長連龍

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テンプレート:基礎情報 武士 長 連龍(ちょう つらたつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将織田家家臣。後に前田家の家臣。

畠山家の滅亡と同時に長家も一時的に滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たす。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せた[1]

生涯

能登畠山家の時代

天文15年(1546年)8月15日、能登畠山氏の家臣・長続連の次男[1]として生まれる。幼名は萬松

臨済宗となり、宗先を称して孝恩寺の住職になった。天正5年(1577年)に上杉謙信の侵攻を受けて畠山氏の居城・七尾城を上杉軍に取り囲まれると、父の命で密かに織田信長のもとへ援軍要請に赴く[1][2]。しかし、援軍が到着する前に城内での裏切りにより長一族が遊佐続光温井景隆らに殺されたため、一族の中で生き残る(七尾城の戦い)。

織田家の時代

畠山家滅亡後、信長に仕える。還俗して好連を名乗り、自ら兵500を集めて穴水城を奪取。上杉家臣の当時七尾城主であった鯵坂長実や織田家に属した神保氏張らと結び、遊佐氏らに対抗する。仇である遊佐らと戦を繰り返し、神保氏張らと共に能登越中を転戦。遊佐・温井らによって七尾城の鯵坂が追放されると、柴田勝家に近づき、前田利家・佐久間盛政らとともに遊佐・温井らを攻め、逐電した遊佐を追撃し、討ち取ることに成功する。能登が前田利家に与えられると土肥親真らと共にその与力となった[2]

天正8年(1580年)1月10日、連龍に改名する。同年、信長から所領を安堵された[2]

天正10年(1582年)の柴田勢による魚津城攻めにも従軍。一族の長景連が上杉方に属したため、これを撃破している。

加賀前田家の時代

6月2日の本能寺の変後は利家の家臣となる。同年の石動山の戦いに参加し、その戦功により能登国内で3万1000石を与えられた[2]

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参加して前田軍の殿軍を務め、この際に連龍の家臣30名余が討死している[2]。天正12年(1584年)の佐々成政による末森城攻めでは利家の救援軍に属して華々しい活躍をあげ[2]、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。ただし、末森城の合戦に連龍は実際には参加しておらず、合戦後に危険を顧みずに駆けつけた点を利家から賞されている[2]

その後も小田原征伐朝鮮出兵に参陣し、伏見城築城や宇治川の土木工事などにも参加し、いずれも功を挙げた[2]

慶長4年(1599年)に利家が死去すると後継者の利長に仕え、翌年の関ヶ原の戦いでは北陸で丹羽長重と戦い、浅井畷の戦いでは敗れながらも奮戦した[2]

慶長11年(1606年)に家督を長子の好連に譲り隠居したが、慶長16年(1611年)に好連が早世すると再び当主の座に復帰し、大坂の役にも従軍した[2]。これらの功績の数々から加増も受けて、長家は最終的に3万3000石の大身となる[2]

元和5年(1619年)2月3日、能登田鶴浜(現七尾市)にて死去。享年74(満72歳没)。家督は次男の連頼が継いだ。以降、子孫は加賀前田家家老として3万3,000石を領した。

人物像

利家は死去する直前に利長に遺書を与えているが、その中で連龍と高山右近は役に立つ人材であると評している[2]。また連龍は前田家の主君だった信長に仕えて所領安堵をうけていたため、他の前田家臣と違って知行の面では独立大名のような強い権限を保持しており、加賀藩の中では「八家」と称される最上級の重臣となった[2]

脚注

注釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
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  1. 1.0 1.1 1.2 川口素生『戦国軍師人名事典』P68
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 川口素生『戦国軍師人名事典』P69