(1960) p.189
  654. 山上(1960) p.195
  655. 山上(1960) p.195-196
  656. 656.0 656.1 656.2 山上(1960) p.188
  657. 河合(1998) p.287
  658. 坂井(1988) p.163-164
  659. モリス(2010) 下巻 p.261
  660. 河合(1998) p.286-287
  661. 河合(1998) p.329
  662. 山上(1960) p.190
  663. ペイン(1993) p.273
  664. 河合(1998) p.331
  665. ペイン(1993) p.273-274
  666. ペイン(1993) p.274
  667. 667.0 667.1 山上(1960) p.191
  668. ペイン(1993) p.281
  669. 669.0 669.1 河合(1998) p.288
  670. 670.0 670.1 ペイン(1993) p.289
  671. モリス(2010) 下巻 p.238
  672. 672.0 672.1 モリス(2010) 下巻 p.244
  673. 673.0 673.1 ペイン(1993) p.278
  674. モリス(2010) 下巻 p.247
  675. 675.0 675.1 モリス(2010) 下巻 p.237
  676. 山上(1960) p.192
  677. 677.0 677.1 浜渦(1999) p.185
  678. 坂井(1988) p.186-187
  679. 坂井(1988) p.187
  680. 坂井(1988) p.188
  681. モリス(2010) 下巻 p.262
  682. ペイン(1993) p.279
  683. 河合(1998) p.332
  684. 684.0 684.1 山上(1960) p.200
  685. 685.0 685.1 山上(1960) p.201
  686. ペイン(1993) p.307
  687. 687.0 687.1 山上(1960) p.202
  688. 688.0 688.1 河合(1998) p.293
  689. モリス(2010) 下巻 p.262-263
  690. 690.0 690.1 ペイン(1993) p.310
  691. 山上(1960) p.201-202
  692. 692.0 692.1 河合(1998) p.292
  693. ペイン(1993) p.312
  694. ペイン(1993) p.313
  695. 山上(1960) p.202-203
  696. 山上(1960) p.204-205
  697. 山上(1960) p.205
  698. 河合(1998) p.295
  699. 699.0 699.1 山上(1960) p.206
  700. 山上(1960) p.206-207
  701. 山上(1960) p.208
  702. 河合(1998) p.296
  703. 703.0 703.1 703.2 山上(1960) p.207
  704. 704.0 704.1 山上(1960) p.211
  705. 705.0 705.1 河合(1998) p.298
  706. モリス(2010) 下巻 p.255-256
  707. モリス(2010) 下巻 p.259
  708. 708.0 708.1 山上(1960) p.222
  709. モリス(2010) 下巻 p.264
  710. 河合(1998) p.299
  711. 山上(1960) p.214
  712. 712.0 712.1 山上(1960) p.215
  713. コール(1957) p.347
  714. 714.0 714.1 コール(1957) p.348
  715. 村岡、木畑(1991) p.331
  716. 村岡、木畑(1991) p.331-332
  717. ブレイク(1979) p.293-294
  718. 河合(1998) p.302-303
  719. 山上(1960) p.215-216
  720. 720.0 720.1 720.2 河合(1998) p.302
  721. 721.0 721.1 関嘉彦(1969) p.232
  722. 722.0 722.1 ブレイク(1979) p.295
  723. 村岡、木畑(1991) p.332
  724. 河合(1998) p.304
  725. 関嘉彦(1969) p.233
  726. 726.0 726.1 726.2 山上(1960) p.230
  727. 727.0 727.1 河合(1998) p.305
  728. 728.0 728.1 山上(1960) p.235
  729. 山上(1960) p.223
  730. 河合(1998) p.306
  731. 山上(1960) p.225
  732. 732.0 732.1 山上(1960) p.226
  733. 山上(1960) p.355
  734. 734.0 734.1 734.2 山上(1960) p.227
  735. 河合(1998) p.308
  736. 村岡、木畑(1991) p.357
  737. 村岡、木畑(1991) p.356
  738. 関嘉彦(1969) p.298
  739. 村岡、木畑(1991) p.363
  740. 740.0 740.1 740.2 山上(1960) p.228
  741. 741.0 741.1 741.2 ブレイク(1979) p.309
  742. 関嘉彦(1969) p.305
  743. 河合(1998) p.309
  744. 山上(1960) p.229
  745. 関嘉彦(1969) p.306
  746. 関嘉彦(1969) p.307
  747. 747.0 747.1 河合(1998) p.310
  748. ブレイク(1979) p.311
  749. 君塚(1999) p.200
  750. 関嘉彦(1969) p.308
  751. 村岡、木畑(1991) p.368
  752. 村岡、木畑(1991) p.365-366
  753. 河合(1998) p.366
  754. 754.0 754.1 754.2 村岡、木畑(1991) p.367
  755. 755.0 755.1 755.2 君塚(1999) p.201
  756. 756.0 756.1 756.2 山上(1960) p.231
  757. 山上(1960) p.232
  758. 758.0 758.1 758.2 758.3 山上(1960) p.233
  759. 岡倉(2001) p.199-202
  760. 村岡、木畑(1991) p.370-371
  761. 村岡、木畑(1991) p.371
  762. 762.0 762.1 河合(1998) p.312
  763. 763.0 763.1 763.2 山上(1960) p.236
  764. 764.0 764.1 764.2 河合(1998) p.313
  765. 山上(1960) p.243
  766. ペイン(1993) p.381-382
  767. ペイン(1993) p.382
  768. 山上(1960) p.244
  769. 769.0 769.1 ペイン(1993) p.384-385
  770. 770.0 770.1 ペイン(1993) p.386
  771. 771.0 771.1 ペイン(1993) p.387
  772. ブレイク(1993) p.872
  773. 773.0 773.1 ペイン(1993) p.388
  774. 坂井(1988) p.83
  775. モリス(2010) 下巻 p.217-218
  776. モリス(2010) 下巻 p.217
  777. 777.0 777.1 777.2 777.3 山上(1960) p.194
  778. ペイン(1993) p.209
  779. 779.0 779.1 モリス(2010) 下巻 p.228
  780. モリス(2010) 下巻 p.282-284
  781. 781.0 781.1 モリス(2010) 下巻 p.284 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E3.83.A2.E3.83.AA.E3.82.B9.282010.29.E4.B8.8B284"が異なる内容で複数回定義されています
  782. 岡倉(2001) p.186
  783. 高橋(1985) p.166
  784. ペイン(1993) p.181-182
  785. ルカーチ(1995) p.25/81
  786. 山上(1960) p.219
  787. ペイン(1993) p.240/279
  788. ジョンソン(1999)下巻 p.198-199
  789. ジョンソン(1999)下巻 p.325
  790. ジョンソン(1999)下巻 p.325-328
  791. ルカーチ(1995) p.42
  792. クルツ(2007) p.137
  793. 793.0 793.1 山上(1960) p.237
  794. 山上(1960) p.238
  795. 山上(1960) p.237-239
  796. 河合(1998) p.140
  797. 河合(1998) p.163
  798. ペイン(1993) p.163
  799. 山上(1960) p.76
  800. 800.0 800.1 山上(1960) p.240
  801. 801.0 801.1 山上(1960) p.181
  802. 山上(1960) p.240-241
  803. 803.0 803.1 ペイン(1993) p.277
  804. 804.0 804.1 ペイン(1993) p.305
  805. ペイン(1993) p.378
  806. ペイン(1993) p.245/377-378
  807. ペイン(1993) p.250
  808. ペイン(1993) p.376
  809. モリス(2010) 下巻 p.218
  810. 河合(1998) p.272
  811. 山上(1960) p.177
  812. テンプレート:Cite web
  813. チャーチル英元首相、5ポンド紙幣に「偉大な指導者」(朝日新聞2013年9月2日閲覧)
  814. 関榮次(1969) p.122
  815. 815.0 815.1 ペイン(1993) p.201
  816. 河合(1998) p.315-316
  817. 河合(1998) p.318
  818. 関榮次(1969) p.123
  819. 関榮次(1969) p.124-125
  820. 河合(1998) p.233
  821. 坂井(1974) p.120
  822. 関榮次(1969) p.126
  823. 関榮次(1969) p.131-132
  824. 関榮次(1969) p.181
  825. 山上(1960) p.218
  826. 関榮次(1969) p.182
  827. 関榮次(1969) p.186-189
  828. 関榮次(1969) p.191
  829. 関榮次(1969) p.197-198
  830. 関榮次(1969) p.195
  831. 関榮次(1969) p.194
  832. 関榮次(1969) p.200-201
  833. 関榮次(1969) p.207
  834. 関榮次(1969) p.207-208
  835. 関榮次(1969) p.210
  836. 関榮次(1969) p.210-211
  837. 837.0 837.1 837.2 837.3 山上(1960) p.241
  838. 山上(1960) p.241-242
  839. 839.0 839.1 山上(1960) p.242
  840. 840.0 840.1 840.2 840.3 ペイン(1993) p.383
  841. ラベル(2005) p.201
  842. ラベル(2005) p.259-269/
  843. ラベル(2005) p.400/404
  844. ラベル(2005) p.344/473


引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません