杉田玄白

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テンプレート:Infobox medical person 杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日1733年10月20日) - 文化14年4月17日1817年6月1日))は、江戸時代蘭学医若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。

杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族であるテンプレート:要出典

生涯

江戸牛込小浜藩酒井家下屋敷に生まれるが、生母は出産の際に死去している。下屋敷で育ち、元文5年(1740年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)まで過ごす。青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。  

宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。宝暦7年(1757年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる。同年7月には、江戸で本草学者の田村元雄平賀源内らが物産会を主催。出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまっていたと思われる。宝暦4年(1754年)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を広げるとともに、玄白が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる。

明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。同年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問。通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白はオランダ語習得を断念している。明和6年(1769年)には父の玄甫が死去。家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。

明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。友人桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上された。

安永5年(1776年)藩の中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅とする。そこで開業するとともに「天真楼」と呼ばれる医学塾を開いた。玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、儒学者の柴野栗山は「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」と書き記している。晩年には藩から加増を受けて400石に達している[1]

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『蘭学事始』明治2年刊。

晩年には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊される。文化2年(1805年)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上している。文化4年(1807年)に家督を子の伯元に譲り隠居。著書に『形影夜話』ほか多数。

孫の杉田成卿(梅里)は幕府天文方となった。

墓所は東京都港区愛宕の栄閑院。肖像石川大浪筆のものが知られ、早稲田大学図書館に所蔵されている(重要文化財)。1907年(明治40年)11月15日、贈正四位

近年刊行の著作

脚注

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登場作品

関連項目

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  1. 青柳精一『診療報酬の歴史』思文閣出版、1996年、ISBN 978-4-7842-0896-8 P155-160