馬野雅行

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馬野 雅行(うまの まさゆき、1965年7月12日 - )は、毎日放送(MBS)所属のアナウンサー

来歴・人物

東京都品川区出身。ニッポン放送(LF)のスポーツアナウンサーであった深澤弘の実況を聴いたことをきっかけに、アナウンサーへの道を志す。

大学生時代には、日本テレビスポーツ部のアルバイトとして、プロ野球中継のビデオ再生を担当。その縁で、徳光和夫とも関わりがあった。[1]

日本大学芸術学部を卒業後の1989年に、アナウンサーとして毎日放送へ入社。同期入社のアナウンサーに来栖正之、テレビプロデューサーで制作局テレビ制作1部長の越智暁がいる。

毎日放送へ入社後は、スポーツ中継の実況・リポーターを担当するかたわら、テレビ・ラジオの報道番組にも出演。同局が制作に協力した「阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝」では、先輩アナウンサーの森本栄浩とともに、DVD映像のナレーションを務めている。また、バレーボールC級審判員の資格を有する。入社2年目の1990年には、毎日放送千里丘放送センター(旧本社)では最後のラジオニュース(8月31日の『毎日ニュース』最終版)と、現在の本社(大阪市北区茶屋町)では最初のラジオニュース(9月1日早朝の『毎日ニュース』)を担当した[2]

1994年9月から3年間、平日夕方のニュース番組『MBSナウ』のキャスターを担当。後継番組の 『VOICE』でも、2006年4月から2009年3月までの3年間、メインキャスターを務めていた。いずれの番組も、スポーツアナウンサーとしての活動と並行させていた関係で、担当日は週2~3日であった。

『MBSナウ』キャスター時代の1994年9月4日には、MBSテレビで放送された関西国際空港の開港記念特別番組で、一番機(グアム便)離陸の瞬間を実況。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、発生当日の昼から夜まで、MBSテレビJNN報道特別番組のメインキャスターを担当。放送中にたびたび起こった余震の様子を的確に伝えたほか、同日午後に回線トラブルからネット出し回線が途切れた際も冷静に対応した。

スポーツ中継・報道以外の番組では、「西日本一の鉄道アナ」「レールウェイ・パーソナリティ」「レールウェイ・ジャーナリスト」を自認するほどの鉄道ファンとして有名(後述)。また、松田聖子の熱烈なファン[3]でもあり、学生時代には松田の主演映画「野菊の墓」の一般公募オーディションを受けていた[4]

ちなみに、MBSテレビ制作の全国ネット番組『情熱大陸』では、2013年の放送から提供読みで馬野の声が流れている。

世界陸上での活動

TBS制作の世界陸上中継では、2001年カナダ大会2003年パリ大会に、毎日放送を代表する形で参加。砲丸投円盤投ハンマー投やり投の実況を担当した。

地元・大阪で2007年に開催された世界陸上大阪大会では、『VOICE』のキャスターとプロ野球の実況を担当していた関係で、実況に加われなかった。ただし、『VOICE』が放送されない9月2日日曜日)の閉会式では、会場(長居スタジアム)で司会を務めた。

スポーツ実況

プロ野球では、テレビ・ラジオとも、長年にわたって阪神タイガースの公式戦を中心に実況やベンチリポーターを担当。 『VOICE』で月~水曜日のメインキャスターを務めた時期にも、木~日曜日の中継に登場していた。

2002年にTBS系列で長居スタジアムからサッカーキリンチャレンジカップ日本代表×ウクライナ代表を中継した際には、日本代表サイドのリポーターを担当。2004年に開催された男子ゴルフダンロップフェニックストーナメント(MBS制作、全国ネット)では、最終日の実況担当として、タイガー・ウッズの日本ツアー初優勝の瞬間を全国に伝えた。

また、4期先輩の森本栄浩と同様に、バレーボールの実況も行っており、2002年アジア大会中継では、バレーボールの実況を担当していた。

2006年10月21日には、昼間にマスターズゴルフ倶楽部(兵庫県三木市)で女子プロゴルフ(マスターズGCレディース予選)のテレビ実況を担当してから、ナゴヤドームに移動。プロ野球日本シリーズ・第1戦(ナイトゲーム)のラジオ中継で、6回表から試合終了まで実況を務めた(試合開始から5回裏までは、同僚アナウンサーの仙田和吉が実況を担当)。しかも翌日には、同ゴルフ倶楽部に戻ったうえで、マスターズGCレディース決勝のテレビ中継で実況を務めている。

また、阪神の新外国人マウロ・ゴメス阪神甲子園球場での初ホームランを実況した。(しかし、同時にウラディミール・バレンティンのトリックプレーにも騙されていた。)

鉄道ファン

中学生時代の1980年に、小田急電鉄の「アユ電」(毎年6月1日に行われる鮎漁の解禁に合わせて前日の5月31日の深夜に運転された列車)に関する取材記事を雑誌『鉄道ファン』へ寄稿するなど、根っからの鉄道ファン2009年11月25日放送のMBSラジオMBSたびぐみ とっておき旅ラジオ』より、以下『MBSたびぐみ』)。関西では、「鉄道ファンのアナウンサー」として知られている。

毎日放送へ入社後は、ニュース原稿で使われていた「鉄道マニア」という表現を、報道局に直訴して「鉄道ファン」に変えさせた逸話を持つ。現に、以降のMBSニュースでは、テレビ・ラジオとも「鉄道マニア」という表現を使わなくなった。

2004年5月30日にMBSラジオで放送された『月極ラジオ』では、リスナーからのメールなども交えながら、同じ鉄道ファンの子守康範(元MBSアナウンサー)とともに鉄道について熱く語った。その内容が鉄道ファンの共感を呼んだうえに、リスナーの反応も良かったことから、2005年2月27日の同番組や2009年12月16日の『MBSたびぐみ』水曜日でも同様の内容で放送が実現している。なお、2004年の『月極ラジオ』では、翌年4月に脱線事故が発生したJR福知山線について「最近、すごく飛ばしているよね。乗っていて怖くなることがある」との趣旨の発言をしていた。

2008年に廃止された寝台急行銀河号のラストラン乗車券を偶然手に入れることができ、B寝台で最後の旅を経験している。この模様は、MBSテレビの情報番組『ちちんぷいぷい』で大々的に放送された。0系が引退する際にも、同番組で熱弁を振るっている。

2009年度のナイターオフ期間には、『MBSたびぐみ』で水曜日のパーソナリティを担当。「水曜は鉄どうでしょう」をテーマに、自らの乗車・取材経験を交えながら、鉄道に対する知識や見識を存分に披露した。[5]2010年度の同番組でも、「レールウェイ・パーソナリティ」と称しながら、引き続き水曜日のパーソナリティを担当。2011年度には、「レールウェイ・ジャーナリスト」との肩書で金曜日のパーソナリティを務めていた。

2010年5月27日の「ちちんぷいぷい」で京都市電レール京都市営地下鉄烏丸御池駅で発売されることが放送された。そこで、番組が馬野にこのことについて聞いたところ、「レールのカーブの部分がたまらないですよね」と答えた。スタジオにいた出演者達は「わからない」と言っていた。2011年6月には、プロ野球中継で訪れた富山県において、富山ライトレール万葉線路面電車に乗車。日本国内で路面電車を運営する20事業体保有の路線をすべて踏破した[6]

現在では、「毎日新聞」大阪本社発行版の連載記事「線路はつづくよ」において、月に1回のペースでコラムを執筆。休日には、阪急電鉄の車掌アナウンス研修にアドバイザーとして関わったり、同社内のアナウンスコンクールで審査員を務めたりしている。もっとも馬野自身は、「自分はあくまでも“西日本一”の鉄道アナ」として、フジテレビアナウンサー時代にJR東日本管内の新幹線・特急列車の車内アナウンスを担当した堺正幸(現在は定年退職しフリーアナウンサー)を「日本一の鉄道アナ」に挙げている。

現在の担当番組

テレビ

※CS放送GAORAでバレー中継の実況を担当している。
JNN(全国)ネット実況は、男子ゴルフダンロップフェニックストーナメントMRTと共同制作)、LPGAミズノクラシック。その他には、2007年2009年日韓女子プロゴルフ対抗戦ではメイン実況、ヴァーナルレディース(現・フンドーキンレディース)(RKB毎日放送制作・2008年より)やサン・クロレラクラシック北海道放送制作・2012年より)ではホール担当として出演。プロ野球実況に関しては2006年頃まで甲子園球場で行われている阪神×巨人の全国ネット実況をしていたが、現在はローカル中心。男子ゴルフつるやオープン1998年から2009年までメイン実況を担当。
※鉄道関係の中継・取材で不定期出演。2010年1月から3月までは、『MBSたびぐみ』水曜日のテレビ版として、「週末ウォーカー」(金曜日のVTR取材コーナー)を隔週で担当していた。
※2010年1月26日(火曜日)には、番組初のCD「すごくおいしいうた」(ベストアルバム、同月20日全国発売)に関する特別企画で、毎日放送本社1階アトリウムからの生中継に出演。同アルバムのオリコン・ウィークリーアルバムチャート初登場順位発表の模様を伝えた。以降も、番組プロデュースのCDシングルを出すたびに、「ミスター緊張感」との称号を受けながら同様の趣旨でオリコンチャート初登場の順位を発表している。

ラジオ

過去の担当番組

テレビ

ラジオ

関連人物

脚注

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  1. 2005年1月8日放送の『MBS激論スタジアム』の放送で、徳光と電話をつなぎ、当時の思い出を語っていた。
  2. 2012年12月4日放送の『with…夜はラジオと決めてます』内の「あの頃こんなヒット曲」(楽曲リクエストコーナー)で、当日のリクエストテーマであった「1990年」の出来事に関するトーク中での発言より。馬野は、アナウンサー室の宿直勤務の一環で『毎日ニュース』を担当していた。
  3. 2010年10月26日にMBSラジオで放送された『MBS開局60周年アワー 音楽の時間ですょ 目指せ1179曲てアンタ!?』の第2部「特集アワー」では、同じ松田聖子ファンである後輩アナウンサー・松井愛とともに、「ラブラブ聖子ちゃん特集」のパーソナリティを担当。歌手デビュー前に『ザ・パンチパンチパンチ』(ニッポン放送)へレギュラーで出演していた頃からのファンで、今までに発売された全てのシングルレコードシングルCDを保有していることを明かした。ちなみに、『with…夜はラジオと決めてます』火曜日の「あの頃こんなヒット曲」では、1980年(松田のデビュー年)以降の1年を取り上げる週に馬野のリクエストで「ビバ!松田聖子」という企画を放送している。
  4. 『with…夜はラジオと決めてます』2012年12月10日放送分の「ビバ!松田聖子」より。ただし、書類選考で落選したという。
  5. 2009年12月31日に放送された『MBSうたぐみ Smile×Songs』との合同特別番組『MBSたびぐみ×うたぐみ ゆく年くる年』では、寝台特急「日本海」車内からの生中継を予定していた。馬野自身にとっても1,000kmを超える初めての長旅になるはずだったが、当日の悪天候で同号が運休。中継自体が中止になった。その後、2009年度の『MBSたびぐみ』最終放送(2010年3月24日)で、大阪発札幌行きのトワイライトエクスプレスに乗車した模様を報告している。
  6. 2011年10月28日放送の『MBSたびぐみ』より。ただし、一部の事業体の路線では、一部区間にしか乗車していない。
  7. 入社1年目で出演したが、当時の上司・角淳一から、放送終了後に準備不足を厳しく指摘されたという(2010年2月10日放送の『MBSたびぐみ』での馬野本人の述懐より)。
  8. 復帰した2013年2月19日放送分および、火曜日の最終放送(同年3月26日)での発言より。

外部リンク

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