8月宗派事件
テンプレート:Infobox 8月宗派事件(はちがつしゅうはじけん)とは、朝鮮民主主義人民共和国において1956年6月から8月にかけて起こった政変。事件の経緯については明らかでない点が多い。反宗派闘争(はんしゅうはとうそう)とも呼称する。なお、朝鮮語の「宗派(チョンパ)」は日本語の「分派」を指す。
事件の経緯
1956年2月、ソ連にてニキータ・フルシチョフはソ連共産党第20回党大会においてスターリン批判と呼ばれる秘密報告を行い、ヨシフ・スターリン期における様々な陰謀を曝露することでスターリン期の様々な政策を、個人崇拝批判というかたちで批判した。このことは、ソ連の衛星国すべてに大きな影響を与えた。
朝鮮民主主義人民共和国でも同年4月に開かれた朝鮮労働党第3回大会においてソ連から参加したレオニード・ブレジネフは朝鮮民主主義人民共和国にフルシチョフの路線に協力することを求めた。
同年6月、金日成はソ連・東ドイツ・ルーマニア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロバキア・ブルガリア・アルバニア・モンゴルを歴訪し、経済援助を得ようとしたが思うほどの経済援助を得ることはできなかった。この間に国内では先述したスターリン批判を受け、延安派とソ連派が金日成の独裁体制を修正するためにクーデターを計画したと言われている。一部には武装蜂起の準備もあったと唱える者もいるが、情報源など確証が得られない。いずれにせよ、後の動きと収束から、延安派の徐輝(朝鮮職業総同盟委員長)・尹公欽(商業相)・崔昌益[1](副首相兼財務相)、ソ連派の朴昌玉(副首相)、金承化(建設相)、朴義ワン(副首相兼国家建設委員長)などが中心的人物だったことがわかる。
金日成は、政変が起こることを察知し直ちに帰国した。金日成が察知したルートについてはいくつかの説がある。クーデター首謀者らが金日成が留守の間の首相代理である崔庸健(満州派)に協力を要請したところ、崔庸健が計画の存在を金日成に通知した、クーデター首謀者らがソ連大使館に協力を要請したところ、ソ連大使館から崔庸健を経由して金日成に伝わった、などの説がある。
金日成帰国後の8月30日から8月31日にかけて、朝鮮労働党中央委員会全体会議が開かれ、ここで延安派やソ連派の幹部たちは金日成の個人独裁路線や重工業優先政策を批判したが思うように支持を得られず、逆に金日成側から党指導部に対する「宗派的陰謀」「反党的陰謀」を企てた不満勢力として処分された。ソ連派の崔昌益、朴昌玉、延安派の尹公欽、徐輝、南朝鮮労働党派の李弼らは公職から解任され、党籍を剥奪された。
延安派で駐ソ大使の李相朝がソ連共産党中央委員会に全体会議の顛末を報告し、金日成の個人崇拝を断罪するよう求めたため、ソ連・中国が共同して異例の内政干渉を行うこととなった。翌月、ソ連の第一副首相アナスタス・ミコヤンと中国の国防部長彭徳懐が朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、再度全体会議を開催させ、8月の全体会議で党籍を剥奪されたソ連派・延安派の除名処分を撤回させた。[2]
その後の経過
ソ連と中国の介入を求めたソ連大使の李相朝は、直ちに現地でソ連に亡命した。これは朝鮮民主主義人民共和国で最初の外交官の亡命事例である。
ソ連と中国による介入後も金日成は延安派とソ連派に対する粛清を続けた。国内では、粛清開始前に懐柔されていた金昌満(延安派。8月宗派事件の10年後に粛清)・南日(ソ連派。8月宗派事件の20年後、金日成後継者争いにおける金正日のライバル金平一後見役に就いた後、交通事故死)など少数の幹部だけが生き残ることができた。そして、この一連の政変を逆手に取り、一種のカウンター・クーデターを成功させた金日成の満州派(国外抗日パルチザン派)と甲山派(国内抗日パルチザン派。のちに延安派・ソ連派同様、粛清される)が権力をほぼ独占するようになった。
1956年12月からは金日成は千里馬運動と呼ばれる経済政策による大衆動員を推し進めた。8月宗派事件をきっかけに、内政的には金日成及び満州派への権力集中が進み、対外的にはソ連と中国の影響を排除することによって朝鮮民主主義人民共和国指導部は独自路線を進むこととなった。
脚注
関連項目
外部リンク
- 北海道のニュースサイト BNN [Brain News Network]