稲葉良通

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テンプレート:基礎情報 武士 稲葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

土岐氏斎藤道三から斎藤氏3代、織田信長豊臣秀吉に仕える。美濃国曽根城主で、安藤守就氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称され、特に稲葉良通は三人衆筆頭とされた。[1]

号は一鉄(いってつ)。これが「一徹」という言葉の語源である説が有力。[2])父は稲葉通則で6男。母は国枝正助の娘、または一色義遠の娘。姉は初めに土岐頼芸に、後に斎藤道三に嫁いだ深芳野。正室は三条西実枝の娘。子に稲葉貞通(臼杵藩祖)、稲葉重通(佐倉藩祖)ほか。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(ふく)の外祖父にあたり、養祖父でもある。

生涯

出自・家督相続

一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族・河野氏の一族で、彼の時代に美濃に流れて土豪になったとされている。また、安藤氏と同族で伊賀氏の末裔とされることもある。

永正12年(1515年)、美濃の国人である稲葉通則の六男として、美濃国池田郡本郷城に生まれる。幼少時に崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の元で学んでいたが、大永5年(1525年)に父と兄たちが牧田の戦い浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して塩塵と叔父・稲葉忠通の後見のもとに家督曽根城を継いだ。

土岐・斎藤氏時代

はじめ土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の1人として活躍する。利政とその子の斎藤義龍の争いである長良川の戦いにおいては、義龍に味方した。なお、姉の深芳野は、最初は頼芸の側室であったが利政に譲られ、義龍を産んでいる[3]

美濃攻略を目指し、道三の娘婿でもある織田信長は、尾張を統一し、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦い今川義元を敗死させると、再び機会を伺っていた。義龍が病死し、斎藤龍興が跡を継ぐと本格化させる。それに対し、同4年(1561年)森部の戦い、同5年(1562年)軽海の戦いなどで活躍した。

しかし、同6年(1563年)に他の西美濃三人衆と共に龍興に諫言するものの聞き入れられず、それは翌年の三人衆の1人、安藤守就による龍興の稲葉山城占拠に繋がる。一度は和解となったものの、同10年(1567年)に三人衆は信長へ内応し、龍興の稲葉山城の戦いでの美濃からの敗走を決定的にした。以後、信長に従う。

織田信長時代

永禄11年(1568年)、信長の上洛に第1隊として従い、和田山城を包囲(観音寺城の戦い)。同12年(1569年)の伊勢大河内城の戦い元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いに加わり、近江金森城の守将として一向一揆勢を退け、姉川の戦いでは徳川家康と共に戦功を挙げた。一鉄の号の初見はこの後の頃である[4]

その後も、摂津野田城・福島城の戦いにおいて「楼岸(ろうのきし)の砦」に滞陣ののち殿軍を指揮、近江志賀の陣では軍使も務め、伊勢長島攻め)、同3年(1572年)に摂津(交野城後詰め)、同4年(1573年)山城槇島城の戦い一方の先鋒)、天正元年(同年)越前一乗谷城の戦い朝倉義景を追い詰める)など各地に転戦して武功を発揮したことから、美濃清水城を新たに与えられた。

天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻め、同3年(1575年)の長篠の戦い越前一向一揆攻め、美濃岩村城攻め、同4年(1576年天王寺の戦い、同5年(1577年)紀州征伐加賀一向一揆攻め、播磨神吉城攻め、有岡城の戦い(兵糧攻めに切り替えた後には織田信孝の副将として安土城留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。

天正7年(1579年)、家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る。天正10年(1582年)、武田攻めより凱旋した信長を、領内の呂久の渡しにて饗応する。

本能寺の変

天正10年(1582年)に明智光秀が本能寺の変を起こし信長を死去させると、一鉄は美濃国人衆に呼びかけて岐阜城に甥の斎藤利堯[5](斎藤道三の4男)を擁立し、光秀に対して独立を保とうと画策する。かつて信長に追放され、稲葉領内に滞在していた安藤守就の一族が、復権を目指して光秀と手を組み、旧領の北方城を奪還し、本田城を攻撃してきたため戦い、討ち果たした。中央では光秀が山崎の戦いで早々に討たれたが、信長の死で統制を失った美濃では諸将の衝突が頻発することになった。一鉄は娘婿である揖斐城主・堀池半之丞と戦い、その領地を支配下に置いた。

豊臣秀吉時代

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月桂院の墓所(岐阜県揖斐郡揖斐川町)

清洲会議の後、信孝が岐阜城を相続し、美濃は支配下に置かれるはずだったが、一鉄は信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは、信孝から城下の焼き討ちを受けている。柴田勝家方の不破氏西保城を攻めた。

新たに岐阜城主となった池田恒興とは、恒興が大垣城主の頃からも境界線についての抗争があったが、仲介に当たった秀吉から、4万貫の領地が安堵されている。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも参加し、武功を挙げた。(前哨戦である小牧の戦いで岩崎山の砦を守備したのが最後に戦場に出た記録で、以後、前線には出ていない)

天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、法印に叙され「三位法印」と称した。同15年(1587年)、「島津攻め」から凱旋してきた秀吉を、西宮に出迎え、大坂城山里丸の茶室に招かれる。天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去。享年74。後を子の稲葉貞通が継いだ。

逸話

本能寺の変との関わり

  • 明智光秀の重臣である斎藤利三(春日局(ふく)の父)の義父で旧主であったが、元亀元年1570年に利三は明智光秀に転仕した。天正10年(1582年)に利三を介して更に那波直治を引き抜かれると、稲葉家は訴訟を起こすこととなった。信長は返すように命じたが、光秀がこれを容れなかったため髷を掴み突き飛ばした。直治を戻し、利三に切腹を命じる裁定を、変の4日前となる天正10年(1582年)5月27日付けで下している(『稲葉家文書』『日本外史』)。

人物・その他

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  • 茶道を好み、天文24年(1555年)に志野宗温より名香帖を授与され、永禄元年(1558年)には志野省巴より目録を伝授された。
  • 姉川の戦いの時、1,000の兵を率いて先陣を務めた。開戦前、織田信長徳川家康に「我が手の者なら連れて行きなされ」と気前よく言ったが、家康はそれを拒絶。再度の信長の申し入れに、そこで家康は一鉄一人を指名している。これは織田家中でも評判になり皆が一鉄を羨んだ(『名将言行録』)。徳川勢は朝倉勢を圧したが、織田勢は浅井勢に圧されたので、一鉄が駆けつけ浅井勢の右翼を崩し危急を救ったという。
  • 姉川の戦いの後、信長は朝通(一鉄)を勲功第一として賞し、偏諱授与により長通と名乗るように命じたが、朝通は勲功第一は家康であると偏諱と共に拒否したという。なお、入道号である一鉄が用いられるようになった事が確認されるのは、この後の大徳寺御納所宛ての書状からである。
  • 天正元年(1573年)の長島一向一揆との戦いにおいて、追撃する一揆勢に殿軍の林通政が討死する危急の中、「捨てかまり」と呼ばれる伏兵策を用いて功を挙げた(カマリとは斥候兵の事)。
  • 天正2年(1574年)、一鉄のことを信長に讒言する者があった。これを信じた信長は一鉄を殺そうとして茶会に招いたが、一鉄が床にかけられた禅僧の虚堂智愚の墨蹟『送茂侍者』を読み下しながら自己の無実を述べたので、信長は学識の高さに感嘆すると共に無罪を信じたと言う『寛政重修諸家譜』の逸話は有名である。(『名将言行録』では、類似の逸話で掛軸の画賛の韓退之の詩「左遷至藍關示姪孫湘」を読んでみせている。[6])。『名将言行録』では、信長が一鉄に感嘆し、「あまりにも感激したので真実を話そう。実は今日貴殿を討ち果たすつもりで、供侍たちに暗殺を命じていた。だから、供侍は全員懐剣を忍ばさせている。これからは貴殿を害することはない。わしに従い謀りごとを献じてくれ」といったところ、一鉄は「死罪を助けて頂き有り難うございます。拙者も実は暗殺されると思いましたので一人ぐらいは道連れにしようと思っておりました。実は拙者も懐剣を持っております」と懐剣を見せたので、信長は益々感激したという。これは一鉄が武勇だけでなく、文才・謀略にも優れていたことを示すものである。
  • 家督を嫡男に譲り、剃髪して一鉄似斎と号したが、勝手に出家した無礼を信長に咎められる。しばらく謹慎していたが、その付近で信長が馬の調練を行った際に挨拶に出向くと和解となった。
  • 歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを多く伝えている。
  • 戦略に長け勢いにも乗る武田勢との長篠の戦いにおいて、一鉄は朱槍朱具足で味方を鼓舞し、また早急軽率の忌避を戒め、御堂山の織田信雄に属して奮戦した。これを信長は今弁慶と賞賛した。
  • 頑固な一面があり、そのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされている。
  • 雑賀孫市兄弟を降伏させたのは稲葉一鉄だという説がある。『名将言行録』によれば、雑賀孫市は信長からの最初の降伏勧告の使節はふんぞり返った態度で豪華ないでたちだったので暗殺を恐れて皆殺しにしたが、次に来た稲葉一鉄の飾らない態度、条理を尽くした説得、大身の武家にもかかわらずふんどしが木綿で、質実剛健であることに感激し、信長に降伏したという。信長は大笑いし、更に感激したという。
  • 信長の武田攻めの際に、放浪の末に武田領内に寓居し、失明していた旧主の土岐頼芸が発見される。一鉄の働きかけにより美濃への帰還が叶い、余命の半年間を過ごした。
  • 信長が存命だった美濃三人衆時代もそうであったが、非常に独立意識の高い人物で清洲会議後に美濃の領有が織田信孝に認められた際も、信孝死後に美濃が池田恒興に与えられた際も、独立勢力として立場を保ち、彼らの従属的立場には入っていない。
  • 以下の話は『武家事紀』『享禄以来年代記』『美濃国諸旧記』などに記録されている。
    • あるとき、敵の間者が捕縛されて引き出された。家臣は処刑を主張したが、一鉄が間者を見ると若かったので不憫に思い、腹を減らしているようなので縄目を解いて部屋に上げて食事の用意をした。食事を与えた後、自分を含めた美濃の武将が領土と家名を守るため如何に苦難しているかを聞かせ、自分の陣中を見せて金銭を与えて釈放した。後にその間者は一鉄の恩義に報いるために稲葉家の足軽となり、姉川合戦で奮戦して戦死したという。
    • 紀州征伐の折、信長は雑賀兄弟を説いて降伏させようとした。しかし最初に出した配下は帰って来なかった。次に一鉄を向かわせると兄弟は降伏してきた。問いただすと、「最初の使者は尊大で横柄な態度だったので殺したが、一鉄は威儀を正して丁寧で、義理が明白で、武士の気風も立派だったので感じいった。」と答えた。
    • 一鉄は外出するとき、いつも小銭を入れた銭袋を腰に帯び、僧侶や修験者に会うたびに銭を与えた。家臣がそのことを尋ねると、「我が家祖の塩塵(通貞)は飢えながら諸国を遍歴していた。一飯の銭が相手を、そして自分を助けることになる」と語ったという。あるときは敵の間者が僧侶に化けていたこともあったが、一鉄はいつものように銭を与えた。間者はそのため、一鉄を「誠の仁者」であると主君に報告したという。

脚注・出典

  1. テンプレート:Cite web
  2. 『名将言行録』には、「貞通人となり敢決強直。ゆえに世人、敢決強直なる人を呼びて一鉄という。」とある。テンプレート:Cite web
  3. 『美濃国諸家系譜』
  4. 『大徳寺文書』
  5. 『勢州軍記』
  6. テンプレート:Cite web

関連小説など

関連項目

先代:
稲葉通則
稲葉氏当主
1525年 - 1579年
次代:
稲葉貞通
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