霧島 (戦艦)
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艦歴 | |
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起工 | 1912年3月17日 |
進水 | 1913年12月1日 |
就役 | 1915年4月19日 |
その後 | 1942年11月15日に 第三次ソロモン海戦に於いて沈没 |
除籍 | テンプレート:要出典範囲 |
性能諸元 | |
排水量 | 公試:36,668トン |
全長 | 222.65m |
全幅 | 31.01m |
主機 | 艦本式タービン 2基4軸 136,000馬力 |
最大速力 | 29.8ノット |
航続距離 | 9,850海里 (18ノット時) |
乗員 | 1,360名 |
兵装 | 35.6cm 45口径連装砲4基 15.2cm50口径単装砲14門 12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃10基 |
装甲 | 水線203mm等 |
搭載機 | 水上偵察機3機 カタパルト1基 |
霧島(きりしま)は日本海軍の軍艦。建造時は巡洋戦艦[1]。最終時は戦艦で、金剛型戦艦の4番艦。
目次
艦名
艦名は、宮崎県と鹿児島県の県境に広がる霧島山にちなんで命名された[2]。艦内神社は霧島神宮からの分祀[3]。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。なお、名称は、海上自衛隊のこんごう型護衛艦の2番艦きりしまに受け継がれている。
川崎造船所で建造された3番艦「榛名」と並び民間造船所で建造された初の国産戦艦である。1番艦「金剛」は英国のヴィッカース社で、2番艦「比叡」は横須賀海軍工廠でそれぞれ建造された。
艦歴
1912年(明治45年)3月17日、巡洋戦艦として前日に起工した「榛名」と一日遅れ三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工[4]。1913年(大正2年)12月1日進水(榛名は12月14日)、1915年(大正4年)4月19日、佐世保鎮守府所属として就役。
1930年(昭和5年)に第一次近代化改装を行う。同年10月26日、神戸沖で実施された特別大演習観艦式において「霧島」は昭和天皇が乗艦する御召艦に指定され、先導艦「足柄」、供奉艦「妙高」「那智」「羽黒」と共に観艦式の主役を務めた[5]。11月19日、陸軍特別大演習御統裁のため天皇は岡山県宇野港にて「霧島」に乗艦、21日横須賀軍港に到着した[6]。その後、1936年に第二次近代化改装を受けている。全幅の拡大は水平防御と水中防御に置ける装甲の増設及び魚雷に対する防御の一環でバルジが装着された為で、第一次近代化改装によって機関出力は向上しているものの速力は逆に低下した。しかし、第二次改装により装甲防御並びに機関の換装により改装前の倍近くの136000馬力へと強化され、約30ノットの高速を発揮する高速戦艦として生まれ変わった。
太平洋戦争
1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦時、「比叡」と共に第3戦隊第2小隊を編成、その高速力から南雲機動部隊(後に第三艦隊)の随伴護衛艦として真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェー海戦・第二次ソロモン海戦・南太平洋海戦の各海戦に参加し、活躍した。7月14日、艦隊の再編にともない「比叡」「霧島」は第3戦隊から第11戦隊に編入される[7]。
第三次ソロモン海戦
1942年11月上旬、山本五十六連合艦隊司令長官はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃とガ島上陸作戦を企図した。第11戦隊(比叡、霧島)を中核とする挺身艦隊(司令官阿部弘毅中将)が編成されてガ島方面に進出、「霧島」等は迎撃する米艦隊と交戦した。
第一夜戦
11月12-13日、挺身艦隊とダニエル・J・キャラハン少将・ノーマン・スコット少将指揮下の米艦隊との間で夜間戦闘が発生する。戦闘直前、挺身艦隊は「長良」「比叡(旗艦)」「霧島」の縦陣を中心に、旗艦右舷側に第6駆逐隊(暁、雷、電)が航行、旗艦左舷側に第16駆逐隊(天津風、雪風)・第61駆逐隊(照月)が航行して団子状となっており、旗艦右前方に第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)が先行し、旗艦右後方に第4水雷戦隊「朝雲」・第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)が航行していた[8]。「夕立」の米艦隊発見報告から間もなく戦闘が始まり、「比叡」「暁」が探照灯を照射した。混戦の中、「比叡」「霧島」は他艦と共同して重巡洋艦「サンフランシスコ」 (USS San Francisco, CA-38)と軽巡洋艦「アトランタ」 (USS Atlanta, CL-51)を撃破した。だが「比叡」も集中攻撃を受け、サボ島周辺にて操舵不能状態となる。
夜戦の混乱下で「霧島」は何本かの魚雷を回避、米艦に対し砲撃しつつ、「比叡」と分離して北方に退避した[9]。その後、危機に陥った「比叡」を曳航すべく、「霧島」は南下を開始した[10][11]。当初「朝雲」が「霧島」に同行し[12]、続いて「霧島」に合流した「天津風」は損傷のため「長良」と共に分離して北上した[13]。ところが「霧島」も米潜水艦の雷撃をうけ魚雷1本が命中(不発)[14]。前進部隊発令により救援を中止して北上した[15]。15時25分、「春雨」も合同[16]。曳航の見込みがなくなり、応急修理にも失敗し、米軍機の空襲を受け損傷の進んだ「比叡」は放棄された。13日夕刻に沈没。金剛型戦艦初めての喪失艦であり、また太平洋戦争における日本軍初の喪失戦艦となった。
艦隊の再編
第11戦隊によるヘンダーソン飛行場砲撃が失敗したことで、山本五十六連合艦隊司令長官は外南洋部隊にガ島飛行場制圧射撃を下令し、同部隊は第7戦隊(司令官西村祥治少将:鈴谷、摩耶)を基幹とする支援部隊(第7戦隊、天龍、夕張、巻雲、風雲)に飛行場砲撃任務を与えた[17]。支援隊および主隊(第8艦隊:鳥海、衣笠、五十鈴、朝潮)は13日午前中にショートランド泊地を出撃するとガダルカナル島へ向かい、13日深夜に「鈴谷」「摩耶」による飛行場砲撃を成功させる[18]。しかし飛行場の損害は限定的であり、14日午前6時以降同飛行場を発進した米軍機の空襲により、「衣笠」沈没、「鳥海」「摩耶」「五十鈴」損傷という被害を受けた[19]。また14日夜の揚陸命令を受けていた増援部隊(司令官田中頼三少将、第2水雷戦隊/田中少将兼務:早霜・親潮・陽炎・海風・涼風・高波・巻波・天霧・望月、および輸送船11隻)も米軍機の波状攻撃を受けて輸送船6隻沈没、1隻被弾後退する被害を受けた[20]。低速の輸送船がガダルカナル島へ到着し物資を揚陸するには米軍飛行場の機能を破壊ことが必要であり、連合艦隊は既に14日8時30分の時点で以下の兵力部署を発令していた[21]。
○射撃隊(前進部隊指揮官直率)司令官:近藤信竹中将(第二艦隊司令長官) 旗艦「愛宕」
○直衛(第4水雷戦隊司令官)
○掃討隊(第3水雷戦隊司令官)
一方、米軍は南太平洋部隊指揮官ウィリアム・ハルゼー中将のもと、第16任務部隊/司令官トーマス・C・キンケイド少将指揮下の空母「エンタープライズ」、戦艦「ワシントン」 (USS Washington, BB-56)、「サウスダコタ」(USS South Dakota, BB-57) を戦場に投入していた[24]。ガダルカナル島への増援を諦めない日本軍に対し、ハルゼー中将は艦隊を分離しウィリス・A・リー少将率いる第64任務部隊に水上戦闘による日本艦隊撃退と飛行場防衛を命じた[25]。第64任務部隊の主戦力は大和型戦艦と同時期に建造された新鋭ノースカロライナ級戦艦「ワシントン」、サウスダコタ級戦艦「サウスダコタ」および2隻が搭載する計18門の40cm砲であった[26]。艦隊決戦に向けて、米艦隊の将兵の士気は非常に高かった[27]。一方、米軍が戦艦2隻をガ島へ投入しつつある事は日本軍も察知しており、宇垣纏連合艦隊参謀長は手記戦藻録の中で『サボ島の西十五浬駆逐艦四、大巡又は戦艦二針路七〇度の電あり。彼も我攻撃隊の南下を認め戦艦を進入せしめたるか、戦艦對戦艦の夜戦蓋し本夜を以て嚆矢とす』と著した[28]。ただし近藤前進部隊指揮官は14日15時35分に「(一).今夜敵巡洋艦駆逐艦各数隻、サボ島附近に出現の算大なり (二).右の場合は一時陸上砲撃を中止し、敵を撃滅したる後再興の予定」と下令、索敵機の報告もそれを裏付けるものであり、敵主力艦隊はガダルカナル島海域に出現しないと評価していた[29]。
第二夜戦
11月14日深夜、ガダルカナル島~サボ島海域(通称アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)にて、旗艦「愛宕」以下日本海軍前進部隊は米軍第64任務部隊と交戦した。海戦序盤の水雷戦で前進部隊は駆逐艦「綾波」を喪失、第64任務部隊は4隻の駆逐艦全隻が戦闘不能となった[30]。この頃、「サウスダコタ」は機関部で起きた漏電により大規模な停電が発生、3分後に復旧する[31]。この時、旗艦「ワシントン」は米駆逐艦の残骸を回避するため左に転舵し、「サウスダコタ」は右に転舵、針路を西に戻した時には「ワシントン」の右後方1.7kmを航行することになった[32]。分離した2隻の米戦艦に対し、まず第3水雷戦隊「川内」「浦波」「敷波」が「サウスダコタ」を砲撃し、再び停電を発生させた[32]。だが魚雷攻撃による決定的打撃を与えられぬまま、近藤中将の命令により3水戦は「綾波」救援用の「浦波」を残してサボ島東南東方面の海域掃討に向かった[32]。
続いて「愛宕」「高雄」「霧島」が「サウスダコタ」「ワシントン」と交戦する。当初「照月」「朝雲」は「霧島」の後方を航行していたが[33]、反転により日本艦隊射撃部隊は「朝雲」「照月」「愛宕(旗艦)」「高雄」「霧島」という単縦陣となっていた[34]。近藤中将は米艦隊が敗走したと錯覚しており、「霧島」の主砲塔にはヘンダーソン飛行場攻撃用の三式弾が準備されていた。対艦戦闘用の徹甲弾に変更する時間的猶予がなく、そのまま三式弾で砲撃を開始。10時1分、「愛宕」「霧島」は探照灯を照射して6000m先に新型戦艦(サウスダコタ)を発見する[35]。「サウスダコタ」は、すでに前進部隊水雷戦隊との交戦で損傷を受けており、レーダーで4.8km先に近藤艦隊を発見した時には照射攻撃を受けていた[36]。リー提督から「大丈夫か?」との質問にガッチ(ダコタ)艦長は「全て上手くいっているようだ」と返信したものの、多数の命中弾を受けた「サウスダコタ」はレーダー機能と通信設備および第三砲塔使用不能という被害を受けて戦場から離脱した[36]。なお多数発射された酸素魚雷(一例として愛宕19本[37]、朝雲4本[38]、他水雷戦隊各艦多数発射)は、日本艦隊側は命中と誤認したものの[39]、これらは米駆逐艦の残骸に命中したり、あるいは波に叩かれて自爆するなどして1本も命中していなかった[40]。
「愛宕」以下日本艦隊の攻撃が探照灯に照射された手前の「サウスダコタ」に集中していた為、「サウスダコタ」から離れてガ島側を航行していた「ワシントン」は日本艦隊からの攻撃を受けていなかった[36]。その「ワシントン」でもレーダーでとらえていた大型の目標が「サウスダコタ」なのか日本戦艦(霧島)なのか判別できなかったが、探照灯により目標を識別。16インチ砲9門による砲撃を開始する。さらに米戦艦の発射した照明弾により日本艦隊は完全に姿を露呈[41][42]。「霧島」はわずか7分間に16インチ砲9発の命中弾を受けたとされる。霧島戦闘詳報によれば、6発以上の被弾により前部電信室全滅、三番四番砲塔作動不能、舵機故障と被害が累加してゆく[43]。22時8分の時点で、「霧島」は米戦艦を追撃する「愛宕」「高雄」の艦隊運動に続行できず落伍していた[44]。その後火災は鎮火し、機械室や罐室も無事であったが舵取機室が満水となり面舵10度で固定、右舷に傾斜して直進不能となる[45]。「愛宕」「高雄」は戦場を迷走する「霧島」を残して「ワシントン」との戦闘を続け、その後日米双方とも戦場を避退した[46]。「朝雲」「照月」が「霧島」の護衛として残置されていた[47][48]。
戦場に残された「霧島」では蒸気パイプが破損して噴出した高圧蒸気によって機関科員の殆どが戦死、再び火災が発生して弾薬庫誘爆の危機に陥り、注水作業を行う[43]。右舷に傾斜したため水平に戻すべく左舷に注水したところ、逆に一気に左に傾いてしまったという証言もある[49]。潜水夫による海中からの作業も失敗[43]。軽巡洋艦「長良」による曳航も不可能と判断される[43]。23時50分、右に傾斜しつつあった「霧島」は「朝雲」に救援を依頼した[50]。さらに『艦内大破操舵不能』『微速位出る見込み』と伝達[51]。これを受けて「朝雲」は「霧島」の状況と、艦尾魚雷命中による浸水(ワシントンの40㎝砲弾と思われる)を報告した[52]。「霧島」の状況は悪化する一方であり、00時42分、艦長は総員退去を決定した[53][54]。軍艦旗降下の後、霧島乗組員は接舷した駆逐艦「朝雲」に移乗を開始した[55]。午前1時、「五月雨」が到着[56]。処分命令が出たため「五月雨」が砲撃しようとしたところ、「霧島」は急激に左傾斜を増した[57]。11月15日午前1時20-25分、サボ島西方(265度)11浬の地点で「霧島」は左舷後部から転覆して沈没した[43][58]。「朝雲」「照月」「五月雨」はしばらく沈没海域に留まって救助を行った[59]。2時30分、救助を終え北方へ避退を開始[60]。生存者準士官以上69名、下士官兵1031名を救助した[43]。
この海戦により、田中増援部隊指揮官は米艦隊が撤退した空隙をついて輸送船4隻をガダルカナル島のタサファロンガの砂浜に座礁させ、かろうじて兵員の上陸を成功させた[61]。しかし軍需物資を揚陸する前に米軍機の空襲がはじまり、爆撃により大部分は喪失した。宇垣連合艦隊参謀長は「夜嵐に黄菊の折れや枝六つ(比叡、霧島、衣笠、夕立、暁、綾波の亡失を悼む)」「嵐あと流るゝ星の影淡し(戦艦二隻を逸せるが如し)」と著作に記した[62]。前日の「比叡」喪失に続き「霧島」の沈没は日本海軍にとっても衝撃は大きく、以降の海戦での戦艦投入に慎重[63]になった事で、太平洋戦争後期には戦艦を有効戦力として活かす機会に遂に恵まれなかった。なお大本営発表では戦艦1隻(比叡艦名は公表せず)沈没・戦艦1隻大破であり、「霧島」の喪失は伏せられてしまった[64]。テンプレート:要出典範囲また同日をもって第十一戦隊も除籍された[65]。
テンプレート:要出典範囲(反対意見あり)[注 1]。
1992年(平成4年)夏、海洋考古学者テンプレート:仮リンクの調査チームは、アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)に沈む「霧島」を発見した。沈没地点の水深は900メートル[66]。記録された地点から1.5kmほど西方に、完全に転覆した状態で着底している[67]。艦首部(前部上部構造物附近まで)と艦尾先端は喪失して、右舷外側のスクリューには錨が巻きついている[67]。調査チームは、「霧島」の艦橋や上部構造物が錘となって転覆したまま沈んだか、沈下中に弾薬庫が爆発した結果姿勢が回復しなかったと推定した[67]。
主要目一覧
主要目 | 新造時計画 (1915年) |
1次改装後 (1930年) |
2次改装後 (1938年) |
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排水量 | 常備:27,500t | 基準:29,320t 常備:30,660t |
基準:31,980t 公試:36,668t 満載:39,141t |
全長 | 214.6m | ← | 222.65m |
全幅 | 28.04m | 30.9m | 31.01m |
吃水 | 8.38m (常備) | 8.41m (常備) | 9.72m (常備) |
主缶 | ヤーロー式混焼缶36基 | ロ号艦本式専焼缶大型6基 同小型4基 |
ロ号艦本式缶8基 |
主機 | パーソンズ式直結タービン2基4軸 | ← | 艦本式タービン4基4軸 |
軸馬力 | 64,000shp | 75,600shp | 136,000shp |
速力 | 27.5ノット | 25ノット | 29.8ノット |
航続距離 | 8,000海里/14ノット | 9,500海里/14ノット | 9,850海里/18ノット |
燃料 | 石炭:4,000t 重油:1,000t |
重油:5,100t | 重油:6,403t |
乗員 | 1,221名 | 1,065名 | 1,303名 |
主砲 | 四一式35.6cm連装砲4基 | ← | ← |
副砲 | 四一式15.2cm単装砲16門 | ← | 同14門 |
高角砲 | なし | 8cm砲4門 | 12.7cm連装砲4基 |
機銃 | なし | 7.7mm機銃3挺 | 25mm連装10基 |
魚雷 | 53cm水中発射管8本 | 同4本 | なし? |
その他兵装 | 短8cm砲4門 朱式6.5mm機銃3挺 |
||
装甲 | 水線203mm 甲板19mm 主砲天蓋75mm 同前盾250mm 副砲廓152mm |
水線203mm 甲板19mm※※ 主砲天蓋152mm 同前盾250mm? 副砲廓152mm? |
|
搭載機 | なし | 1機? | 水上偵察機3機 カタパルト1基 |
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※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。
※※ 水平防御に缶室64mm、機械室83-89mm、弾薬庫102-114mm、舵取室76mmなど追加。
海上公試成績
状態 | 排水量 | 出力 | 速力 | 実施日 | 実施場所 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
竣工時 | 27,499t | 79,679shp | 27.54kt | 1915年(大正4年)1月19日 | 甑島標柱間 | |
2次改装後 | 36,897t | 136,940shp | 29.8kt | 1936年(昭和11年)4月27日 |
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歴代艦長
艦長には大佐級が着任する。
- 釜屋六郎 大佐:1914年12月15日 - 1915年12月13日 *兼海軍艦政本部艤装員
- 志摩猛 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 松村純一 大佐:1916年12月1日 -
- 中村正奇 大佐:1917年7月16日 -
- 三村錦三郎 大佐:1917年12月1日 -
- 勝木源次郎 大佐:1918年11月10日 -
- 横尾尚 大佐:1919年11月20日 -
- 安村介一 大佐:1920年1月8日 -
- 寺岡平吾 大佐:1921年12月1日 -
- 安東昌喬 大佐:1922年12月1日 -
- 坂元貞二 大佐:1923年11月6日 -
- 藤田尚徳 大佐:1924年12月25日 -
- 加藤隆義 大佐:1925年10月20日 -
- 本宿直次郎 大佐:1926年12月1日 -
- 岩村兼言 大佐:1927年12月1日 -
- 古川良一 大佐:1928年3月10日 -
- 井上肇治 大佐:1928年12月10日 -
- 広田穣 大佐:1929年2月8日 -
- 藤沢宅雄 大佐:1929年11月1日 -
- 菊野茂 大佐:1930年12月1日 -
- 宇野積蔵 大佐:1931年12月1日 -
- 北岡春雄 大佐:1932年12月1日 -
- 高橋伊望 大佐:1933年11月15日 -
- 丹下薫二 大佐:1934年11月15日 -
- 三川軍一 大佐:1935年11月15日 -
- 牧田覚三郎 大佐:1936年12月1日 -
- 金沢正夫 大佐:1937年12月1日 -
- 多田武雄 大佐:1938年11月15日 -
- (兼)久保九次 大佐:1939年11月15日 -
- 友成佐市郎 大佐:1939年12月27日 -
- 白石万隆 大佐:1940年10月19日 -[注 2]
- 山口次平 大佐:1941年8月15日 -
- 岩淵三次 大佐:1942年4月20日 -
同型艦
注釈
- ↑ ただし、日本海軍で最大のスクリューを持つのは、空母隼鷹型の直径5.5mという文献もある。雑誌 丸 2010年11月号 隼鷹型特集
- ↑ 河野千万城大佐が1940年11月15日から兼任したとする資料(『艦長たちの軍艦史』)もあるが、『日本海軍史』、『日本陸海軍総合事典』では白石が翌年8月まで在任している。
脚注
参考文献
- 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
- テンプレート:Cite book
- 紀元二千六百年鹿児島県奉祝会『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料. 第3輯 官幣大社霧島神宮』鹿児島県奉祝会、1939年12月
- 海軍研究社編纂部『日本軍艦集 : 2600年版』(海軍研究社、1940年)
- テンプレート:Cite book
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- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
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- ガダルカナル海戦(ソロモン鎮魂の海を行く)ナショナル・ジオグラフィックとNHKの共同製作ビデオ、発売日1993年10月21日
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 「海軍めしたき物語」著者名, 高橋孟. 出版社, 新潮文庫. ジャンル, 日本文芸/戦艦「霧島」の炊さん室や艦内風俗についての資料。ISBN 4101278016
- 『官報』
関連項目
外部リンク
テンプレート:日本の戦艦テンプレート:Link GA- ↑ #ポケット海軍年鑑(1937)p.16『巡洋戦艦の真の面目は、實にこの霧島、榛名、金剛、比叡の山級戦艦にあるといつてよい。』
- ↑ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.109『艦名考:山名に採る。霧島山は東西二峰あり、西霧島山は別名を西嶽、又韓国嶽と云ひ日向・大隅の両国に跨る。西諸縣郡飯野村末永より3里にして其山頂に達す、標高5610尺。東霧島山は別名を東嶽、矛峰、オタケ、古名 高千穂峰ト云ふ。』
- ↑ #霧島神宮由来の件p.1
- ↑ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.109『明治45年3月17日三菱造船所(長崎)にて起工』
- ↑ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242
- ↑ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.239
- ↑ #戦隊行動調書p.2『7.14 3S編制 将旗:金剛、榛名(比叡、霧島、11Sへ)』
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻239頁
- ↑ #11戦隊詳報(5)p.12『霧島ハ比叡ニ続行80度ニ変針シ2352敵巡洋艦ニ対シ射撃開始間モ無ク2隻轟沈スルヲ認ム。2353右正横前ニ雷跡2ヲ認メ取舵ニ回避、次イテ右前方ニ雷跡1ヲ認メ面舵ニ回避ス。右敵駆逐艦ノ襲撃状況並ニ彼我混戦状況ニ鑑ミ一時北方ニ離隔0009味方駆逐艦ノ照射砲撃シツツアル敵巡洋艦ニ対シ射撃シツツ北上、0050再ビ南下』
- ↑ #11戦隊詳報(5)p.25『13日0550将旗11S→霧島/比叡火災鎮火セルモ操舵不能、霧島ハ日没頃現場ニ到着スル如ク行動スベシ 日没後霧島ヲ以テショートランドニ向ケ曳航ノ予定(略)』
- ↑ #戦藻録(九版)232頁
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.17『13日0800霧島ト合同セル朝雲ハ之ヲ護衛シテ北上中ナリシモ比叡ヲ日没後曳航スル為霧島ハ反転之ニ向フニ伴ヒ0935朝雲モ亦反転之ガ護衛ヲ続行シツツ南下…』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.17『1015ヨリ1140迄長良、天津風モ合同南下シツツアリシモ天津風ハ損傷大ナル為分離北上シ長良亦之ガ護衛ノ為分離ス』
- ↑ #11戦隊詳報(5)pp.38『13日1440霧島艦長→GF長官/1320我地点ケムニ26ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃3本ヲ受ケ1本命中セルモ不発、被害ナシ。朝雲攻撃ヲ行フ効果不明』
- ↑ #11戦隊詳報(5)p.38『13日1440将旗11S→霧島/霧島ハ反転北上、前進部隊ニ合同スル如ク行動セヨ』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.17『春雨ハ1525朝雲ニ合同ス』
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻242頁
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻244頁
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻245頁
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻245頁
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻248頁
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.19『五月雨ハ10s司令官ノ指揮下ニ入リ4Sノ直衛トナル』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.19『AdB信令第353号ニ依リ「ガ」島攻撃隊ヲ編成セラレ朝雲11dgハ司令官之ヲ指揮シ射撃隊霧島ノ直衛』
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻247頁
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船164頁
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船165頁
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船168頁
- ↑ #戦藻録(九版)236頁
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻250頁、#愛宕戦闘詳報p.7『1930山陽丸飛行機ヨリ「サボ」島附近ニ於テ本艦ヨリノ方位270度45浬ニ敵巡洋艦2隻駆逐艦4隻我ニ向ヒツツアルヲ知レリ(略)』
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船171頁
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船172頁
- ↑ 32.0 32.1 32.2 #悲劇の海に眠る艦船173頁
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.19『2001愛宕→艦隊/朝雲照月ハ霧島ノ後尾ニツキ霧島ノ後方ヲ警戒セヨ』
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻251頁、#4水雷詳報(2)S1710p.21『(朝雲)射撃隊ノ後尾ヲ警戒続行中2151射撃隊反転シテ「ルンガ」ニ向フト共ニ令ニ依リ後衛ノ一ヨリ反転シテ4Sノ前方ニ占位、前衛トシテ敵方ニ進撃ス』
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.8『2000反航ノ侭右砲戦、魚雷戦下令2201目測6粁附近ニテ戦闘ヲ開始ス。照射ニヨリ確認セル所、敵ハ高キ前檣楼ヲ有シ上甲板高ク偉大ナル新式戦艦ナリ』
- ↑ 36.0 36.1 36.2 #悲劇の海に眠る艦船176頁
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.33『消費弾薬 20糎砲/徹甲弾55・通常弾6、12.7糎高角砲49、25粍機銃弾薬包15、九三式魚雷19』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.21『愛宕ノ照射ニ依リ戦艦2隻ナルヲ確メ2202朝雲照月ニ対シ右魚雷戦ヲ令シ朝雲ハ同時刻砲撃開始2203発射(右魚雷戦反航発射雷数4)約3分後命中魚雷2本ヲ認メ4S及霧島ノ砲雷撃トニ依リ之ヲ撃沈ス(照月ハ発射セズ)』
- ↑ #愛宕戦闘詳報pp.9-10『2005照射砲撃ヲ止メ反転同航トナリ新ナル敵大戦艦ニ対シ2214左魚雷発射、其ノ頃敵戦艦ハ2隻見エタルガ2217後方ノ戦艦ニ魚雷2本命中シ…』
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船177頁
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.9『本戦闘中敵ハ殆ンド探照灯ヲ使用スルコトナカリシモ我ガ非敵側ニハ敵ノ極メテ有力ナル照明弾見事ニ上空ニ懸吊セラレ、我ハ完全ニ照明サレアリタリ』
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.27『此ノ間敵吊光弾我ガ非戦側上空ヲ見事照明シ光力甚大』
- ↑ 43.0 43.1 43.2 43.3 43.4 43.5 #戦藻録(九版)240-241頁
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.28『2208/霧島火災続行シ来ラズ』
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻254頁
- ↑ #愛宕戦闘詳報p.10『2222更ニ左魚雷3ヲ発射、尓後15内外ニ於テ敵ト同航セシガ敵ハ2229頃一時近接ノ態勢トナリ次イテ漸次離距2238之ヲ見失ヘリ。2245一二五度方向ニ霧島ラシキ艦影ヲ認メシモ確カナラズ、其ノ後我ハ漸次北方ニ離脱セリ』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.22『(朝雲)霧島ノ警戒ニ任ズル為霧島ノ位置ニ引返シ2343現場着之ガ警戒ニ任ズ』
- ↑ #4水雷詳報(4)S1710p.18『14日2315愛宕→朝雲・照月/霧島ノ警戒艦トナレ状況知ラセ』
- ↑ #須藤,五月雨156頁
- ↑ #4水雷詳報(4)S1710p.17『14日2350霧島→4sd司令官/航行不能逐次右ニ傾キツツアリ。長官ヘ何分指示ヲ乞ハレ度』-『14日2359 4sd司令官→Adb指揮官/霧島「サボ」島280度5浬航行不能 右ニ傾キツツアリ』
- ↑ #4水雷詳報(4)S1710p.19『15日0005霧島→4sd司令官/艦内大破操舵不能』-『15日0026霧島→4sd司令官/微速位出ル見込』
- ↑ #4水雷詳報(4)S1710p.20『15日0030 4sd司令官→AdB指揮官/霧島艦内大破微速力位出ル見込操舵不能』-『霧島ノ後部ニ魚雷命中浸水増加シツツアリ』
- ↑ #4水雷詳報(4)S1710p.21『15日0034霧島→4sd/傾斜角度右2度→0400/後部魚雷貫通ダンダン浸水シツツアリ→0042/機械若干使用見込アルモ機関兵九割戦死機械使用ノ見込立タズ→0042/総員退去ニ決ス』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.22『同艦ハ0042総員退去ニ決セルヲ以テ朝雲、照月ヲ之ニ横付令ニ依リ…』、#4水雷詳報(3)S1710p.39『0042/霧島ハ総員退去ニ決セル旨通達アリ』
- ↑ #須藤,五月雨152頁、#4水雷詳報(3)S1710p.39『0100朝雲(右舷)照月(左舷)ハ霧島ニ横付人員ノ収容開始』
- ↑ #4水雷詳報(3)S1710p.39『0103五月雨現場着附近ノ警戒ニ当ラシム』
- ↑ #須藤,五月雨153頁
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.22『0120ニ至リ霧島ハ左舷ニ急速ニ傾斜ヲ始メ間モナク転覆沈没セルヲ以テ…』
- ↑ #4水雷詳報(3)S1710p.39『0120/霧島転覆沈没セルヲ以テ敵ニ対シ警戒ヲ厳ニシツツ短艇ヲ以テ人員救助ニ當ル』
- ↑ #4水雷詳報(2)S1710p.23『引続キ3艦ヲ以テ0230迄ニ人員救助ヲ終リ0235現場発北方ニ避退ス』
- ↑ #悲劇の海に眠る艦船178頁
- ↑ #戦藻録(九版)242頁
- ↑ コーエー 『戦艦名鑑』
- ↑ #ソロモン海上決戦(1943)p.35『この海戦において我方もまた戦艦1隻を失ひ1隻を大破した、この海戦が如何に激烈なる死闘血戦であつたかが、窺はれるのである。』
- ↑ #内令昭和17年12月(4)pp.8-9『内令第2348号 昭和16年内令第1226号中左ノ通改正ス 昭和17年12月20日 海軍大臣嶋田繁太郎 横須賀鎮守府ノ項中「第十一戦隊」ヲ削リ第四根拠地隊ノ次ニ「第八連合特別陸戦隊」ヲ加フ。呉鎮守府ノ項中「第六戦隊」ヲ削ル』
- ↑ ガダルカナル海戦(ソロモン鎮魂の海を行く)
- ↑ 67.0 67.1 67.2 #悲劇の海に眠る艦船188-189頁