フンボルト大学ベルリン

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フンボルト大学ベルリンHumboldt-Universität zu Berlin)は、ドイツベルリンにある大学。1810年に、教育改革者で言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universität) として創立されたベルリンで最も古い大学である。ドイツにおけるエクセレンス・イニシアティブ(Exzellenzinitiative)に指定された11大学の一つ[1]第二次世界大戦後フンボルト大学と改称され、ドイツ再統一後、現称となった。

以下、本項では「ベルリン大学」と呼称する。

沿革

設立の経緯

18世紀を通してドイツ文化圏において新興勢力として伸張しつつあったプロイセン王国は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世治下、19世紀に入るや市民革命の拡大を目するナポレオン軍と衝突し、国家存亡の危機に陥った(1806年-1807年)。この危機を打開しようと、シュタインハルデンベルクの政治改革、グナイゼナウらによる軍制改革など近代化に向け諸改革がなされたが、教育の近代化の一環としてフンボルトの主導により、ブランデンブルク地域最初の大学として創立された

発展

ウィーン大学ハイデルベルク大学など中世来の歴史を持つ大学に伝統では及ぶべくもないが、初代の学長に ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、2代目フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー、1830年にはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルがその後任となるなど、当代随一の学究を招き、復興したプロイセン王国の勢力拡大にあわせるかのように有力な大学となっていった。さらに、プロイセン王国が根幹となりドイツ帝国が成立すると、その首都に位置する大学として政府の強い支援を受けるなどにより更なる発展を遂げ、ドイツ文化圏を代表する大学となった。

ベルリン大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、カントの理論に基づき、法学神学医学といった伝統的な学問領域を軸としつつも、これら3つの学問のみならず、自然科学を含めてすべて学問の理論的な研究を哲学が指導するという教養大学モデルを採用した。ベルリン大学は、研究と教育の一体化を図るとの革命的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた[2]

ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟であるアレクサンダー・フォン・フンボルトが近代地理学の嚆矢となったように、多くの新しい科学的な分野を包含するための開拓がなされている。当時のベルリン大学を代表する学者としては、化学分野ではアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン、物理分野では、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、数学者では、エルンスト・エドゥアルト・クンマーレオポルト・クロネッカーカール・ワイエルシュトラス、医学の分野では、ヨハネス・ペーター・ミュラーアルブレヒト・フォン・グレーフェルドルフ・ウィルヒョーそしてロバート・コッホといった顔ぶれが挙げられる。

この時期に、ベルリン大学は徐々に他のベルリンの高等教育機関を組み込んで拡大していった。その代表が医学部付属病院となるシャリテ(Charité)であろう。シャリテの起源は、1717年フリードリヒ1世によるペスト防止の検疫所に遡り、1727年兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)による、"Es soll das Haus die Charité(これは、チャリティの家である)"の言葉を伴った、さらなる下賜によって設立されたもので、そこは、1829年までにはベルリン大学医学部のキャンパスとなり、1927年には、より近代的な大学病院設備が建設された。

1810年に設立した博物学の収集物は、1889年には別の建物が必要となるほどとなり、独立してドイツ最大の自然史博物館である自然博物館(Museum für Naturkunde 通称:フンボルト博物館)となった。また、1790年に設立された獣医学校は、1934年に吸収され、獣医学研究施設の基礎となったし、1881年に設立されたベルリン農業高等学校( Landwirtschaftliche Hochschule Berlin)は農学部へと発展していった。

日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森鴎外北里柴三郎高橋順太郎寺田寅彦肥沼信次宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。

第三帝国下の状況

1933年ナチスが政権をとりヴァイマル共和国が事実上崩壊すると、ドイツの他の大学同様、ナチスの教育機関と化した。この年の5月10日には、オペラ広場(現在のベーベル広場)において、20,000冊に及ぶ大学図書館の書籍が、退行的・体制批判的として、ヨーゼフ・ゲッベルス指導の下、SAの監視下焚書された。現在、この行為のモニュメントが広場の中央に建てられており、20,000冊分の空きをもった書架とハインリヒ・ハイネの作品からの以下の一節が記されたプレートを見ることができる。

"Das war ein Vorspiel nur, dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man am Ende auch Menschen"
(これは、前奏曲に過ぎなかった。本を燃やしたその場所で、最後には、彼らは人を燃やすのである)

1933年から1934年にかけて、公務員法("Gesetzes zur Wiederherstellung" 略称:Berufsbeamtentums)により、約250人のユダヤ系の教授等が解職・解雇され、多くの学位が廃された。学生や研究者もナチスに抗するものは容赦なく放逐され、この時期にスタッフの約1/3は解雇されたと見られる。

第二次大戦終了後の再開とベルリン自由大学の分離

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東ドイツ時代

第二次世界大戦後は東ベルリン側に位置することになり、1949年に王名を嫌った共産主義政権によりフンボルト大学に改称された。そして、ドイツ民主共和国の崩壊まではドイツ社会主義統一党(SED)の厳格な思想統制の下に置かれた。民主的な反体制勢力が、大学キャンパスで拡大することを防ぐため、学生は党の方針への従順さに応じて選抜された。そのためか、学生や学者らは1989年の民主革命において、あまり重要な役割を担うことが無く、ドイツ再統一直前の1990年の時点においてでさえ、SEDの元党員でシュタージのスパイとの噂のあるハインリッヒ・フィンク(Heinrich Fink)を学長に選出するほどであった。

再統一から現在

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学部

以下の11学部により構成される。

さらに、以下の独立研究機関が付属している。

キャンパス

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関係者

教授など

卒業生・留学生など

脚注

  1. ドイツの大学システムの概要 ドイツ学術交流会
  2. ヘルベルト・シュネーデルバッハ著・朴順南舟山俊明内藤貴訳『ドイツ哲学史1831‐1933』29~45頁(法政大学出版局、2009)

関連項目

外部リンク

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