鹿野藩
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鹿野藩(しかのはん)は、因幡国気多郡内(現在の鳥取県鳥取市)において江戸時代初頭に存在した藩。鹿野城が政庁となっていた。
藩史
尼子氏の遺臣・亀井茲矩が豊臣秀吉に1万3500石を与えられ、天正10年(1582年)より鹿野城主となりこの地を治めたことに始まる。
慶長5年(1600年)茲矩は関ヶ原の戦いに於いて東軍方についたため2万4500石を加増され、3万8000石を領することとなった。2代・政矩はさらに5000石を加え、4万3000石を領した。元和元年(1617年)、政矩は石見津和野藩に国替えとなり、鹿野は鳥取藩の領地となった。
寛永17年(1640年)、播磨山崎藩主池田輝澄はお家騒動(池田騒動)を起こして鳥取藩預けとなったが、堪忍料として1万石を与えられ、ここに鹿野藩が再立藩した。寛文2年(1662年)、輝澄の跡を継いだ政直は播磨福本へ移り、鹿野藩は再び廃藩となって鳥取藩領に戻された。
なお、貞享2年(1685年)に鳥取藩から新田分知を受けて成立した鳥取東館新田藩が、明治元年(1868年)12月10日に鹿奴(鹿野)陣屋を藩庁と定めており、「鹿奴藩」と呼ばれている。
歴代藩主
- 亀井家
3万8000石→4万3000石、外様(1600年 - 1617年)
- 池田家
1万石、外様(1640年 - 1662年)
関連項目
- 鹿野 (鳥取市) (城下町)