ジョージ・マーシャル

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ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1953年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:マーシャルプランに対して

ジョージ・キャトレット・マーシャルGeorge Catlett Marshall, 1880年12月31日 - 1959年10月16日)はアメリカ合衆国陸軍軍人政治家。最終階級は元帥第二次世界大戦中の陸軍参謀総長としてアメリカを勝利に導き、戦後はマーシャル・プランによってヨーロッパ復興を指導した。ウエストポイント以外の出身者として異例の出世をしている。

経歴

軍人

ペンシルベニア州ユニオンタウン市に生まれる。1901年ヴァージニア軍事大学を卒業し、陸軍に入隊。

フィリピン勤務等を経て1917年には少佐となり、第1歩兵師団作戦・教練担当参謀としてフランスに派遣される。1918年、ヨーロッパ派遣軍最高司令部勤務となり、作戦計画担当参謀として活躍。1919年には大佐に昇進し、ヨーロッパ派遣軍総司令官ジョン・パーシング大将の副官となった。

第一次世界大戦終結に伴い、1920年にはいったん少佐に戻る。戦間期には陸軍省勤務となり、主に教練プログラムの立案に携わった。また、国防大学の教官および3年間の中国駐在も経験している。1923年には中佐1933年には大佐となり、1936年准将に昇進。

第二次世界大戦勃発によって1939年には少将となり、フランクリン・ルーズベルト大統領より第15代陸軍参謀総長に指名される。参謀総長就任にともない、あわせて大将に昇進。ヨーロッパ侵攻作戦の作戦計画を指導し、これを成功に導いた。1943年には、タイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれている。1944年12月、元帥となった。

終戦間際、ダグラス・マッカーサー南西太平洋方面総司令官やチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官とは異なり、日本本土侵攻やソビエト連邦参戦の必要性を唱えた。

政治家

終戦後、陸軍参謀総長の職を辞して軍を退いた。1945年12月、ハリー・S・トルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、戦後の中国における国民党共産党との争い(国共内戦)に対する米国の施策に多大な影響を及ぼした。

1947年国務長官に就任。同年6月5日ハーバード大学の卒業式で講演し、後に「マーシャル・プラン」として知られるようになるヨーロッパ復興計画の概略を発表した。また、国務長官時代も対中政策に絶大な影響を及ぼし続け、中華人民共和国の建国に貢献した。

1949年国務省を退き、アメリカ赤十字社総裁に就任。朝鮮戦争中の1950年9月には国防長官となるが、翌年9月に辞任し、公務を引退した。マーシャル・プランの立案・実行により、1953年にはノーベル平和賞を受賞。

1959年に死去した。

軍人としての自分を誇りに思っており、大変堅物な性格の持ち主で閣僚にさえファーストネームで呼ばせなかった。ハリー・トルーマンに「ジョージと呼んでいいか?」とたずねられても「いいえ、マーシャル将軍とお呼び下さい閣下」と答えたという。

関連項目

外部リンク

先代:
ルイス・A・ジョンソン
アメリカ合衆国国防長官
第3代:1950 - 1951
次代:
ロバート・A・ラヴット
先代:
ジェームズ・F・バーンズ
アメリカ合衆国国務長官
第50代:1947 - 1949
次代:
ディーン・アチソン
先代:
マーリン・クレイグ
アメリカ陸軍参謀総長
第15代:1939 - 1945
次代:
ドワイト・D・アイゼンハワー

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