森祇晶

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テンプレート:混同 テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:統合文字 テンプレート:Infobox baseball player 森 祇晶(もり まさあき、1937年1月9日 - )は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手捕手)・指導者・監督野球解説者。本名「森 昌彦」(もり まさひこ)。現在はハワイ在住。

読売ジャイアンツ(巨人)V9時代の正捕手。「V9の頭脳」の異名を取った。引退後はヤクルト西武横浜のコーチ、監督を歴任した。西武監督時代は在任9年間でチームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた。

兄は阪急に所属したプロ野球選手の森和彦

来歴・人物

現役時代

岐阜県立岐阜高等学校から1955年読売ジャイアンツに入団。本人は大学進学を考えており、一般入試でも問題なく進学できるといわれていたが、自営業だった実家の経営が苦しくなったため、実家を助けるべく大学進学を断念してプロ野球に進んだ。入団当時、まだ無名だった森は、当時ジャイアンツのエースだった別所毅彦の猛烈なピッチング練習につき合わされる。森によれば、雨で練習がない日になると必ず別所が車を運転して森のところにやってきて「おまえ受けろ!」といわれて、ジャイアンツ多摩川練習場の近くの丸子橋の下に連れていかれ、激しいピッチング練習の相手をさせられた。「あのころプロとは何であるかということを、別所さんとの猛練習から教えられた」と森は回想している。

1959年藤尾茂からレギュラーを奪い(藤尾はセンターコンバート)、以後引退するまでジャイアンツ正捕手の座を守り続けた。バッティングでは藤尾の方が優れていたが、当時の監督水原茂は森の緻密な守備力を高く評価し、森のレギュラー起用を決めた。

水原の後継監督の川上哲治は、森のキャッチャーとしての力を高く評価しつつも森を安住させないために野口元三佐々木勲大橋勲宮寺勝利槌田誠吉田孝司などのアマチュア球界の有力捕手を獲得し、森にぶつけ続けた。森は巨人がアマチュアの有力捕手を獲得するたびに「自分には信頼がないのか」と悩んだというが、ついに現役引退までレギュラーの座を死守し続け、8年連続ベストナインに輝くなどV9時代を支えた。

洞察力が鋭く、頭脳明晰、研究熱心であり、バッテリー間のリード力は当時のほかのプロ野球界のキャッチャーの中で、群を抜いて優れていた。相手チームのバッターの苦手コースや、一つの試合毎の味方相手チームのバッテリーの配球をすべて正確に暗記している記憶力の持ち主だった。この記憶力を武器に、ボール球なども巧みに使った緻密な配球の組み立てをおこない、相手チームの打者を翻弄しつづけた。キャッチングも優れており、現役時代全体を通じて、わずか42個のパスボールしか記録していない[1] またケガにも非常に強く、長期欠場離脱がほとんどない捕手であった。

試合外での情報収集にも熱心で、日本シリーズ対策としてパ・リーグで絶対的な強さを誇っていた阪急の話を聞くために、当時の南海正捕手である野村克也の自宅に出向いたエピソードは有名であり、情報収集とあわせて、野球について徹夜で2人で語りあったという。それ以来この2人は盟友とも言えるほど関係を結んでいく。なお、野村の自宅に行くと、「いいスーツですね」と言い、必ず野村の背広を何着か持って帰っていったという。またほかの名捕手の例に漏れず、森も現役時代は「ささやき戦術」の名人であった。

投手の側からしても森は非常にすぐれた捕手であり、藤田元司によれば、望むコースに投げさせるために全身を使って狙いやすくする工夫をするなど、投手のコントロールを引き出す技術はずば抜けて優れていたという。その一方、投手が打たれたときに絶対に自分の責任にせず、また投手の力の善し悪しを冷徹に首脳陣に報告するため、投手陣の受けは悪かったのではないかと川上や元チームメートの瀧安治は語っている。ただし、川上は森のそのような面を認めつつも「彼の非情な報告は勝負を預かる上でとても貴重だった」と評価している。

打撃に関しては決して強打者とはいえず、足も遅かった。しかし左打者だったため、王貞治長嶋茂雄の後ろで5番も打つこともあり(1964年から1965年にかけて6試合だけ4番を打ったこともある)低打率ながら勝負強さを発揮する打者であった。1967年には日本シリーズMVPを受賞している。

以上のことから、今なお森を「ジャイアンツ史上最強の名キャッチャー」と評価する意見が多い。また、森の現役時代の背番号「27」は日本プロ野球界において名捕手の背番号として定着しつつあり[2]、現役選手でもチームの正捕手に対して与えられることがある[3]。 

1972年からはバッテリーコーチを兼任し、1973年10月22日阪神甲子園球場での対阪神最終戦で、巨人が勝利してV9を達成した直後、乱入してきた阪神ファンに追われて、ベンチ裏に逃げようとしたら逃げ遅れ、負傷は免れたものの、マスクを取られてしまった。

V10を逃した1974年限りで現役引退。同年に引退した長嶋のようなセレモニーなどはなく、静かに引退していった。ちなみに森と長嶋は15年以上に渡りチームメイトでお互いレギュラーだったにもかかわらず殆ど口をきいたことがないほど不仲であって、それは両者の引退後も続くことになる。

解説者・コーチ時代

引退後は、1975年-1977年まで日本テレビ野球解説者を務めた後、1978年-1979年に現役時代から親交のあった広岡達朗監督のもとでヤクルトスワローズのバッテリーコーチ(ヘッド格)。1980年-1981年にはTBS専属野球解説者を務め、1982年-1984年には、やはり広岡のもと西武ライオンズのバッテリーコーチ(ヘッド格)を務めた。ヤクルト、西武コーチ時代には広岡の下、厳しく選手の私生活にまで管理をおこなったため、選手たちに「森CIA」「森KGB」などさまざまな陰口をたたかれるほどの嫌われ役となった。後にチャーリー・マニエル週刊朝日野村克也との対談の中で「広岡はいい監督だったがコーチの森は嫌な奴だった」と述べている。森は勝利のために広岡の考えを忠実に実行していたが、グラウンド上で厳しく接することは問題なくても、グラウンドから離れたところまで厳しく管理することは納得いかず、内面的にはつらい仕事であったと語っている。1984年に西武に在籍していた江夏豊は、週刊ベースボールのコラムにて、森がホテルにて、全選手の部屋の見回りを終えた後、江夏の部屋に入室して「俺だってこんな役回りはしたくない」と自分の仕事を嘆いていたと証言していた。最終的には広岡と対立しコーチを辞任した。

西武監督時代

西武コーチ辞任後の1985年文化放送の野球解説者を務め、1986年に広岡の後任として西武監督に就任。合わせて「祇晶」と芸名にした。

1985年にも優勝したチームを引き継いだだけに、前監督の広岡からは「勝って当たり前のメンバー(選手)が揃っている」と言われ、常勝が義務付けられていた。「当たり前のことを当たり前にやる野球」を掲げ、チームプレーと確率を重んじ、ディフェンスを主体として走塁やバントを多用するなど、基礎を積み重ねた緻密な野球を展開し、9年間で8度のリーグ優勝(優勝を逃したのは1989年のみ)6度の日本一に輝くなど西武黄金時代を築いた。とりわけ1990年から1994年までの5年連続のリーグ優勝はパ・リーグでいまだに破られていない記録である。この時期にはすでに広岡時代の選手の多くは現役を退いており、テンプレート:要出典範囲

森西武の野球の凄みをよく示すエピソードは巨人と対決した1987年の日本シリーズ第6戦であろう。この試合、8回裏二死から辻発彦が安打で一塁に出塁した。この二死一塁の場面で、続く秋山幸二はセンター前へ安打を放つ。ところが巨人の中堅手ウォーレン・クロマティの緩慢な返球の間に辻はなんと一気にホームまで駆け抜けて西武が得点してしまった。実は森はじめ西武側は、クロマティの送球に難がありながら、そのことに巨人が何も手を打っていないことを事前のデータ収集とミーティングで知り抜いていた。その緻密な事前研究を監督の森が選手各人に徹底していたことがこの辻の劇的な好走塁に結びついたのである。このシリーズは、事前予想では攻撃力に勝る巨人の優位といわれていたが、この辻の走塁にみられる西武の緻密なディフェンス野球が逆に巨人を圧倒し、西武が2年連続日本一を獲得している。

西武監督時代は、厳しい基本指導の一方で、選手を前面に押し出し、テンプレート:要出典範囲。当時の主力選手の一人だった辻発彦が自著「プロ野球 勝つための頭脳プレー」で語っているところによると、試合でエラーをして落ち込んだ辻のところに深夜、森から気遣いの電話があったり、遠征先や合宿先で選手が食事に満足しているかどうかを気にして尋ねたりということがよくあったという。広岡の監督時代も経験している辻によれば「広岡さんという人は選手をほめるということがそもそもなくてそれが持ち味だったけど、森さんは選手のいいプレーを必ずミーティングでほめてくれた」という。また選手達がゲームボーイなどの新しい遊び道具に熱中しているのをみると、叱るより前にまず森自身が買ってやってみて、その面白さを自分で体感してから「ほどほどにしなさいよ」というような穏当な理解者の面ももっていた。森は選手の管理について「時代背景というものはどんどん変わっていく。若い選手の時代背景を理解しないままに、『あれをやってはいけない・これをやってはいけない』ということは指導者として絶対に言ってはいけないことだ」と言っている。

テンプレート:要出典範囲。森は、広岡が監督時代に強制的におこなっていた健康食管理も監督就任後すぐにやめさせている。また有名な逸話として、優勝時にチャンピオンフラッグを持って球場を一周するときの様子があげられる。通例ではたいてい監督がフラッグを持って先頭を歩くものだが、森はそれをせず、石毛宏典・辻などの主力選手にフラッグを持たせ、自身は常に列の一番後ろを歩いていた。これは「選手が主役、監督は脇役」のポリシーを森がずっと持っていたことを示している。

テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲。開幕当初は不振だった清原であるが、次第に森の期待に答え始め、ついに新人王を獲得、プロ野球を代表する選手になっていく。清原は今なおこのときの森の起用を深く恩義に感じており、今でも森とは家族ぐるみでの付き合いが続いている。2005年の森の野球殿堂入りのときは祝賀式にかけつけ、一番に森に対し祝辞を述べている。

しかし当時打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった」と語っている[4]。また土井は4月下旬に清原の門限破りが発覚した時、ミーティングで最初に森が「ケジメだから下に落とさなければ」と発言した時、土井一人が反対最終的に当時コーチだった近藤昭仁が擁護してくれる事で残留できたと述べている[5]

田尾安志は「森監督は勝負師でしたが、僕とは馬が合わなくて、根本さんにトレードに出してくれと直訴し阪神に行くことになったんですよ。」と述べている[6]

このようにチームは常勝であり、テンプレート:要出典範囲、観客動員数は伸び悩み、1989年に僅差でリーグ優勝を逃した際に当時のオーナー堤義明から「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」という言葉を投げつけられていることなどから、球団首脳からの評価は意外に低かったといわれている。

1994年限りで勇退。日本シリーズ対巨人第6戦(東京ドーム・試合開始予定時刻午後1時)開始前の正午前、巨人の親会社である読売新聞社に「西武・森監督辞任」という一報が報じられる(共同通信社による配信)。森は同年限りで辞任することが内々で決定していたが、日本シリーズ終了前に辞任報道が流れるという憂き目にあった[7]。20年前と同様、長嶋が監督として初めて日本一を決め脚光を浴びている中、静かに退任となってしまった。

監督辞任に至るきっかけとなったのは1994年10月2日、近鉄に勝ちリーグ優勝を決めた日のことだったと語っている。「晴れがましい祝宴を期待していたら、ただ食べ物が置かれているだけで普段の遠征と変わらない光景であった。優勝を決めても祝福せずに東京に帰ってしまうフロントの態度に怒りを通り越して悲しくなるほど愕然とした。特に夏場になっても例年なら来るはずの翌年のドラフト、外国人選手の情報が自分の元に降りて来ず、フロントの様子がおかしかったことなどから、今期限りだと覚悟を決めていた」と述べ、あと2~3年自分が我慢をして石毛にバトンタッチする考えも持っていたことを吐露している。さらに同著書の中で、コーチの中に森に対して良い顔をする一方で、次期監督候補に対し「森監督退任後は俺をコーチに据えてくれ」と、手当たり次第に売り込み自己保身する者がいたことに触れ、「一緒に優勝を目指してやってきた中にそんな人間がいたことが情けない。」と述べている。

森の辞任直後、次期監督と目されていた石毛と工藤公康ダイエーFA移籍、翌1995年オフには後任監督の東尾修が「同じ成績ならベテランより若手を起用」という方針で辻が自由契約に(辻はヤクルトに移籍し1999年まで在籍)、1996年オフには清原がFAで巨人へ移籍し、立て続けに西武の日本一時代の主力選手が去り、レギュラークラスでは伊東勤郭泰源潮崎哲也、西武生え抜きではないが鹿取義隆のみが西武で現役を全うした。

その後は1995年から2000年にはNHK解説者、日刊スポーツ評論家。1995年にはグリコ協同乳業(現・グリコ乳業)「Bigヨーグルト健康」のCMに父親役として出演。庭で素振りをしたり、バッティングセンターでピッチングマシンから放たれるボールを捕球したりと、現役時代を髣髴とさせるシーンがあった。息子役は岡田義徳(森と同じく岐阜県出身)、娘役はデビュー直後の広末涼子だった。1998年には巨人軍の次期監督内定の記事が朝日新聞に掲載されたものの、反森派のOBによる反対や読売新聞グループ内の思惑が影響したために実現しなかったと一部週刊誌に報道されている[8]

横浜監督時代

2001年横浜ベイスターズ監督に就任[9]。1年目は主砲のロバート・ローズが退団するも3位を維持し、チームは5年連続Aクラス入りを果たす。投手コーチに森繁和、内野守備走塁コーチに辻発彦を招聘。しかし、森との確執で正捕手の谷繁元信[10] や前年のチーム最多勝投手の小宮山悟がFA移籍をするなど戦力が低下した2年目は、16年ぶりの13連敗を喫するなど最下位を独走し、シーズン途中の2002年9月25日に途中休養を余儀なくされ、シーズン終了を持って解任された。監督代行は森が横浜の監督になる際に横浜のコーチに就任したヘッド兼打撃コーチの黒江透修(巨人時代の同僚)がシーズン終了後まで務めた。黒江によるとフロントが選手と直接電話したりメールしたりして仲良くしている。監督・コーチへの不満を選手が言って、フロントは「そんなのほっとけ」と言えば、選手たちは僕らの言うことなんて聞いてくれません。それに森さん自身も「自分の野球」のイメージが抜けられなかった。だから、僕が途中から代理監督になって以降は「これまでの観念を捨てて思い切った采配をしていく」と足の遅い走者でもエンドランを仕掛けました。球団からは「森さんも黒江さんみたいな野球をしてくれれば、最下位にならなかったのに」と言われたと言う[11] 。特に成績が低迷した横浜監督の2年目はファンや地元マスコミの批判にさらされることが多く、横浜では過去に森と同じく優勝実績があり鳴り物入りで就任した古葉竹識が、就任3年目に最下位に転落し契約を1年残しての辞任に追い込まれたという類似ケースがあったことや、森の前任監督である権藤博が放任野球を標榜して1998年に日本一を達成しており、森が標榜したバントを多用する手堅い采配がそれとは対極のものであったことも、横浜ファンからの森の評価を下げる要因となった。

一方で小川博文種田仁を獲得してチームの主力として定着させた他、斎藤隆の抑えへの転向を成功させたり、木塚敦志の中継ぎ転向、相川亮二の正捕手への起用など、後の横浜の基礎となる選手の育成、チームの再編成も見られた。森は退任後に戦力差を埋めようと補強に動いていたが実現しなかったことを明かしており、のちに阪神優勝特集の書籍にて、西武では自由にやらせてくれたと称える一方、横浜では選手の起用法で介入されたと、フロント批判を展開している。

監督退任後

アメリカ合衆国永住権を取得したため、2003年からハワイに移住しており、現在は海外の野球についての評論が主である。2005年野球殿堂入り。

日本シリーズ20連勝

森は日本シリーズに24回=現役時代に13回(巨人)、コーチ時代に3回(ヤクルトで1回、西武で2回)、監督時代に8回(全て西武)出場しているが、3回目の出場の1961年から、22回目の出場の1992年まで20回連続優勝(日本一)を経験している。

  • 現役時代 11連勝 1961年・1963年・1965年~1973年(V9)
  • コーチ時代 3連勝 1978年(ヤクルト)・1982年・1983年(以上西武)
  • 監督時代 6連勝 1986年〜1988年・1990年〜1992年
  • シリーズ敗退 4回 1957年・1959年(以上現役時代)・1993年・1994年(以上西武監督時代)

1958年の日本シリーズで、巨人は西鉄に3連勝から4連敗を喫しているが、森はこのシリーズには出場しなかったため、1958年は出場回数には数えない。

また西武は1985年の日本シリーズで阪神に敗れているが、森は前述の通り前年にコーチを辞任しており、監督就任でチームに復帰したのは翌年(1986年)だったので、自身のシリーズ連勝記録は止まらなかった。

V9後の巨人は1976年の日本シリーズで阪急に敗れ、1959年以来17年ぶりにシリーズ敗者となった。一方、森は20連勝の後、1993年の日本シリーズでヤクルトに敗れ、34年ぶりにシリーズ敗者となった。

座右の銘

好きな言葉は「忍」。1989年に優勝を逃した後、空いた時間に、妻の希望もあって中国を旅した。洛陽で高僧に「あなたはどういう言葉が好きですか」と尋ねられた森は「忍」と答えた。高僧は膝を打って言った、「大変な言葉ですね。忍という字は、心臓の上に刃をのせている。つまり、心の上に刃をのせている。これは苦しいことですよ」。さらに、「忍の字が好きだということは、あなたはそれができる、ということです。きっと、いい仕事ができますよ」。森はこの言葉を聞いて、全身に力がみなぎるのを感じたという。著書の『覇道―心に刃をのせて』のタイトルは、このエピソードによる。この著書は『週刊ベースボール』連載を元にしているが、連載時のタイトルはそのまま『心に刃をのせて』だった。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 巨人 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
テンプレート:By2 13 14 13 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 6 0 .077 .143 .077 .220
テンプレート:By2 42 105 97 5 21 3 0 1 27 12 1 0 1 0 7 0 0 20 1 .216 .269 .278 .548
テンプレート:By2 30 66 64 6 19 6 1 1 30 6 0 1 0 0 2 0 0 17 2 .297 .318 .469 .787
テンプレート:By2 105 363 329 17 75 7 1 3 93 26 5 0 3 2 28 3 1 52 8 .228 .291 .283 .573
テンプレート:By2 115 384 355 18 70 14 0 2 90 18 5 2 6 3 20 6 0 46 11 .197 .240 .254 .494
テンプレート:By2 113 344 323 17 72 15 1 4 101 29 0 4 1 1 17 3 2 24 6 .223 .266 .313 .579
テンプレート:By2 134 508 469 43 116 24 1 6 160 44 4 6 3 2 32 4 2 35 15 .247 .298 .341 .639
テンプレート:By2 132 452 419 26 83 10 2 4 109 38 3 0 2 4 27 4 0 30 11 .198 .247 .260 .507
テンプレート:By2 123 459 426 35 115 17 1 12 170 65 1 1 3 2 27 1 1 22 8 .270 .315 .399 .714
テンプレート:By2 135 511 484 47 134 19 2 5 172 58 2 0 3 3 19 0 2 25 18 .277 .307 .355 .662
テンプレート:By2 125 454 425 25 103 13 2 5 135 62 1 1 3 4 21 8 1 19 12 .242 .280 .318 .597
テンプレート:By2 109 360 331 28 92 10 0 6 120 31 3 0 1 3 22 6 3 22 11 .278 .329 .363 .691
テンプレート:By2 127 468 439 35 100 10 1 11 145 46 2 2 3 2 21 1 3 31 15 .228 .268 .330 .598
テンプレート:By2 115 372 340 22 87 13 0 8 124 39 0 1 1 2 26 6 3 29 11 .256 .314 .365 .679
テンプレート:By2 97 272 243 11 51 10 0 0 61 15 0 3 1 4 23 8 1 21 8 .210 .281 .251 .532
テンプレート:By2 95 285 256 19 55 8 2 4 79 22 1 1 1 2 26 8 0 28 8 .215 .287 .309 .596
テンプレート:By2 120 372 338 20 71 10 0 4 93 33 0 0 0 3 26 6 5 27 13 .210 .276 .275 .552
テンプレート:By2 97 241 223 11 49 5 0 3 63 19 1 0 2 1 14 2 1 10 7 .220 .269 .283 .551
テンプレート:By2 56 118 111 7 27 2 0 2 35 19 0 1 0 2 5 1 0 5 6 .243 .276 .315 .591
通算:20年 1884 6149 5686 392 1341 196 14 81 1808 582 29 23 34 40 363 67 26 469 171 .236 .285 .318 .603
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1986年 昭和61年 西武 1位 130 68 49 13 .581 185 .281 3.69 49歳
1987年 昭和62年 1位 130 71 45 14 .612 153 .249 2.96 50歳
1988年 昭和63年 1位 130 73 51 6 .589 176 .270 3.61 51歳
1989年 平成元年 3位 130 69 53 8 .566 0.5 150 .271 3.86 52歳
1990年 平成2年 1位 130 81 45 4 .643 162 .263 3.48 53歳
1991年 平成3年 1位 130 81 43 6 .653 155 .265 3.22 54歳
1992年 平成4年 1位 130 80 47 3 .630 159 .278 3.52 55歳
1993年 平成5年 1位 130 74 53 3 .583 114 .260 2.96 56歳
1994年 平成6年 1位 130 76 52 2 .594 122 .279 3.81 57歳
2001年 平成13年 横浜 3位 140 69 67 4 .507 8 94 .267 3.75 64歳
2002年 平成14年 6位 140 49 86 5 .363 35.5 97 .240 4.09 65歳
通算:10年 1436 785 583 68 .574 Aクラス10回、Bクラス1回
※1 太字は日本一
※2 1986年から1996年までは130試合制
※3 2001年から2004年までは140試合制
※4 2002年、9月26日より休養。監督代行は黒江透修
※5 2002年、欠場した14試合(6勝8敗)は監督成績に含まない

表彰

記録

背番号

  • 27 (1955年 - 1974年)
  • 72 (1978年 - 1979年)
  • 81 (1982年 - 1984年、1986年 - 1994年、2001年 - 2002年)

登録名

  • 森 昌彦 (もり まさひこ、1955年 - 1985年)
  • 森 祇晶 (もり まさあき、1986年 - )

関連情報

解説者として出演していた番組

著書・書籍

  • 『勝つための参謀学―球界きっての知将が明かすリーダーと参謀の条件』講談社文庫
  • 『人間怒り方しだい』青春出版社
  • 『「勝ち続ける」ために何をすべきか』講談社
  • 『男は不器用でいいじゃないか』講談社
  • 『覇道―心に刃をのせて』ベースボール・マガジン社
  • 『森祇晶の知のリーダー学』ごま書房
  • 『責任者の条件』青春出版社
  • 『「一流になる」ために何をすべきか』講談社
  • 『監督―悪ガキこそ戦力だ』藤田元司との対談、光文社、1997年
  • 『悪役の正論―我思う。ゆえに我あり』ザ・マサダ
  • 『捕手的人間の時代』ザ・マサダ
  • 『情の野球 知の野球―プロ野球がもっと面白くなる考え方』PHP研究所、2001年3月、ISBN 4-569-61243-1
  • 『不敗の監督学(インサイドワーク)―西武ライオンズ森祇晶 常勝の秘密』松下茂典著、オーエス出版、1991年8月、ISBN 4871902986
  • 『野球力再生 名将の「ベースボール」思考術』ベースボール・マガジン社、2009年3月、ISBN 9784583101613

脚注

  1. たとえば野村克也は現役時代全体で通算206個のパスボールを記録している
  2. 例:古田敦也(ヤクルト)、森の西武監督時代の教え子でもある伊東勤
  3. 例:谷繁元信(中日,2004年~)
  4. 永谷脩著、監督論 日本シリーズを制した27人の名将、廣済堂出版、2013年、P127
  5. 「教えられなかった死球の避け方」 - 2009年2月16日
  6. 田尾安志 プロ野球チームをつくろう -
  7. 西武監督辞任報道に関しては、堤オーナーの指示により西武球団側が情報を意図的に流したとする見方もあった。
  8. 週刊宝石』1998年10月1日号他
  9. 横浜は近藤昭仁が退任した1995年オフと大矢明彦が退任した1997年オフにも、森に監督就任を要請している。
  10. “中日・谷繁vs西武・伊原”新監督同士をめぐる意外な「因縁」とは… - 2014年2月23日
  11. 日本プロ野球監督列伝―1936ー2014 (B・B MOOK 1069)、ベースボール・マガジン社、2014年、P64

関連項目

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