「谷口信輝」の版間の差分
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2014年8月11日 (月) 06:03時点における最新版
テンプレート:Infobox racing driver 谷口 信輝(たにぐち のぶてる、1971年5月18日 - )は、広島県佐伯郡(現廿日市市)出身のレーシングドライバー。
目次
プロフィール
- 身長:185.4cm
- 体重:66kg
- 血液型:B型
- 愛車:トヨタ・86、トヨタ・プリウス、レクサス・LS460 F SPORT、日産・エルグランド(52)
- 愛称:NOB(ノブ)
経歴
16歳(1987年)よりバイクに夢中になり、18歳(1989年)でミニバイクレースで日本一に輝く。その後、いくつかのバイクチームからのオファーもあり、ライダーのステップアップも考えていたが、バイクレースの帰り道にドリフトしながら交差点を曲がって行くAE86に遭遇し、ドリフトに興味を持ち始める。その時、知人からバイク運搬用としてマツダ・ボンゴを購入予定だったが、RX-7(FC3S)でドリフトしたいと思い、従兄弟に相談するが、FC3Sは燃費が悪いと反対されAE86を薦められる。同時に近所にある知人の中古車販売店に60万円のAE86が売られているのを薦められ、谷口は悩んだ末にAE86を購入した。
本人曰く、「あの時マツダ・ボンゴを買っていたらライダーになっていた」と語っている。AE86に乗り始めると、地元の妹背の滝で練習を重ね、腕を上げ地元では有名となった。
1992年に四国の阿讃サーキットで開催されたビデオオプションが主催するドリフト大会「いかす走り屋チーム天国」の中四国大会に出場、3位となり全国大会の切符を手にする。そして那須エクスプローラーサーキットで開催された第2回いか天全国大会では見事3位に輝いた。この時から雑誌などの取材が増え、谷口信輝の名が世に出始める。
その後、モータージャーナリストを目指し28歳(1999年)で上京し、バイトをしながら雑誌ドライバーを務め、2001年(30歳)から本格的にレース活動を開始。最初のレースはアルテッツァワンメイクレースで、このレースから谷口信輝のレーシングドライバーとしての人生が始まったといえる。
戦績
D1グランプリ
2001年 - 第2戦、第5戦(共に日光サーキット)で勝利を飾り、シリーズチャンピオンの座を掴む。第2戦で4輪Sタイヤ(この時はウェット用)装着、第5戦ではドライ用のSタイヤ4輪装着で優勝を飾り、Sタイヤでも滑らせる技術を見せた。
2002年 - HKSのワークスドライバーとなり、HKSハイパーシルビア(S15)に乗る事となる。しかし、シェイクダウン時運転していた土屋圭市がクラッシュをしてしまい、第1戦では自前の車にHKSのパーツを装着した物を使っていた。第2戦以降はHKSのワークスカーが復活し、早速第2戦では優勝するが、第3戦以降度重なるシフトミスでの敗退(第3戦富久田、第4戦吉岡、第5戦山下)、そして第6戦でタイロッドが折れるというマシントラブルなど、上位には食い込むが表彰台にはあまり立てなかったため、シリーズチャンピオンになる事は出来なかったが、シリーズランキングでは2位を獲得した。
2003年 - この年もシリーズチャンピオンの候補に挙げられていた。しかし第1戦で練習中エンジンブロー、スペアカー(マイカー)のブレーキパッドが剥離し、それを修理したところブレーキバランスが狂ってしまい、決勝1回戦でスピンしてしまい追走に進出できなかった。第2戦では地元ながら不得意な備北ハイランドサーキットで、しかも滑りやすい路面にマシンが合わず、ベスト16にて敗退した。第3戦スポーツランドSUGOでは電気系のトラブルが発生し、予選落ちすることとなる。2ヶ月のブランクがあった第4戦富士スピードウェイでは、得意の超高速コースと復調したマシンの戦闘力が加わり、2位を獲得。待望の新車、ハイパーシルビアRS-II(S15)が投入された第5戦で6位。そして最終戦筑波サーキットでは今までのスピードだけの走りでなく、角度と白煙をRS-IIと共に自分のものとした強烈な走りを披露した(この頃には、リアがセンチ単位でコントロール出来ると語っていた)。しかしベスト16に入る前のオープニングセレモニーで、オーバーレブから第1戦と同様にエンジンブローが発生してしまう。セッティングも走りもまったく違うRS-Iに乗り換え、追走序盤三木竜二とサドンデスを繰り返すなど苦労していたが、決勝まで進出。相手である今村陽一のハーフスピンにも助けられ、シーズン初優勝を飾る。普段はクールに見える谷口が、表彰台で泣き出すという一面を見せた。
2004年 - 第4戦オートポリス(大分県)での優勝を始め、開幕戦アーウィンデール・スピードウェイ(アメリカ・カリフォルニア州)、第2戦スポーツランドSUGO(宮城県)での準優勝、第3戦エビスサーキット南コース(福島県)での3位表彰台など、抜群の安定感を見せた。シリーズチャンピオン最右翼と言われていたが、第6戦のエビスで、乗りなれた「HKS Genki ハイパーシルビアRS-II(S15)」から乗り換えた「HKS Racing Performer IS-220R アルテッツァ(SXE10)」がブーストがほとんどかからなくなるという突然のマイナートラブルを起こし、シーズン初の一回戦落ちとなった。最終戦の筑波サーキットで巻き返しを図るも、追走一回戦(ベスト16)でテールを止めきれずに平岡英郎に接触して敗退し、シリーズチャンピオンを逃した。
2005年 - 第4戦、第7戦がSUPER GTやスーパー耐久と重なるために不参加が決定していた。第1戦アーウィンデールではマシントラブルによりベスト16敗退。第2戦お台場でもプロペラシャフトが折れるという、予期出来ないマシントラブルにより決勝で敗退してしまう。高速コースは得意としているはずだが、第3戦SUGOでは1本目を失敗した事によるリズムの崩れから一回戦で敗退した。
第5戦エビスではベスト8にて織戸学とのGTドライバー対決となったが、先行でアンダー、後追いでスピンをしてしまい敗退した。第6戦富士スピードウェイでは得意の高速コースとあって期待されていたが、ベスト8にて詰まりすぎによるアンダーを出してしまい敗退。前述のようにここでシーズンを終えることとなる。
2006年 - 2月24日にHKSがD1グランプリからの撤退を発表した。所属していた谷口も他チーム・プライベート参戦は行わなかった。本人の日記を見る限り、谷口の方からD1参戦を取り止めたことが伺える(テンプレート:要出典範囲)。以前にも、HKS以外でD1に出ることは考えられないという発言をしていた。
2008年 - 第2戦の富士でHKS・IS220-Z(2号機)でスポット参戦。約2年ぶりの復活となる。練習から「全然ダメだった」と言いながらも、HKSの迅速なセッティングのおかげで予選→一回戦と尻上がりに調子を上げていく。一回戦を難なく通過したが、ベスト16で当たった水畑力にサドンデスの末に敗れる。そしてお台場エキシビションにも参戦し、土曜日のベスト16で熊久保信重にまたもやサドンデスの末に敗れるが、日曜日ではベスト16で当たった平岡英郎が観客席側に設けられた鉄柵に突き刺さるほどの大クラッシュに見舞われたことから不戦勝でベスト8に進出を果たす。ベスト8では手塚強にサドンデスで敗れたものの、2年間のブランクを感じさせない走りを見せた。
2009年度はスケジュールの調整などを詰め、フル参戦での復帰を目標に準備を進めていたが、結局参戦は実現しなかった。
2011年度は第3戦と第5戦、D1 CHAMPIONS in Centrairにゲスト解説者として参加した。また、D1 CHAMPIONS in Centrairにてデモランを披露。
2012年、HKS&谷口が実に7年ぶりにフル参戦で復帰。マシンはアルテッツァからこれまた完全HKSチューンのトヨタ・86を投入 開幕戦からの予定だったが開発が間に合わず開幕戦は従来のアルテッツァで参戦。その開幕戦お台場は追走に進出するもベスト16で BMW3シリーズに乗る上野高広に敗れ13位に終わる。 第2戦鈴鹿より86を投入し得意のレーシングコースで単走7位とつけ、追走でもベスト16で片岡龍也に勝利するも続くベスト8では パワーに勝るトヨタ・マークXに乗る高橋邦明に敗れ5位。第3戦オートポリスでは天候が変わる悪条件であった。 単走こそ9位だが追走でそれぞれ末永直登(ベスト16)、手塚強(ベスト8)に勝利し、得意のオートポリスで強さを見せるが ベスト4ではC33ローレルを駆る熊久保信重の前に1本目のミスもあり敗退。ただし3位決定戦では佐久間達也に勝利し、自身では 2005年の第2戦以来、86では初めての表彰台に登った。
その後第4、5戦のエビス、さらに6戦のセントレアでは3戦連続1回戦落ちと精彩を欠いてしまうが、最終戦お台場では谷口らしい走りが 戻り、単走ではシーズン最高の4位につけると追走でも楽々とベスト16で藤中学に勝利するとベスト8ではまたもパワーに勝るマークIIに乗る 斎藤大吾と対決、パワー差では斎藤に劣る谷口だが1本目はストレートで斎藤を引き離し、インを差せない走りでアドバンテージを得ると 2本目ではインに着くドリフトを見せ斎藤に勝利。(なお斎藤は優勝すればチャンピオンの可能性があったがこの敗戦でチャンピオンは熊久保のものとなった) ベスト4こそこのラウンド単走から好調の内海彰乃に敗れ決勝進出はならなかったが3位決定戦ではオートポリスと同じく佐久間との 対決で勝利を飾り2度目の3位表彰台を獲得した。
2013年も引き続き「HKS Racing Performer 86」でフル参戦予定。
全日本GT選手権・SUPER GT
全日本GT選手権・SUPER GTでは2002年よりGT300クラスに参戦。当時はRE雨宮からマツダ・RX-7でのエントリーで、早くも第3戦で初優勝を遂げた。2004年からRACING PROJECT BANDOH(坂東商会)に移籍。当初は元のFFからFR化されたトヨタ・セリカの挙動変化に戸惑っていたそうだが、その後マシンの挙動をものにしたと言う。この年は第2戦で優勝し、シリーズ5位となった。
2005年はシリーズ7位に終わった。
2006年にはチームをディレクシブに移籍し、2006年度第3戦終了時点でポイントランキングトップに立つが、同年8月にはディレクシブがシーズン途中ながら事実上モータースポーツ界から撤退してしまったため、R&D SPORTにチーム丸ごと移籍。第7戦まではトップのままシーズンを順調に過ごしていたが、第8戦以降はノーポイントに終わり、結局ドライバーズランキング3位で終了した。
2007年はチーム・タイサンに移籍。マシンが5年前の旧型ポルシェという事やチームメイト山路慎一が体調不良による欠場など、2年続けて不安の多いシーズンだったが、旧型車の性能優遇措置を活かし、メインストレートが長く、テクニカルコーナーが少ないツインリンクもてぎや富士スピードウェイではダントツの速さを見せ[1]、年間2勝の活躍でランキング6位の成績を残す。
2008年も引き続きチーム・タイサンから参戦。マシンの熟成が進んできたこともあり、開幕から2戦連続表彰台に登る。第7戦ツインリンクもてぎでは自身初のポールポジションを獲得する。チャンピオン争いの天王山となった第8戦オートポリスでは、2位走行中にパートナーの山路慎一がGT500の車に接触され4位に落ちてしまう。さらに19号車にも追突されてしまい、ノーポイントに終わったためタイトル争いから脱落してしまった。その鬱憤を晴らすかのように最終戦富士では優勝し、ランキング3位の成績を残した。
2009年は古巣のRE雨宮に復帰。開幕からしぶとい走りと、チームのタイヤ無交換作戦が功を奏し4戦連続表彰台に乗りランキングトップに立った。特に第4戦セパンでは、接触によりほぼ最後尾まで落ちたものの、そこから怒涛の追い上げを見せ、タイヤ無交換も成功し3位表彰台を獲得した。 最終戦は2位で終わり、シリーズ2位で終えた。
2010年は引き続きRE雨宮から参戦。開幕戦はポールポジションからスタートし、オープニングラップでコースアウトするものの得意のタイヤ無交換作戦で優勝を飾ると、セパンでも優勝を果たして2勝を挙げるものの、マシントラブルやシーズン途中の性能調整に足を引っ張られたのかそれ以外のレースで大量得点を得られず、シーズン3位で終えることとなった。
2011年はSUPERGT初の痛車チームであるグッドスマイルレーシングの初音ミクBMW・Z4 GT3での参戦。第3戦セパンでは圧倒的なストレートスピードを武器にポール・トゥ・ウィンを果たした。その後シーズン途中の性能調整を受けるも3勝し、GT参戦10年目にして自身初のシリーズチャンピオンを獲得した。普段は堂々としてクールな谷口も今回はいろんな思いがこみ上げ、珍しくインタビューには涙を見せた。
筑波スーパーラッパーとしての活躍
筑波サーキットにおけるタイムアタックには2001-2002シーズンから登場した。最初はラーマン山田、土屋圭市、飯田章、織戸学の影に隠れていた。本人曰く「ドリフト上がり(=強いオーバーステア傾向の車を運転していた)なのに、いきなりアンダーステアのセッティングをしなければいけないのが大変」だったと述べている。しかし2002-2003シーズン以降は頭角を現し、RE雨宮μ 3ローター7にてN/A車当時最速の58秒8を叩きだし、トップクラスのスーパーラッパーとなる。
2003-2004シーズン、ランサーエボリューションVIII(CT9A)をベースにHKSがチューニングした「HKS・TRB-02(ツクバレコードブレイカー02)」で、筑波サーキットチューニングカー最速タイムとなる55秒フラットを叩きだしレコード保持者となり、後日55秒切りを達成した。しかしその後のセッティングラン中に、第一ヘアピンでスポンジパッドに全開で突っ込み、車両価額推定1000万円[2]のマシンをスクラップにしてしまった[3]。 この事故のせいで同日に行われていたD1団体戦にてクラッシュすることを「谷口っちゃう」と呼ばれていた。 それでも2004-2005シーズン・そして2005-2006シーズンにおいてこのタイムを越える車は登場せず、現在でも谷口はレコードホルダーである。
現在はこのTRB-02で出した4WD兼絶対レコードの他に、前述のD1車両レコード(HKS HIPER SILVIA RS-IIにて)、そして4ドア車レコード(Racing Perfomer IS-220Rにて)の3部門でのレコードホルダーとなっている。
エピソード
- クールな外見とは裏腹に、実は尋常ではない負けず嫌い。
- 2006年、トヨタ・ラクティスのCMで、出演している佐藤隆太のスタント役として、アフロヘアーのカツラをかぶりラクティスを運転し、初CM出演を飾る。
- 父親もチューンされたZ33を所有するチョイ悪オヤジである。[4]
- 土屋圭市にはクールに見えるため、苦手な奴と言われていたが、D1 2003年エキシビジョン@アーウィンデールでは結果はクラッシュに終わる物の、一か八かの熱い走りを見せたために土屋圭市からの目線が変わった。
- 今村陽一には、戦績や勝利数が谷口より多いのに関わらず永遠の先輩と呼ばれ、尊敬されている。
- ヤシオファクトリーの岡村社長に、「タイヤの使い方が上手い、グリップとドリフトの中間のように、タイヤを物凄くつぶして走るんだ」と誉められた経験がある。
- テンプレート:要出典範囲
- 「ちょい濡れのスリックは得意」との言葉通り、SUPER GTの2013年シーズンでは天候が不安定で小雨が降ったり止んだりとなった第6戦富士と第7戦オートポリスで2連勝を飾っている。
レース戦績
- 2000年
- 十勝24時間レース 5ZIGEN CIVIC(総合10位・クラス4位)
- 2001年
- D1 GRAND PRIX (シリーズチャンピオン・2勝)
- スーパー耐久・クラスN+ (#4 REDLINE ALTEZ )(シリーズ2位)
- 2002年
- 全日本GT選手権・GT300クラス (RE雨宮レーシング #7 雨宮マツモトキヨシアスパラRX7)(シリーズ13位・1勝)
- スーパー耐久・クラスN+ (#25 ADVAN ALTEZZA)(シリーズチャンピオン)
- D1 GRAND PRIX (シリーズ2位・1勝)
- 2003年
- 全日本GT選手権・GT300クラス (第6戦まで)(RE雨宮レーシング #7 雨宮マツモトキヨシアスパラRX7)(シリーズ17位)
- D1 GRAND PRIX (シリーズ4位・1勝)
- 2004年
- 全日本GT選手権・GT300クラス (RACING PROJECT BANDOH #19 ウェッズスポーツセリカ)(シリーズ5位・1勝)
- スーパー耐久・クラス1 (DENAG RACING #25 ADVAN DGゼナドリンGT3)(シリーズ2位・2勝)
- D1 GRAND PRIX (シリーズ2位・1勝)
- 2005年
- SUPER GT・GT300クラス(RACING PROJECT BANDOH #19 ウェッズスポーツセリカ)(シリーズ7位)
- スーパー耐久・ST1クラス (TEAM ADVAN DENAG #25 ADVAN DENAG GT3)(シリーズチャンピオン・7勝)
- D1 GRAND PRIX (シリーズ10位)
- 2006年
- SUPER GT・GT300クラス 第6戦まで(direxiv motorsport #27 direxiv ADVAN 320R)第7戦から(R&D SPORT #61 アネブル ADVAN VEMAC320R)(シリーズ3位・1勝)
- 2007年
- SUPER GT・GT300クラス (TEAM TAISAN with NISHIZAWA #26 ユンケルパワータイサンポルシェ)(シリーズ6位・2勝)
- 2008年
- SUPER GT・GT300クラス (TEAM TAISAN with NISHIZAWA #26 ユンケルパワータイサンポルシェ)(シリーズ3位・1勝)
- スーパー耐久・ST1クラス (PETRONAS SYNTIUM TEAM #28 PETRONAS SYNTIUM BMW Z4M COUPE)(シリーズチャンピオン)
- 2009年
- SUPER GT・GT300クラス (M7 RE雨宮レーシング #7 M7 MUTIARA MOTORS雨宮SGC 7)(シリーズ2位)
- スーパー耐久・ST1クラス (PETRONAS SYNTIUM TEAM #1 PETRONAS SYNTIUM BMW Z4M COUPE)(シリーズチャンピオン・5勝)
- 2010年
- SUPER GT・GT300クラス (M7 RE雨宮レーシング #7 M7 MUTIARA MOTORS雨宮SGC 7)(シリーズ3位・2勝)
- スーパー耐久・ST1クラス (PETRONAS SYNTIUM TEAM #1 PETRONAS SYNTIUM BMW Z4M COUPE)(シリーズチャンピオン・6勝)
- ホンダ エキサイティングカップ ワンメイクレース シビックレース(アールエスファイン #18 ジョージスピリッツM7シビック)(インターシリーズ2位・4勝)
- 2011年
- SUPER GT・GT300クラス (GSR&Studie with TeamUKYO #4 初音ミク グッドスマイル BMW)(シリーズチャンピオン・3勝)
- ホンダ エキサイティングカップ ワンメイクレース シビックレース(RS FINE #2 M7JAPAN プロμシビック)(シリーズチャンピオン・2勝)
JGTC,SUPER GT
関連項目
脚注
- ↑ 坂東正敬は「GT400クラスの加速」と発言。
- ↑ ラーマン山田は1億円と言っていた。
- ↑ Video Option Vol.120(レコードランとクラッシュシーン収録)、Vol.122(こちらはクラッシュシーンのみ収録)に収録されている。
- ↑ NoOneBetter BLOG 2008年11月19日
外部リンク
- 谷口信輝公式ウェブサイト
- facebook - 谷口信輝 公式ページ
- テンプレート:Twitter
- NOB BLOG - 公式ブログ