阿蘇惟村
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阿蘇 惟村(あそ これむら、生年不詳 - 応永13年(1406年))は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。阿蘇氏の第11代当主。第10代当主・阿蘇惟澄の長男で、第8代当主・阿蘇惟時の養子。惟武の兄。惟郷の父。
生涯
南北朝時代の動乱期には養父の惟時に従って実父・惟澄と対立・抗争を繰り広げた。しかし実父にとってはやはり可愛い息子だったのか、貞治3年/正平19年(1364年)の父の死の直前に家督を譲られて当主となった。しかし征西府は惟村の相続を認めず、弟の惟武を大宮司に任じたため、兄弟間で争いが起こることになる。
天授3年(1377年)に惟武が戦死する(肥前蜷打の戦い)と、惟村は幕府より肥後守護に任じられたが、父の時代に煮え湯を飲まされた北朝側に疎まれて九州探題今川貞世(了俊)や渋川満頼らにその統治を妨害された。また惟武の子惟政は健在であったため、阿蘇氏の内乱も終息しなかった。
応永13年(1406年)、死の直前に子の惟郷に家督を譲って、まもなく死去した。
阿蘇氏は、阿蘇本社領のほか、甲佐・群浦・健軍の三末社領を基盤として活動していた。 砥用地方は甲佐社領に含まれており、大宮司の職を辞した後、この地に赴いたと言う。
墓地
砥用町大字早楠にある「早楠神社」にあり、「オタッチョサン」と村人は俗に呼んでいたが、これは「御舘中様」が訛ったものと云う[1]。 神殿直下に室町中期ごろの様式とされる宝筐印塔が建っている。
三和の墓地の近辺にも「宝筐印塔」が建っていて俗称で「オタッチーヨ」と呼ばれているが、これは惟村の弟にあたる「惟武」のものではないかという説がある[2]。
ちなみに、惟村の子孫で戦国時代の当主阿蘇惟種の墓も「おたっちょさん」と地元で呼ばれており、共通点がある。