イワン・ツルゲーネフ

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テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox 作家 テンプレート:Wikisourcelang イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフテンプレート:Lang-ru1818年11月9日ユリウス暦10月28日) - 1883年9月3日(ユリウス暦:8月22日))は、19世紀ロシアの代表的な小説家の一人。ロシア帝国貴族

なお名前の表記は「ツルゲーネフ」の他、ロシア語の発音に近い「トゥルゲーネフ」という表記も用いられる。

概要

ロシア中部オリョールに、地主貴族の家庭の次男として生まれる。デカブリストの乱において、「テンプレート:仮リンク」(テンプレート:Lang-ru-short)を設立したテンプレート:仮リンクも同じ一族である。

15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じる。1838年から1841年までベルリン大学哲学や古典語を学ぶ。1843年、内務省に職を得るが翌年に辞す。1842年、批評家・ベリンスキーに会い、以後、親交を続けた。1843年、叙事詩『パラーシャ』(テンプレート:Lang-ru-short)を発表。その年、夫と子のあるオペラ歌手、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れし、彼女を追ってパリに移り住んだ。それ以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。

1847年から雑誌に発表された『猟人日記』(1852年)で、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで逮捕・投獄される。この作品はテンプレート:仮リンク1861年)に大きな役割を果たした。その後も、1854年の『テンプレート:仮リンク』でも地主のもとで使われる農奴たちの悲劇と精神の解放を描いている。

テンプレート:仮リンク』(1850年)や『テンプレート:仮リンク』(1856年)では、高い理想と教養をもちながらも現実に対しては無力ないわゆる「余計者」を描いた。その後も、政治社会的な問題を主題とした『テンプレート:仮リンク』(1859年)、『テンプレート:仮リンク』(1860年)、『処女地』(1877年)などを次々と発表し、社会論争を巻き起こした。理想主義的な父の世代と、唯物論的な子の世代の相克を描いた『父と子』(1862年)は、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられる。

自伝的な作品として『テンプレート:仮リンク』(1858年)、『初恋』(1860年)なども残している。

長く住んだパリで、西欧の作家・芸術家たちとの幅広い交友関係を築き、西欧へのロシア文学の紹介に大きな役割を果たした。1883年、パリ郊外のブージヴァルで没し、ペテルブルクでは国葬が営まれた。

日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳・紹介され、特に国木田独歩田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えた。

伝記

外部リンク