ハリー・S・トルーマン

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ハリー・S・トルーマン
Harry S. Truman
ファイル:Harry S Truman, bw half-length photo portrait, facing front, 1945.jpg
ハリー・S・トルーマン(1945年)<small/></center>

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任期 1945年4月12日 – 1953年1月20日
副大統領 空席 (1945-1949)
アルバン・バークリー (1949-1953)

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任期 1945年1月20日 – 1945年4月12日
元首 フランクリン・ルーズベルト

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任期 1935年1月3日 – 1945年1月17日

出生 テンプレート:Birth date
ミズーリ州ラマー
死去 テンプレート:Death date and age
ミズーリ州カンザスシティ

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政党 民主党

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配偶者 ベス・ウォレス・トルーマン

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署名 128px

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ハリー・S・トルーマンテンプレート:Lang-en, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。上院議員、第34代副大統領、第33代大統領を歴任。フランクリン・ルーズベルト大統領の死を受けて1945年副大統領から大統領に昇格。全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領である[1]日本への原子爆弾投下については、彼が投下書類(投下命令書)を承認したとされる[2][3]。白人至上主義者団体クー・クラックス・クランの元構成員であった。

第二次世界大戦の終了から冷戦の始まり、国際連合CIANSA国防総省の創設および朝鮮戦争などに関与した。座右の銘は「the buck stops here」(直訳は「バック(ポーカーで用いられる親の印)はここで止まる」、意訳すると「責任は私が取る」)で、執務室の机にこの言葉を記した置物を置いていた。 ジョージ・W・ブッシュと並び、アメリカ大統領史上最低の支持率22%のホルダーである。

生い立ち

ファイル:Harry-s-truman-79-26.jpg
少年期のトルーマン(1897年)

1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加し士官となり、フランスで大戦の休戦時まで、大尉として砲兵部隊を指揮した。戦争終結後、インデペンデンスに戻り長年の恋人ベス・ウォーレスと1919年に結婚した。間もなく一人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いてクー・クラックス・クランの支援を得るため同団体に加入した。しかしクー・クラックス・クランのローマ・カトリックに対するスタンスを知り、その考えを変更した。クー・クラックス・クランへの加入と、衣類販売業を共同で行った戦友であり後のイスラエル建国の承認に大きく役割を果たすユダヤ人エドワード・ヤコブセンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。また、近年発見された彼の日記には、「ユダヤ人は実に利己的」といった記述があり、彼がユダヤ人に対する偏見があったことを証明していると考えられている。

カウンティ・ジャッジ

ファイル:Harry-S-Truman-82-152.jpg
青年期のトルーマン(1908年)

1922年にトルーマンは、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受けジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく,他の2人のカウンティ・ジャッジとともに郡政府の責任者となる行政官)に選任された。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。

カウンティ・ジャッジとしての主な業績の一つは、道路の改良であった。トルーマンは計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。

政治経歴

1934年にトム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。

上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。

再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、第二次世界大戦に突入したアメリカにおいて、トルーマンの知名度は全国的に上昇した。

1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上した。当初トルーマンは副大統領としての指名を望まなかったが、ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにした。ルーズベルトは戦時指導者として高い評価を受けて先例のない4選を果たし、それに伴いトルーマンは副大統領に就任した。

しかし、重い障害を持ちながら戦争中を通じて世界中を飛び回り、体調が悪い中で戦争終結に向けてヤルタ会談に参加するなど、心身に負担をかけ続けたルーズベルトが1945年4月12日に急死しトルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期は82日間であった。

大統領職

第二次世界大戦

大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。

戦争に勝てないと判断した日本政府は、7月12日、ソ連にいる日本大使(佐藤尚武)宛に、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電した。その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。トルーマンは、日本政府が和平の動きに出たことを知っていたことになる。 ポツダム入りした米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分」との結論を出した。しかしトルーマンはその結論を信用しなかった。トルーマンは、7月17日にソ連のスターリンと事前打ち合わせをした際、スターリンからソ連が(ヤルタ会談での密約通り)8月15日に対日参戦すると聞かされた[4]。その日トルーマンが妻に書いた手紙では、「戦争はこれで一年以内に終わるであろう」と安堵の気持ちを述べていた。ところがトルーマンは、7月21日に原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじさを知ると態度を一変した。東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになった。

1945年4月の時点で原子爆弾の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原子爆弾投下命令を最終決定した。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、その開発に当たって使用したアメリカ史上でも最高の、国家予算の20%(日本の国家予算の3倍)にも及ぶ、当時で19億ドルもの予算を議会に事後承諾させ、更に今後も核開発に予算を計上させるための成果が必要だった事、実戦での評価(実験)、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとするほか、人種的偏見があったとする説もある。後述において原爆投下への批判がある

陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。こうしてトルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化し、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している。 トルーマンは原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語っている。 トルーマンは公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマンが日本へ計18発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン・ポスト紙にスクープされている。ただし、トルーマンは原爆投下前のポツダム会談時点で書いた日記において原爆の残虐性に言及し、婦女子被害を避けるため東京と京都を攻撃目標から外すよう指示したと記している[5]。トルーマンは広島の原爆投下後に「オッペンハイマーはここにいる間中、いつも『自分の手は血まみれだ』と私に言い続けてきた」「これ以上日本の子ども達を殺すなど、恐ろしいことだ!・・・頭痛がする。肉体的にか、それとも精神的にか?・・・両方だ」とも述べている。そして、2発目の長崎投下後の8月10日の閣議で「再び10万人もの人々を抹殺してしまうということを考えるだけでぞっとする」として、「大統領の許可なしに今後の使用は停止される」と決定した[6]。それは、トルーマン自身への批判を回避するための詭弁なのか、あるいは真意だったのかは、今となっては不明である。また、原爆使用の停止決定についても、使用の可能性を完全に否定したものではなく、戦後のインタビューで「日本に他の原爆が準備されて使用可能だったか」という問いに「イエス。(投下対象都市の)リストに載っていた他の二つの都市(新潟小倉)は破壊される運命にあった」と回答している[7]

対ソ・対中政策

第二次世界大戦終結後の共通の敵の不在が、米ソの利害の対立につながると悟ったトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。また、アメリカ軍の統合に関する大統領令を出した。

トルーマンはルーズベルトが大きな支持を与え親密な関係を保っていた中華民国蒋介石との折り合いが悪く、後に蒋介石率いる中国国民党への支援を事実上断ち切った。その結果、ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる中国共産党国共内戦に勝利し、1949年中華人民共和国が設立され、蒋介石は台湾に遷都することとなった。

再選

ファイル:Toru111.jpg
朝鮮戦争時、極東情勢について演説・マッカーサー解任の必要を述べるトルーマン、世界通信より
ファイル:Truman initiating Korean involvement.jpg
朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン

1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。

トルーマンの敗北が広く予想されたが、トルーマンは猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。

朝鮮戦争

二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーによる仁川上陸とその後の国連軍の攻勢を受けて戦争は終結するかと思われたが、その後の中華人民共和国の本格参戦を受けて戦況は停滞した。

かねてからトルーマンとそりが合わず度々対立していたマッカーサーは、戦況の停滞を打開すべく1950年11月に中華人民共和国本土への核攻撃を主張したが、トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任した。

それは後にシビリアンコントロールの模範例として称賛されることもあったが、結果的にトルーマンの支持率に大きく影響した。朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、ベトナムフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。

ブレア・ハウス

他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られている。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスとなった。

トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの急進的なナショナリスト、グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。トレソーラは警官三名を銃撃したが射殺された。銃撃を受けた警官の一名は病院で死亡した。コラッツオは負傷したが身柄を確保され、裁判後に服役した。

内閣

職名 氏名 任期
アメリカ合衆国大統領 ハリー・S・トルーマン 1945 - 1953
副大統領 無し 1945 - 1949
  アルバン・W・バークリー 1949 - 1953
国務長官 エドワード・ステティニアス 1945
  ジェームズ・F・バーンズ 1945 - 1947
  ジョージ・C・マーシャル 1947 - 1949
  ディーン・アチソン 1949 - 1953
財務長官 ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア 1945
  フレデリック・ヴィンソン 1945 - 1946
  ジョン・スナイダー 1946 - 1953
陸軍長官 ヘンリー・スティムソン 1945
  ロバート・ポーター・パターソン 1945-1947
  ケネス・クレイボーン・ロイヤル 1947
国防長官 ジェームズ・V・フォレスタル 1947-1949
  ルイス・A・ジョンソン 1949 - 1950
  ジョージ・C・マーシャル 1950 - 1951
  ロバート・A・ラヴット 1951 - 1953
司法長官 フランシス・ビドル 1945
  トム・C・クラーク 1945 - 1949
  J・ハワード・マクグラース 1949 - 1952
  ジェームズ・P・マクグラネリー 1952 - 1953
郵政公社総裁 フランク・C・ウォーカー 1945
  ロバート・E・ヘネガン 1945 - 1947
  ジェシー・M・ドナルドソン 1947 - 1953
海軍長官 ジェームズ・V・フォレスタル 1945 - 1947
内務長官 ハロルド・L・アイクス 1945 - 1946
  ジュリウス・A・クルーグ 1946 - 1949
  オスカー・L・チャップマン 1949 - 1953
農務長官 クロード・レイモンド・ウィッカード 1945
  クリントン・プレスバ・アンダーソン 1945 - 1948
  チャールズ・フランクリン・ブラナン 1948 - 1953
商務長官 ヘンリー・A・ウォレス 1945 - 1946
  W・アヴェレル・ハリマン 1946 - 1948
  チャールズ・W・ソウヤー 1948 - 1953
労働長官 フランシス・パーキンス 1945
  ルイス・B・シュウェレンバック 1945 - 1948
  モーリス・J・トービン 1948 - 1953


大統領職後

ファイル:Lyndon Johnson signing Medicare bill, with Harry Truman, July 30, 1965.jpg
ジョンソン大統領と共にメディケア・ビルの署名を行うトルーマン夫妻、1965年7月30日

トルーマンはワシントンD.C.からミズーリ州インデペンデンスの自宅に戻った後、数多くの講演を行い、回想録を執筆した。だが1964年、自宅バスルームでの転倒事故で半身不随になり、大統領図書館で毎日の仕事を継続することが困難となった。1972年12月26日午前7時50分(日本時間午後10時50分)ミズーリ州カンザスシティにて死去(テンプレート:没年齢)した。遺体は28日に大統領図書館の庭に埋葬された。当時アメリカはベトナム戦争ウォーターゲート事件で揺れ動いていたが、トルーマンは偉大な元大統領としての評判を受けた。ポップ・グループの「シカゴ」は死を悼み、トルーマンに関する歌を書いた。

ニミッツ級航空母艦の8番艦ハリー・S・トルーマン(USS Harry S. Truman, CVN-75) は彼にちなんで命名された。

批判

テンプレート:出典の明記

トルーマンが反対を押し切って原爆投下を強行した事に対してはアメリカ国内でも共和党もしくは和平派から酷評があった[8]。詳しくは『日本への原子爆弾投下#アメリカ側の原爆投下に対するコメント』を参照。

トルーマンと同じ大統領経験のあるハーバート・フーヴァー[9]ドワイト・アイゼンハワーは非戦闘員への虐殺に否定的なコメントをしており、特にアイゼンハワーは大統領就任後、被爆地広島に原子力発電所を造る案が1953年時点で、米政権内で浮上していたが、彼は「(原爆投下への)罪悪感を示すことになる」という理由で反対した[10]

アメリカ海軍提督・大統領主席補佐官であるウィリアム・リーヒは、天皇の地位保全さえ認めれば日本は降伏する用意がある事[11]、日本がソ連への仲介を依頼していた事を[12]知っていながら意図的に無視し、原爆投下を強行したトルーマンを回想録で批判している。

ジョセフ・グルー国務次官以下のアメリカ国務省職員は無条件降伏は戦争を長引かせ、相手を徹底抗戦させ、いたずらに被害を増やすとしてポツダム宣言の内容明記し[13]、一般人の反米感情を考慮して原爆投下に反対していた。海軍長官のジェームズ・フォレスタルも、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルも無警告の原爆投下には反対をしていた。海軍作戦本部長のアーネスト・J・キングも反対をしていた[14]

連合国の元帥であるダグラス・マッカーサーは日本がソ連を和平仲介した時点で日本には抗戦の意志がないと見なしたものの、自分の許可なしで原爆投下を命令したニュースを聞き、トルーマンに激怒したと言う。

ルーズベルトの死で、急遽副大統領から大統領に昇格したトルーマンは大統領の器ではないと言う声や、原爆の非人道性と残虐性に対する想像力が欠如としていたとの指摘がある[15]

一方、トルーマンも原爆の残虐性などを十分に認識していたとする見方もある。ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた[5]

いとしのベス

ファイル:TrumanWedding.PNG
結婚式にて(1919年6月28日撮影)

トルーマンは6歳の時、教会で一人の少女に出会った。後に夫人となるエリザベス(ベス)・バージニア・ウォーレスである。彼は会ったとたんに一目惚れをしてしまい「将来結婚する」と心に誓った。しかし「生い立ち」にある如く、家は大変貧しく結婚にこぎつけたのは1919年のことだった。結婚の9年前である1910年から1959年までの49年間、2人は結婚をはさんで「いとしのベス」「いとしのハリー」で始まる手紙をやりとりしていた。その手紙を収録した書簡集『Dear Bess』は、576ページの厚さに及ぶ。トルーマンとベスの間には娘マーガレットが生まれた。マーガレットは長じてクリフトン・ダニエルと結婚し、クリフトン・トルーマン・ダニエル(1957年-)らの子供を授かった。クリフトンは2012年8月トルーマンの孫として来日[16]、同4日広島市平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。

  • Robert H. Ferrell(ed.), Dear Bess: the Letters from Harry to Bess Truman, 1910-1959. (Norton, 1983).

その他の家族・親族

  • ジョン・ヴィヴィアン・トルーマン(1886年-1965年) - 長兄。
  • メリー・ジェーン・トルーマン(1889年-1978年)- 妹。

ミドルネームについて

トルーマンはミドルネームではなくイニシャルだけを持っていた。フル・スペルのミドルネームの代わりにイニシャルだけを付けることはミズーリを含む南部の州でしばしば行われていたという。トルーマンは、イニシャルが彼の祖父アンダーソン・シップ・トルーマンとソロモン・ヤングの名前の折衷であると語った。彼は「S」はイニシャルではなく「エス」というミドルネームだとジョークを言い、それにはピリオドを付けないのだとしたが、すべての公文書、彼の大統領図書館もピリオドの付いた名前を使用している。ハリー・S・トルーマン図書館は、トルーマンの生涯を通じての様々な場面で、彼が「S」の後にピリオドを付けた署名を行った多数の明白な例が存在すると公に述べている。

その他

著作

  • 『トルーマン回顧録』1・2(堀江芳孝訳、恒文社、1966年/新装版、1992年)

脚注・参考資料

  1. テンプレート:Cite conference
  2. NHK総合 『その時歴史が動いた』No.333「模擬原爆パンプキン~秘められた原爆投下訓練~」2008年8月27日放映
  3. 投下命令は陸軍戦略空軍司令官のカール・スパーツから陸軍長官のヘンリー・スティムソンと陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルに承認依頼が出された。スティムソンとマーシャルはそれをトルーマンに見せたとされているが、トルーマンによる正式な承認は記録されていない(長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、pp.322-325)
  4. この会談の際にトルーマンがスターリンに謝意に近い言葉を発したかどうかは米ソの記録で異なっており、ソ連側の記録にのみ「この件で満足の意をあらわし」たとある。これについて長谷川毅はソ連側が記録を改竄したと記している(『暗闘(上)』pp.285 -286)
  5. 5.0 5.1 浄法寺朝美 『日本防空史』 原書房、1981年、382頁。
  6. 長谷川毅『暗闘(下)』中公文庫、2011年、p71。この内容は商務長官のヘンリー・A・ウォレスによるという。
  7. 『暗闘(下)』中公文庫、2011年、p72
  8. ただし、1945年当時はアメリカ国民の85%が日本への原爆投下に賛成していた。
  9. フーヴァーはトルーマンの指示で戦後の日本などを視察した際にフランクリン・ルーズベルトを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していた。
  10. 【原爆から8年後、米政府に「広島原発」案 「罪悪感示す」アイゼンハワー大統領が反対 】(2011年8月6日 朝刊)
  11. 漫画『はだしのゲン』の作者の中沢啓治はポツダム宣言に天皇制を明記されていない事により日本政府が戸惑って原爆投下を招いたと主張し、その責任者として昭和天皇を激しく嫌っている。
  12. 日本は7月7日になって特使をソ連に派遣する方針が天皇の裁可を得、12日に近衛文麿の派遣が決定してモスクワの日本大使館に伝えられた。モスクワではこれを受けた佐藤駐ソ大使がモロトフ外相に会おうとしたが、ポツダム宣言準備を理由に会えず、代わって外務人民副委員のロゾフスキーから「特使の派遣目的や具体的内容がない」ことを理由に「いかなる回答も出せない」と伝えられていた。
  13. ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論にて。
  14. 、『昭和二十年』鳥居民。
  15. 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)
  16. クリフトンは公職になく、この来日はあくまで私人としてのものである。ダニエルは広島と長崎を訪問したい気持ちがあったが「被爆者や遺族から非難される。私は行くべきでない」と考えていたという。
  17. http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous2.php#M

文献情報

  • 「冷戦レトリックの形成過程-トルーマン大統領のレトリック戦略を中心に-」西川秀和(早稲田大学モノグラフ14)[1][2]

関連項目

外部リンク

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