丸岡城

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丸岡城(まるおかじょう)は、福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名霞ヶ城江戸時代には丸岡藩の藩庁となった。

概要

福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市興善寺および、あわら市蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。

「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。

歴史・沿革

安土桃山時代・江戸時代

近現代

天守

北陸地方では丸岡城の天守のみが現存している。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている。現在、見られる天守は、昭和23年(1948年)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年(1955年)に部材を組みなおして修復再建されたのである。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓に改変されている。

独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。[3]

天守内の階段は急なため観光用の補助縄が取り付けられている[4]

天守の建造年

天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされることがあるが、それについて犬山城天守との論争がある。柴田勝豊の建造である場合、1576年(天正4年)となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、1596年(慶長元年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もある。[5]

伝説

  • 人柱お静
    丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった。城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。現在城内にはお静の慰霊碑が残っている。

現地情報

所在地

  • 福井県坂井市丸岡町霞町1-59

交通アクセス

イベント

  • 日本100名城スタンプ設置場所
    一筆啓上茶屋(霞ヶ城公園内)

舞台となった作品

※発表順

映画

脚注

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関連項目

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外部リンク

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  1. ”鬼作左”の渾名で知られる本多重次の嫡子
  2. 丸岡城天守に関して「福井地震により倒壊したため、国宝から重要文化財に格下げされた」という説は誤りである。旧法である国宝保存法に規定する「国宝」(旧国宝)は、現行法である文化財保護法(1950年8月29日施行)に規定する「重要文化財」に相当するものであり(同法附則第3条参照)、「国宝」から「重要文化財」へ「格下げ」されたわけではない。
  3. 同時期に現・福井市に築城された北の庄城も同様の石葺であったと伝わる。
  4. 坂井市丸岡観光協会公式サイト
  5. 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社 2007年(ISBN 978-4-05-604634-2)
  6. テンプレート:Cite journal