ドイツ社会主義統一党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:政党

ドイツ社会主義統一党(ドイツしゃかいしゅぎとういつとう、ドイツ語Sozialistische Einheitspartei Deutschlands, 略称:SED)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政党マルクス・レーニン主義を掲げた政権政党だった。ドイツ統一社会党と呼ばれる場合もある。

概要

1946年10月にドイツソ連占領地区でドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)が合併して成立した。もっとも、西側占領地区ではSPDはそのまま存続して現在に至り、KPDは1956年連邦憲法裁判所より違憲判決を下され解散している。ベルリンのSPDはKPDとの統一の賛否を決める投票が行われた。しかし、東ベルリンではソ連軍によって投票が禁止されたため、実際投票が出来たのは西ベルリンのSPD党員のみであった。その結果、KPDとの統一に賛成したのはわずか12パーセントであったため、ベルリンは東ベルリンも含めてSED成立後も一定期間、SPDが存続した(西ベルリンSPDが東ベルリンでも活動を許されていた。一方で西ベルリンには西ベルリンSEDも存在した)。

合併後、最初期は指導部の半分ずつが旧KPDと旧SPDであったが、旧SPD系の党員は徐々に除名され、実体はKPDと何ら変わらないものとなった。ただ1946年当時存在していた政党としてはドイツ最古であったSPDは、全国に強力なネットワークを持っていたため、KPDが政権を掌握する上での利用価値は非常に高かったとされる。(合併当時、KPD党員が60万名に対して、SPD党員は68万人と数の上では優勢であった。)[1]

ファイル:Party Card 750px.jpg
社会主義統一党党員証

1949年ソ連占領地区がドイツ民主共和国となると、国家を指導する党として事実上の一党独裁体制を敷き、東ドイツを支配した。

1989年の民主化で政権を失い、社会主義統一党/民主社会党(SED/PDS)を経て民主社会党 (PDS) と改名した。後にPDSはSPD(西側占領地区→旧西ドイツ)左派の一部を受け入れて、左翼党を結成。旧東ドイツ地域では現在も一定の勢力を保持し、ブランデンブルク州ではSPD首班の州政権に「与党」として参加している他、左派勢力による「東西合同」以降、旧西ドイツ地域での躍進も目立つ。2013年9月の連邦議会選挙では改選前より勢力を後退させたものの、全議席を失った自由民主党に代わり、議席数で初めて第3位の会派となった。加えて、3ヶ月に及ぶCDU/SPDによる大連立交渉がSPD側の党員投票を経て合意に至った為、同政権が発足する2013年12月17日以降は「野党第1党」として巨大与党と対峙する立場に置かれる。

歴代指導者

議長

  1. オットー・グローテヴォール(1946 - 1950、共同議長)
  2. ヴィルヘルム・ピーク(1946 - 1950、共同議長)

書記長

正式には「中央委員会書記長」。1953年から1976年までは「第一書記」。

  1. ヴァルター・ウルブリヒト(1950 - 1971)
  2. エーリッヒ・ホーネッカー(1971 - 1989)
  3. エゴン・クレンツ(1989)

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

『西洋軍歌蒐集館』より「ドイツ社会主義統一党党歌」・原語歌詞と日本語の対訳および音声ファイル

テンプレート:ドイツの政党
  1. 細井雅夫「ソ連占領下のドイツ社会民主党ーSED成立史再考ー」(放送大学教養学部「社会と経済」専攻生・学生番号931-485998-4執筆)も参照のこと