手取川の戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 手取川の戦い | |
---|---|
戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:(1577年11月3日) | |
場所:手取川 | |
結果:上杉軍の大勝 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 15px上杉軍 | 15px織田軍 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 上杉謙信 | 織田信長(第二軍団) 柴田勝家(第一軍団長)(滝川一益) (羽柴秀吉) (丹羽長秀) (斎藤利治) |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約90,000 | 柴田隊75,000テンプレート:要出典 信長隊120,000テンプレート:要出典 (戦闘に参加せず) |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | - | 40,000以上
溺死者数万 テンプレート:Battlebox/nested |
テンプレート:Tnavbar |
手取川の戦い(てとりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破したとされる合戦。
目次
経緯
この記事では新潟大学教授をつとめた井上鋭夫の「日本の武将35 上杉謙信」(1966年刊行、人物往来社)に従う。能登の七尾城では、天正2年7月に守護畠山義隆は殺害され、幼児義春が城主となっていた。
天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、2万余の軍を率いて侵攻した。これに対し当時の能登の領主能登畠山氏(当主幼年のため重臣の長続連が実権を掌握)は七尾城に籠城する。七尾城は北陸でも屈指の堅城だったため、戦いは翌年までもつれこんだ。天正5年(1577年)、関東で北条氏政が攻勢を強め、関東諸将から救援要請を受けた謙信は、春日山に一時撤退した。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城が落とされ、能登での戦況は悪化する。ここに至り謙信は反転を決意し同年閏7月、再び能登に侵攻した。
長続連は上杉軍に対抗するため、百姓や町人までも城内に収容していたが屎尿処理能力が追いつかず、城内各所で糞尿が放置される極めて不衛生な状態となり疫病が発生。当主畠山春王丸までもが病死するに至り、畠山軍は危機的状況に陥った。
続連は、かねてから誼を通じていた織田信長に救援を求めるべく、息子の長連龍を使者として安土城に派遣した。信長としても謙信の勢力拡大は望むところではなく、即座に援軍の派遣を決定し、柴田勝家を総大将に1万8000テンプレート:要出典の軍勢を先発させ、自らも3万テンプレート:要出典の軍勢を率いて出陣した。
ところが織田軍到着前の9月15日(10月26日)、以前より続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城した。
上杉軍 対 織田軍
柴田勝家率いる織田軍先発隊は七尾城落城を知らないまま進軍を続けたが、途中で以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉が、意見の対立から勝手に離陣するなど、すでに内部統制が乱れていた。
一方、織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城に入った。対して、勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、その途上、謙信直率の上杉軍に追撃される。渡河に手間取った上に、背後に川を挟む不利な配置だった事もあり上杉軍の騎馬隊に猛攻を受けてしまう。織田軍得意の鉄砲も豪雨の影響で火薬が濡れ使い物にならず、もはや戦う術を失っていた。結果、織田軍が1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫したとされる。
影響
この敗北の結果、柴田勝家らの有力武将は全員無事であったものの、信長は謙信の存在を恐れたという。
この勝利により、能登から加賀国の大半を支配下に置いて、対織田の優位を得た謙信は大動員令を発し、翌年3月に遠征を開始しようとした(信長打倒と上洛のため。あるいは北陸での優位を確保したことで、後顧の憂いなく関東に出陣し北条氏政を征伐するためとも。近年では関東出兵説が有力になりつつある)。しかし、その直前に謙信は病死。遠征は実現を見なかった。
大局的にはこの状況を受け松永久秀が信貴山城で反旗を翻している(信貴山城の戦い)。武田信玄の死後、劣勢に立たされていた信長包囲網の勢いは謙信の死まで一時的に盛り返した。
この合戦を詠った「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首が残されている[1]。「はねる」「とぶ」という言葉が、勢いに乗って追撃する上杉勢と、飛ぶように逃げ帰った織田勢の様子を表しているとされる。また、この落首には信長がその場に居たかのように記されているが、実際には本合戦に加わっていないため、厳密に言えば信長ではなく、織田軍の敗北といえる。
戦いの規模に関する議論
記録が少なく実像が不明確な事から、その帰趨(上杉軍大勝)や規模については議論がある(下記を参照)。 大日本史料では、手取川で合戦が行われ、織田軍が大敗したという記述は採用されていない。織田軍が撤退し、上杉軍が追撃したという記述である。
天正5年9月23日、上杉謙信、加賀湊川に出陣す、仍りて、信長の將柴田勝家等、兵を班す、是日、謙信、之を追撃す、歴代古案・笹生文書・原本信長記・北越軍記・越登賀三州志・常山紀談。
2012年1月現在、この合戦について記した史料は9月19日付けの上杉謙信の書状一通しか見つかっていない。信長公記には柴田勝家等の出陣の記述及び羽柴秀吉の帰陣の記述はあるものの合戦の記述はなく、長家家譜の「手取川の戦い」にあたる箇所では「七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したが、落城の報に接し、秀吉は戦わずして帰陣した」と記されている。
このため、この合戦は小規模なものだった、もしくは「手取川の戦い」というものは無かったとする説がある。
信長公記では手取川の合戦にあたる時期に柴田勝家を総大将とした滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤新五・氏家直昌・安藤守就・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・原長頼・金森長近および若狭衆による軍勢を加賀国に進ませ、御幸塚の城塞に佐久間盛政。大聖寺城に柴田勝家の手勢を入れ置いている。
長家家譜では手取川の合戦にあたる時期に柴田勝家を総大将とした滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・金森長近・長谷川秀一・徳山則秀・堀秀政による軍勢が水島(加賀国加賀郡)まで進み、上杉謙信の軍勢は松任(加賀国加賀郡)まで南下していることが記されている。
井上鋭夫の「一向一揆の研究」(吉川弘文館)では、天正5年9月25日(井上注あり)に謙信方についた刑部卿法眼下間頼廉が能美郡の旗本宇津呂丹波の内者であった堀才助宛に夜襲における感状を給付しているため、織田と上杉方の間で夜戦があったとしている。また、同じ井上の「日本の武将・上杉謙信」(昭和41年、人物往来社)では、謙信が越前丸岡城下坂井郡に進出したとしている。その後26日には七尾城に帰ったとしている。
「福井県史」では天正5年10月に入っても越前国で上杉方についた一向一揆衆と織田方との争いがあった事が紹介され、上杉方が加賀南部から越前までその勢力をのばしたものと推察している。
天正5年12月23日付けで謙信が作成した動員名簿[2]に加賀衆の藤丸新介(勝俊)の名前がある事、柴田勝家による魚津城攻めの際に、若林九郎左衛門など加賀衆が魚津篭城戦で奮戦している[3]事などから、この時期に上杉方が能登・加賀を掌握し、国人・一揆衆を被官化したことが確認できる。
一方、加賀の富塚荘を領した柴山氏が後に溝口秀勝に属して越後・新発田に随従しており、加賀の国侍の中にもなお織田に従う者がいたことがわかる(井上「一向一揆の研究」)。
天正6年4月23日 光明寺文書に、吉川元春、小早川隆景、加賀の一向一揆に、上杉謙信と和して、信長に抗せんことを勧む、という記述があり、上杉謙信と加賀一向一揆が対立しているのは明白であり、上杉方史料などに加賀国はおろか越前過半まで入手したとする記述には疑問がある。
満願寺所蔵松波義親肖像賛には、天正5年9月25日、能登珠洲郡の松波城將の松波義親、上杉謙信と戦ひて死す、という記述があり、能登国北部がまだ制圧されていないことがわかり、歴代古案の記述、9月17日には末森城を入手し能登国を制圧、さらに9月23日に織田軍を破り、加賀国をも制圧したとするには矛盾がある。
伊達家文書および建勲神社文書には、天正5年閏7月23日、信長、伊達輝宗及び其部下遠藤基信に、越後本庄繁長と謀り、上杉謙信を撃たんことを慫慂す、という記述があり、越後国北部の揚北衆が上杉家から独立していたことが伺え、越後一国を上杉謙信が完全に統一していたとは言い難い。
北徴遺文・下間頼廉の書状
今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。御感被思召候通、能々可申舌旨被仰出候。向後弥々可被抽忠節事
肝要候。恐々謹言。五月廿五日 頼介判 堀才介殿
北徴遺文文書目録では、年不詳・5月25日と掲載されているが、一向一揆の研究;井上 鋭夫(井上注釈)では、5月は9月の誤写であろうとして、年不詳を、天正5年に比定し、天正5年9月25日のこととしている。ただし、5月を9月の誤写とする根拠は何も示されておらず、同文書中の25日の5と5月の5は筆跡がまったく同じであり、下間頼純書状の9月と比較しても、5月と9月ははっきり、書き分けられており、編者の森田の書き写し間違いとする根拠は不明である。
石川県立図書館解説引用「北徴遺文」は、郷土歴史研究家の森田柿園(1823年 - 1908年)が、生涯を通じて、加賀・能登・越中三ヶ国の寺社・諸家に 伝来する文書を筆写した全10巻(冊)からなる文書集。中世前期から藩政期にかけての文書811点が書き写されており、それぞれに編者・森田による解説・推定年号・人物比定・史料所蔵先などが記されている。書体や虫食い、料紙の継ぎ目に至るまで忠実に模写されているものや、現在では原本が失われているものもあり、貴重な史料を数多く掲載する。
北徴遺文に収載の下間頼純・下間頼廉の書状の一覧
巻末の文書目録より。
番号 | 文書名 | 年 | 月日 | 差出所 | 宛所 | 交戦場所(文書中から抽出) |
---|---|---|---|---|---|---|
10001 | 下間頼純書状 | 天正8年 | 卯月朔日 | 侍従法橋頼純判 | 堀五兵衛殿 | 金沢表:石川県金沢市 |
10002 | 下間頼純書状 | 天正5年ヵ | 9月14日 | 侍従法橋頼純判 | 宇丹内堀才介殿 | 粟津口:石川県小松市 |
10003 | 下間頼廉書状 | 年不詳 650 | 5月25日 | 頼介(廉)判 | 堀才介殿 | 交戦場所不明記載ナシ |
10004 | 下間頼廉書状 | 天正5年ヵ | 12月8日 | 刑部卿法眼頼介(廉)判 | 堀五兵衛殿 | 塩浜:加賀江沼郡大聖寺近く |
10005 | 下間頼廉書状 | 天正5年ヵ | 12月8日 | 刑部卿法眼頼介(廉)判 | 堀五兵衛殿 | 串村:加賀能美郡・小松市 |
- 交戦相手は文書中に一切記載がない。
- 10003-10005の下間頼廉書状は、いずれも夜討ちの記述あり。
参考文献
脚注
手取川の戦いを取り上げたメディア
- NHK『その時歴史が動いた』の「謙信恐るべし」(平成19年7月18日放映、平成19年7月24日アンコール再放送)にて、CGによる再現図を交えながら検証された。
- NHK大河ドラマ『武田信玄』の最終盤、信玄の死後の話が語られる部分で、謙信の猛攻に恐れをなして退却する信長が描かれている。
- NHK大河ドラマ『天地人』では、大量の鉄砲を揃えて北上してくる織田軍に対して、上杉軍が鉄砲が使えなくなる雨天に乗じて奇襲をかけ、大勝したシーンが描かれている。