角淳一

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テンプレート:統合文字 テンプレート:基礎情報 アナウンサー 角 淳一[1](すみ じゅんいち、1944年12月30日 - 、戸籍上の誕生日は1945年1月1日)は、大阪府四條畷市出身のフリーアナウンサー毎日放送の元アナウンサーで、2004年4月1日から2011年9月30日までは同局の専属パーソナリティでもあった。現在も四條畷市に在住。

愛称は『角さん』、『おじいちゃん』。フリーアナウンサー転身後の2012年5月16日からは、四條畷市の観光大使に任命されている[2]

来歴

血液型はA型。実父は、実母の懐妊中に「(新生児が)男なら淳一、女なら淳子(と名前を付け)や」との言葉を残して第二次世界大戦へ出征。しかし、角の出生を前に戦没した[3]

11歳であった1960年メルボルンオリンピックの実況をラジオで聴いたことから、アナウンサーを志す[4]。その後は大阪府立四條畷高等学校関西学院大学商学部に進学。高校時代には、自ら放送部を設立したうえで部長に就任した。大学時代には、古典芸能研究部で落語を披露する[5]かたわら、生田教室でアナウンスの修業を積んでいる。

毎日放送アナウンサー時代

大学卒業後の1968年に、アナウンサーとして毎日放送(以下「MBS」と略記)に入社。同期入社のアナウンサーに、青木和雄板倉俊彦などがいた。ちなみに角は、MBSに加えて、同じ在阪の民放局である朝日放送(ABC)のアナウンサー試験も受験。両局とも、生田教室での同期生・山本清久と共に最終選考へ残ったが、自らの意思でMBSへの入社を決めたという。なお、山本も、アナウンサーとしてABCに採用されている。

入社直後にレギュラーで出演したラジオ番組から、出演番組ではほぼ一貫して、柔らかい口調の大阪弁でフリートークを展開(後述)。1970年代に出演の『MBSヤングタウン』(MBSラジオ、以下『ヤンタン』と略記)で笑福亭鶴光佐々木美絵とともに人気を集めたことをきっかけに、活躍の場をMBSテレビの深夜番組(『夜はクネクネ』『イカにもスミにも』『板東英二のわがままミッドナイト』など)にも広げた。また、MBSラジオが毎年実施している特別番組『毎日カルチャースペシャル ラジオウォーク』には、1982年の第1回から2011年の第30回まで通算で23回出演。第1回から第22回(2003年)までは、22回連続で総合司会を務めた[6]

ラジオパーソナリティとしては、1978年にMBSラジオで放送した『角淳一のライブジョッキー「ザ・カケフ」』で、同年度の日本民間放送連盟賞・ラジオ娯楽部門最優秀賞を受賞[7]1984年3月まで長きにわたって『ヤンタン』へ出演した後には、同年4月から10年にわたって、平日午後の生ワイド番組『すみからすみまで角淳一です』(以下『すみから』と略記)のメインパーソナリティを務めた。

MBSへの在職中には、アナウンサーとしての活動を続けながら、アナウンス第三部長、アナウンサー室次長、主幹・役員待遇ラジオテレビ副本部長職を歴任。1994年4月からは、『すみから』の後継番組『すみからすみまで愛なのね』(以下『愛なのね』と略記)に出演していた。しかし、『愛なのね』を担当していた1996年5月6日に自宅で体調不良を訴えたことをきっかけに、主治医から脳梗塞と診断されたため緊急入院。そのまま『愛なのね』を降板するとともに、1997年10月の『すみから』復活まで、1年5ヶ月にわたって休養を余儀なくされた。

『ちちんぷいぷい』パーソナリティ時代

1999年10月11日にMBSテレビが平日の午後に生放送の情報番組『ちちんぷいぷい』(以下『ぷいぷい』と略記)を開始したことを機に、全曜日のパーソナリティ(総合司会)に就任。本編のオープニングで挨拶代わりに語る「こんにちは、私は角淳一です。あなたはどなたですか?」という口上[8]や、プロジェクターに映された文字をたどたどしく読みながら進行するなどのキャラクターなどで、関西地方の視聴者に広く親しまれた。

『ぷいぷい』出演中の2004年3月31日に、毎日放送の社内規定より9ヶ月早く定年で退職[9]。同年4月1日からは、パーソナリティとして同局と専属契約を結んだ。この契約を機に、『ぷいぷい』のパーソナリティを続けながら、MBS以外の在阪民放局が制作する番組への出演を本格的に始めている(後述)。

2005年5月10日の『ぷいぷい』放送中に体調不良を訴えたため、途中から出演を見合わせた。直後の健康診断で不整脈が判明したため、翌日(11日)の同番組へ前半だけ出演してから検査入院。同月12日に「リハビリを兼ねて」との理由で『ぷいぷい』に復帰した。しかし2006年には、胆石および前立腺肥大の手術を理由に、6月下旬から7月中旬まで再び休演。この休演からの復帰(同年7月20日)を境に、休演中にパーソナリティ代理を務めていた西靖(MBSアナウンサー)が、そのまま木・金曜日のパーソナリティを担当するようになった。2010年9月からは、水曜日のパーソナリティも西に任せる一方で、自身はパネラー(スタジオレギュラー)の1人として同曜日への出演を続けていた。

『ちちんぷいぷい』レギュラーの卒業

2009年からは、『ぷいぷい』への出演を続けるかたわら、プライベートで音楽スタジオ「Very Famous Studio」を所有。同年11月1日からは、POMPYエンタメランドにおいて、月2回更新の「声ブログ」(同スタジオで収録した音声によるブログ)を開始した。

2011年8月15日放送の『ぷいぷい』のエンディングで、後進へ道を譲ることを理由に、同年9月末で同番組を卒業することを自ら発表[10]9月30日金曜日)の放送が、レギュラーとしては最後の出演になった。同年10月以降は、角が担当していた月・火曜日のパーソナリティも西が継承している。一方の角は、『ぷいぷい』のレギュラー卒業を機に、MBSとの専属パーソナリティ契約も終了。同局の社友になった。

ちなみに角は、『ぷいぷい』のレギュラーを卒業する際に、「卒業後は(後進に道を譲る意味で同番組への)ゲスト出演を控えたい」との意思を示していた。しかし2012年には、「ウルトラパン大作戦」(山崎製パンとのコラボレーション企画の第2弾として開発した4種類のオリジナルパンに関する販売キャンペーン)に、ウルトラの父に似た「ウルトラパンの父」というキャラクターとして参加。2月6日の放送には、「“ウルトラパンの父”からの激励メッセージ」と称するVTRを通じて、約4ヶ月振りに『ぷいぷい』へ出演した。8月29日水曜日)には、「3000回感謝ウィーク『やっぱり地元ってええなぁ』」のスペシャルゲストとして、レギュラー卒業以来約11ヶ月振りにスタジオ生出演。また、「ちちんぷいぷい音楽祭」(2010年から大阪で毎年5月に開催中の音楽イベント)には、2012年以降も出演を続けている。

「おとなの駄菓子屋」をテーマにフリーアナウンサーへ転身

角は『ぷいぷい』のレギュラー卒業後の活動のテーマに、「おとなの駄菓子屋」を挙げている。卒業の翌日(2011年10月1日)に開設した同名の公式サイトなどによれば、「駄菓子屋」とは、「子供の頃に友達と入った駄菓子屋のように、楽しいことがいっぱい並んでいる居心地のいいお店みたいな」活動を指すとのこと。趣味の音楽・上方演芸を中心に、エンタテイメント全般を「お菓子」になぞらえながら、「大通りの大店にはまだ並んでいないお菓子」や「新しいのに懐かしい味のお菓子」の紹介にも携わるという。

2011年10月29日からは、「毎日新聞」大阪版で隔週土曜日に「おとなの駄菓子屋」という連載コラムを始めた(現在は連載終了)。翌日(10月30日)からは、MBSラジオが放送を始めた同名の新番組で「店主」(パーソナリティ)を担当[11]2012年からは、MBSテレビでも、『角淳一のおとなの駄菓子屋』を年に数回放送している。

その一方で、「声ブログ」も継続。関西各地で開催される落語会・イベント・講演会や、関西以外の地方で放送されるテレビ・ラジオ番組にも出演している(後述)。2012年5月16日には、四條畷市出身・在住の著名人として、桂南光山口智充・谷口智則(絵本作家)・青木豊彦(小型人工衛星「まいど1号」の開発責任者)とともに同市から観光大使を任命された。2014年には、朝日新聞出版からの依頼を受けて、自身初の著書『私は、角淳一です』を3月20日に同社から刊行している。

人物

  • 趣味は音楽・演芸・テレビ番組の鑑賞で、好物はいちじくジャム。『ぷいぷい』のパーソナリティ時代からは、「テレビを見る天才」とも称している[12]
  • 関西出身・在住の落語家・ミュージシャン・芸人にとどまらず、東京を拠点に全国規模で活動するミュージシャン(加山雄三中島みゆき松山千春さだまさしなど)とも、毎日放送のアナウンサー時代から親しく交流。彼らがパーソナリティを務めるMBSラジオの特別番組で角が進行役を務めたり、角のレギュラー番組に彼らが登場したりすることもある(後述)。平原綾香2003年にメジャーデビューを果たしてからは、『ぷいぷい』で早々に取り上げたことをきっかけに、平原との親交を深めている[13]。また、さだは『私は、角淳一です』の帯にコメントを寄せている。
  • 長年にわたって阪神タイガース(阪神)を応援。特に、前述の『ザ・カケフ』の題材にもなった掛布雅之とは、同球団の現役選手時代から交流。掛布が長年にわたって月曜日のレギュラーを務めていた『ぷいぷい』では、「プロの阪神ファン」と称して、独自の見解を披露していた。その一方で、『すみから』のパーソナリティ時代から、阪神の本拠地・阪神甲子園球場の年間指定席の一部を「角シート」として確保。プロ野球シーズン中に阪神が甲子園でホームゲームを予定している場合には、視聴者・リスナーを「角シート」へ随時招待していた[14]1992年には、「ミスター・トラ」こと唐渡吉則の楽曲「HAPPY・タイガース」で、自身初の作詞を手掛けている。
  • ラジオパーソナリティ時代からの癖で、出演番組の本番前には原稿を下読みしない。その影響で、『ぷいぷい』では、プロジェクターの文字を読んでいながらしばしば言葉につっかえていた。もっとも、『ぷいぷい』の後期には、その癖を逆手に取る格好で「読み間違えの天才」と自称していた。
  • 脳梗塞を患ってからは、エクササイズに励むとともに、1日に2リットルの水を飲むようにしている。『ぷいぷい』には、2006年10月頃からレギュラーを卒業するまで、脳梗塞の再発を防ぐ目的で飲料水の入ったペットボトルをそばに置きながら出演していた。

エピソード

大阪弁へのこだわり

  • 出演番組で大阪弁を貫くようになったきっかけは、MBSへの入社後初めてレギュラーを務めたラジオのレギュラー番組(番組名不詳)でキャッシーと共演したことにある。その番組では、外国人女性でありながら大阪弁でまくし立てるキャッシーに、大阪府出身の角も大阪弁で対抗。放送後に先輩のアナウンサーから「アナウンサーが大阪弁をしゃべるとは何事だ」と注意されたところ、「自分の考えていることを自分の言葉(大阪弁)でしゃべりたい」という希望を明かした[15]。現に、同局のアナウンサー時代には、特別企画や緊急時を除いてニュースや報道番組へ出演する機会が少なかった。その一方で、後に放送された『すみから』『夜はクネクネ』『ぷいぷい』などでは、そのような角の語り口やキャラクターが生かされていた。
  • MBSアナウンサー室局次長時代に遭遇した阪神・淡路大震災1995年1月17日)の直後には、当時出演していた『愛なのね』において、標準語で震災関連情報を伝えることに徹していた。しかし、後に発行された震災報道の記録集では、「本当に(被災者を)励ますつもりなら、今こそ(普段から放送で使っている)大阪弁やったのに・・・。今回パーソナリティとして(大阪弁による被災者向けの放送を)やれなかったことで自信をなくした」との言葉を残している[16]。実際に被災地のリスナーからいつも通りの大阪弁で話してくれた方が安心すると言われていた為。

『ヤングタウン』パーソナリティ時代

  • 『ヤンタン』には、1971年4月から1984年3月まで鶴光とのパートナーとして出演。出演期間中には、出演日を火曜日→金曜日(1973年10月以降)→木曜日(1976年4月以降)と変えながらも、鶴光とのど角・ど鶴(どすみ・どつる)コンビでリスナーに広く親しまれた。特に、木曜日時代初期に実施された在阪ラジオ局の聴取率調査では、調査対象の全局・全番組で2番目に高い聴取率(10%台)を記録している[17]。ちなみに、「オオナベさん」の愛称で知られた同番組プロデューサーの渡邊一雄は、「(関西の落語家としては)孤高」とされる鶴光のパートナーに角を抜擢した理由として、「大阪生まれ」「真面目」「面白いことや音楽が大好き」「相手のことをよく理解したうえで、無理をせず相手のペースに合わせられること」を挙げていた[18]
  • 木曜日時代の1981年には、当時共演していた歌手石川優子の人気を高めようと、リスナーに向けて鶴光・渡辺高志(「コナベさん」と称する当時のディレクター)とともに「石川優子スター計画」というキャンペーンを展開。3月5日リリースの楽曲「シンデレラ・サマー」を、『ザ・ベストテン』(TBSテレビ制作・全国ネット)へのランクインにつなげた。ちなみに、石川が本番前の『ヤンタン』スタジオからの生中継で同番組に出演した際には、角・鶴光も石川のバックダンサーとして登場している[19]。また同年には、他曜日に出演の島田紳助明石家さんまが展開していたバンド活動への対抗意識から、自身をボーカルとして当時のディレクター陣(渡辺、三村景一大谷武文、宇野幹雄)とともにバンドを結成。5月28日SABホール(当時)で「ど角、ど鶴のええか、ええかコンサート」という有料のコンサートを開催した。さらに、当時の番組スポンサー・進研ゼミからの協力によって、「ええかええかのテーマ」というオリジナルの楽曲を世に送り出している[20]

『ちちんぷいぷい』パーソナリティ時代

  • 番組タイトルの『ちちんぷいぷい』は、「世の中、癒されたいと思っている人は多い。そういった人の気持ちに応えた番組にしたい」と考える角の命名による[21]
  • 蛯原友里について、専属モデルを務めていた雑誌「CanCam」よりも2ヶ月早く、『ぷいぷい』で「エビちゃん」と称した。この事実は、2006年6月27日放送分の『ぷいぷい』で蛯原への独占インタビューを実施した際に、蛯原自身も認めている。ただし、番組で最初に紹介した時の表記は、平仮名の「えびちゃん」であった。
  • 2000年には、角が正月休みから顎へ髭を伸ばし続けたまま、年始から2ヶ月近くにわたって出演。しかし、偶然にも同じ時期に久米宏が口髭を蓄えながら『ニュースステーション』(当時久米がメインキャスターを務めていたテレビ朝日系列・全国ネット番組、関西地区ではABCテレビで放送)に登場したこともあって、番組関係者や視聴者からの評判は総じて芳しくなかった。その結果、2月22日の放送中に、MBSテレビで当時放送されていた深夜番組『たかじんONE MAN』のレギュラー出演者(やしきたかじん北野誠仲田幸司)が同番組のサプライズ企画でスタジオへ乱入。たかじんが拡声器片手に「角淳一を拉致する!」と絶叫した後、北野と仲田が角をストレッチャーにくくり付けて別室へ連れ去ると、あらかじめ待機していた理髪店の女性に角の顎髭を剃らせた[22]。ちなみに角は、『ぷいぷい』のレギュラー卒業を機に、再び顎へ髭を生やしている。
  • オーサカキング(MBSが大阪城公園2004年から毎年夏に主催していたイベント)では、2007年から最終年の2008年まで、角をモデルに作られた信楽焼たぬきの置物が注目を集めていた。2007年には、「七福“神”」の1体として、会場の一角に巨大な置物を展示。2008年には、ミニチュアの置物「角たぬき」を3000体製作したうえで、同イベントや「ネビュラ」(同局本社1階のグッズショップ)などで販売していた。ちなみに『ぷいぷい』では、角がレギュラーを卒業した現在も、スタジオの一角に「角たぬき」や角をかたどったオブジェを飾っている。
  • 2009年9月下旬には、『ちちんぷいぷい』の放送10周年記念企画の一環として、人生で初めて東京に5日間滞在。東京在住の同番組レギュラーや、かつて同番組に出演していた芸人を招きながら、神田神保町などに出没した。その模様は、同年10月12日に、関西ローカルで『ちちんぷいぷい10周年 角の東京物語~ちょっと新世界へ~』として放送されている。
  • 2010年3月1日の生放送中に断髪。「自身50年ぶり」という丸坊主姿になった。同番組で公言した「『すごくおいしいうた』(番組初プロデュースのCDアルバム)は同月末日までに3万枚を売り上げられない」との予想が外れたことによる罰ゲームで、しばらくの間、帽子をかぶりながら同番組に出演していた。

備考

ラジオへの回帰

  • 『ぷいぷい』パーソナリティ時代の2001年には、MBSラジオで『スミっコギャル』(事前収録で土曜日の深夜に放送された番組)のパーソナリティを担当。『スミっコギャル』の放送終了後は、2003年まで総合司会を務めた『ラジオウォーク』を除いて、ラジオ番組から遠ざかっていた。しかし、2006年6月18日に同局で放送された事前収録の特別番組『松山千春and角淳一 今、DJとして…』で、約5年振りにパーソナリティを担当。『ぷいぷい』でも後日、ダイジェストを放送した。ちなみに、前述の『おとなの駄菓子屋』では、『スミっコギャル』の終了以来約10年振りにレギュラーでパーソナリティを務めている。
  • 『ぷいぷい』の木・金曜日に出演しなくなった2008年には、12月9日に『上泉雄一のFANFANレディオ』(MBSラジオのナイターオフ番組)へゲスト出演。これを機に、MBSラジオ聴取率調査週間に設定する「MBSラジオスペシャルウィーク」期間中のみ、『ぷいぷい』へ出演しない木・金曜日に『上泉雄一のええなぁ!』『ノムラでノムラだ♪ EXトラ!』などの生番組へ“スペシャルゲスト”扱いで登場していた。2010年9月1日(水曜日)には、『ぷいぷい』の本番前に、開局60周年記念特別番組『31.5時間ラジオ MBS史上最大のラジオ祭り 歌でつなげる60年 目指せ1179曲てアンタ!?』にもゲストで出演していた。

MBS以外の番組への出演

『ちちんぷいぷい』パーソナリティとして

フリーアナウンサーとして

出演番組

現在

レギュラー番組

シリーズ番組(不定期放送)

過去

毎日放送アナウンサー→専属パーソナリティ時代

テレビ
MBS制作番組

その他にも、MBSなどの特別番組に随時出演。魔法のレストラン → 魔法のレストランR(MBSテレビの料理・グルメ情報番組)には、フリーアナウンサー転身後の現在に至るまで、不定期でロケ企画などに登場している。

TBS制作・全国ネット番組
ラジオ

フリーアナウンサーへの転身後

「備考」の項で紹介した番組や、「MBSラジオ スペシャルウィーク」期間中にゲストで出演する生ワイド番組を除いて記載。

  • 大阪マラソン2011 走り出した情熱のランナー(2011年10月30日、MBSテレビの第1回大阪マラソン中継、スタジオゲストとしてフリーアナウンサー転身後初のテレビ出演)
  • せやねん!(2011年12月24日、MBSテレビ、午後放送の第2部にスペシャルゲストとして出演)
  • プリ♥プリ(2012年4月13日、MBSテレビ、スペシャルゲストとして出演)
  • おとなの文化村(2012年6月19日、fm osaka
  • 藤山直美・角淳一のおしどり夫婦が集まる家(2013年7月14日、読売テレビ、藤山と共にメインMCとして出演)[33]
  • おはようパーソナリティ道上洋三です(2014年3月21日、ABCラジオ、8時台のコーナー「話のマーケット」にゲストで出演)
  • 茶屋町 春の4まつり(2014年4月4日、MBSテレビ)- 毎日放送の本社新館(B館)のグランドオープンを記念した特別番組で、桂南光とのコンビ「チーム四條畷」名義でクイズに参加。

著書

  • 私は、角淳一です(朝日新聞出版、2014年3月20日初版刊行)ISBN 978-4023312753

レコード

  • ええかええかのテーマ(MBSヤングタウン・木曜日の歌)」(CBSソニー/福武書店)(1983年)※笑福亭鶴光と共演

テレビCM

  • 番組出演以外にも、MBSテレビが関西ローカルで放送したCMに数回登場している。過去には、進研ゼミセブンイレブン(2009年に期間・地域限定で発売された「ちちんぷいぷい角の☆印弁当」)のCMに出演した[34]
  • 2011年1月から3月までは、MBS・熊本放送(RKK)・南日本放送(MBC)の共同制作によって、九州新幹線の全線開通を告知するテレビCMに出演。ただし、角が出演するバージョンは、MBSで放送しなかった[35]

関連人物(MBSのアナウンサー経験者を除く)

脚注・参考文献

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外部リンク

  • 角淳一オフィシャルサイト
  • 角 淳一のブログ日記 - テレビでは聞けないようなトークや、好きなジャンルの音楽を掘り下げたトークなどを配信。配信回によっては、角と縁の深いアーティストが演奏を披露するなど、さまざまなジャンルのゲストも登場している。
  • 本来の名字表記は、真ん中の棒が下に少し突き抜ける、「16px」である。
  • 平成24年5月16日 四條畷市観光大使任命式
  • 角さん9月いっぱいで「ぷいぷい」卒業!次は“大人の駄菓子屋”(『スポーツ報知』大阪版2011年9月12日付インタビュー記事)
  • 前出『おとなの文化村』に角がゲストで出演した際に公表されたプロフィールを参照
  • 毎日放送アナウンサー時代の1987年シンコーミュージックから刊行された『まるのまんま あどりぶランド』(毎日放送編・著)に掲載の写真より
  • 第30回では、ゲストとして7年振りに登場。毎日放送では、角の出演パートの一部で、『ぷいぷい』とのサイマル生放送を実施した。
  • 日本民間放送連盟賞/1978年(昭和53年)入選・事績
  • 2006年4月20日大阪府立体育会館で開催されたプロレス興行ハッスル16」では、同興行のPRを兼ねて『ぷいぷい』にVTRで出演した高田総統からの挑発を受けて立つ格好で、「第3ハッスル~よしもと軍団提供マッチ~」(吉本興業提供試合)にサプライズゲストとして登場。この口上にちなんで「俺は、角淳一だ!! お前らは、誰だー!!?」という挨拶を披露した(ハッスル16を参照)。
  • 本来の定年退職日は、60歳の誕生日に当たる2005年1月1日であった。
  • テンプレート:Cite web
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  • 公式サイトのプロフィールより。「すごくおいしいうた」のリリースでは、角が「ジャム淳一」(いちじくのかぶり物に身を包んだキャラクター)としてキャンペーン活動に参加したほか、アルバムの初回購入者から抽選で200名にいちじくジャムを進呈していた。
  • 角淳一氏が『ちちんぷいぷい』を卒業…理由は妻の一言「魅力なくなった」(『スポーツニッポン2011年10月1日付記事)に記載のエピソードなどを参照
  • 角が『ぷいぷい』を卒業した後の2012年シーズンからは、後任の西の氏名にちなんだ「西やすシート」として企画を継続。
  • 毎日放送編・著『This is こちらあどりぶランド』(八曜社、1986年)より
  • 毎日放送編『阪神大震災の被災者にラジオ放送は何ができたか―「被災していない人への情報はいらない!」と言い続けた報道者たち』(同文社出版1995年)より
  • 渡邊が生前に著した『ヤンタンの時代』(2005年、キッズネット)に所収の「1+1=∞の恐るべきパワー 笑福亭鶴光・角淳一」より。ちなみに、当時の聴取率1位は、谷村新司ばんばひろふみがパーソナリティを務める『ヤンタン』金曜日であった。
  • 渡邊が生前に著した『ヤンタンの時代』(2005年、キッズネット)に所収の「1+1=∞の恐るべきパワー 笑福亭鶴光・角淳一」より
  • 前出『ヤンタンの時代』より
  • 前出『ヤンタンの時代』より。「ええかええかのテーマ」を吹き込んだレコードは、進研ゼミの新規入会者に特典として進呈された。
  • 角は「このタイトル以外では司会を引き受けない」と関係者に語ったという。ただし、タイトルの由来には、いくつかの説がある。角の発言によれば、「平日3時間の帯番組という大仕事を務めるに当たって、『ちちんぷいぷい』とおまじないをかけた気持ちで挑まないとやっていられない」という意味や、「(脳梗塞の)病気や(個人的に良い印象を持っていないワイドショー)番組も良くなれ」という願望も込められているとされる。
  • たかじんさん ヒゲ気に入らず「ちちんぷいぷい」生放送乱入も(『スポーツニッポン2014年1月8日付記事)
  • ナショナル劇場50周年記念特別企画『水戸黄門』2時間スペシャル
  • テンプレート:Cite web。収録では『ちちんぷいぷい』のレギュラー出演者でもある小籔千豊千鳥なるみと共演。また、同番組を意識した演出が随所に施された。
  • 上柳昌彦 ごごばん! 大阪から生放送!を参照
  • 11:00 - 11:30に北部九州ローカルで放送
  • 藤山直美&角淳一がメインMC初共演 読売テレビ開局55年記念番組でタッグ(「ORICON STYLE2013年6月3日付記事)を参照
  • 関西の人気パーソナリティー・角淳一アナがNHK初出演(『ORICON STYLE』2012年3月28日付記事)。『ぷいぷい』で長らく共演していたなるみがナレーターを務める。
  • 当時『ヤンタン』木曜日で共演していた石川優子の楽曲「シンデレラ・サマー」がベストテンに入った週の放送で、『ヤンタン』本番直前の毎日放送千里丘放送センター(当時)からの中継へ笑福亭鶴光とともに出演。1978年4月にもラジオベストテン情報のコーナーにMBSラジオ担当として出演。
  • 大阪府出身のaikoがゲストとして初めて出演したことから、インディーズ時代からaikoと親交の深い上泉雄一(MBSアナウンサー)とともにVTRコメントで出演。
  • TVドラマデータベース テレビ50年特別企画『水戸黄門』1000回記念3時間スペシャル
  • 中島による舞台公演「夜会」の大阪公演のPRを兼ねた特別番組。中島は、MBSラジオで『ミュージックマガジン』(1978年度 - 1981年度のナイターオフ番組)のパーソナリティを務めていたことなどが縁で、現在に至るまで角との交流を続けている。
  • 読売テレビ開局55周年記念特別番組『藤山直美・角淳一のおしどり夫婦が集まる家』
  • 進研ゼミについては、MBSのアナウンサーとして「MBSヤングタウン」に出演していた時期にも、提供コーナーのラジオCMに登場。テレビCMでは、MBSでの放送用に角を正面から映したバージョンと、在阪他局での放送用に角が背中を向けているバージョンが作られたという(2011年1月11日放送の『ぷいぷい』で本人が回顧)。
  • 前述『ぷいぷい』より。CMは4バージョン制作。猪俣睦彦(MBCラジオパーソナリティ)・大田黒浩一(RKKラジオパーソナリティ)と角が中継で掛け合う設定で、大阪・熊本・鹿児島の名所やグルメを伝える。ちなみに、角が登場するバージョンは、RKK・MBCで1バージョンずつ放送。