あどりぶランド
『あどりぶランド』は、1984年1月25日から1998年3月18日まで毎日放送(MBSテレビ)で放送された同局アナウンサーの企画・出演によるバラエティ番組。番組内ではしばしば、“あどラン”の略称で呼ばれていた。
目次
概要
日本の放送局で初めて、正社員のアナウンサーが全員レギュラーで出演した番組。毎日放送(以下「MBS」と略記)アナウンサー室所属のアナウンサーに話題の現場を取材させたり、コントや時代劇などの企画に挑戦させたりしたほか、ひな壇席に座ったアナウンサー全員で1人のゲストに次々と質問を投げ掛ける「よってたかってインタビュー」を毎週放送していた。
放送開始から6年9か月間は、水曜日の放送直前[1]に毎日放送千里丘放送センターで収録。毎日放送の本社機能が同施設から大阪市北区茶屋町にある現在の社屋へ移転したのを機に、1990年10月3日放送分から最終回までは、茶屋町本社のギャラクシーホール(現・ギャラクシースタジオ)で収録していた。
ちなみに、新人アナウンサーを採用した年には、当番組で自己紹介やレギュラー出演の機会を設けていた。また、MBSのアナウンサー室にアノンシスト賞をもたらすほどの企画(後述)を輩出したほか、初期には報道系のアナウンサーによるジャーナリスティックな企画も随時放送。阪神・淡路大震災(1995年1月17日・火曜日)の翌日には、当初の放送予定を変更したうえで、全編にわたって生放送で震災関連情報を伝えた[2]。
当番組はMBS以外にも、関連会社のGAORAでMBSから2~3か月遅れて放送。MBSのサービスエリアである関西地方以外でも、CS放送を受信できる環境にあれば視聴できるようになっていた[3]。MBSラジオでも、ナイターオフ期間に関連番組として『ラジオあどりぶランド』『ラジオであどラン歌謡曲』を放送。1986年には八曜社から『This is MBS こちらあどりぶランド』、1988年にはシンコーミュージックから『まるのまんま あどりぶランド』、1993年には放送10周年記念として『マイクもたずにあどりぶランド』がそれぞれ刊行された(いずれも現在は絶版)。
放送時間
テンプレート:節stub 時刻はいずれもJST、毎日放送での放送時間。GAORAでの放送時間は不明。
- 水曜 23:35 - 24:35 (1984年1月 - 1986年3月)
- 水曜 23:45 - 24:45 (1986年4月 - 1986年9月)
- 水曜 23:50 - 24:50 (1986年9月 - 1987年10月)
- 水曜 23:50 - 25:15 (1987年11月 - 1989年4月)
- 水曜 23:50 - 24:50 (1989年5月 - 不明)
- 水曜 23:50 - 25:15 (不明 - 1992年9月)
- 水曜 23:50 - 24:50 (1992年10月 - 1997年9月) - 『テレビのツボ』の放送開始に伴い、放送枠が60分に縮小。
- 水曜 23:55 - 24:55 (1997年10月 - 1998年3月) - 『筑紫哲也 NEWS23』第1部の放送枠拡大に伴い、以後は5分繰り下げて放送。
主な放送内容
レギュラー企画
- よってたかってインタビュー
- オープニングの直後に放送されていたゲストコーナーで、ひな壇に座る他のアナウンサーたちが進行役からの指名を受け、ゲストへ矢継ぎ早に質問するというものだった。進行役はアナウンサーたちが週替わりで担当。初期には、『アップダウンクイズ』(当時のアナウンサー室長・小池清が長年司会を担当)の「シルエットクイズ」にちなんで、ゲストが登場する前にそのシルエットからゲストを当てさせるクイズも実施していた。
- 現在MBSテレビで放送中のローカル情報番組『ちちんぷいぷい』では、この番組にアナウンサーの1人として出演していた角淳一が初代の総合司会を務めていた時期に、2度にわたって生放送の中で当企画を復活させている。
- 2006年1月1日に放送された特別番組『角淳一の大大大正月2006』では、堀江貴文(出演当時はライブドア代表取締役社長兼CEO)を中継先(当日開店したばかりのライブドアオート大阪南港店)から毎日放送のスタジオへ迎えたうえで、番組の途中に角の後輩アナウンサー・上泉雄一の進行による「よってたかってインタビュー」を実施。総合司会の角・宮根誠司に加えて、当日のゲスト(松浦亜弥、桂ざこば、なるみ、ロザン、未知やすえ、トミーズ健)がインタビュアーを務めていた。ちなみに堀江は、同番組へのテレビ出演を最後に、同月23日に証券取引法違反の容疑で逮捕された。
- 角が『ちちんぷいぷい』を卒業する2011年9月30日(金曜日)の放送中には、「角淳一によってたかってインタビュー」を実施した。インタビュアーを務めたのは、同番組の主なレギュラー出演者(桂南光と未知やすえは公演先からの中継で出演)。角とともに総合司会を担当してきたアナウンサーの西靖が進行したほか、質問の機会はなかったものの、インタビュアー席には同番組でアシスタントやコーナーレギュラーを務めるアナウンサー(山中真・河田直也・大吉洋平・吉竹史など)も座っていた。このインタビューのオープニングでは、角が『あどりぶランド』時代の「よってたかってインタビュー」のエピソードを披露。放送当時のアナウンサーでただ1人小池が「インタビューゲスト」として登場した際に、進行役を務めていたことを明かしている。
- あどランタイムズ
- 番組末期に放送されていた5分程度のコーナーで、1名のアナウンサーが週替わりで登場。特技を披露したり、自身のこだわっていることを語ったりしていた。
シリーズ企画
- なんでも実況
- スポーツアナウンサーの結城哲郎(後のアナウンサー室長、現在はGAORAへ出向中)が考案したコーナーで、アナウンサーたちが様々な現場へ赴いては実況に挑戦した。
- 1984年5月23日の放送では、競馬実況で知られた蜂谷薫が、5日後に控えていた日本ダービーの架空実況を披露。出走予定の18頭の馬名を実況にすべて織り込んだばかりか、結果として、シンボリルドルフの1着やレース展開を的中させた。[4]
- 1991年には、スポーツアナウンサーの井上光央・馬野雅行・田丸一男が、当時琵琶湖の畔に建っていた通称「幽霊ビル」の爆破解体の模様を実況。当時NHK大津放送局から移籍したばかりの田丸の絶叫振りが、後々まで話題になった。
- 激突シリーズ
- 「新人類vs旧人類」など、意見が二分されやすいテーマに基づく討論・対決企画。
- あどりぶサロン
- 前出の「よってたかってインタビュー」とは別に、少数のアナウンサーが著名人(夫婦)にインタビューを実施していた。
- ハジソン博士の○学
- 近藤光史扮する「ハジソン博士」と、近藤の1年先輩・松井昭憲演じる弟子の「ハジゴロウ」による実験・雑学講座で、1985年7月31日から不定期で放送。白衣姿の2人による軽妙なやり取りで人気を博した。扱ったテーマは、「蚊」「字が10倍うまくなる方法」「コンピューター」「放射能」「半導体」など[5]。
- あどランKING TOP10
- 時代劇企画
- 小池の後任のアナウンサー室長・藤本永治が「本格的な鞍馬天狗の扮装で立ち回りをやりたい」という要望を出したことをきっかけに、黒田義之監督に10分程の短編時代劇「鞍馬天狗」の制作を依頼。以降も年に1回のペースで、アナウンサー総動員の本格的時代劇を制作・放送した。
- 第一回 1985年12月11日「忠臣蔵」 - 松の廊下、一力茶屋、吉良邸討ち入りの3部構成。
- 第二回 1986年12月24日「新撰組」 - 新撰組の成立から、流山における近藤勇と土方歳三の別れまでを描いた正統派時代劇。
- 第三回 1988年1月20日「水戸光圀」 - 京都ロケを敢行。角がユニークな水戸黄門を演じた[6]。
- 第四回 1989年1月4日「N・U(ヌウ)」 - 杉田玄白と某キャラクターの様な宇宙人との触れ合いを描いたSF時代劇。
- 第五回 1990年1月3日「お祭り提灯」 - 松竹新喜劇の藤山寛美に指導を仰いだ本格的舞台喜劇。
- 第六回 1991年1月2日「大評判ひつじ長屋」 - 当番組のファンだった舞台作家・香川登枝緒書き下ろしの喜劇。
- 第七回 1994年1月5日「高津の富くじ」 - 再び松竹新喜劇の協力を得て制作した時代劇で、シリーズ最終作。
アナウンサーの挑戦企画
- 鯖街道七十五キロメートル
- 1986年10月29日放送。蜂谷・高村昭・三好俊行が、徒歩だけによる鯖街道(総距離約75km)の完全踏破に挑戦。全員無事に歩き切った[7]。
- グアムマラソン涙の完走
- 結城の提案をきっかけに実現した企画で、1987年6月3日放送。アナウンサー室の予選に勝ち残った蜂谷・結城・阪本時彦・水谷勝海・今野秀隆・青木和雄が、駅伝形式でグアムマラソンに挑戦した。蜂谷(1区:7.95km)→結城(2区:11.35km)→阪本(3区:4.175km)→水谷(4区:4.175km)→今野(5区:11.35km)→青木(3.195km)の順に襷をつないだ結果、出場22チーム中15位(合計タイム3時間44分43秒)で完走[8]。
- 新人アナウンサーの挑戦企画
- 番組の放送期間中にMBSへ入社したアナウンサーが主体の企画。新人研修の模様や、インタビューの研修企画などを放送していた。
- 1992年に入社した上泉雄一と武川智美(いずれも現役アナウンサー)は、入社1年目に横山たかし・ひろしへ弟子入り。漫才の稽古を重ねた末に、当時存在していた松竹芸能の演芸場「浪花座」で、一般客を前にコンビ漫才を披露した。
特別企画
アノンシスト賞受賞企画
- 旧札vs新札
- MBSアナウンサー室が1984年度アノンシスト賞でグランダ・プレミオ(大賞)を受賞した討論企画で、同年10月17日に放送。「肖像画が日本の紙幣に使われた著名人6名を現代に蘇らせる」との想定の下に、著名人に扮した藤本・青木・角・野村啓司・板倉俊彦・近藤光史・鎌田正明が、「旧札」と「新札」に分かれたうえでアドリブを交えながら論戦を展開した。ちなみに、藤本は聖徳太子、角は岩倉具視、近藤は伊藤博文を演じていた[9]。
- あどラン実験劇場 邦楽とセッション
- MBSアナウンサー室が1986年度アノンシスト賞でテレビ番組部門最優秀賞)を受賞した三番勝負企画で、同年8月6日に放送。斎藤努による進行の下で、鼓奏者の藤舎呂悦と和笛奏者の藤舎推峰を相手に、高村・蜂谷・高梨欣也が得意分野のアナウンスメントで和笛・鼓とのセッションに挑んだ。ちなみに、蜂谷は架空競馬実況、高梨は架空のニュース原稿読み、高村は『平家物語』那須与一の段の朗読を披露。それぞれのアナウンスメントの合間に、和笛や鼓が鳴らされる趣向になっていた[10]。
その他
- 秋深し…アナ大喜利
- 藤本の司会で、高梨、角、野村、板倉などが参加した。
- 人気芸人の新ネタ披露
- 角と野村の司会で、やすしきよしなどをゲストに迎えた。角と野村が、前座扱いで漫才を披露したこともある。
テーマ曲
- 最初期には、フュージョン・バンドメゾフォルテの「ガーデン・パーティ」をテーマ曲に用いていた。
- 1992年1月から使われていたCM前のジングルは、キダ・タローの作曲に高梨、平松邦夫、来栖正之、千葉猛、水野晶子、関岡香、岩城潤子、高井美紀のコーラスを配したものである。
- 制作当初、このジングルに「よみうりテレビのスポットCMに使う曲と酷似している」という指摘があり、番組がそれを逆手にとって『MBSナウ』を模した、一放送回分にわたるパロディ映像を作って放送したことがある。キャスター役に平松邦夫(当時の『MBSナウ』キャスター)を持ってくるなどして、それだけ一見すれば本物の『MBSナウ』と勘違いしてしまうほど精巧であったが、よく見るとかなりのお遊び要素を含んだ、明らかなパロディであった。
- オープニングに流れるテーマソングが一世代前(平松がニュース原稿を読む場面のセットと明らかに世代が合わない)。
- オープニングの提供スポンサーが全て、キダがCMソングを手掛けた企業である。
- キダが病院から連行されるシーンで使用されている検察の車が、明らかにタクシーである(ガラスに料金が書いてある)。
- 裁判のシーンに登場する弁護士を、角が演じていた。また、当番組と同じ放送枠で火曜日に放送されていた『新・たかじんが来るぞ』から、新野新とやしきたかじんが証言者として登場していた。
- 制作当初、このジングルに「よみうりテレビのスポットCMに使う曲と酷似している」という指摘があり、番組がそれを逆手にとって『MBSナウ』を模した、一放送回分にわたるパロディ映像を作って放送したことがある。キャスター役に平松邦夫(当時の『MBSナウ』キャスター)を持ってくるなどして、それだけ一見すれば本物の『MBSナウ』と勘違いしてしまうほど精巧であったが、よく見るとかなりのお遊び要素を含んだ、明らかなパロディであった。
- エンディングテーマには、パティ・ペイジの「Hush, Hush, Sweet Charlotte」を採用。この曲をBGMに、放送日までの1週間のニュースを映像で振り返るエンディングがこの番組の名物の1つになっていた。
スタッフ
- 企画 - 毎日放送アナウンサー室
- 構成 - 水野重之、越坂哲司 → 藤田智信 → 東野ひろあき
- 演出 - 渡辺高志 → 小川智 → 高垣伸博 → 田渕伸一
- プロデューサー - 牧ひろし → 柳川正邦 → 安田公一 → 斎藤努
- 制作協力 - 大阪東通(現・関西東通)、東通企画、Express ほか
- 製作著作 - 毎日放送
補足
番組開始までの経緯
MBSラジオでは1979年12月30日に、近藤・松井コンビの司会で『毎日放送アナウンサー全員集合』という特別番組が放送された。1983年5月に毎日放送の社内でテレビ番組の企画を募集した際に、期限の1週間前になってもアナウンサー室から全く企画が出ていないことを憂慮した小池室長の依頼で、近藤と斎藤がアナウンサー総出演の番組を構想。近藤・斎藤が夜を徹して企画を練り上げたうえで、「アナウンサー室の企画」として提出したところ、正式に採用された。その意味で、『毎日放送アナウンサー全員集合』はこの番組のパイロット版と言える[11]。
企画の採用当初は、1983年10月からの放送を目指していた。しかし、「(採用決定から実質1か月しかない状況では)準備期間が少なすぎる」との理由で、結局は放送開始を翌1984年1月にまで延期した。近藤によれば、当時アナウンサー室に所属していたアナウンサー全員から出演の承諾を得るまでに、1か月ほどの時間を要したという[12]。ちなみに、番組タイトルの名付け親は青木である。
最終回
当番組は、1998年3月で、14年3か月間にわたる放送に幕を閉じた。最終回では放送時間を2時間に拡大したうえで、番組放送開始時の最年少アナウンサーだった柏木宏之(1984年入社)と、番組終了時の最年少アナウンサーだった中村香奈(1997年入社、現在は他の部署へ異動)が進行を担当。出演者全員で過去のVTRを見ながら、番組の歴史を振り返った。
放送終了後
2014年4月7日にMBSテレビで放送した『痛快!明石家電視台』の収録(同年3月17日)には、当時毎日放送に在籍していた36名のアナウンサーのうち、(収録時点で同番組アシスタントの松本麻衣子を含む)26名が集結した。当番組の放送終了後に、同局のアナウンサーが同じ番組にほぼ全員出演するのは、テレビ・ラジオを通じてこの収録が初めてである。当番組への出演経験があるアナウンサーからは、前述の上泉・武川(同番組の元アシスタント)に加えて、加藤康裕・馬野雅行・来栖正之・亀井希生・西靖・近藤亨・関岡香・高井美紀・古川圭子・松井愛が収録に参加した。
脚注
- ↑ 同日のMBSナウで中継に行っていたアナウンサーが急いでスタジオ入りする事もあった。
- ↑ ただし、当日の「よってたかってインタビュー」に登場する予定だった西本聖も出演していた。
- ↑ ただし当番組では、GAORAが開局する前の1985年7・8月にも、2回にわたって「一番遠い『あどラン』ファン見てますか」という遠距離受信調査企画を放送していた(『まるのまんま あどりぶランド』に所収の資料「『あどりぶランド』二百回大年表」より)。
- ↑ 定年退職後の蜂谷をゲストに迎えて2012年2月28日にMBSラジオで放送された『ノムラでノムラだ♪ EXトラ!』(野村がパーソナリティを務める生放送番組)での発言より。
- ↑ 『まるのまんま あどりぶランド』に所収の資料「『あどりぶランド』二百回大年表」より
- ↑ ちなみに角は、『ちちんぷいぷい』の企画で、2006年3月13日にMBSを含むTBS系列局で放送の『水戸黄門』に客の役で1シーンだけ出演している
- ↑ 『まるのまんま あどりぶランド』に所収の「鯖街道七十五キロメートル」より。ちなみに、『ちちんぷいぷい』で2012年に放送された「昔の人は偉かった 近畿ほぼ縦断! 街道巡り」でも、現役のアナウンサーである河田が徒歩だけで鯖街道を踏破している。
- ↑ 『まるのまんま あどりぶランド』に所収の「グアムマラソン 涙の完走」より
- ↑ 『まるのまんま あどりぶランド』に所収の「『あどラン』アナウンサー・アンケート なつかしのコーナーベストテン」および「『あどりぶランド』二百回大年表」より
- ↑ 『まるのまんま あどりぶランド』に所収の「あどラン実験劇場 邦楽とセッション」より
- ↑ 2010年10月19日放送の『MBS開局60周年アワー 音楽の時間ですょ 目指せ1179曲てアンタ!?』や、小池が逝去した直後(2012年5月11日)放送の『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』(いずれもMBSラジオの生放送番組)での近藤の発言より。『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』では、小池が近藤に対して、ポケットマネーで企画考案の労をねぎらったことも明かしている。
- ↑ 前述の『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』での発言より。