エーリッヒ・ホーネッカー

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エーリッヒ・ホーネッカーErich Honecker, 1912年8月25日 - 1994年5月29日)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政治家。ドイツ民主共和国第3代国家評議会議長(在任:1976年 - 1989年)およびドイツ社会主義統一党書記長。1989年の東欧革命で失脚した。

経歴

青年期

ホーネッカーは炭坑夫の息子としてノインキルヒェンで生まれた。6人兄弟の3番目の息子だった。彼は10歳で地元の共産党少年団に加入、1926年ドイツ共産党(Kommunistische Partei Deutschlands, KPD)の青年部(Jugendverband)に参加して16歳で地元部長になり、17歳でKPDに正式入党している。学校を卒業後徒弟修業先が見つからないため2年ほどポンメルンで農家の手伝いをし、その後屋根職人の伯父を手伝っていたが、1929年国際レーニン学校に入学するためモスクワに行った。1931年に帰国、地元共産党の指導に従事。

1933年にドイツではナチスが政権を掌握したが、当時ザール地方はまだ国際連盟(実質的にフランスザール (国際連盟管理地域)を参照)の管理下にあったため共産党は活動できた。1935年に住民投票でザール地方のドイツ帰属が決まると、ホーネッカーは他の党員と共にフランスに亡命したが、地下活動のため潜入したベルリンゲシュタポに逮捕された。1937年には共産党活動で10年の懲役が宣告され、第二次世界大戦の終了まで拘束された。

ドイツの敗北直前の1945年5月6日に、屋外作業のため外出した隙をついて脱走した。後にソ連軍によって直接監獄から解放されたと宣伝されたが、これはソビエト連邦との友好を訴えることを目的とした「歴史の書き換え」だった。

社会主義統一党

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-57000-0512, V. Parteitag der SED, Honecker spricht.jpg
SEDの党大会で演説するホーネッカー(1958年)
後方の人物がウルブリヒト

戦後ホーネッカーは、猜疑心の強いヴァルター・ウルブリヒトによる党査問会を経て、その下で活動を始めた。1946年には旧KPDと東ドイツのドイツ社会民主党員によって組織されたドイツ社会主義統一党(Sozialistische Einheitspartei Deutschlands, SED)の創立メンバーとなった。同年ホーネッカーはFDJ(自由ドイツ青年団)の創設者の一人となり、長らくその会長を務め、のちに小学校低学年からなる党の組織である「ピオネール」の子供たちからは、”エーリッヒおじさん”として親しまれるようになる。

1946年10月の選挙で大勝し、ホーネッカーは短命な議会でSEDのリーダーシップを獲得した。ドイツ民主共和国は社会主義国家として1949年10月7日に成立した。そこでホーネッカーは1950年から中央委員会書記局の局員候補、1958年からは正式局員になった。研修のためモスクワに滞在していた1956年には、ニキータ・フルシチョフによる「スターリン批判」を直接経験することになった。

ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として1961年ベルリンの壁の建設を担当した。ソ連の指導者レオニード・ブレジネフと良好な関係を保ち、ウルブリヒトが1960年代以降導入した「新経済システム」に対して共産主義から外れつつあるとしてブレジネフの支援下で党内に反対の声を広げていった。

指導者

ファイル:Stamps of Germany (DDR) 1972, MiNr 1760.jpg
独ソ友好25周年記念切手(1972年)に描かれたホーネッカー(右)とブレジネフ(左)
ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0907-13, Bonn, Besuch Erich Honecker.jpg
西ドイツの首都ボンを訪問したホーネッカーと西ドイツ首相ヘルムート・コール(1987年)
ファイル:BerlinWall01b.jpg
ホーネッカーとブレジネフが接吻して挨拶する有名な写真のモチーフと、東ドイツの国民車トラバント(手前)(ベルリンの壁跡、テンプレート:仮リンクの落書き)

1971年、健康を理由に辞任したウルブリヒト書記長に代わって、東ドイツの新しい指導者となった。同時に国防委員長に就任した。1973年にはウルブリヒトが死去すると権力が本人に集中するようになった。1976年10月には人民議会によって国家評議会議長にも選出され、権力を一身に集める。その座にあったヴィリー・シュトフは格下の閣僚評議会議長(首相に相当)に就任した。

中央委員会経済担当書記にはテンプレート:仮リンクを任命、国家保安省大臣にはエーリッヒ・ミールケを任命した。この三頭体制は、誰にも邪魔されることなく、東ドイツ支配階級、つまり約520人の党・国家幹部のエリートたちのトップとなった[1]

中央委員会アジテーション・プロパガンダ部門書記官であったテンプレート:仮リンクとは日常的に党のメディア活動に関する協議を行い、党機関紙「テンプレート:仮リンク」のレイアウトや、国営テレビの報道番組テンプレート:仮リンクのニュース構成までをも決めていた[2]。ホーネッカーは、シュタージにも重要な意義を認めていて、週に一度はエーリッヒ・ミールケと長い論議していた[3]

就任当初はデタントの波に乗って西ドイツ相互承認条約を結んで国交を樹立し、さらに国際連合加盟を実現する外交的成功を収めた。内政でも当初は文化政策を中心に開放を目指し、改革派と見られた時期もあった。しかし次第にその体制は硬直化してシュタージによる反体制派の取り締まりがエスカレートしていった。ホーネッカーは東西ドイツ国境の対人地雷を拡充し、国境の逃亡者には容赦のない射殺を命令した[4]1974年に彼はこのことについて「銃器を効率良く使った同志は賞賛されるべきである」[4]と述べている。

経済政策では「新経済システム」で企業の独自採算制を認めるなどして生産性を高め、経済を発展させた[5]前任のウルブリヒトと違い、ホーネッカーは産業の国有化・中央集権化を進めたが、1970年代後半以降西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、統制経済官僚主義のもとで硬直化した東ドイツの経済状況は悪化し[6]、生活水準を維持するために西ドイツから数十億ドイツマルクの経済支援を仰ぐようになった。にもかかわず、1981年に西ドイツ首相のヘルムート・シュミットを、テンプレート:仮リンクに招待した際には、東ドイツは「経済的に世界水準に達し、世界で最も重要な産業国のひとつになった」と述べた。当時の様子を振り返ってシュミットは、「頭の良くない男(Mann von beschränkter Urteilskraft)(=直訳:判断力の限られた男)」だと思ったと述べている[7]。同年には日本を訪問し、その際に日本大学から名誉博士号を受ける。日本の目覚ましい経済成長に強い関心があったようである。

こうした経済問題にも関わらず、ホーネッカーは1980年代に国際的な評価を求め、1987年9月7日には西ドイツを訪問、首相ヘルムート・コールボンで会談し[8]。西ドイツ周遊期間にはデュッセルドルフヴッパータールエッセントリーアバイエルンにも訪問。9月10日に彼の生誕地ザールラントに訪問した際には、いつかは国境がドイツの人びとを切り裂くことはなくなるだろうということを感情的に演説している[9]。なお、この周遊は、1983年に企画されたが、しかし当時は東西ドイツ間の関係に疑念を抱いていたソ連の指導部から妨害されており、ゴルバチョフ政権になってから実現したものである。翌1988年にはフランスを訪問し、さらにアメリカ合衆国訪問も希望していたが、果たされることはなかった。

1980年代後半にソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ書記長が政治改革(ペレストロイカ)を始めた時も、ホーネッカーは強硬路線の共産主義者のままだった。

辞任

1989年6月18日、自由選挙によるポーランド統一労働者党の潰滅を嚆矢にして東欧革命が勃発したが、その東欧革命の波涛は東ドイツにも波及し、民衆の抗議活動に歯止めがきかなくなった。夏の休暇シーズンになると多くの東ドイツ国民が休暇を利用してハンガリーチェコスロバキアへ出国した。既に改革を進めていたハンガリーは自国内の東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた。

このような状態になってもホーネッカーは、事態を憂慮するエゴン・クレンツ(治安・青年問題担当書記、政治局員、国家評議会副議長)の進言にも「それがどうした」と言うだけで意に介さなかった[10]。その間にも国民の大量出国は続き、ライプツィヒでは民主化を求めるデモ月曜デモ)が行われるようになった[11]

10月7日、建国40周年記念式典のために東ドイツを訪問したゴルバチョフとの会談では、国内は何の問題もないと楽観視するホーネッカーの態度にゴルバチョフが業を煮やし、改革か引退かを迫った[12]。その後行われたゴルバチョフとSEDの党幹部達との会合でもゴルバチョフが「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた[13]のに対し、ホーネッカーは、自国の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした[14]。これによって、ゴルバチョフがホーネッカーに引導を渡したことが、他の党幹部達の目にも明らかになった。

この状況を見たクレンツやギュンター・シャボウスキー(政治局員、党ベルリン地区委員会第一書記)らの党幹部達は、ホーネッカーの追い落としを画策し始め、まず11日の政治局会議でそれまでの政治の誤りを認める声明を採択させた。自身のそれまでの政治を否定されたホーネッカーは12日に中央委員会書記と全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集すると、「国家が直面する諸問題はNATOの攻撃から生まれている」と演説し、自身への支持を訴えて巻き返そうとした。しかし、ハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からはホーネッカー批判や辞任を暗に求める発言が出るなど、全くの逆効果に終わった[15]

これに勢いづいたクレンツ、シャボウスキーらはソ連の指導部やシュトフ首相などとも連絡を取ってホーネッカーを引き降ろす工作を進めて行った[16]

10月17日、政治局会議でいつものように議事を進行し始めようとしたホーネッカーに対し、突如シュトフが「エーリッヒ、ちょっと発言が」と言うと、続いて「ホーネッカー同志の書記長解任、およびミッターク、ヘルマン同志の解職を提案したい」と述べた。これに対し、解職対象のミッターク、ヘルマンを含めたホーネッカー以外の全政治局員が賛成を表明し、次々にホーネッカーを批判し始めた。ホーネッカーはそれに対しても顔色一つ変えなかったが、国家保安相エーリッヒ・ミールケが「暴露してもいいんだが…」とホーネッカーの不正を示唆する発言をすると「じゃ、言ってみろ!」と叫んだという[17]

ホーネッカーは観念したように解任動議を採決にかけざるを得なかった。ホーネッカーは自らへの更迭動議に賛成し、結果として全会一致で解任が決定された。後任にはクレンツが就任した。10月18日、党の中央委員会でホーネッカーは正式に退任したが、その際の演説でも「私は生涯を労働者階級の革命的事業とドイツの地に社会主義を打ち立てるというマルクス・レーニン主義的世界観に捧げて来た」「社会主義ドイツ民主共和国の建設と発展は、わが党及び私自身の共産主義者としての闘いの総仕上げであった」と述べ、最後まで頑迷な共産主義者としての姿勢を崩すことはなかった[18]

後任のクレンツは緩やかな改革を行う一方で社会主義統一党の一党独裁制を維持しようとしたが、国内は日に日に拡大する反政府デモなどで混乱していった[19]

混乱のさなかの11月9日、「ベルリンの壁は私の認識では直ちに開放されます。」とシャボウスキーが誤発表(本当は「旅券発行の大幅な規制緩和」について11月10日に発表される予定であった)し、これが引き金となってベルリンの壁は破壊された

結局クレンツも国民の支持どころか党員の支持を得ることも出来ず[20]1989年12月3日には、ホーネッカーを初めとして旧中央委員会の全員が、SED党を除名された。

末路

1990年から1993年まで、ホーネッカーは冷戦犯罪、特にベルリンの壁を越えようとして死んだ192人に関しての訴追を回避した。ホーネッカーは1991年にモスクワへ発つ前にベルリンの近くのソ連の陸軍病院に入院した。しかし亡命先のソ連で保護が受けられないと悟ると、モスクワのチリ共和国大使館に逃げこんだ。チリはドイツ系移民が多かったうえに、かつて東ドイツはチリのアウグスト・ピノチェト軍事政権から逃げた左派系の人々の亡命を受け入れた(第34・36代チリ大統領UNウィメン代表を歴任したミシェル・バチェレもその一人)ので、ピノチェト政権が崩壊したことで保護が期待出来たのである。なお他にも北朝鮮シリアがホーネッカーの受け入れを申し出たといわれる。かつて多くの東ドイツ市民が西側への亡命を求めて各国の大使館に逃げ込んだのと好一対であった。

結局、ソ連崩壊後の1992年にドイツへ移送されたが、1993年の裁判では癌細胞を自らに移植することで病気と偽った上訴追免除され、娘ゾーニャの居るチリの首都であるサンティアゴへ事実上亡命した。1994年5月29日に肝臓癌により死去。テンプレート:没年齢

評価

ファイル:Peugeot 604 von Erich Honecker (IA-1000).jpg
ホーネッカーの公用車 プジョー・604 このような西側の高級車を使用していた。
ファイル:60cx11espsuperlimo.jpg
ホーネッカー公用車として使用していたシトロエン・CXリムジン

ベルリンの壁を越えようとした人々を射殺するよう命じたり、ソ連のペレストロイカが始まって以降も民衆の抗議行動を弾圧するなど、負の面の評価が多く存在する。

また多くの東ドイツ国民がプレハブ工法の無機質な高層集合住宅テンプレート:仮リンク)に住み、大衆車トラバントが10年以上待たないと手に入らないという生活を送っていた中で、ホーネッカーはベルリン郊外、テンプレート:仮リンクの森の中にあるプール付きの邸宅(テンプレート:仮リンク)に住み、3つの別荘や趣味の狩猟に使うためのレンジローバーメルセデス・ベンツといった多数の西側諸国高級車を所有するという[21]、いわゆるノーメンクラトゥーラ的な贅沢な暮らしをしていた。

共産党国家では、ルーマニア社会主義共和国ニコラエ・チャウシェスクとならぶ旧体制を象徴する存在で、もし健康を害していなければ当然法廷で責任を追及されたと見られている。その訴追裁判中止が決定されたとき、旧東ドイツでは抗議のデモが相次いだ。

ホーネッカーについて、ポーランド人民共和国末期の指導者だったヴォイチェフ・ヤルゼルスキは、「彼は東ドイツを冷酷非情に支配した。彼は独断家だった。だが私は、この男にダイナミックな側面をあるのを看て取っていた」「ある日、政治的会合の後で、彼は私に特注の酸素マシーンをくれた。彼のお抱え科学者が作ったもので、皮膚の再生を促し、健康を増進するという。眉唾だとは思ったが、一応自宅に持ち帰った。だが、実際に使ってみると、これが効果がある。ホーネッカーは、ちょうどこのマシーンのような男だ―最初は彼のことを眉唾だと思うかも知れないが、実際に試してみると、期待を裏切ることはない」と一定の評価を与えている[22]

家族

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R71089, Berlin, Rückkehr FDJ-Delegation aus Sowjetunion.jpg
ホーネッカーと前妻エディット・バウマン(1947年8月。右から2番目と3番目の人物)。なお、右端は後に国防相となるハインツ・ケスラー

1947年にFDJの活動家で年上のエディット・バウマンと結婚し一女をもうけた。しかしホーネッカーは1952年に人民議会最年少議員だったマルゴット・ファイストとの間に娘ゾーニャをもうけ、翌年エディットと離婚してマルゴットと結婚した。マルゴットは1963年に東ドイツの人民教育大臣に就任し、1978年には教会や父兄の反対を押し切って高校生に軍事教練を義務化する制度を導入した。1989年のホーネッカー失脚とともに彼女も辞任した。

ゾーニャはチリ人男性と結婚して一男をもうけ、そのためチリがホーネッカーの最期の地となった。マルゴット夫人は今もチリで存命しているが、ドイツの裁判所により60,300マルクを追徴され、年金が生活の糧になっている。2000年にはチリのジャーナリストによるインタビュー形式で回顧録を出版した。

表彰

訪日中の1981年5月、日本大学より名誉博士号。1985年、国際オリンピック委員会より金メダル勲章授与。カール・マルクス勲章受章5回。レーニン勲章受章。

語録

  • 「存在する理由がなくならない限り、(ベルリンの)壁は50年でも100年でもあり続けるだろう」(1989年1月19日の演説。その10ヶ月後に壁は崩壊した)
  • 「常に前へ、後退はありえない!」(決まり文句の標語)
  • 「もはや牡牛やロバでさえ、社会主義の発展を停めることはできない。」(1989年10月7日、建国40周年の際の演説。この11日後に失脚。1年後には東ドイツが解体されて西ドイツに編入された。)
  • 「未来は社会主義のものである。」(1980年代前半)

関連項目

脚注

  1. Hans-Ulrich Wehler, Deutsche Gesellschaftsgeschichte, Bd. 5: Bundesrepublik und DDR 1949–1950, C.H. Beck, München 2008, S. 218
  2. Martin Sabrow: Der unterschätzte Diktator. Der Spiegel, 20. August 2012, S. 46–48, hier S. 48
  3. Günter Schabowski, Der Absturz, Rowohlt, Berlin 1991, S. 115f
  4. 4.0 4.1 Protokoll der 45. Sitzung des Nationalen Verteidigungsrates der DDR, 3. Mai 1974
  5. 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P102
  6. 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P103-104
  7. zeit.de vom 19. Dezember 2008, Helmut Schmidt: Mein Treffen mit Honecker, Warum ich 1981 gern nach Schloss Hubertusstock gefahren bin Merkur online vom 19. Oktober 2009
  8. Das Treffen Kohl – Honecker in Bonn (07. bis 11. September 1987)
  9. Martin Sabrow: Der unterschätzte Diktator. Der Spiegel, 20. August 2012, S. 46–48, hier S. 48
  10. 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P5
  11. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P7
  12. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P10
  13. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8
  14. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9
  15. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P14-15
  16. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P15
  17. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P17
  18. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P18
  19. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P18-19
  20. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P27-28
  21. 伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』社会評論社、2009年 P51-52
  22. リッカルド・オリツィオ著、松田和也訳『独裁者の言い分 トーク・オブ・ザ・デビル』(柏書房 2003年)P133

外部リンク

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|style="width:30%"|先代:
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エゴン・クレンツ |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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エゴン・クレンツ

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